1 : No name


 一瞬だけ見えたのは知らない天井だった。
 ぼんやりと映る視界の全てが自分の知らないものだと理解するまでに数秒のタイムラグ。そして理解と同時に頭が現状を把握しようと働き始めた。
 そんな意識とは裏腹に、目を開こうとすると、経験したことがないほどの鋭い痛みが走る。光の刺激が強すぎて、目を刃物で突き刺されてるみたいでまったく開けていられない。一度意識してしまうと光量強まったような気がして、目を閉じているだけでは耐えられず、とっさに右手で顔を覆う。
 そこで初めて右手にぶら下がった違和感に気づく。腕の内側に何かがぶら下がっていて、それは体の中にまで繋がっている感触があった。
 触れてみるとひんやりとした感触の細いチューブ。
 上下に触ってみて、点滴だと気がついた。
 ブニョブニョとしたチューブに触れているうち、急速に私が置かれている状況が飲み込めた気がした。針の痛みも既になく、違和感だけが右手に繋がっている。嗅いだことのないシーツの匂いが顔の周りに漂っていて、極めつけが見知らぬ天井のある場所。
 腕に刺さったままの針が怖くて、もう片方の手で目を遮った。
 持ち上げている腕が奇妙なほどに重たかった。
 そこであらためて自分の四肢に力が入らない事にも気づく。
 これはどこかの病院なんだ。でも、なぜ私はこんなところで寝かされているんだろう?
 思い出そうとしても何一つ思い出せない。記憶がひどく断片的になっているようで、一週間前の記憶がまるで二日前のような感覚。そして昨日や一昨日の出来事にいたってはまるで思い出せなかった。
 軽く混乱していた。どこから覚えていてどこからわからなくなっているのか、ぼんやりとした頭では回転が鈍すぎて混乱に拍車をかけるだけだ。
 いうことを聞かない体を起こそうとしたそのとき、すぐ横で誰かが大きなため息をついた。一人だと思いこんでいた上に混乱もしていたせいで心臓が止まりそうなくらい驚いてしまう。
 その人は私が体を起こすと、
「ようやくお目覚めね」
 と静かに、そして背筋が凍るほどの冷たい声で言った。
 私はさらにわけがわからなくなった。
 知らないからではない。逆に声に聞き覚えがあったからわからなくなっていた。そして、それが今置かれている状況と繋がらない。今、何らかの医療機関と思われる場所で目が覚めたこととも、その人が私の隣でため息をついていたことも、「全てがありえない」と頭の中で叫ぶ声がする。
 声だけでは確信が持てず、若干は落ち着いてきた目をゆっくりと開いた。
 ぼんやりとしか見えないまでも、それだけで十分だった。彼女は豪奢な髪をかき上げながら、私の横に座っている。
 惣流アスカ。私と何もかもが違う、ポジティブの結晶のような人。
「…………」
 混乱に拍車をかけたことに気が付いたのか気が付かないのか、彼女はまったく意に介さず、黙ったままただ一つの行動をとり続けている。たじろいでしまうほど鋭い視線で私を睨みつけていた。恐らく、何時間もそうしていたのだろう。まだ目の前のものすらぼやけていてよくわからなかったけど、彼女の目は少し充血しているようだった。
 彼女と私の視線が交差すると、みるみるうちに彼女の顔が歪んでいった。そのとき、彼女の表情から一瞬で。
 惣流さんは私の身を案じていたのではない。体中から立ち上るような感情のほとばしりを全て私に叩きつけるかのように、彼女は悔しそうな、それでいて怒っているような、生々しい苛烈な視線を私に向けていた。
「…………」
 私は何も言えず、息をすることも忘れ、彼女の気に押されていた。
 惣流さんの顔がさらに強くゆがみ、吐き捨てるように言った。
「ごめんヒカリ、あとはお願い」
 彼女が荒々しく席を立った。
 いつのまにか呼吸がとまっていたことにようやく気がつく。長い時間ではなかったはずなのに、肺がどうにかなってしまったみたいに息苦しかった。
 惣流さんの陰にもう一人、知っている人が座っている。彼女の強い感情の波に覆われて、まったく気がつかなかった。
 クラスの委員長だった。
 うっすらと彼女も苦みを含んだ表情をしていたけど、それは決して私を心配してどうこうという方角を向いていないのは明白だった。洞木ヒカリという名前のクラスメイトは私ではなく、席を立った惣流さんを不安げに見上げていたからだ。
 惣流さんは振り返りもせずに鼻を鳴らしながら出ていった。その後姿を目だけで追いながら、ここは個室型の病室で、しかも規模が大きな総合病院クラスなんだとわかり始めていた。そしてこの街にそんな大きな医療機関は一つしかない。
 目を窓の外に転じる。
 景色が正しいと教えてくれた。いつもは何気なく見上げていた場所を、今は見下ろしている。
 市内でも有数の規模で、丘の上にある病院の姿がぼんやりと頭の中に浮かぶ。学校の帰り道に見える景色の一部で、夕焼け時の赤く染まっている空を背景に、黒いシルエットで佇立している病院が記憶の風景として残っていた。
 でも私がなぜこんなところで寝かされているのか、その理由にはまったく繋がらなかった。
 居心地が悪そうな声で洞木さんが言った。
「体はなんともない?」
 重たいだけで体におかしいところはないみたいだった。
 指先を見つめながら首を左右に振った。思い出せないということは記憶が飛んでしまっているということ。
 いつから? どこから?
 記憶の糸は切れ端を見せずに、ゆらゆらとどこかを彷徨っている。
 洞木さんは少しホッとした様子で、胸をなでおろしていた。社交辞令的な感じはしなかったので、安心したのは確かなのだろう。でも、彼女の心はここにあらずといった感じがして、なんとなく私のほうが落ち着かなかった。
 そして彼女はしばらく黙り込んだあと、
「綾波さん、あなた何があったか覚えてる?」
 と、恐る恐る聞いてきた。聞きたくないけど聞かなければ、という雰囲気を全身に滲ませておいてよく言うな、と思った。うんざりしながら首を左右に振った。
 それは私が聞きたいくらいだった。
 洞木さんは途方に暮れたような顔で私を見返してくる。ようやく目を突くようだった痛みも落ち着いてきて、私はじっと彼女の視線を正視した。今度は洞木さんがたじろいだ。怯えた目だと思った。
 ため息をつきたい気持ちを我慢しながら、無理もないだろうなと思う。こんな赤い瞳に感情のこもらない、まっすぐな視線を向けられたら、誰だって彼女みたいな反応をしてしまうだろう。
 そして事実、過去に私はそういう人を大勢見てきたのだ。
 洞木さんは目をそらして、ぎゅっと手を握り締めた。
 彼女は何かを知ってるんだろうな、とも思う。落ち着かない様子も、私と一緒にいるから、という理由だけではないのだろう。彼女も必要がなければ、こんな気味の悪い同級生の陰気な病室なんかにいるわけがない。
 クラスを代表してお見舞いに、という立場なのはわかるけれど、私だけは例外でいいと彼女も心のどこかで思っているに違いない。そして私自身、そうあることを望んでいる。
 目の前で座り直している彼女を見ていると、疑問をぶつけてもいいのか悪いのか分からなくなってくる。彼女は惣流さんに置き去りにされて、どうしていいのか途方に暮れているみたいだった。
 そんな人に聞いたところで、ちゃんとした答えがもらえるとはとても思えなかった。
 だけど洞木さんは押し黙ったまま、外した視線を合わせようともせずに俯いているだけ。何かを迷っているようにも、ただ気まずいだけのようにも見えた。だけど、ここにまだこうして座っているからには、そうしなければならない理由があるはずだった。
 埒があかない気がして、私から口を開いた。
「どうして私はここにいるの?」
 洞木さんは顔を上げ、少し困った顔をして言った。
「綾波さん、本当になにも覚えてないの?」
 小さく頷く。洞木さんは眉をひそめた。構わずに私は続ける。
「どうしてあなたや惣流さんがここにいたのかもわからない」
「あなた一昨日のこと、本当に何も?」
 今度は私が眉をひそめる番だった。
 一昨日?
