2 : Not Found


 なくした物を見つけだすというのは、一から何かを作り出すよりも骨の折れる作業だと思う。
「道のりはなかなかに厳しく険しい、か」
 隣の女子がギョッとしながらこちらを振り向くのを肌で感じていた。リアクションを返すのも面倒だったので無視する。
 普段から「無口」「無感情」「無愛想」の三無しで通っていたアルビノの女の子。気味の悪いクラスメイトの隣に座るだけでも嫌悪を感じる人がいるのに、突然独り言が聞こえてきたらなおさら不気味で仕方なかっただろう。
 高校入学を期に髪の毛を染め、カラーコンタクトを入れたらどうかという声がなかったわけじゃない。
 数年、連絡が途絶えていた施設の先生が伏し目がちに私のマンションを訪ねてきたことを思い出す。あの時、彼女は私が知っている時よりも老けた姿で中学の卒業式が終わった後にやってきた。
 彼女は遠慮がちに高校に行くことを決めたのだから、思い切って自分を変えてみたらどうかと言った。一理あるとは思ったけれど、私は自分を偽るのが嫌だったわけではなく、ただ単純に興味が湧かなかった。
「生まれつきなんだから卑屈になる理由なんてない……って主張すればカッコいいんでしょうね。でも私はただそうするのが面倒なだけ」
 いつまでも隠し通せるものではないし、そんなことをしていては結局、同情されるだけだ。
 彼女は寂しそうに、
「あなたのことだからそう言うと思ったわ」
 と笑って帰っていった。
 誰かに強くそうして欲しいと頼まれたのなら、今頃は少し茶色く染めた黒髪と明るい色の瞳を持った綾波レイがいたはずだ。確固たる信念があってこの姿でいるわけではないのだから。
 なんとなく楽な方向がたまたまそちらを向いていた。それだけのことだ。
 そして気味が悪い外見のまま入学した私を同級生達は劇薬のように扱った。積極的に誰かと関わろうとしなかった私だったし、周りの人たちも避けて通り、無視して過ごそうとした。
 ありがたいと思った。
 冷静に考えれば異常すぎる。嫌われるわけでもないのに、そういう立場になるのだから。
 だけどそれが私がいちばん落ち着ける立場。不必要なことに気を使わなくていい。
 そうやって過ぎた高校生活の一年と少しの時間は長くも短くもなく淡々と過ぎていった。まるで平穏をキャンパスへ描いたかのように。
 でも私が非積極的だったからといって、何も見えてこなかったわけじゃない。見る気がなくても目に映るものもあるし、聞くつもりがなくても耳に届く声は必ずどこかにあるからだ。
 時として自分がカメラやマイクのように思えることすらある。まるでクラスの置物みたいな私に聞かれたところで困ると思った人は少ないのだろう。私は自分が訊ねなくても知っている事はたくさんあるのだ。
 自分の存在を集団の中で希薄に感じれば感じるほど、自分が無機物のようだという感覚は強くなる。自分を異物だと感じる前に、心が感覚を透明にしてしまうのだ。
 限りなく透明に近い色へ薄まった私という存在。
 この教室で空いた席を眺める。二つある方の、教卓の向かいにある席。
 私のような無彩色の存在にいちばん強く映る人はやはり惣流さんだったと思う。
 高校に入るまでテレビを見たり雑誌を読むという自発的な行動がほとんどと言っていいほどなかった。テレビをつけると同級生が画面の中で喋っていたり、本屋へ行けば雑誌の表紙になっていたり、私の生活は確かに中学生の頃と比べれば、興味を向ける幅が広がったという意味で全然違っている。そのきっかけが青い瞳をした彼女なのは疑いようのない事実だ。
 人の観察しかしてこなかった私にはよくわかる。いかに彼女が天性の華を持った人であるかが。それが生まれつきのものなのか後天的なものであるかは知りようがないけれど、男女を問わず視界に彼女がいる限りは意識するなというのが難しい。
 隣の女の子はもうこちらを意識するのはやめたらしい。私が視線を向けても努めて気にしないようにしているらしかった。そのまま私は視線をもう一つの空席へスライドさせた。私の四つ前にある空席に面影を感じる。彼もまた、私と同じように面白くなさそうな顔で窓の外をよく見ていた人だったな、と思う。
 そしてあの時も今も変わらず、英語の先生の眠たい声が教室に響いている。
 よく考えてみれば明るく振る舞う惣流さんしか見たことがなかった。学校の中にいる彼女も、日常の向こう側にある世界で見せ続けていた顔も、常に穏やかな顔か笑顔で、病院で見せたような表情を想像したことすらない。
 だけどあれが本当の彼女がもつ一部であるなら、惣流さんは常日頃から演技をしていたんじゃないだろうかとも思える。私に見せた感情の爆発と煌めきが幻でないのならば、辛いときでも無理して明るく振る舞っていたのではないだろうか。
 私にはできない。
 逃げることでしか生きる術を知らない私にとっては、彼女のような生き方は絶対にできない。
 ただ、それはあくまで私の想像の範囲を出るものではない。どこまでいっても邪推と言われたらそれまでだし、予想はどこまで行っても予想のままで、真実は別の場所にある。例えそれが私の考えと重なることがあっても、今あるのは真実に似たフェイクだ。
 だけど、あの病院での彼女は間違いなく真実だと思う。今までに見たことがなかった彼女の一面を見た程度でしかなかったとしても。
 キーン、コーン…。
