Silent eyes

 

夢の中の少女は、いつも、哀しい微笑みを浮かべていた…

何も言わず…何も答えず……

ただ、黙って、その澄んだ瞳で、彼を、見つめていた………

*******************************************

闇の中に動いた気配に、浅い眠りを破られ、目を開ける。

鋭く走らせた視線の先に、見なれた顔を捉えて、紫焔は反射的に握った短剣の柄から手を離した。

「親父さんか…」

小さく息をつき、次いで不審そうに眉を顰める。

「どうしたんだ?こんな夜中に」

「いや…」

半開きになった戸口から顔だけを覗かせた宿の主人は、一瞬口籠った後、ぼそぼそと言葉を繋いだ。

「前を通りかかったら、おまえさんがうなされてるのが聞こえたんでな…」

「……うなされてた、か?」

 

一瞬、夢に見た少女の瞳が脳裏に蘇り、僅かな息苦しさが紫焔の胸を塞いだ。

夢でもいい…もう一度…と、願ったはずの少女の姿が、今は己の眠りを妨げる悪夢だというのか?

 

(なぜ…)

違う…………

(なぜ、俺は………)

知っている…はず………

 

「……それで、な、これを持って来たんだが……」

親父の言葉に、我に返る。

「酒、か?」

差し出された酒瓶を見た紫焔の顔に、苦笑が浮かんだ。

「親父さん、自分の呑み仲間が欲しいんだろう」

近所で有名な飲んべえの親父が、女房の目の届かない夜中にこっそり寝酒を楽しんでいるのは(実は女房も含めて)公然の秘密だった。

「ま、入れよ。今灯りを……」

寝台から立ち上がった瞬間、廊下のほうで聞こえた物音に、紫焔は壁に立て掛けていた長剣を取り、親父の腕を掴んで、強引に部屋の中に引き入れる。

「ど、どうした……?」

親父は、すっかりおたついているようだったが、構ってはいられない。

こちらは、つい2日前にも、夜道で数人の賊に襲われたばかりなのだ。

「下がってろ」

剣を抜き、低く言い捨てて扉の脇に寄ると、紫焔は廊下の気配に神経を集中させた。

微かな足音……2人…3人……声………………声?

(子供の…?)

その瞬間、突然背後に湧いた殺気に、紫焔は思わず振り返り…振り返りざまに、無意識のうちに剣を揮っていた。

「うああっ!!」

真っ赤な血飛沫と共に、倒れたのは………

「な……?!」

愕然と立ちすくんだ紫焔の後ろで、待っていたかのように扉が開き、男達が飛び込んで来る。 

一瞬、反応が遅れ、男の一人が繰り出した短剣の切っ先が腕を掠める。

「貴様らあっ!」

直感的に、この事態を招いたのが、この男達であることを感じ取り、怒りに任せて剣を揮おうとした瞬間……

(紫焔…!)

聞こえる筈のない少女の声が…哀し気に彼を呼んだ。

「く……」

奇襲に失敗したと分かった男達は、既に逃げ腰になりかかっている。紫焔は振り上げた剣を、そのまま床に突き立てた。

「……眠りし森の力…我が願いに応え…我が敵を封じよ!」

低い詠唱と同時に、男達の鼻先で、扉が音を立てて閉じ、木の床からまるで生き物の触手のようにするすると伸びた細い枝が彼等を取り囲むようにして伸びてくる。

「う、うわああ!」

完全な混乱状態に陥り、絡み付く枝を切ろうと闇雲に短剣を振り回す男達の前に、ゆっくりと歩み寄ると、紫焔は、その拳を、渾身の力を込めて一人一人の鳩尾に叩き込んだ。

「ぐう…!」

潰れた蛙のような声と共に男達が倒れたあと、肩で息をしながら振り返った紫焔は、彼自身が寝台に隠していた短剣を握ったまま仰向けに倒れている親父の脇に膝をつき、その半身を起こした。

「なんで……あんたが、俺を……」

親父は、薄く目を開け、苦し気に口を開く。

「す……すま……ねえ……、やつら……子供……を……」

「子供?」

ふと気付くと、閉ざされた扉の向こうから子供の泣き声が聞こえていた。

「子供を……人質にされてたのか?……だから……?!」

 

「子供らがなついた奴に、悪人はいねえ」

他所者の…しかも町では評判の良く無い自警団に雇われた身である紫焔を宿に置いている理由を問われた時の、親父の答えだった。頑固で気難しいと評判の親父が、実は意外な子煩悩であることも、ここに住みついてから判った。飾らぬ家族の情で結ばれた、この宿屋の一家は、紫焔にとって闇の中の小さな光のようなものだった。

ただ、正直に誠実につつましい人生を送って来たはずのこの男が…我が子のために自分に剣を向けたのか…?幻術と剣を揮って幾人もの盗賊を切り捨て、荒くれ者ばかりの自警団の中でも一目置かれる自分を……一度も持ったことのない剣で………

「馬鹿な………」

 

分かっていたはず…………

 

治癒の詠唱を唱える暇も無く…腕の中の重みが増す。苦し気に顔を歪めながら、紫焔は頭を振った。

「………俺…は………」

 

知っていたはず…………

 

哀し気な少女の瞳……その向こうに見えていたもの……

 

奪ったのは、人の命……そして、その命から生まれた憎しみが…この善良な(そして弱い)男を殺した。

誰よりも、自分に向けられるべきだった憎しみが…………

(俺は……何をしている……?)

