鰐淵寺


 北山から日本海に注ぐ清流に沿って参道を進んでいくと鰐淵寺(天台宗)がある。本尊は千手観音。
 鰐淵寺は、出雲国はもとより、山陰でも屈指の天台宗の古刹である。根本堂の周囲、右手に鐘楼、左手に鎮守の摩多羅神社のある一帯が、この寺の中心である。建造物には古いものはなく、寺の規模としては小さいほうであるが、江戸時代でも少なくとも山内12坊の名が記録に残っている。
 寺の伝えでは、594年(推古天皇2)智春上人が山内の浮浪の滝に天皇の眼病平癒を祈ったことから始まるという。そのとき智春が滝壷(一説には日本海)に仏器を落としたところ、ワニ(ワニザメ)がこれを咥えて浮かび上がったことから、浮浪山鰐淵寺と称することになったとも伝えている。また、寺の基は浮浪滝を中心とした修験信仰、ないしはその源流をなす陰陽道から生じたのではないかとみる説もある。
 「出雲国風土記」には、この寺そのものは記載していないが、後白河法皇撰の「梁塵秘抄」に「聖の住所は何処何処ぞ、蓑面よ勝尾よ、播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日の御碕、南は熊野の那智とかや」とみえているから、平安時代の間に、少なくとも西日本では聞こえた霊地として広い信仰を集めるようになった。
 寺名の起こりとなった滝は、いったん下まで降りて谷川沿いに西へ、狭い谷間の滑りやすい小道をたどっていかなければならない。滝はふだん水量が少ない。滝の裏は岩窟になっていて、そこに蔵王権現の堂があたかもはめこまれたようにつくられている。しかし、この堂へ上っていくことは容易ではないから、普通は滝壷の辺に立って立ち込める神秘的な雰囲気に浸ることになる。
 この寺が日本の歴史に大きくかかわりを持つのは、南北朝争乱の時期である。すなわち、元弘の変に敗れて隠岐に流された後醍醐天皇が、この寺の勢力を頼りにして願文を下したことに始まる。戦国時代になると、この勢力に毛利元就が着目したことでも知られている。
 寺宝の類は極めて多い。銅造観世音菩薩立像(国重文)、絹本著色山王本地仏像(国重文)、絹本著色一字金輪曼荼羅図(国重文)、絹本著色毛利元就像(国重文)、石製経筒(国重文)、古文書で紙本墨書後醍醐天皇神宸筆御願文、名和長年執達状、僧頼源文書がある。
 伝説として面白いのは「寿永2年(1183)伯耆州桜山大日寺上院之鐘」と銘のある銅鐘である。この銅鐘はあの弁慶が桜山大日寺から鰐淵寺まで一夜で担いで運んだといわれている。鐘は現在、島根県立博物館に寄託され、平常展示でみることができる。その他の寺宝は普段見ることはできない。
 秋の紅葉狩りが地元では有名で、特に松本坊庭園は素晴らしい。


関連リンク

平田市地域振興センター
:平田市の公式サイト。鰐淵寺の情報はここにおまかせ。

平田商工会議所
:商工会議所が開設しているサイト。鰐淵寺の紹介あり。


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