 チャイムが私を現実へ引き戻した。ハッとして前を見ると、教師が黒板を消しながら今日のまとめを喋っていた。慌ててノートを取りながら、自分に言い聞かせるように思いを反芻する。
 真実は一部でも真実だ。
 ノートを閉じる頃には教室はもうほとんどの生徒が思い思いの休憩時間に入っていた。
 私は窓の外へ視線を転じて、頬杖をついた。
 教室のいちばん左後ろはいつからか私の定位置となってもう何年も過ぎた。自分で丁度いいポジションだと思っていた。クラスが一瞥できると同時に、四季でしか変化を感じ取れない風景を同時に見ることができる。そして私は圧倒的に後者のほうへ目を向けてばかりいた。
 四方を山に囲まれたこの街で、この学校はそのほぼ真北に位置している。この学校からは町並みのほとんどが見渡せた。
 この国の遷都計画が近年発表されてからというもの、街の名前も第三新東京市と変わってしまった。だけど第一都市としての機能と偉容は未だに第二新東京市のもので、ワシントンとニューヨークの関係を見習って都市計画を行われているこの街は政治の中枢しか移転してこない。今後もこの地域は経済的中心地になる計画も意志もなく、人口増加は爆発的に起きることはないだろうと言われている。
 しかし街の規模は毎年のように大きくなってはいたし、昨年までは人口の増加というか流入率はかなりの数字だったはずだ。今年に入ってペースは極端に落ちてきたものの、私たちの同級生は入学時よりも既に三十五人は増えている。
 惣流さんや碇君は入学したときからこの学校にいた人たちだった。そして私も最初の二百人の中の一人。
 二人とも病欠と朝のホームルームで担任から説明されたとき、クラスの人たちは普段と変わりなかった。惣流さんが欠席がちだったのはいつものことだったし、もう一人病気で休む人がいたところでおかしいと思う人もまずいないだろう。事情を知る、私と委員長の洞木さんをのぞけば。
 その洞木さんが疲れた顔で二つの空席を眺めていた。彼女がいちばん惣流さんと仲が良さそうだということは気がついていたけれど、病院までつきそうほどだとは知らなかった。
 彼女はため息をついて、そこで初めて私のほうを見た。私の視線を感じたのかどうかはわからなかったけれど、彼女は一度目を伏せ、再び私のほうを見る。その一瞬の動作に彼女の迷いが透けて見えた気がした。
 数秒、お互いが目もそらさずに見つめ合う。
 彼女は席を立つと教室から出て行った。目配せをしたわけでもないのに、私も迷わず彼女の後を追って教室を出た。迷いを見せた後の洞木さんの目が私を見たときブレなかった。それが私を無意識で呼んでいるような気がした。
 一緒に来て。
 振り返る素振りもない彼女の背中がそう言っているようで、私は引かれるように洞木さんを追った。私がついてきているかを振り返りもせず、ずんずんと歩いていく。
 昼休みが始まったばかりの廊下は生徒がごった返してた。
 楽しそうに談笑している生徒達も、私が通ると声をトーンダウンさせて道を譲る。それは差別や偏見と言うより、関わりたくないという態度の表れだと思う。ただ避けてくれるならばそれに越したことはないという消極的な姿。私は彼らにとってそういう存在なんだと思いはすれど、そんな小事でいちいちセンチメンタルな気分になるほど私の性格は成熟してはいなかった。
 洞木さんは屋上へ出る扉を開けたところで初めて後ろを振り返った。踊り場にいる私が見上げている姿を確認すると室外へ出て行った。開けられたドアから溢れんばかりの光が飛び込んできていた。まるで洞木さんが、光の中に飲み込まれていくように見えた。
 私も同じ場所へ立つ。想像以上の光に思わず立ちすくんだ。
 日差しを手で軽く覆いながら目を細めた。洞木さんは金網のすぐ側で、街を一望できる場所に立っていた。
 私の足音が彼女の一メートル後ろで止まる。
「アスカ、あなたに失礼なことを言わなかった?」
 そう言いながら洞木さんは振り返った。精一杯の優しい顔。彼女は私の存在にひるんでいる様子も無かったけれど、気を許しているという雰囲気でもなかった。
 私は首を左右に振った。あの時の惣流さんの姿は誰も知らないでいいことだと思った。私の心の中に閉まっておこう。そのほうが誰にも禍根は残らない。喋らなければ誰も傷つくことはない。
「それならよかった」
 心底ホッとした様子で洞木さんはため息をついた。用意していた言葉はそれだけだったのか、彼女はそれっきり口をつぐんでしまって、話したいことがあるのにきっかけをつかめないでいるようなもどかしさを顔に出していた。
 最初の一言にほとんどの勇気を使ってしまったんだろうなという気がする。だけどそれは私も変わらない。他人と関わるときはいつもそうだ。最初の一言はとても勇気が必要になる。
「あなた達、友達?」
「私は親友だと思ってる。でもアスカがどう思っているかは、あの子に聞かないとわからないわね」
 やはり自分と違いすぎる負い目を感じているせいなのだろう、彼女にそう言わせる理由は。それほどまでに惣流さんは明るい恒星だ。
 本物の太陽が届かせる日差しは強いというほどでもなく、浮かない表情の洞木さんにも、それを見つめる私にも平等に降り注ぐ。
 再び洞木さんが街の方を向いた。その瞬間に見えた横顔に、わだかまりのような曇りを見た気がした。
 他人の顔色ばかりうかがってきたことが、こんな時に相手の心理状態を推測するのに役立ったってちっとも嬉しくなかった。むしろ洞木さんに、いつ自分の心を見透かされるかが恐くなり始めていた。
