はじめに






 21世紀はインターネットが確実に社会に浸透し、時に平和をもたらし、時に暴力を蔓延させるであろう。これは時の勢いである。あの産業革命に匹敵する、いやそれ以上の「時代の勢い」がインターネットにはある。それではインターネットの導入によって、21世紀はどうなるのか?

 残念ながら、まだそれは的確に把握できていない。当然ながら私にもわからない。ただ愚考するに、「土地を基盤としない理念」に支えられたものは繁栄することになると考えられる。「土地を基盤としない理念」とは何なのか?

 現在、もっとも有力な理念はご存知のようにアメリカ型の自由と平等の精神である。これはいわばヨーロッパ社会が完成させた産業革命の到達点であるとも言える。しかしこの理念には矛盾が存在する。いくらアメリカには自由と平等があるといっても、成立時の先住民族のインディアンを強制移動させ、アフリカの黒人を強制奴隷としてこき使って建設された歴史は変えれない。それは「土地を基盤とした理念」である。当たり前であるが土地がなければその理念は成立しない。アメリカは20世紀の最後に世界の頂点に立った。そしてその文明の帰結としてこのインターネットを普及させた功績は大きい。インターネットは産業革命以来の衝撃であるとも言われている。そしてこのインターネットは自由と平等を世界に普及させる最大の武器でもある。しかしながら全てがアメリカの都合のよい方向には進まないであろう。ひょっとするとアメリカにとって最悪の結果を招くことになるかもしれない。インターネットはアメリカ型の自由と平等の精神を超えて存在している。インターネットは国家を越えて富や知識が移動するため、国益になりにくい部分が確実に存在する。土地を基盤としないからであるともいえる。つまりインターネットは土地や国家を越えて富や知識を集合離散できる力を持っているということである。それはアメリカにとっても諸刃の刃であり、良薬であるとともに猛毒でもある。それではどのようにしてこのネット型社会に対応していかねばならないのか。そのヒントとなるものの一つが「土地を基盤としない理念」である。いかにその「土地を基盤としない理念」に支えられたものを生み出すか?これが21世紀のネット型社会で成功を納めるための鍵である。

 それではインターネットとは何かについて少し考えてみよう。インターネットは道具としての側面が2つある。1つはコミュニケーション・ツールとしての役割が上げられる。これはこれまで電話や手紙が果たしてきた役割であり、その延長線上にネットがあると考えてもよい。もう一つはインフォメーション・ツールとしての役割である。これはTV、ラジオが果たしてきた役割である。つまりインターネットは一部のネット信者のいうように今までになかった革命的な道具というわけではない。これまでの道具の延長線上にあるものと考えてよい。ではどこが産業革命以来の衝撃なのだろう。私は少なくとも2つあると考えている。

 一つは「ネット内秩序」の創生である。「ネット内秩序」とは何か。それはインターネットが創り出すネット空間を秩序立てるソフトのことである。例えばマイクロソフト社の「ウインドウズ」を考えてみてほしい。ウインドウズ以前にもネット空間というものは存在していた。それをマイクロソフト社が一つのソフト「ウインドウズ」で全てのパソコンを同じように動かせるようにし、爆発的にネット空間を拡大させた。これはつまり「ネット内秩序」創生の最も初期段階の成功例である。その後も多くのもの(例えば、電子マネー、検索ソフトなど)がデジタル化され、ネット内で効率よく働くことになるのであろうが、そこで秩序あるソフトを創り出すことは「国」を越えてしまうことと同義である。ネット自体が「国」を越えて存在している。そのネットを秩序だてるソフトは「国」をやすやすと越えることであろうが、これからそのようなソフトが次々と生み出されネット内を秩序立てていくそのとき、どういう衝撃が我々に待ち受けているのであろう。

 二つ目は「テーマの強制」である。テーマを持つことの強迫観念といってもよい。これまでも人類は「人生のテーマ」というお題目を唱えてきた。そして一部の人たちは実際にそのテーマをもって一生を終えたであろう。しかし極言すれば、それはほんの一握りの少数派だけのものだったといえる。ほとんどの人は人生のテーマなんて無くても生きていけたし、それでよかった。ところがこのインターネットはいずれ全ての人に無意識のうちに(これが社会では一番厄介である)、そのテーマを強制するようになるであろう。そのからくりはこうである。まず教育分野からその問題が持ち上がる。現在、ネットの規制が問題になっているが、その勢いと流れから教育的規制を敷くのは困難である。それではどうするのか?これまでの様々な技術革新のときと同様に、教育者はその問題に積極的に取り組むことになるであろう(いま必要なのは規制ではなくてそのネットに対する距離(スタンス)のとり方なのである)。これから誰もが、もっと簡単にネット上で自分の意見を公表することができるようになる。そのため幼いときから自分のコンテンツをもつように教育する方向に向かうであろうが、そのときになって大人達は、はたして人間は取り上げるべきテーマがあるのかという問題にぶち当たることになる。子供は対応が早いので、無意識のうちに自分のテーマを持つように訓練されるようになる。そうやって世代交代が進むにつれて、自分のテーマを必然的に追求する時代が到来する。

 「土地を基盤としない理念」に基づく「秩序あるテーマ」の創生。つまるところ、これが我々の当面の課題であるといってもいいだろう。21世紀のネット型社会に活かせる「テーマ」を出雲から引き出すこと。これが日本に帰ってきて、密かに自分自身に課した課題であった。それではその「テーマ」とは何なのか?ようやくその形のようなものを提示することが出来るようになった。これは大げさに言えば21世紀のネット型社会における行政の理論と実践のサンプルでもある。ではどうぞ、ご覧ください。



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