石見銀山跡


 石見銀山は、14世紀初頭に発見されたといわれるが、本格的な採掘は戦国時代になってからである。筑前博多の回船問屋神谷寿貞が、邇摩郡仁摩町宅野の沖合いを航海中に、南方の山が輝いているのを見つけ、斐川郡大社町鷺浦の銅山主三島清右衛門とともに、1526年(大永6)開発のため入山したのが仙山であるという。1533年(天文2)に「灰吹法」という進んだ精錬技術が導入されると、石見銀山の産出額はとたんに増大した。「灰吹法」とは、銅鉱石を加熱してまず鉛と銀の合金をつくり、これを藁に包んで焼き立てて、鉛を藁灰に吸収させて銀を取り出すという方法である。南朝鮮から伝わったというこの精錬技術は、やがて各地の鉱山に伝えられ、日本に金銀の大増産時代をもたらしたのである。ヨーロッパに持ち込まれたアジアからの銀は、ソマ銀と呼ばれたが、これは大森の古名である佐摩に由来するという。
 大森町には石見銀山周辺の史跡が並んでいる。町並指定を受けた大森町大森地区の途切れるあたり、駒の足地区で、銀山川にかけられた石造のアーチ橋の羅漢町橋を渡って左に道をたどると、石見銀山遺跡(間歩・墓地・城跡など、国史跡)の蔵泉寺口番所跡に至る。ここは柵列で仙山と山吹山の間の谷を締め切り、鉱山集落として銀山地区「山内」を区分した所である。隣接して刑場跡も残されている。ここから奥が、中世から近世にかけて日本一の銀山として知られた石見銀山である。その他、いろいろな見所が多いので散策にはちょうどいい。

関連リンク

石見銀山ホームページ
: 石見銀山の公式サイト。銀山の歴史・観光名所の全てが分る。親切なマップ付。


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