「ねえ、綾波さん。これだけは言わせて」
「何?」
「私はアスカの友達だけど、アスカのようにあなたを敵視してるわけじゃないわ。アスカの気持ちがわかるだけ」
 惣流さんが私に向けたものは敵視ではなく嫌悪を通り越した恨みみたいなものだった気がするけど、それは言わないでおいた。それを言うと、洞木さんを辛くさせてしまうだろうと頭のどこかで感じていたのだ。
 洞木さんが私をどう思っているのか興味がないと言ってしまえばそれまでだった。けれど、私はここにケンカを売りに来ているのではない。
「だからこういうのも変だけど、アスカを許してあげて。今は一時的に感情を乱しているだけなの」
 ああ、わかってるんだ。
 意味もなくそう思った。洞木さんは最初に失礼なことを言わなかったかと聞きながら、私がノーと言ったのが嘘だとわかっている。それくらい惣流さんの性格を知っていて、彼女の立場で物事を考えることができて、どういう事を私に言ったかをちゃんと想像できる人なんだ。
 やっぱり見透かされている。
 それでもここは譲れなかった。
「惣流さんは何も言わなかった。ただ、帰れと一言、私に言っただけ」
 洞木さんはそれ以上、惣流さんをかばおうとはしなかった。
 黙り込んでしまった彼女の背中を見ながら、友達ってこういうものなんだなということを再確認させられるようだった。誰かの為に、という理由で動ける。それがすばらしいと思える経験は私にないものだけど、知識では頭の片隅に記憶されている。なかなかできるものでないことを私は知っていた。
「綾波さん、少しでも思い出せた?」
「どこの部分の記憶が抜け落ちているのかがわかっているだけ。中身はまったく覚えてないわ」
「そう」
 洞木さんがため息をついた。
 私が記憶を整理して出てきたのは、結局まるまる一日の記憶が飛んでしまっているという事実だけ。
「聞きたいのよね? あの日、何があったのか」
 私は頷いてしまってから、彼女からはそれが見えないことに気がついた。でも洞木さんは私の返事を待っていなかった。肯定しかありえないとわかっていたらしく、独り言を呟くように言った。
「最初に謝らせて。私も肝心なところはわからないの。アスカは何も言わないし、私もその場にいたわけじゃないから。だから私が知っているのは、あの日、アスカと夕方に分かれるときまでの事よ」
「それで十分だと思う」
 私も洞木さんが一から十まで知っていると過剰な期待を抱いていたわけではない。ただ、記憶が少しでも戻ってくるきっかけになればいい。まだ消えた記憶がパズルピースのように断片的なものなのか、一つのきっかけで繋がる糸のようなものなのかすら把握できていないのだから。
「あとこれだけは信じて。アスカはきっと綾波さんになんの責任もないことはわかってるはずなの。でも今は時間が経ってなさ過ぎて、あの子自身が心の整理をできてないだけだと思う……」
「それは、碇君が関係してくるの?」
「綾波さんはどう考えている?」
「あると思う」
 脳裏につい先日の出来事がよみがえる。無いわけがない。惣流さん自身がはっきりと、その関係性を口にしたのだから。
 洞木さんは今日何度目かもわからないため息をついた。恐らく『あの日』からこの人は同じように何度もため息をついてきたのだろう。
「あの子は自分の心を他人にさらけ出すのを極端に嫌がるから私もほとんど聞いたこと無いんだけどね。普段からの言動とか行動をよく見ていた私だからわかるの。アスカにとって、碇君はたぶん特別な人だったんだと思う」
「恋人だったてこと?」
「ううん。そうじゃないわ。少なくともアスカは誰かを好きだと言ったことはないし、そういうことを人に話す子じゃないから。だけどものすごく一瞬とかに見せる小さな変化というか……例え話になっちゃうけど、誰かが碇君の話題を話しているとアスカの目が碇君を探すの。それってアスカにとっては普通じゃないのよ。あの子は人の話題が出てるからってその人を目で追うような性格じゃない」
 そう、惣流さんは他人から注目されるかわりに自分からは人を注目することはない。恐らく彼女の処世術。
 うまく言えないんだけど、と洞木さんは言った。
「わかる気がする」
「うん、アスカはどんな時だって隙を見せようとしなかったけど、碇君のことが関わってくると別だった。だから私は特別だったと思ってる。アスカのそんな小さな仕草とか些細な変化とかは、本当にわずかだから意識してみないと気づかないしね」
 あの子、芸能界で生きてるだけあって肝心なところまでポーカーフェイスで隠しちゃうのが得意だから、見分けるのが本当に難しかった。そういって洞木さんは笑った。どこか陰のある笑いだった。
 私たちの横を風達が音を立てながら通り過ぎていく。山を駆け上がってきた風達は乾いていたけど、太陽の日差しを長い時間、浴びてきたように暖かかった。
「もしかすると……ううん、もしかしなくてもそうね。アスカは碇君が好きだったのね」
 洞木さんは自分に向けて喋っていた。言葉を声という形にすることで自分に言い聞かせるために、そして納得させるために、独り言を呟いていた。その響きは風に乗って私の耳にも届く。
「どうして断言できるの、って綾波さんなら思う?」
「さあ、私にはよくわからないから」
 洞木さんは私をちらりと見て、またあの寂しそうな笑顔を見せた。