 考え込んだ私を見て、彼女は言葉を継いだ。
「この二日間ずっと眠っていたのよ」
 そんなに眠っていれば、体があり得ないくらい重くなるわけだ。だけど二日間も寝続けるのは尋常じゃない。それだけの何かが私自身にあったということだ。そしてその肝心な部分を奇妙なくらい思い出せないでいる。
 言い出しにくそうな遠まわしの事実確認をしてくれたおかげで、考えるヒントになったのもまた確かだ。
 私の身に深刻な出来事があったのはまず間違いがなさそうで、それは二日間も眠り続けるほどの事象で、にもかかわらずそれをまったく覚えていない。逆にどうでもよさそうな一週間前の授業内容で先生が喋っていた内容とか、朝のニュースでみた芸能人の訃報とか、少し間を空けた以前の出来事ならば頭の中で簡単に蘇らせられるのだ。
 つまり、記憶が抜け落ちている部分は、二日寝ていてその間は除く、三日より前から思い出せるまでの期間になる。
 記憶障害、という言葉が頭の隅に割り込んできた。
 洞木さんは、思い出す気になればいくらでも思い出せそう、という私の楽観を吹き飛ばすような顔をしていて、私もつられるように黙り込んで考えざるを得なかった。
 もっと何かしらの考えるヒントが欲しかった。思い出すためのきっかけでもいい。
 彼女の「本当に何も?」という言葉は、自分は知っているのだと暗に示してもいる。知りたかった。今まで私とかかわりを持ったことがない洞木さんに、そんな顔をさせるようなものが何なのかを。
「どうして黙ってるの? 何か言いたいことがあるからここにいるんでしょう?」
「えっ?」
 意表をつかれた表情で洞木さんは私の顔を見つめる。そしてすぐに顔を背けてしまう。
「それは……」
「私は一昨日、何があったかよく思い出せない。でもあなたはそれを知ってるみたいな言い方をしてる。でも言いにくそうにしているのはどうして?」
 洞木さんはまた黙り込んだ。数秒考え込んだあと、何かを決心した顔で私を見つめてきた。もう視線は逸れなかった。
「私は確かに事情は知ってるけど、それは私が伝える事じゃないと思う。もし先生の外出許可が下りたら、十二階まで行ってみて。きっとそこにアスカもいるから」
 どうして惣流さんがそこに絡んでくるのか、もう意味がわからなかった。
 だけど私を見ていたあの蒼い瞳が目に焼き付いて離れない。一瞬だった強い閃光が視界に陰を作るように、惣流さんの感情があの瞬間、私の心を強く強く焦がしたのだ。
 あんな強い感情をぶつけてくるからには、彼女は何かしらの当事者であることは間違いなさそうではある。そして洞木さんは私ではなく、惣流さんを心配してこの建物の中にいる。
 だけど惣流さんが私に向けた感情は好意とは対極のものだ。そんな人が簡単に私の求める解を易々と与えてくれるとは考えられない。
「ごめんなさい」
 そう言い残して洞木さんも席を立った。逃げるように早足で立ち去ろうとする彼女の後ろ姿が、ひどく煩わしく思えて仕方なかった。
 結局のところ、肝心なところが何も見えない状況は変わらない。言い知れない不安だけがむくむくと大きく膨れ上がって、体の芯から湧き出る震えという形で実体化していた。カタカタと歯が啼く。
 相変わらず目に入る光は強く感じられて、目の深いところの痛みは簡単に引いてはくれない。なのに窓から差し込む斜陽で赤く染まった床から目が放せなかった。
 不意にフラッシュバックが走った。
 赤い太陽の光がどこかで見た景色へと繋がってゆく。その中で、一瞬だけ見えた影が、私の中でゴロンと重い塊を転がしたような気がした。
「……いかり、くん?」
 ドアに手をかけていた洞木さんが弾かれたように私を振り返った。
 まるで欠けていたパズルのピースを見つけたようだった。凡庸なクラスメイトの名が急に浮かび、それを呟いたとたんに洞木さんが驚きながらこっちを振り向く。
 その理由はわからない。名前は出てきても、彼がどんな人だったのかもよく知らない。言ってみれば名前だけ知っているただのクラスメイトだ。
 だけど、私の中では強い確信になった。
 私が声をかけるよりも早く、洞木さんは逃げるように部屋から出て行った。取り残された感じがして、私はぼんやりと彼女の消えたドアを眺め続けていた。
 ピースは一つ見つかっただけで、パズルが完成したわけではない。ただ、きっかけみたいなものを手にしただけ、というのが正しいところだと思う。
 どうしてそこに碇君の名前が出てくるのか、そして惣流さんがなんであんな目で私を睨みつけなければならなかったのか、そしてなぜ私がここにいるのか。疑問は次々とあふれ出てくるけど、その答えが一つでもわかったわけではないのだ。
 ただ碇君という、同級生の名前が根拠もなく思い出されただけにすぎない。
 ブンブンと頭を振った。考え込んでいると、なんだか深みにはまってしまいそうな気がして、理性がブレーキをかける。
 窓の外を見た。太陽は沈み、空も赤から青へ、青から闇へと移り変わろうとしている。
 ただ、星が見えるにはもう少し時間が必要だった。



 一言で表現するならば、惣流アスカ・ラングレーという人は完璧に最も近い人だと思う。人が「これができたらすごい」と思うことを、涼しい顔で何でも簡単にやりとげてしまうような人だからだ。
 私が他人と会話を交わすことがまずないので、人の評判をどうこう話し合うことも当然のようにない。
 自分が持っている知識はあくまで他人の会話のもれ聞こえてきた断片でしかないけれど、少なくとも彼女を悪く言う人はまず聞いたことがない。ほんの少しの嫉妬と、大多数の賞賛。比率が彼女の内面と外面の全てを表していると言っていいと思う。
 いわゆる帰国子女で、しかも外国にいる間に飛び級に飛び級を重ねて博士号を既に得ていると耳にしたことがある。彼女に流れる血液の二十五パーセントはアーリア人種らしいけれど、みんなもっと強くそこは意識しているだろう。
 紅茶色の髪の毛、南海の海を閉じこめたような深い青の瞳、そして腰高のスタイル。そして日本人的な可愛いと美しいを絶妙なバランスで配置した見事な顔立ち。
 何をやるにしても超という形容が上にくっつくような、天から二物どころかいいところを与えられるだけ与えられたような、そんな人だった。
 その秀才がどうしていまさら日本の高校に通っているのかは誰も知らなかった。いろんな噂は流れたけれど、彼女が自分からそのことを人に話すことはなかったし、周りの人たちも想像力を働かせてむりやり理由をこじつけない限り、彼女がつまらなさそうな顔で授業に出ているわけを知る術はない。
 たいていの人が思わず見とれる彼女の存在を見逃すほど、この国の芸能界は愚かではないらしく、惣流さんはこの歳にしてトップアイドルの地位を揺らぎないものにしている。
