「本質」とは何か。

唐突であるが、石にはその部分を叩くとどんな石でも2つに割れる筋目があるという。上等な石大工はその筋目を知っており、どんな石でもたちまちに2つに割って見せることができるという。勿論、筆者はそんな場面に立ち会ったことはないが、「本質」とはその筋目のようなものであると思う。

ものごとは全て本質を宿している。それを探し出すのは至難であるが、それを見つければたちまちに全てを理解できる。本来、本質とはそのようなものであるらしい。勿論、ものごとには様々な雑物が存在し、複雑な要因が絡み合って出来上がっている。しかし本質はただひとつである。歴史小説家・司馬遼太郎はその本質を捉えるのが実にうまい人であった。日本が高度経済成長に浮かれて足元を見失っている時に、その本質を「土地問題」にあるとした。バブル崩壊を体験した今となっては、まさに身に沁みてわかる鋭い洞察である。それと同じように司馬は昭和の戦争の本質を「統帥権」にあるとした。これも今後昭和の戦争問題を考える時、非常に示唆に富む指摘となるであろう。

卑小ながら私もこの数年、出雲を調べるに当たって出雲の「本質」に迫るよう努力してきた。それを知ることで全てがたちどころに理解できる。そんな魔法のような道具はないものかと探しに探した結果、ようやくそれに近いものを見つけることができたので、ここに紹介したい。


出雲は神々の国として知られている。
なぜそう呼ばれるようになったのか。最古の歴史書ともいえる「古事記」上巻の多くが出雲の神話にページを割いていることや、これまでの考古学的発見からも出雲には日本を代表する勢力が存在したのは確かなようである。そのような勢力を背景としなければ、ただ宗教的に優れていたというだけで「神々の国」と認知されるようにはならない。それではどのような勢力が出雲に存在していたのであろう。

神話によれば、大国主命をその代表とした出雲勢力が日本海側を中心に支配を及ぼしていたことが記載されている。書物では年代が記載されていないため、その時代を確定することは難しい。しかし考古学の分野では出雲で最も価値のある遺物とされる荒神谷・加茂岩倉両遺跡の大量の青銅器が発見されていることから弥生時代の初期から中期にかけて大きな勢力が存在していた可能性があり、その時代が出雲勢力の最盛期だったのではないかと想定できる。

一体どんな勢力が出雲に存在していたのだろう。
私事ながら、私は中国の兵法書「孫子」を愛読している。まさにこれは兵法の「本質」を述べていると言ってよく、全てに応用がきくようになっている(ただ、断っておくが私はまだまだこの名著を完全に理解するには至っていないのだけれども・・)。その「孫子」的観点から見てみると、日本の他地域と比べて出雲の利点はかなり少ないことがわかる。そんなことは「孫子」を引き合いに出さなくともこれを読んでいる人は誰でも知っていることで、それは現在の経済状況が証明している。ではそんな出雲でどうやって勢力を拡大し、他地域に影響を及ぼすことができたのか?果たしてそれは可能であろうか?

結論から言えば、特殊な条件下でそれは可能であったと考えられる。弥生時代にそれを可能にするためには「海」を利用しなければならない。「海」こかっての東海道のように最も経済効果を及ぼし、政治戦略の基礎になる要素だったと考えられる。稲作普及以前から、日本ではこの「海」の利用は盛んであった。それを利用するためには確かな造船・操船技術を必要とする。ここで他地域にはない出雲の利点、「入海」という特殊条件が活きてくる。この入海はこの当時日本で最も良質な船着場であったであろう。その当時、中国山脈を背景として、造船・操船技術を磨くのに最適な環境が整っていたといえる。それを利用して何が出来るのか?

それは交易航海である。あの時代、様々な物産が取り引きされていたのは考古学的事実である。それを可能にした一つに交易航海があったであろうことは容易に想像できる。その拠点の一つに出雲があったと考えると、出雲勢力の存在はかなり現実に近いものになる。逆説的に言えば、それ以外に出雲を利用する手だてはないのである。つまり出雲勢力、神話で言えば大国主命達は交易航海勢力であった可能性が高いということになる。

「青銅器と風葬文化」、「神在祭の起源」では交易航海に関係していたと考えられる文化についての考察を試みた。しかしそれだけでは到底、出雲勢力の本質には近づいていない。勢力とは支配体制を伴なうものである。いったい彼らはどのような支配体制を築き上げていたのか?そこに出雲勢力の本質が存在している。


そこでその「本質」である。
私はその本質が「領海権」にあったのではないかと想像する。「領海権」とはなにか?潟湖の支配権といってもよい。準構造船以下大型船には当然、良質の潟湖を必要とした。弥生時代にそのような潟湖の多くは日本海側に存在していたことは知られているが、その潟湖を出雲勢力が支配していたのではないだろうか。その支配体制さえ確立すれば、朝貢貿易によって富を得ることも大いに可能である。これが当てずっぽうではない証拠に、「記紀」にはかなりそれを匂わせる個所が多くある。例えば大国主とスクナヒコナの全国行脚などこの支配体制の確立のためだったと考えることにより、より現実性を帯びてくる。後に天孫族に終われて越に逃げたタケミナカタもこの支配体制が確立していなければ不可能な所行であろう。このように出雲勢力が「領海権」を背景にして勢力を拡大したのならば、神々の成立はこの支配体制に基づくものだったといえる。そしてこのことから、大国主命は支配体制は特殊ながらも、ちゃんと統一した「国のかたち」を実際に造った人だったのではなかったのかということが想定できるのである。

この「本質」を理解すれば大国主勢力と天孫族との抗争も理解しやすくなる。大国主勢力の交易商品の一つであったろう「稲」は稲作の普及に役立ったであろうが、後に来る勢力の終焉に大いに影響を及ぼすことになる。今日にまで影響を及ぼす稲作文化はただの食物というだけではない。支配体制を確立させる道具でもあった。稲作は当然ながら土地、特に平野を必要とする。支配者にとって稲作は「領土」という思想を確立するのに十分な道具であった。つまり「領土権」の問題である。食わせるのに足りる広い土地が支配体制の要因として「領海権」に取って代わるようになる。そうなると「領海権」と「領土権」という本来、異質な権利の拮抗が起こるようになる。これは支配体制の違いであるから、共存は本質的に不可能であり、行きつく先は戦争である。これと似た状況として中国大陸の遊牧民と農耕民との拮抗が挙げられる。

天孫族の天照大神は稲作文化を背景とした、「この国はわが国である」という明確な「領土権」の主張があった。それに比べ、出雲勢力は交易航海を背景としていたため、流行の思想(ここでは「領土権」という支配体制思想)を取り入れるのが遅れるし、地理的状況から見ても既に地の利(稲作に適した広大な平野)を失っていたといえる。これがおそらくあの神話の実像であり、歴史であると私は考えている。

歴史は移り変わる。
稲作を中心にした支配体制は「貨幣」に取って代わり、現代は「情報」に移り変わろうとしている。この時代に大国主命やスクナヒコが生きていれば、どんな国を造るのであろうか。今回はそんなことを考えながら、この「出雲の本質」の結びとしたい。当然ながら、それは我々に任されている現実的な問題である・・・・・・


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