「私の想像でしかないわ、もちろん。言い切っているのも私の勝手な思いこみ。でもね、あの時、病院でアスカに会った瞬間の姿が今でも忘れられないのよ」
 洞木さんが言わんとしていることはわかる気がする。あの場所にいた惣流さんは、私達の知る惣流さんではなかった。それ以上のことはあれこれと想像するしかない。
 少なくとも私がみた惣流さんと洞木さんが見た惣流さんはまったく違う姿だったのだと思う。そして洞木さんが見たのは、きっと今までに見せたことがない弱い姿だったのだろう。
 何らかの連絡を受けて洞木さんが駆けつけたとき、そんな惣流さんを見たのだ。いつも気丈にしているのは人前だけで、一人の惣流アスカという人間が実は弱い部分も人と同じくらい持ち合わせているのを初めて見て衝撃を受けたのだと思う。
「洞木さん、一つ聞かせて欲しい」
「え、あ、うん」
 虚をつかれたように彼女は振り返った。
「私が目が覚めたとき、どうしてあそこにいたの?」
 少しの逡巡。洞木さんは視線を逸らして言った。
「なんとなくあなた達を二人きりにしておくのが恐かったから。ごめんなさい、うまく言えないんだけど……」
 殺してやりたかった。そう言いきった惣流さんの顔が一瞬、脳裏によぎった。
「そう」
 私はそれ以上は言わないほうがいいと思った。話の向きを変えた方がいい。
「惣流さんは碇君を意識していたというけど、二人は親しかったの?」
「私が知ってる限りだと、アスカは碇君と話しているところすら見たことがないわ。碇君も普通の男子と同じで眩しそうにしてアスカを見ているだけだった気がするの」
 つまり、惣流さんは自分が偶像化されていることをよくわかっていて、学校でも感情を殺して優等生を演じていたということだ。しかも友達の洞木さんもほとんどわからないくらい、完璧に。彼女が押さえれば押さえるほどに、内に抱えていたものがどれほど大きくなっていたかがわかった気がして、痛いくらいに胸が苦しくなった。
「洞木さん、ありがとう。話せてよかった」
 彼女もまた、友達でありながら惣流さんのことをわかってあげられなかった苦しさを抱えていたのだ。そして惣流さんがどんなに辛くとも自分で抱え込んでしまって他人に相談しない人だから、洞木さんは親友だと向こうが思ってくれているかはわからない、と言ったのだろう。
 洞木さんはこちらこそ、と言って笑った。顔はまだ曇っていたけど、そこには迷いのようなものは消えていた。
 立ち去ろうとした私の背中に声が覆い被さる。
「綾波さん!」
 振り返ると、拳を握りしめた彼女がこちらを睨むように見ていた。
「?」
「あのね、私にできることがあったら言って欲しいの」
「それは惣流さんのために? それとも私のために?」
 洞木さんはハッと息をのんで、途方に暮れたように立ちつくした。またしばらく考え込んで、彼女は顔を上げた。
「誰のためでもないわ。もう、人が傷つくところを見たくないだけ」
 力のない声だったけどズンと私の芯に響くようだった。そして洞木さんはもう迷いを振り切った目をしていた。
「そうね、洞木さんも含めて」
「うん。誰でも一人で抱え込んでちゃ、いつか潰れちゃう」
 こんな時、私はどんな顔をすればいいのだろう。俯きながら考えようとした時。
 ドクン。
 心臓が自分でわかるほどに強く跳ねた。
 ――笑えばいいと思うよ。
 そして自分じゃない誰かの声が頭の中でハッキリとそう言った。
 ドクン。
 心臓がそのまま高鳴る。いきなりのことに戸惑いを悟られないよう、軽い目眩を感じながら少しだけ笑った。
 微笑みにしかならなかったけれど、それで十分だった。
 洞木さんも小さく笑いながら、頷いていた。涙は流していなかったけど、何となく泣き笑いに見えた。
 そして小さな声で言った。
「私も綾波さんと話せて良かった。いろいろ自分だけじゃわかっていなかったことが、やっと見えてきた気がするから」



 人は大人になると夢の記憶を忘れてしまうようになる。
 それに気がついたとき、自分はもう戻れない場所まで来たことを知り、そして気がついたことすらも忘れていく。
 例外はある。例えば悪夢や予知夢のような、強い印象を残す夢。
 私はそのどちらでもない。私が見る夢はいつも決まっていた。舞台に上がるのは泣くことをやめた頃の小さな自分だ。そして今の私がいつも向き合っている。不意に現れては消えていく小さなスカイブルーの女の子を目の前にすると、必ずといっていいほど戸惑いを隠せずにいた。
 その子は笑わない。そして泣かないし、怒りもしない。私の心の奥底に沈んでいる要石のような存在。
 今日の彼女はゴミ箱のような箱に小さな塊を投げ込んでいた。塊はいろんな色をしていてとてもきれいだった。まるで宝石のようだ。
 でもそれは自分の感情なのだ。そして彼女はポイっと無造作に投げ捨てる。
 辛いことも辛くないようにと、胸をかきむしって泣きたいほどの現実に出会っても何も感じないようにと、自分の感情をどんどんとゴミ箱へ投げ捨てて無邪気に遊んでいる。
 近親嫌悪とでも言えばいいのか、気持ち悪いというよりも気味が悪くて直視できない。
 彼女は最後の一つを投げ終わると、パンパンと手やスカートの裾を払って立ち上がった。そして真っ直ぐな瞳で私に尋ねる。
「生きてて幸せ?」
 私は答えられない。
 幸せって何かも考えたことがないからだ。
