松江城



 松江城(国史跡)は千鳥城とも言われ、出雲藩18万6000石の本拠であった。関が原の戦い直後、出雲・隠岐2国24万石に封ぜられた堀尾吉晴は、軍事的政治的理由から広瀬の富田城を捨て、新たに宍道湖東岸の末次郷亀田山(標高29m)に築城した。これが松江城である。
 松江城は山陰道に現存するたった一つの城郭建築である。松江城主は堀尾・京極・松平とかわった。明治になり文明開化の嵐が吹き荒れると、城などは無用の長物とみなされ、松江城天守閣も1875年(明治8)わずか180円で落札されたが、有志の奔走によってこれを食い止めたと伝えられている。ただし天守閣以外はまもなく取り壊された。
  松江城の裏手、すなわち北と西側は内堀に面して石垣がなく、切岸になっている。おそらく築造当初の軍事・経済的事情からこうなったと思われるが、今では樹木が水面に垂れ下がり、一際美しい風情を見せている。北側の内堀を挟んで城の対岸に老松の並木があり、黒い板塀と白壁の武家屋敷が立ち並んでいて、松江で最も城下町らしい一角となっている。この通りが塩見縄手で、この武家屋敷に中老塩見家1400石の邸宅があったので、この名がある。塩見邸は、中期には氏家、明治には滝川とその主をかえたが、今も昔のままの姿で残っており、武家屋敷として一般公開されている。
 長屋門を入って玄関から座敷にまわると、当主の居間のあたりは往時そのままで、杉の面皮柱に柾目の長押を用いた表側に対し、裏側は長押も杉の面皮を使って公私の別をあらわすなど、身分制のやかましかった武家の暮らしを良く伝えている。ここには刀箪笥・熨目着物などが飾られているが、妻女の間には化粧道具・お歯黒道具・車長持など、武家の生活用具500点が陳列されている。
 ちなみに明治期の当主滝川家から出た滝川亀太郎は、東北帝大教授で漢学者として知られ、その「史記会註考証」は不朽の名著と言われている。

関連リンク

松江市公式サイト
:松江市の公式サイト。国際観光都市だけあって役立つ情報が盛りだくさん。松江観光辞典で松江城を調べてから行こう。


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