 私が中学生のころにテレビで女の子だけの数人のグループが歌っていたのを見たことがある。その中で一際強い存在感を示していた女の子こそ惣流さんその人で、彼女を初めて私が知った瞬間でもある。
 そしてその時感じた距離は教室で机を並べて同じ授業を受ける間柄になった今でも縮まってはいない。 確かに私と彼女の物理的な距離は縮まってはいるけど、お互いの存在をどうこうという意味で考えれば、一ミリとして私たちは接点のないまま卒業を迎えていくのだと思っていた。
 刺激のない、というよりも全ての煩わしさを排除して生活をしていた私にとっては、高校入学時に彼女が無造作に扉を開けて入ってきたときほど驚いた出来事は他にない。
 私たちがお互いを外見以外で意識したことは無いはずだ。理由はいくつかある。自分自身、人付き合いが最大級に悪かったこと。そして彼女もクラスメイトとの交友に力を入れるほど暇があったわけでもなく、時間があればどこかへ飛び回っているような生活を何年も続けていたので、いろんな事情が重なっていたにせよ、私たちを繋ぎ合わせる要素は何一つとして存在してこなかった。
 ファーストインプレッションすら忘れる程にお互いを意識せず一年半を過ごしてきたわけで、目覚めたときに彼女が横にいた時は驚いたというよりも、ありえるはずのない状況だったことに困惑を覚えずにはいられなかったのだ。



 洞木さんが出ていくのと入れ替わるようにして、見るからに体から生気がみなぎってるような医師が部屋に入ってきた。
「やあ、気分はどうだい?」
 そして型どおりの質問をして、返事も待たずにズカズカと私の隣まで来ると、じっと顔をのぞき込んできた。医者というよりはどこかそこら辺の社会人アメフトチームでラインバックでもしていそうな、いかにも体育会系ですと言わんばかりの大きな体躯が目の前にあって、一言で言うと非常に暑苦しい人だ。
 顔には出さずにじっとしていると、彼は何故か満足げに頷いた。
「さっきの子らから聞いたけど、記憶が曖昧な部分があるんだって?」
 私は素直に頷いた。
「残念ながらそれは俺の専門ではないんで、それは追々カウンセリングの専門の人間が担当する事になると思うが」
 いつの間にいたのか、彼の体に隠れるようにして立っていたナースがカルテらしきものを差し出していた。彼は無造作に受け取りながら言った。
「自己紹介が遅れたが、第二外科の楢崎です。よろしく」
 ペラペラとページを捲りながら、彼はそれでも私から視線を外さずに笑いかけていた。
 その笑顔もやっぱり暑苦しい。日焼けした顔に白い歯がやけに眩しかった。爽やかさを出そうとしても筋肉質の大きな体が暑苦しくて見事に邪魔している。
「あとでもう一度、簡単に検査は受けてもらうが、先に君がここに運ばれてきたとき行った精密検査の結果を言うと、全く問題はなかった。健康そのものだ。身体的に負った傷は膝及び左頬の裂傷、まあつまりは擦り傷だが、その二つしかない。体が痛むとしたらそれは打撲だからしばらくしたら治るはずだ」
 彼の言葉にどこか引っかかるものを感じた。
 楢崎先生は日焼けした顔でニヤっと笑っていた。私の表情に、思ったことが出ていたのだろう。
「そう、君の場合、打撲は別にして体は単純に『道で転んだ程度』の傷しか負ってないわけだ。だけど、聞いたとは思うが二日も眠り続けていた。それはもう昏睡に近いレベルでね」
 そう言って彼は何やらグラフの描かれている私にA4サイズの紙を私に差し出した。
「それは脳波のグラフだ。健康な人間の睡眠時の脳波と、君の四十八時間前から六時間前までの脳波を比較してある。見たら一目瞭然だろう? 君の脳波は人間が一般的に一番深く眠りについているときより、やや深いレベルでずーっと推移してたんだ」
 大きな体を縮めるようにして、彼はさっきまで惣流さんが座っていた椅子に腰を下ろした。その瞬間に私の中で彼の評価が、暑苦しいから鬱陶しいに進化した。まるですぐ横に息をする壁があるみたいだ。
「逆に言うと、この脳波以外は君にいろんな精密検査をさせてもらったが異常は見あたらなかった。で、十二時間前から今度は徐々に睡眠が浅くなってる。そして六時間前にはほぼ覚醒状態まで一度戻ってるね。そこからは普通の睡眠状態に入ったんで、脳波計は止めてしまって君が起きるのを待っていたというのが今までの経過なわけだ」
 スラスラと喋る先生の言葉は耳に入っている。だけど、その内容が現実離れしていて何処か他人事のように感じられてしまう。確かに自分はここにいて、我が身に起こっている事を考えれば事実なのだろうということは頭で解っていても、実感はまったくついてこなかった。
「ところで頭痛はあるかな?」
 私は頷いた。
「どの程度?」
「ほとんど気にならないくらいです」
「ふむ。で、さっきそばかすの子に聞いたんだが」
 パタン、と彼はカルテを閉じた。
「綾波さん、記憶が曖昧になってるとはいうが、何か覚えてるところはあるんじゃないかい?」
 どこか憎めない楢崎先生の目が、その時だけは鋭くなった。
 反射的に私は体を強張らせてしまう。
「私は……」
 自分の手元を見つめて記憶の糸をたぐり寄せようとする。何がどこまで覚えているのか、と言われてもすぐに思い出すのは無理だ。自分が今、どんな状況に置かれているかすら正しく認識できているとは言い切れないのだから。
 押し黙った私を先生はしばらく見つめていた。気まずい空気が辺りを満たしていく。
 やがて小さくため息をつくと、
「すぐに、と言っても難しい話だったかな。まあ、急かしても仕方ない事だから、ゆっくり思い出せるところから時系列を整理してみるといい」
 明日また検査をもう一度するからね、と楢崎先生は言い残してナースと一緒に出ていった。
 今晩は安静にしてなさいとも言っていた。ということは夜の間はひたすら考え事に没頭でもして時間を潰しなさい、ということでもあるのだろう。そして思い出せる部分を思い出せたら万々歳だと考えているのかもしれない。
 洞木さんの様子から考えても先生たちが事情を知っていたところで教えてくれるとは最初から期待していなかったし、事実、彼らも私と接しているときは自発的に私に情報を与えようという気配は皆無だった。結局のところは私が自分で思い出さなければならないらしい。
 先生は私が言葉につまるところを見ても、記憶があやふやになっているのを嘘だとは決めつけなかったし疑っている様子も無かった。恐らく、こういった事態も予想はしていたのだろう。見た目や話し方で侮ってしまいそうだけど、案外食えない人なのかもしれない。
 私が突っ込んだ質問をしなかったことで安堵していたのは傍らにいたナースの方だった。眉一つ動かさずカルテをすらすらと書き込んでいた楢崎先生とは違って、彼女は終始うかがうような表情で落ち着かないそぶりを常に繰り返していた。それが逆に触れてはいけないタブーのような存在を知らせる結果になっていたのは何とも皮肉な話だ。