 普通の人の『普通』という基準があるのなら、私は遥かに満たされない部分を抱えて生きてきたのだろう。しかし心を押し込んで成長してきた私には満たされるなんてどうでもいいことだった。
 他人に何かを与えられるでもなく、与えるでもなく、あるがままを捨てて来たのだ。
 振り返りはするけど、もう戻れない道。
「幸せが何なのかよくわからない」
 小さな私は満足してくれない。
 今の私ならそれがどうしてなのか理解できる。彼女が立っているのは感情を取り戻せるギリギリのところだからだ。ゴミ箱から宝石のような色とりどりの塊を拾ってくれば、きっと彼女は私と違う道を歩んで行くだろう。
 今から彼女が歩こうとしているのは私と同じ道。それだと幸せの意味すら見つからないのに、幸せが見つかるはずもない。それだけわかっていれば十分だ。今からでも塊を取り戻させないといけない。
「拾わないとダメ」
「どうして?」
 彼女は無邪気に小首を傾けながら聞いてくる。
「今からあなたが歩こうとしている道は、何も失わないけど、それ以上に受け取るものがない道だと思うから」
「よくわからない」
 小さな私は首を振った。そしてまたあの瞳で私を見つめて言う。
「後悔しているの?」
「してないわ。だけどあなたは戻って。私と同じ道を歩くべきじゃない」
「変なの。もう自分は戻れないって言ってるみたい」
「戻れないわ」
「どうして?」
「もう私は、あなたの頃の私じゃない」
 見上げてくる紅い瞳がきらきらと輝いていた。彼女は笑って歌うような口調で言った。
「そんなことないよ」
 そう言って私の背後を指差す。
 思わずつられて振り返ると、数メートルはあろうかという巨大な氷の塊があった。
「ほら、まだすぐ後ろにあるじゃない」
 よくみれば、その中に凍りついた色とりどりの塊とゴミ箱。
 言葉を失った私に向かって彼女はさらに言った。
「あなたは捨てたんじゃないよ。ただ凍らせてきただけ。ほら、そこにあるもん。手が届くんだったら全然、大丈夫だよ」
「でも、こんなに大きな氷、溶かせられない。私に太陽なんてないのに」
「うそつき。もう一度、前に手に入れてるじゃない」
「え?」
 振り返ると、もうそこには誰もいなかった。
「待って。私でもまだ本当に間に合うの?」
 返事はない。そのかわり、歌が聞こえる。どこか、私の及びもしないところで彼女は楽しそうに唄っていた。
 もうこちらの声は届かないだろう。
 私は途方にくれながら、巨大な氷を目の前に呆然と立ち尽くしていた。



 もし正反対を映す鏡があったなら、私が正面に立つと見えるのは惣流さんみたいな人なんじゃないだろうか。
 発想のくだらなさに自分で思わず笑ってしまう。
 惣流さんにあこがれている? そうかもしれない、と思う。
 だから惣流さんの悪意を叩きつけられたとき、見てはいけないものを見てしまったような気がしたのだろう。私自身を責められるよりも、そっちの方が心に引っかかってしまっている。
 洞木さんに言わなかったこともプラスしているのか、このわだかまる罪悪感はきっとそういうことの表れなのだという気がした。
 足下から伸びる影が、とぼとぼと所在なさげに歩いている。これじゃあまるで野良猫みたいだ。
 ため息をついて立ち止まった。
 校庭の方からは威勢のいい掛け声と金属バットがボールを弾く音。校舎からはブラスバンドの管楽器が思い思いに音を出している。いつもと変わらない日常だった。
 校門から続く道は右手に住宅地、左手は歩道の向こうに街が一望できる空間が広がっている。その下を見下ろせば数メートル下になだらかな段々畑がしばらく続いているのが見えるはずだ。太陽はかなり傾いていたけど、まだ空は赤く染まり始めたばかりだった。
 再び歩き出す。
 談笑する女の子のグループが私を追い越していった。彼女たちの笑い声を吸い込む空は、日が傾きかけても抜けるように青い。
 坂道の歩道をゆっくりと下った。何人もの生徒が横を追い抜いていく。
 この景色が好きだったはずなのに、今日はなぜか胸がざわついた。
 それぞれの陰はもう短くはない。声が聞こえたのは、たくさん伸びた木々の陰を歩いている時だった。
「綾波」
 後ろの遠くから、誰かが呼んでいた。聞き覚えはあるけど初めて私の名を呼ぶ声。
 振り返ると、一人の男子生徒が小走りで駆け寄ってくるところだった。その姿に妙な既視感があった。
 顔に見覚えがある。碇君のところによく話をしに来ていた隣のクラスの人だ。トレードマークのようにいつもビデオカメラ片手に持ち、所かまわずいろんなものを無差別に撮っていたのを何度も見たことがある。
 良くも悪くも私とは違う方向で目立っていた人だから、かすかに名前を覚えていた。
 私の前でとまると、ハァハァと息を弾ませた。
「歩きながらでいいから、ちょっといいかな?」
 私は頷いた。
 彼はホッとした様子で私の右を歩き始める。さすがに今はカメラも鞄にしまってあるらしく、ポケットに両手を突っ込んで私の歩調にあわせて歩いている。
「それで?」
「あ、うん。その前に自己紹介してなかったな」
「知ってるわ」
「え?」
 彼は虚をつかれた顔で私を見返してくる。顔が私より一個分くらい上にあって、相手が男であることを久しぶりに意識した。
「名前は知ってるわ。相田君でしょう?」
 目立っているから知っている、というのは余計だと思ったので黙っておいた。