込み上げる苦い想いに、吐き気すら憶えて…紫焔は、自らの血に濡れた両腕を握りしめた…………

 

「紫焔!?紫焔、どうした?!」

どんどんと扉を叩く音に我に返り、紫焔は扉を閉ざす結界の役目を果たしていた長剣を床から抜き放つ。

「一体……!?」

飛び込んできたのは、自警団の副団長を勤める、浅葱という若者だった。鉱山景気に湧くこの町の、チンピラの寄せ集めに近い自警団の中で、唯一、この町で生まれ育った幻術師であり、自警団をなんとか、ならずものの集まりにしないよう押さえている要のような男だ。仲間内でも恐れられるか疎まれるかの方が多い紫焔を、唯一友人として扱う男でもある。

「襲われたのか!?玖来の身内だな?」

玖来とは、自警団が一月ほど前に一網打尽にした盗賊団の頭目だった。最後まで抵抗した玖来を切ったのは紫焔であり、別の盗賊団を率いている玖来の弟が、以来、紫焔の命を付け狙っていたのだ。浅葱は室内を素早く一瞥し、紫焔の前に倒れる見知った男の、変わり果てた姿に大きく目を見開く。

「親父さんも巻き込まれたのか!?息は……?!」

「ダメだ…」

静かに首を振り、紫焔は親父の手から、自分の短剣を取り上げた。

「それは…?まさか……」

何かを感じ取ったらしい浅葱が、言葉をつなぐ前に、紫焔が口を開く。

「俺が、殺した………盗賊と間違えたんだ」

「間違えた?」

「ああ…異変を知らせにきてくれた親父さんを……間違えて切っちまったんだよ」

「紫焔……」

浅葱は眉を顰めてため息をついた。

「そんな話が、お前を知ってる人間に通ると思うか?」

「俺がそう言うんだから間違いない」

感情を殺した声で言い、紫焔は浅葱の目をまっすぐに見返した。

「だから…俺は、この町を出る」

「なんだと?」

「罪も無い町の人間を殺した男が、自警団になんか居られねえさ」

「馬鹿を言え!今このまま、ここを出たら、お前は盗賊だけじゃない、自警団からも追われることになるぞ!」

 

紫焔は笑った。

 

知っていた……分かっていた……少女は夢の中で、何度も教えてくれていたのだ。

その物言わぬ瞳で……

 

「出来れば、盗賊に殺られる前に、お前がけりをつけてくれ」

「馬鹿……野郎!」

浅葱は、紫焔の襟首を捕まえて、暗く沈んだ紫の瞳を睨み付けた。名のとおりの、明るい青い瞳が、言い知れぬ苦痛を滲ませている。

「浅葱……」 

「お父さん!?」 

突然、少年の叫び声が、空気を震わせた。 

「お父さん!?お父さん!!どうしたの!?」

父親に取りすがって叫ぶ少年の姿を、紫焔と浅葱は、半ば呆然と見つめていた。

戸口では、人質に使われた妹が、何も知らずに泣き続けている。

 

紫焔は、浅葱の手を振りほどくと、長剣を手に、ゆっくりと少年の元に歩み寄った。

「親父さんを殺したのは、俺だ」

少年は息を呑み、紫焔の顔を見上げる。紫焔は膝を折り、手にした剣を少年の前に置いた。

「持ってみろ…」

何かに魅入られたように、少年は剣の柄を握った。だが、重い鋼の剣は、10才そこそこの少年の手には余り、持ち上げた、と思う間もなく、床に落としてしまう。

紫焔はその剣を拾い、鞘に収めてから、少年の前に再び置いた。

「もしも、この先…誰かを殺したい程憎む時が来たら思い出せ…お前が最初に殺さなきゃいけないのは、親父の敵の、この俺だ」

言ってから、少年の前に手をかざし、眠りを呼ぶ詠唱を唱える。泣いている少女にも同じ術をかけると、声も無く見守る浅葱に、微かな笑みを見せた。

「前言撤回だ。浅葱…死ぬわけにはいかなくなった」

眠る少年を見下ろして呟く。

「この子が、この剣を持てるようになる日までは…な」

立ち上がり、そのまま二度とは振り返らずに、紫焔は歩き出した。

全てに、背を向けて…………………

******************************************* 

数日後……町の宿屋を襲った盗賊の一味は、ひとり残らず町の自警団に捕らえられた。

それを指揮していた副団長の浅葱は、その功績を認められ、一月の後、自警団の団長となる。

町から消えた紫焔の捜索は…彼が団長となると同時に打ち切られた…………………………………