 小一時間前の記憶を追い払い、姿を変えた景色に目を向けた。ガラス越しの夜空では星の瞬きがよくわからない。どことなく濁って見える気がした。
 しかしそんな中でも優雅に月が大きな姿を闇の中に浮かべている。
 遙か彼方で何万倍もの大きさと輝きをもつ恒星ですら、ここではただの脇役として小さく光り続けるしかない。こうしてみていると、月はまるで宇宙の中の偉大なる王のように見えた。威風堂々として毎夜、闇の中を静かに浮かび上がる。
 遠くからゆっくりとやってきた眠気に覆われる中で、二人の同級生の顔を思い浮かべた。
 一人は惣流さん。
 夕方に見た彼女の表情は冷たく鋭かった。はっきりと思い出せる強い目の光。
 もう一人は不意に名前が浮かんだ碇君。
 彼のことは正直、ほとんど思い出せないでいる。彼も惣流さんと同じで、ただのクラスメイトという距離を飛び越えてまで、私と関わりを持ったことがあるような人ではない。マスコミでなんだかんだと露出が多い惣流さんならともかく、普段から印象の薄い人だと思っていた彼の顔をよく覚えているはずもなく、永遠に私とは関わりのない人たちの一人だと信じて疑ったことはない。
 だからだろうか。とまどいが心の中でざわついている。
 どうして? なぜ?
 心の中のどこかで誰かが叫んでいる。遠くて聞こえないその声が私を落ち着かせなくする。何かを知らせようとしているような気がして、耳をすまそうとしても何を言っているかわからないのだ。碇君に関わることなのだろうか。繋げて考えるには漠然としすぎているけど、そんな気がしてならない。
 予感は予感でしかない。
 碇君について何か思い出せるわけでもない。
 いつものように自分に降りかかった事件を無関心で終わらせればいいじゃないか。そんな内なる声も聞こえているのは事実だし、なかったことにしてしまえばいいと思っている自分がどこかにいる。
 だけど今回は無視しちゃいけない。
 生まれて初めて強くそう思える。なにかとんでもないことが自分に起きているからではなく、困惑しているからでもなく、誰かの聞こえない叫び声がそう思わせている。
 部屋の中で聞こえる音は私の体をよじった時に布が擦れ合う音だけ。もっと耳を澄ませると鼓動の音が聞こえそうなくらい、ピンとした静かな空気が辺りに満ちていた。
 壁の向こう側、ドアの向こう。
 静寂の向こうにある真実を見つけるためには行動しかない、と思った。
 指をゆっくり握ったり開いたりする。もう痛みはない。ただ、寝続けていた影響なのか、すこし筋張った感じがした。関節もパキパキッと鳴った。同じように、肘、膝、首を軽く動かしてみるけど特に動かせないとか感覚がないとかの違和感はない。
 楢崎先生が身体的な異常は認められないと言っていたのだから当たり前と言えばそれまでなのだが。
 ただ、言われたように少し前屈みになると背中に痛みが少し残っている。これが打撲と言われていた部分なのだろう。
 頭痛は残っているけど、体は動く。
 それだけ解れば十分だった。
「今日一日は経過観察ってことで、絶対安静。健康体だと過信する事が僕らにとっても患者にとっても一番危険だからね」
 楢崎先生はそう言っていたけど、今は行動の時だと思った。
 部屋のスライドドアを開けると、少しムッとした空気が廊下に満ちていた。粘り着くような湿度の高さを肌に感じる。一番奥の部屋らしく、部屋を出てすぐ右は行き止まりの扉。非常階段、というプレートが張ってあった。
 廊下の電気は消されていた。省エネの為かな、という考えが一瞬頭をよぎる。エレベーターの方へ数メートル歩いたところでその考えをうち消した。隣の病室らしき部屋にはネームプレートが入っていない。左右どちらを見ても空室なのは明らかだった。隣の部屋だけじゃない、ずっとこの廊下に並ぶ部屋全てが空室で、私のいた部屋だけが突然変異みたいに存在していて、このフロアは有機的な存在の気配を感じられなかった。
 とても静かで、足音が異様に遠くまで反響している。安静と言われていただけに、自然と足音を消すようにそろりそろりと歩く。ここで他人に見つかって病室に戻されるのは嫌だった。
 廊下は薄暗い。足下で非常口を示す案内板だけが数メートルごとに、押さえられた光で床を照らしていた。
 エレベーターの前にナースセンターがある。そこを中心にして、私が歩いてきた廊下とは逆に、同じ長さほどの廊下が延びているのが見えた。
 やはり人気は感じられない。

 エレベーターは二階で停止していた。私のいるフロアは十階らしく、そこの数字だけ違う色で書かれている。
 一瞬、指が上行きのボタンの前で躊躇った。決めたつもりでいた心が、リアルさを増す度に揺らいだのだ。
 力が抜けかけた腕にもう一度決心を込めて、ボタンを押す。
 脳裏に彼女の青い眼が蘇ったせいだ。あれほどの悪意を他人から向けられた事は今までにない。
 ウィーン…。
 駆動音が目の前にあるのにどこか遠い。あの眼を思い出すだけで、体の芯から私を全否定されているような気持ちになる。
 扉が目の前で開く。ホールと違ってエレベーターの中は明るかった。今度は迷いなく十二の数字を押した。
 側壁の案内板に眼をやる。
 どうやら九階と十階はまだ工事中ということになっているらしかった。そして十二階。
 ガコンっと扉が開く音で正面を向き直す。
「目が覚めたって聞いてたから、そろそろ来るんじゃないかと思ってたわ」
 彼女――惣流・アスカ・ラングレーは軽く腕組みをして、あの眼で私を睨みつけていた。



 両親は生まれてきた我が子をやっぱり呪ったのだろう。なぜなら私の記憶には親の顔を見て成長した自分というものがどこにもいないからだ。
 きっと私の深層心理には何度も見上げた星空と月、そして入退院を繰り返していた病院の無機と有機が入り交じった複雑な匂いや、不必要なまでに白で清潔感を強調された世界が入ってるに違いない。
 色素の抜けた髪の毛、血液を連想させる真っ赤な瞳をもって誕生してきた我が子を母親は抱く事すら拒否した。以来、私は両親が健在なのに施設に入れられて小学生を終わるまでそこで過ごす。
 彼らは全くの音信不通で、娘の存在を全否定したかったようだ。いつしかそれを幼心で受け入れ、私はだんだんと感情を表に出さなくなり、人との関わりを避けるようになっていた。もちろん外見の事もあるから、他人から積極的に関わろうという人はまずいない。それを越えて私の心に入ろうとする人もいたけど、そんな人の存在すらも小学生になるころには拒否するようになっていた。