「おお、これは光栄の極み! 美少女に名前を覚えられているとは俺も捨てたもんじゃないね。……本当は『あなた誰?』とか言われるだろうなーとか覚悟してたんだよね。下手すると無視されるんじゃないかとか」
「…………」
「あ、ごめん。気に障ったかな?」
 深刻な顔をして私が黙り込んでいるのを見て、相田君は私が白けていると受け取ったらしい。実際のところは真剣に美少女って誰だろう、と惣流さんの顔を思い浮かべていただけで、しばらく私の事を言っているのだとわからなかった。
 気がついたところで慌てて首を左右に振ると、
「よかった」
 と彼は胸をなで下ろした。
「でもさ、自分では気づいてないみたいだけど、かなりのもんだぞ。カメラを通すとなおさら素材の良さが際だってだな……って、目的が違う。俺は口説きにきたわけじゃなくて、いやまあ、ちょっとはあるけど、それは別にして」
 しごろもどろに収拾がつかなくなったところで、ゴホンと相田君は咳払いをした。
「綾波、さっきはちょっとっていったけど、今日、今から時間ってとれるかな? そんなに長くはかからない」
 改まった口調で彼は言った。私が怪訝な顔をすると、
「あ、いや、本当にナンパとかじゃないから」
 眼鏡のズレをなおしながら、へへへ、と小さく笑った。
「シンジだよ。あいつのことで話を聞かせて欲しいんだ。俺を知ってるならシンジのこと、もちろん知ってるんだろ?」
「私のわかる範囲でなら」
 相田君はうんうん、と頷いた。
「あーあ、やっぱりか。あいつの名前を出したとたんにこれだもんなぁ。やっぱり俺だけじゃだめだよなぁ、トホホ」
「相田君?」
「いや、なんでもない。独り言ひとりごと。気にしないで」
 そういえばこんな人だったなと思う。碇君と一緒にいて喋っている相田君はこんなテンションで、いつも楽しそうに話していた。私は彼のテンポにはついていけないけど、喋っている姿を見ているのは嫌いじゃなかった。
 ははは、と彼は笑ってごまかすと、目線を落としてしばらく何も喋らなかった。
 私から話しかける話題もないので、彼が黙ってしまうと自然に何とも言えない空気の重さがのしかかってくる。この手の会話が切れるタイミングがとても苦手だった。
 相田君は顔を上げて、じっと正面を見つめて言った。
「今さ、シンジってどうしてる?」
 どうして私の聞くのだろう。惣流さんや洞木さんに聞いたほうが情報はもっと持っているだろうに。彼はその事をしらないのだろうか。
 彼はちらりと目だけでこちらを見て、
「悪い、話が飛躍しすぎた。順を追って話すよ」
 と言ってニヤリとした。今から話すことは黙っといてくれ、と彼は前置きをした。
「あんまり大きい声じゃ言えないんだけど、シンジがただの病気で休んでいるんじゃないのは知ってるんだ。何でかっていうのは、全部喋ってたら日が暮れても終わらないから端折るけど、趣味で無線も弄れるんで、たまたま聞いちまったんだ。シンジ、入院してるんだろ?」
 私が答えあぐねている間に彼は続けた。
「あの時、これの調子が悪くてさ」
 そう言って相田君は鞄の中からトランシーバーのような無線機を出して見せた。
「学校でガチャガチャやって直してたんだ。丁度、今くらいの時間かな。たまたまっていうか、最初に聞こえてきたのが消防系の無線で、そのままにしてたら聞こえちゃったんだよな。最初は何か事故があったとか搬入先の病院がどうとか」
 鞄に黒い塊を無造作に突っ込むと、相田君は視線を落とした。
「本当なら聞こえるのが確認できたところでやめとけばよかったんだ。けど、俺は聞いてしまったんだ。入れ違いで警察の無線が当事者の名前を言ってるのを」
 そういって相田君は私を見た。感情のこもらない、ただ見ているだけの暗い目。
「警察は生徒手帳でも見たんだろう。叫んでたよ、本部に向かって。当事者は碇シンジ、そして綾波レイ、ってね」
 口の中がカラカラに乾いていた。と、同時に頭の芯の方に鈍い痛みが走る。
「入院してるんだろ、シンジ」
「そう思うのなら病院へ行ってみればいい」
「ま、そうなんだけどさ」
 相田君は急にまた軽い口調に戻って肩をすくめた。
「実際、そのままやめようにやめられなくなっちゃったから救急車がどこの病院まで行ったとかは知ってるんだけど」
 彼は寂しそうに笑って、すぐに苦虫を噛み潰したような渋い顔をした。そしてまた真剣な、余裕が一片もない口調で言った。
「会えなかったんだ。会わせてもらえなかった。お見舞いの品だけ惣流が受け取ってくれたけどな、シンジはあのバナナとか食べられないんだろうなぁ。どうなんったんだろ、あのフルーツの盛り合わせ」
 碇君がバナナをおいしそうに食べている姿は想像できなかった。けど、相田君はそれができる人で、そして現実には実現していないだろうと言い切ってしまっている。
 彼は知っていた。
 碇君が今、どういう状態に置かれているのかを。
「なあ、綾波。シンジは本当のところどうなんだ? よくないんだろ? 会わせてくれないくらいなんだから」
 さっきの軽い口調からは想像もできない真剣な声。隣で聞いているだけで胸が苦しくなるほどの、碇君を案じる思いが私に大きくのしかかる。
 惣流さんの言葉が脳裏に響いた。
 ――ここはね、絶望的な患者だけがくる所よ。
 隠せない、と思った。
 それに相田君は知っていながら私に聞いている。つまり、他人の口からハッキリ言って欲しいのだ。それで心に線引きをしようとしている。
「たぶん、相田君が考えている通りだと思う」
 私も詳しくは知らない。だけど碇君がよくない状態だということだけは痛いほどに知っていた。
 相田君はしばらく黙り込んだ後、小さく、
「そうか」
 と言って俯いた。その淡々とした口調に息苦しさを感じた。
 彼が口に出したのはそれだけで、表面的にはショックを受けた様子も見せずに相変わらず私の歩調に合わせて規則正しく歩いていた。
「シンジはさ、本当に大切な友達なんだ。俺バカだからさ、あいつが学校に来なくなるまでその事に気づかなかったんだよな。いや、形だけの友達はたくさんいるよ。でもシンジは……」
「相田君」
「え?」
「碇君が死んだみたいに喋ってる。碇君は死んでないわ」
 彼は息を飲んで私から目を逸らした。私も彼の顔を見ていられずに、坂の終わりを見続けていた。
「そうだな、そうだった。ごめん、綾波の言うとおりだ。なに勘違いしてんだろ、俺」
 へへっと力なく笑った。その時に初めて気がついた。いたたまれなかったのだ、私は。
「悪いね、話を聞くつもりが俺が変な話しちゃったな」
 首を左右に振って、気にしてない、と言った。
「相田君、もしよかったら碇君ってどんな人か聞かせて」
「え、そりゃ構わないけど……いいのか?」
「なにが?」
「いや、時間とか」
 うちは叱る親もいないから、と言うと彼は驚くだろうか。
「門限とかはないから平気」
「ふうん。覚えとこう」
 と言って彼はニヤリと笑った。私に追いついてきたときの顔に戻っている気がしてホッとした。
「何が聞きたい? つきあいは結構長いからいろいろあるよ」
「何でもいい」
「それが一番難しい注文なんだがなぁ」
 ブツブツ言いながらも話し始めた相田君はどこか楽しそうだった。
 トウジってわかる? 鈴原トウジ。あ、そう、知ってる。よく見てるんだな綾波。ってそれはおいといて。あいつと俺とシンジで中学の頃からバカばっかりやってて周りからは三バカトリオなんて言われてさ、実際に悪さしてたのは俺とトウジでシンジは止めてばかりなんだけど。むりやり俺らの悪巧みに引き込んでシンジを困らせては大笑いして……楽しかった。もちろん今でも楽しいけど、あの頃みたいに無邪気にはバカはできなくなっちゃって歳を感じちゃうよ。シンジの家は普通の中産階級って感じなんだけど、あいつ自身はどこかお上品って言うか、顔立ちも男です、って感じよりは中性よりのほんわかした感じだろ。初めてあいつを中学入って見たときは第一印象が女装の似合いそうなヤツ、だったくらいだし。まあ話をちょっとしただけだけくらいじゃどこか取っつきにくいやつって感じするんだけどさ、実はもう少し踏み込んで話をすると意外と気さくで頭の回転も速いって言うか、話を聞くのがあいつ上手いんだよ。ギャグをとばしたりぼけてみたりするわけじゃないのに。だから今、あいつがいないとすげー寂しいって思っちまうんだ。トウジも最近、まるっきり元気ないよ。単細胞の純物質みたいなあいつがだよ。表面上は変わりなく振る舞ってるみたいだけど、俺くらいのつきあいの長さになってくると無理してるなってのがやっぱわかるんだよね。トウジは口に出してないけど、かなりシンジのこと心配してる。気が気じゃないんだろうな、よく上の空だから。
 彼は一気に喋ると、肩を落として呟いた。相田君も気が気じゃないんだろうな、と思った。
 そして彼は無造作に鞄へ手を突っ込んで何かを引っ張り出した。
「ほら」
 そう言って差し出されたのは一枚のディスク。
「なに?」
「シンジのこと、もっと知りたいんだろ。だったら受け取ってくれ。見ればわかるから」
 煮え切らない私へ強引に握らせると、
「嫌なら見なくてもいい。別に変な内容じゃないさ。ただ俺の口からは何とも言えなくてね。見てくれればわかるとしかいいようがない」
「ありがとう」
「たいしたもんじゃないけどね」
 気付けば坂道はとうに下りきっていた。私たちはいつのまにか上り坂をゆっくりと上りながら、遠ざかっていった街を見ていた。坂を登り切ってしまえば住宅地は姿を消し、平坦になった道をまっすぐ行けば徐々に賑やかな界隈へと続いていく。
 上り坂の中腹くらいまで相田君は一人で延々と碇君との思い出を喋ってくれていた。
「ごめんなさい」
「いや、いいんだ。俺がかってに喋ってると思ってくれていい」
 気の利いた受け答えの一つもできない私を気遣いながら、彼は楽しそうに時には目を細め、時には大きな手振り身振りで喋り続けた。
 申し訳なさを感じながら、私は黙って聞いていた。
 いつしか坂の頂上に近づくにつれて私たちはだんだんと無口になり、そして歩くスピードも落ちていった。
 坂の頂上。空が赤く染まっているのがよく見渡せる場所。その西日を背に、相田君が立ち止まって大きく息を吸った。
「なあ、綾波。最後に一つ教えてくれないか」
 大きくはないけど強い声だった。気圧されてとっさに答えられない。彼は構わず続けて言った。
「ここでなにがあったんだ? 俺が聞いた無線で言ってた場所は間違いなく、今、俺たちが立っているここだ。あの日、あの時、この場所でお前達に何があったんだよ。教えてくれ。どうしても知りたいんだ」
 またあの目だ、と思った。
 追いつめられた人間の目。
 惣流さんも、洞木さんも、そして目の前の相田君も同じ、悲しい輝きで私を見つめてくる。