 そうこうするうちに外界のアクションに対して常に受け身で、実はただ臆病なだけの私ができあがっていた。他人との接触をなるべく避ける事で他人にとっては「ただそこにいるだけ」の存在になりたかった。そうすれば誰も不幸にならない。父や母のような存在を二度と生むことはない。
 両親にとって不幸でしかなかった私という存在。そして私の存在を自分で否定しないためにはそうやって自分を作り上げていくしか、幼心では方法を見つけられなかった。
 レイ、という名前は父親が私に残した唯一のものだと思っていた。意味は知らないし興味もないが、音の響きだけは自分でも気に入っている。
 その父親は一財産を残して5年ほど前に他界している。その知らせを聞いたのは、小学校の卒業を間近に控えた、眠気を誘う陽気に満ちた春の日だった。
 朝起きてから職員達が読み散らかしてそのままになっていた新聞を食堂で見つけ、何となく時間をもてあましていたのか手にとって読みはじめ、何面かもわすれるほどの下の欄に訃報として小さく書かれていたのを見つけたのだ。
 どこかで見た名前の人だな、と最初は思っていたが、次の記事を読んでいるときに自分の遺伝子を作った人だ、ということに突然気がついた。
 流し読みした部分を改めて読み直す。どの角度から見ても死因は自殺だった。
 私が生まれてからしばらくして両親は離婚し、父親は婿養子だった為に旧姓に戻していた。父はその世界では名の通った経済評論家で、出版した本の数冊はかなり売れ印税がある程度まとまって入ったようだ。本は結婚中も全て旧姓で出版されているので、著作者の名前と私を結びつける事ができるのは事実を知っているごく一部の人間しかいないだろう。母親に慰謝料を払っていたわけでもないので、独身男性の平均的な生活をしていた彼の財産はほとんど手つかずのまま母親と私に残された。
 その新聞で記事を見つけた日の夕方、母親の弁護士だと名乗る人物が私に面会を求めてきた。会いに行くと、真面目を絵に描いたようなスーツとネクタイをガッチガチに着こなした中年の男が待っていた。
 十二歳の女の子に、彼は大人に向けて喋るのと同じ態度と口調で話しかけてきた。全身から隙を子供相手でも見せないぞ、という姿勢が滲み出ているように思えた。
 滑稽ではあったが黙って彼の前に座っていると、場所の空気というか、ぴりぴりしたムードのようなものが後から追いついてきたようなが気がする
 彼の話を簡単にまとめると私には父親の財産の半分相続する権利があるという事だった。本の著作権と株式、父の住んでいたマンション、そして預金。
 彼の用件はその遺産の分配方法を私に伝えに来る事だったらしい。
 そう言われても、と私は率直に思ったことを答えるしかなかった。
 十二年間、いなかったものとしてお互いに扱ってきた母と娘。それがポンッと降ってわいたようにそんな話を持ってこられても、正直どう対応していいものかさっぱりわからない。
 かといってアドバイスを求めようにも、一応ということで同席していた副施設長はデリケートな問題だけに面倒を抱え込みたくない、という態度で知らぬ存ぜぬを頑なに貫き通し、最後の最後まで私の顔を見ようともしなかった。
 想像したこともなかったので、どうこたえたものか、と思いながら黙り込んでいると、弁護士は権利を放棄しても構わない、と言った。
「君の母親はそれを望んでいる」
 とも付け加えた。
 それはそうだろうな、それでもいいか、と考えたところで思いとどまった。冷静に考えたら私はほとんど捨てられたのと一緒なのだから、多少いじわるくらいしてもバチはあたらないかな、と思った。
「お金はいりません。ただ、私が一人でも生きていける何かをお願いします」
 子供らしからぬ言い方に彼は鼻白んだが、了解した、と重々しく頷いた。
「クライアントにはそう伝えよう」
 彼とその後、何度かのやりとりを繰り返し父親の住んでいたマンションと著作権を相続した。相続税も勿論発生したけど、それは預金を一部私が相続にしたことにして、相続税分だけの金額を払って手元には一銭も残らないようにしたらしい。それでも資産価値で言えば私が受け継いだのは二十パーセントに満たないらしかった。それ以上は興味がなかったので、私にはどうでもよかった。
 そして同時に私と母親は戸籍上どうあれ縁を切り、二度とお互いに関わらぬようにする念書を交わした。永遠の他人になる儀式はそれで終わり、父親の住んでいたマンションで私は一人暮らしを始めて、本当の一人を手に入れた。天涯孤独と言うには父の残したものに頼りすぎるところはあるけど、これで良かったのだとあの時は思ったし、今でもその思いは変わらない。
 しばらくして母親は再婚し姓も変わったと風の噂で耳にした。綾波という姓を持つのはこれで私だけになり、本当に私は一人きりになった。その時は少しだけ嬉しかったのを覚えている。母を憎んでいるわけではなかったけれど、どうせ二度と関わる事のない人とつながりがある名前でいるよりは独占できたほうがすっきりする、それだけの理由だった。
 二十五階建ての二十一階に家はある。父はここのベランダから投身して、駐車してあった車をペシャンコにし、それ以上に自分を人間の形をとどめないほどの衝撃で否定して人生を終えたらしい。見下ろしても風雨で流されて血痕すら残っていない。
 父が何故、死にたくなったのかはわからない。彼が残した生活の痕跡にも興味がわかない。かといって彼の存在を否定したかった訳でもないので、自分が要らないと思ったものはどんどん捨てたし、自分にとって必要そうな家具や家電などは残した。別に自分の色に家全体を染めたいわけでもなく、ただ何となく父親を父親として認識できなくて、どこまでいっても他人の延長上にいる人でしかなかったのだろうと思う。
 結局のところ他人からすれば私はどうでもいい存在なんだと実感したのは、施設の人間から引っ越した途端に連絡が双方向で途絶えたときだ。私は必要なものは全部移してきていたので、中学入学の手続きとかも先の弁護士の先生にやっておいてもらったおかげで、施設の人間がすることはほとんどなかったのは確かだった。だけど中学生になりたての女の子が非常識にも一人暮らしを始めようというのに、それを心配して電話をしてくるとか訪ねてくるとか、まったくなかったのだ。
 それも当然と言えば当然なのかもしれない。他人との関わりを極端に避け、疎まれる事すらなかった私を誰が振り向いて気づいてくれるだろう。
 部屋の半分はがらんどうとして、私の使っている部屋も一部屋で事足りるので家の中はスカスカ、部屋は半分以上使っていない。父親も似たような生活だったらしく、ここに来たときから空き部屋だった部屋は今も使われていない。家具や調度品の類も必要最低限のものしか置いてないので女の子らしさを感じさせるものはほとんどない。ああした方がいいこうした方がいいとアドバイスしてくれる人も何々しなさいと命令する人も身近にはいない。必要と感じないものには頓着しない生活も手伝って、潤いのようなものはこの家には何もなかった。
 普通の女の子みたいに華のある着飾りや自分を美しく見せることにも興味がない。
 中学入学で周囲が騒然とするのも最初の一週間だけだった。私の特異な外見に皆が慣れてくると、私は個性に埋没する事すらなく、やがて空気と同じ扱いになり、クラスメイトも奇妙な青白い髪の女の子は最初から存在しないような立ち振る舞いをする。
 その微妙なポジションが、長く付き合っていくことになる定位置になっていった。



 私が日陰の象徴なら、惣流さんは太陽の象徴だろうか。
 その太陽は今、目の前で暗い視線を私にぶつけてきていた。顔にはさっきは気づかなかった強い疲労がはりついていて、心なしかいつもよりも線が細く見えた。
「あんた、このフロアがどういうところか知ってる?」
 抑揚がない声で彼女は言った。
 エレベーターの案内板は空白になっていた。辺りは夕日も落ちて薄暗い。私がいたフロアと同じで、照明に灯が入っていない。
 見渡しても彼女の背後にガラスの扉があって、その奥が薄暗くてよく見えない。
 わからない、と私は言った。
「ここはね、絶望的な患者だけがくる所よ。奇跡が起こらない限り、死ぬのを待つところと言った方が早いわね」
 少し眉をひそめる。そんなところになんであなたがいるの。しかしその疑問を口には出せない雰囲気を彼女は体から発していた。
「まだわからないみたいね」
 惣流さんの口調がより一層、冷ややかなものになる。
「あんたはそうやって都合の悪いところだけ忘れてれば楽でしょうよ。だけどね、絶対に私はそんなあんたを許さない」
 初めて向けられる明確な敵意。足がすくんで動けない。喉がカラカラになってうめき声すらも出そうにない。
 完全に私は射すくめられていた。いつの間にか起きていた震えが止まらない。初めてなのに初めてじゃないような、本能が怯える感じがして膝に力が入らなかった。既視感にも似た息苦しさが重なる。
 お互いに数メートルの位置で向かい合ったまま、時間だけが過ぎていく。彼女の苛烈さは消えることなく、立ち上る炎が私をジリジリと焼いていくようだ。
 胸が苦しい。息一つするのだけで、ものすごいエネルギーを使わなければいけなかった。
 呼吸の乱れを感じながらも蒼い瞳から視線を外せない。
「なんであんたの病室に私がいたか知りたい?」
「…………」
 答えたくても喉がカラカラで声にならない。聞きたいような、聞くのが怖いような、複雑な気分。けど、いい方向の答えではないだろうなとは漠然と感じていた。
「あんたを殺してやりたかったのよ。私の脳裏に、あんたの崩れ落ちる瞬間の赤い目がこびりついて消えてくれないから」
 ふん、と彼女は鼻で笑った。
 激しく動揺しながらも、どこかで納得している自分がいる。惣流さんのあの暗い視線はまさしく敵意、憎悪、殺意、それらの負の感情をまぜこぜにした全てが入り交じっているような気がして、その言葉ですべてが納得できてしまう。
 本能がすくみあがっている。まるで蛇に睨まれたカエルのようだった。
 胸の動悸がますます激しくなった気がした。
 惣流さんは苦々しげに顔を歪めると、小さく呟くように言った。
「なんであんたなんかみたいなのをシンジは……」
 ズキン。
 不意に頭を鈍器で殴られたみたいな痛みが走った。
 思わず手で頭を押さえようとしたとき、意識がフッと遠くなる。立っていられず、へたり込んで呼吸を整えた。軽い貧血の症状だとわかったときには、体を支える手のひらに床の冷たい感触が伝わっている。気を強く持っていないと意識が飛んでしまいそうだ。
「はぁ、はぁ」
「…………」
 惣流さんは無表情で私を見下ろしている。
 呼吸を整えながら思った。シンジ、という言葉に私の中の何かが反応しているんだと。あの時、心の中で聞こえた誰かの叫び声が少し大きくなった気がした。
 頭がズキズキと断続的に痛む。
「話にならないわね。さっさと帰って。あんたがシンジや私と同じ空気を吸ってると思うだけでヘドがでる」
 そう言い捨てて彼女は踵を返した。
 私は半分、朦朧とする意識の中で必死に考えていた。
 シンジというのが私の知るクラスメイトと同じ人であるのなら、なんで彼女はあんなにも私に対して憎悪の炎を私に向けてくるのだろう、と。
 少し躊躇って、私は思いを口に出した。かつて記憶にないほどの勇気を振り絞って。
「私には……何もわからないままなのに、どうしてそこまで言われなくちゃいけないのかわからない。どうして碇君がここにいるの? 私と彼の間に何があったの? 洞木さんはあなたに聞けって言った。だから私は来た。なのにあなたはまだ何も教えてくれてない。それだけ言われる理由があるのに私が何も知らないなんて、そんなのフェアじゃない」
 絶対零度の青白い火種が私を貫いた。ふり返った彼女のブルーの瞳が一段と鋭さを増し、哀れむような表情で私を見ている。視線で人が殺せたらいいのにという気持ちが見えない炎になって、体内を焼き焦がしているように思えた。
「教えない。何があってもあんた自身で思い出しなさい。思い出せないわけがないわ」
 ずるい、と思わずつぶやいてしまった。
「どうして言い切れるの? 私自身、そんな確証はないのに」
「もうあんたに話すことはないわ。私が衝動を抑えているうちに帰って。その目を私にもう見せないで」
 正面切って人に見せないでと言われたのは初めてで激しく動揺してしまう。
 言葉を失った私に追撃が続く。
「あんたの記憶が抜け落ちているんなら自分の心の奥に尋ねてみることね。思い出したらあんたはここに戻ってくることになるわ」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「わかるわよ。誰がなんと言おうと、私には絶対の自信がある。だからそれまではシンジに会わせない」
 握られた拳から私の眼と同じ色の液体が滴るのが見えた。彼女のいう、衝動を抑えている、といった意味をようやく理解した。そして本気だということも。
 背中を見せたて歩き始めた彼女は、今度こそ振り返ることはなかった。
 最後の瞬間、確かに彼女の頬を涙が一粒つたっていた。私は言葉にできない思いで胸がいっぱいで、声をかけることも動くこともできず、ただ立ちすくむことしかできなかった。
 無力感と敗北感が重く私の体にのしかかっていた。



 一言でいってしまえば、碇シンジという人は私のクラスメイトではあったけど、それ以上でも以下でもない人だった。
 簡単に例えるなら同じ空間にある酸素と窒素みたいなものだと思う。互いに干渉することなく、反応する事もなく、淡々とそこにお互いあるだけの存在。
 私から見ても碇君は普通すぎるくらい、普通の人だった。