 またあの気持ちがむくむくと大きくなる。今度は最初からそれが何であるかわかっていた。いたたまれなさだ。逃げ出したい、と心の底から思った。しかし足がピクリとも動かなかった。
 首を左右に振ると、相田君は怒ったような、それでいて諦めが混じった声で言った。
「お前達のプライバシーに関わるような事を言えっていうんじゃないんだ。それとも何か言えないようなことがあったのか?」
 彼の必死さが私の心をギリギリと締め付ける。
「そうじゃないの」
「じゃあなんだよ」
「あの日のことを覚えてないの。覚えているなら教えてあげたい。だけど今、初めてここがその場所だったって聞いた」
 そして私は相田君に会うまで、自分が何となく事故に巻き込まれたのだという認識はあったけど確信を持っていたわけではなかったのだ。彼に教えられて、初めて自分がなぜ病院にいたのか、疑問と理由がようやく繋がったくらいだった。
「ごめんなさい。思い出そうとはしてるけど、まだほとんど思い出せてない」
 絶望に似た呻き声が相田君の口から漏れる。
「そう…だったのか……」
 相田君は何度も首を振った。目に見えるほど肩を落として小さくなっていた。
「じゃあ、何か思い出したときでいい。些細なことでもいい。その時は教えてくれないかな」
 小さく頷いて、
「約束する」
 と言った。それが私に今できる精一杯だった。
「ありがとう」
 相田君は無理に笑顔を作って、鞄を肩にかけ直した。
「俺、本当は道、結構前に行きすぎてるからここで引き返すよ」
「そう」
 相田君は一瞬、目を伏せた。
「実はなんとなくだけど、あの日、シンジが綾波とどうしてここにいたとかは想像ついてるんだ。どんなことを話してたのかとかもおぼろげだけどわかってるつもり。さっき渡したそれ、見てもらえればきっとあいつが言いたかったことが少しでも綾波に伝わると思う」
 手元を見つめていると、ディスクのケースに彼がニヤッと笑うところが映り込んでいた。やっぱり力のこもらない笑いだったけど、幾分、元気を取り戻しているような気がした。
「思い出すきっかけになるといいな、それ」
 私が頷くと、彼は遠い目をして夕日に目を向けた。
「映像や写真ってのはその時その瞬間の感情を後々まで残しておいてくれる。でもカメラっていうのは時に残酷なんだ。撮影者が望んでいなくても、ファインダーを通して世界を見ていると見えなくていいものまで見えてしまう。俺はそんなのが見たくて写真や動画を撮ってるわけじゃないんだけどな。碇だって、惣流だって……」
「え?」
「いや、独り言。なんでもない」
 彼は強く言って私の言葉を遮った。俺はもうこれ以上は言えない。その意志が固く閉じられた口元に見て取れた。
 私はもう何も言えなくて、さようなら、としか言えずに、振り返らずに歩いていく相田君を見送ることしかできなかった。
 じゃあな、と言って立ち去っていった彼のもう一つの言葉が耳に残って離れない。
 彼は振り返る瞬間、確かにこう呟いた。
「誰か悪いヤツがいるとしたら、それは誰でもなく、ただみんなが哀しいすれ違いを繰り返してるだけなんだよ」



 闇。
 ただそこにあるだけの、深い深い闇。
 何も見えない。自分の体すらも目を凝らしてようやく輪郭がたどれるほどの暗い世界がそこに広がっていた。
 クスクス…。
 どこかで誰かが笑っている。小さな声だ。近くにいるはずなのにまったく見えない。
「あなたは本当に何も覚えてないの?」
 声は私だった。小さな頃の、自分自身の嘲るような意地悪い声。
「覚えてない」
「うそ。覚えてないふりをしているだけのくせに。覚えてないと信じ込んでるだけのくせに」
「うそじゃない」
「ならどうして? あの日あなたは」
 彼女が言葉を句切ると同時に轟音が渦巻いた。辺りの空気が一気に膨張したような風の奔流が私の体をぐらぐらと揺らす。一瞬で弾けたかのように、風は舞い踊るだけ舞い踊って周りを駆け抜けていった。思わず目を閉じて踏ん張っていると、目を閉じていても解るほどに世界は明るくなっていた。ゆっくりと開くと世界はやはり明るく、見覚えのある景色に変わってしまっている。
 碇君がゼィゼィと息を切らせながら私の前に立っていた。走ってきたらしく、額に汗が浮かんでいる。
 意識がどこかで警笛を鳴らしていた。
 私は彼のこの姿を「知って」いる。
 校門の少し手前の坂道の途中。街路樹がアスファルトに影を作り始めている、まだ空気がひんやりとしたいつもの朝の風景だ。紛れもない私の日常でみる景色が突然、現れている。ああ、これは夢なんだ。と頭の片隅でわかっていながらあまりの生々しさに感覚が追いつかない。
「これは…」
 世界が急に暗転した。そして先の見えない闇が再び世界を覆っていた。
 青白い陰がぼんやりと目の前に現れた。
「今のは私たちの記憶。今は眠っているだけの、過去みた現実そのもの」
「記憶の……断片?」
「さあ、散らばっているか繋がっているかはわからないわ。全部の中から一部を見ているのか、小さな欠片だけを見ているのか、あなた自身が判断していくこと。でも全てを見つけるきっかけはどこにでも転がっているわ」
 がんばってね、と小さな私が笑って闇に消えた。
 歌が聞こえる。遠ざかっていくその音色は、聞き覚えがあるのかもわからないメロディ。どこか懐かしい歌声に眠気を覚え、知らぬ間に私は深い眠りに落ちていた。




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