 惣流さんや自分が外見で目立ってしまうのとは違って、彼は外見も言動も特に目立ったところもなく没個性で、教室で見かけても他人の視線が思わず止まってしまうようなタイプの人ではない。
 大なり小なり、誰もが何かしらの個性を持っているわけで、印象らしい印象を感じたことがないというのは逆説的にとても特徴がある人だったと言えるのかもしれない。
 だからみんなの中にいると埋もれてしまってまったく目立たないのに、いなくなると逆にわかってしまう。そんな人だった気がする。
 私が彼について覚えているのはこの高校に入学して最初の日、いつものように好奇の視線に晒されている時間帯のことだった。
 あの時、話題の圧倒的な多数をしめていたのはやはり惣流さんだった。今をときめくスターが同じ学校で同じ制服を着て歩いているのだから、騒ぎにならないほうがおかしい。
 そして私も惣流さんとは違った意味でみんなの視線を感じていた。
 先天的に体内の色素をほとんど失って生まれてきて以来、頭髪は真っ白と銀に限りなく近いへんてこな色。それが中学に入る頃、わずかにではあるけれどスカイブルーが混じってきて、蛍光灯の下では白にしか見えないのに太陽の下だとスカイブルーがはっきりとわかる色になってしまい、ますます気味悪がられる要因になっていた。白だろうと水色だろうと、人と圧倒的に違うという意味では大差はないので、煩わしくはあったがどうでもよいことの一つに過ぎなかった。
 他人は私を後ろや遠くから見ただけなら「なんだあれ」と思うだけですむのだが、正面に回ると必ずと言っていいほどギョッとした顔になるのは、この真っ赤な瞳のせいだ。
 瞳の色も赤というより紅といったほうがしっくりくるだろう。ルビーを溶かしたような色という人もいたけど、ほとんどの人は自分の体に流れる血潮を想起してしまう。
 初めて私を見る人の反応は細かな違いはあるけど、結局やってることはパターンが数種類しかなく、最後に行き着くところは同じだ。見慣れない外見に驚き、遠慮がちな素振りでじろじろとなめ回すように見つめてきて、私が相手を見返すと大あわてで視線を逸らすのだ。表面上は興味がないふりを装っていても、視線に敏感な私にはチラチラとこちらを見ている相手の態度が手に取るようにわかる。
 そんな中で二人だけ私を見てもそんな態度を取らなかった人がいる。それが惣流さんと碇君だった。
 惣流さん自身が容姿で目立っていたからか、人から感嘆されるか気味悪がられるかの違いがあるにせよ、似たような経験をしてきた“同類”を見つけても彼女には感じるものはなかったようだった。この国では集団生活において年齢を問わず、黒と染めた茶色の髪の毛以外は目立つようになっている。瞳の色まで違えばもはや決定的だ。
 だけど碇君は違った。普通の姿をした高校生だった。
 興味と好奇心と遠慮が入り交じって揺れる数多くの視線。嵐のような好奇心の中で、彼だけは私を見ていなかった。山の上を伝わっている高圧電線と、眠気を誘う日差しに照らされた山裾。そのなかでも一角が桃色に染められている。それはまさしく、私が人から向けられる好奇の眼差しを無視するために見つめていた景色だったのだ。
 二つ前の席、左手で頬杖をついて彼は桜の木々を見ている。私はそんな彼の横顔をいつしか見つめていた。
 人の心の中から私という存在を消していく作業。
 無視され、いないものとして扱われる。そこに到達するのは初めてじゃないにしても、決して楽しいことでもない。
 けど、私を無視するのでもなく、最初からいないと思いこむのでもなく、彼のように“最初からそこにいて当たり前”という態度に接するのは新鮮な驚きだった。そして少し戸惑いもする。
 その時、碇君が私の視線に気づいたのか、少しハッとした様子で後ろを振り返った。
「僕の顔に何かついてる?」
 私は無表情で首を左右に振った。内心、動揺していたのを悟られないように必死でポーカーフェイスを作っていた。いつの間に彼を見つめたままぼんやりとしていたのだろう。
「そう」
 彼はこそばゆそうな表情でそう言うと、また窓の外へ視線を戻していった。私は彼の横顔を相変わらず見つめながら、自分を棚に上げて、なんとなく変な人だなと思っていた。
 私が形作ってきた世界は歪みすぎているのかもしれない。漠然と感じる。もしかすると今まで過ちとは言わないまでも、とても大きな勘違いをしてきたのかもしれない。
 その時、一斉に教室がざわめいた。
 思わず全員の視線がその先に向かう。
 同姓の私から見ても息をのむような美少女がそこにいた。そしてそれは何度もテレビの中で見ているはずの姿だった。
 みんな彼女を見ていた。
 彼女は無造作に自分の席を探すフリをして、クラスの中にいる人の姿を見ていた。おそらく、彼女の仕草でそんな小さなことに気がついたのは私だけだった。
 だから気がついてしまう。彼女の視線が碇君のところで数秒止まり、そして二度とそちらを向く事がなかったのを。
 碇君は私の時と同じように、彼女に対しても視線を向けなかった。でもそれはどこか私への態度とはどこか違っていて、見なくても彼女が何をしているのかわかっているのさ、という雰囲気に感じられた。
 ほんの数秒の出来事。
 だけどそれがお互いを意識してる二人が他人のフリをしようとしている姿にしか見えなかった。ほぼ完璧な演技。碇君への印象が少し変わっていることに気がついた。
 不思議な人。
 その日の印象は、そんな感じだったように思う。
 よくよく考えてみれば彼の態度は常識から考えると不自然な気はするのだが、あまりに他人に対して無関心であり続けてきた私には、その違和感に似た感覚に気づくだけの余裕がなかったのかもしれない。
 だけど同時にどうでもよいことだ、と無意識に判断して忘れてしまったのかもしれない。いずれにしても、かなり前のことでよく覚えていない。
 碇君について覚えていることなんてこの程度でしかなかったし、記憶の引き出しにしまってあるエピソードなんてもうからっぽだ。文字通り何も残っていない。
 一人のことを真剣に考えているのにそれだけしか思い浮かばないなんて、つまらない人生だと突然思えてしまったけれど、それは結局のところ自分で選んできた道程の結果だ。
 自分を否定するのにはなれているけど、つまらないと思ったのは初めてだった。そして私は自分の人生はここまでつまらなかったんだなと思った。そしてこれからもつまらないのだろう。
 それは当たり前にそこにあって、当たり前すぎて見えなかった部分でもある。
 無為。
 その一言で全部、私の存在について説明できてしまうだろう。
 人を鏡にして自分を反射させることで、人間は自分と他者の関係性から自己を作り上げていく。
 私が他人にどう映っているのか?
 答えはシンプル、何も映ってはいない。
 他人という鏡は当然のように私のありのままをさらけ出し、景色だけが彼らからはね返ってくる。
 むなしさが私の心の中を満たしていく。自分でこの道を選んできたのにこの気持ちはどう表現すればいいのだろう。
 何もない。
 それが私そのものだった。



 高校に進学した理由は特にない。
 一般的な女の子が一人で生きていくのに必要な経費を一日に使うお金から計算していくと、豪遊とかで激しく浪費しない限り十分すぎるくらいあまることはわかっていた。その気になれば中学卒業と同時に一生働かなくても、父の印税が残っている限りはつつましく生活できただろう。
 ただ、私の性格から考えると家に閉じこもって必要最低限の用事でしか外へ出ようとはしないだろうということは容易に想像できた。
 それでは生きていても死んでいても大差がない。
 生きるための意味、みたいな仰々しい理由を探してるわけではなかったけど、人並みの生活をしていないと私はどんどん無為に飲み込まれてしそうな気がしていた。
 極端に言うと生と死は私にとって等価値。どっちでもほとんど変わらないということ。
 なんとなく「死にたくないな」と思っているのが高校に通っている理由だなんて、同級生達は想像したこともないだろう。
 自分の将来について想像というものがまったくできなかった。
 普通の人のように就職したり、結婚したり、という意味で自分がこのまま年齢だけ重ねていくとどうなるか、という意味ではない。
 歳だけ増えてもやってることは今と一緒なのだろう。
 こんな体なのであまり長生きできるとも思えないが、成長がほぼ止まった体と同じように、精神的にも立ち止まったまま年齢だけを増やしていくだけのような気がする。
 全てに無感動と言ってしまえばそれまでだ。
 いっそ死んでしまおう。そんなふうに考えることもよくある。
 悲しむ人も迷惑のかかる人もいない。
 だからといってそれが生を終わらせるほどの動機にもならないのはよくわかっている。
 何故、私はこのような姿と性格で生まれてきて、どうして無意味に死んでいくのだろう。私は最初からこういう人間になりかったわけではないのに。
 暖かい涙が頬を濡らしていた。
 雫に触れて、夢を見ていた自分に気がついた。目を開くとまたあの知らない天井。
 病室は相変わらず痛いほどの静かさで充ち満ちている。どうやってここに戻ってきたかも覚えていなかったのに、どこかホッとしてしまう自分が少し嫌だった。
 しばらくすると楢崎先生が大きな体を揺らしながらやってきて、主語も言わずに「何か見たか?」と聞いた。
 同級生と話した後はよく覚えていない、と答えておいた。先生はしばらく考え込んだ様子だったけど、しばらく私の目を深く見つめ、
「ふむ」
 と頷いた。
 後は機械的にカルテを書き足しているだけだ。勝手に出歩いたお咎めはないらしい。
「今日の午後には退院だから今度こそ安静にしておくように」
 それだけ言って大股で部屋から出ていった。
 右腕に点滴が繋がっている。この様子だと昼の直前までは終わりそうにない。
 これが私をベッドに縛り付けておく鎖の代わりなんだな、とチューブを見つめながら思った。
 普段からどこにいても、なんで私はここにいるのだろう、と自問しない日はない。
 病院にせよ学校にせよ自宅にせよ、世界に溢れている日常と私の知る日常はあまりにかけ離れていて、私という自我を繋ぎ止めている存在が消えれば、皆から忘れられたまま思い出されることもなく永久に消滅するだけだ。二度と出てくることはないだろう。
 もし惣流さんならば、大勢の人が彼女のことを知っていて、たくさんの人が彼女の事を忘れてしまっても、関係の深かった人たちならば死ぬまで忘れることはないはずだ。私にはそういう他人との関係性が欠如していて、今も世界を私の回りに築いていく未来を想像できないし、これからも永遠にないんだろうなと思う。
 もう、ため息もでない。
 なんで私は生きているんだろう。
 たぶん、人間としての本能が死を潜在的に恐れているから、という理由だけだ。それが生への執着を少しだけ強くしている。私のような存在にとっては、いつ生と死が逆転してこの世にサヨウナラとなっても不思議じゃない。
 一歩踏み間違えたらあっという間に転落するような予感は常に感じている。
 窓ガラスに映る青白い顔をした女の子は、面白くなさそうに私を見つめ返してくる。
 うんざりにも飽きてどれくらいがたつだろう。感情の幅がどんどん小さくなっている気がする。自分の事で落ち込んだりナイーブになったりすることがないのだ。
 しかしわだかまるような心の重さは一体なんなのだろう。しこりのようでもあるし、汚い海のヘドロのようでもある。鬱憤も片隅で同居しているせいか、嫌な感じが普段の気分も常に不快感を残している。
 たぶん、あの時の彼女の目だ。
 憎悪に燃えた暗い光。あの強い感情が私の無感動な心にすら強い陰を作っているのだろう。
 でも私は見てしまった。
 彼女は踵を返す瞬間に目元を濡らしていた。
 私と同じ立場に立った人なら、覚えてもいないことで罵られるなんて気持ちのいいことではないし、とうてい許容できることでもないと思う。でも、私には人の感情に対して受け止める以外の術を知らない。そして彼女の涙を見たせいで、彼女の怒りの奥に違う感情を透けて見てしまった。
 この記憶にない数日、私は何をしてしまったのだろう。
 問いかけても答えてくれる人はいない。
 自分で見つけなければならない。
 叫び声は強くなっている。誰のものかわからないし、まだ聞こえてはこない。だけど、その存在感だけは確実に強めていた。
 そこには意志がある。前へ進めと、私の背中を押すほどの強固な意志だ。
 それは私が感じたことのないものだったけど、知識の上ではなんとなくわかっていた。
 たぶんそれは人々にこう呼ばれるものだ。
 勇気、と――。




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