3 : Mirror


 私の中の碇シンジという人のイメージを一言で表現するなら、極海に浮かんでいる氷山だと思う。
 誰にでも言えることではあるけど、人をよく知ろうとすればするほどに、目に見えていなかった部分の大きさを思い知らされることになる。深く潜ればもぐるほど、底知れない大きさを感じるようになるのと一緒だと思った。
 そして私は碇君という人物の沈んだ部分の大きさを測りあぐねたまま、深海へと潜り続けているような錯覚を起こしている。
 だけどその錯覚もいつかは終わりを迎えるだろう。彼の親しい人たちのイメージと、私の作り上げている碇君のイメージが重なっていくとき、最後は本当の彼にたどり着けるような気がしているからだ。
 同性で何かと学校で注目を集めていた惣流さんは、一緒の空間にいる時間も長かったこともあって、私からでも彼女の表の部分ははっきりと見えていた。自己主張が強い人だから、言葉を交わさなくてもある程度の性格はわかってしまう。
 それだけにあの時はとても驚いたけど、落ち着いて考えてみれば彼女の一部、表裏一体だったのだと納得するのは難しいことではない。気性が荒い人ではなかったけど、言いたいことは我慢するような性格ではなかったし、先生と論戦になっても論破するだけの気の強さを教室で見せたこともある。
 でも、碇君は今まで意識したことすらないのだ。巨大な氷山に目を奪われていたのに、突然その横で浮かんでいた小さな氷の水面下を探れと言われているようなものだろう。あまりにも情報が少なすぎて、どこから手をつけてよいのかすらわからない状況に似ている。
 相田君は真剣な面持ちで「あいつはただの『いい人』じゃないんだ。それをもっと越えた部分を持ってるっていうか」と言った。私がよくわからないと言うと、彼は「俺も自分で言いながら実はよくわかってない。うーん、正しくはうまく言葉にできない、かな」と笑った。
 感覚を言葉に置き換えようとするから苦労するのであって、ニュアンスや雰囲気を感じさえすれば十分に伝えたいことを受け止められる気がする。
 碇君という人物のイメージが私の中で作られたとしても、それは偶像であって本物にはなれない。勝手な思い込みに過ぎないことは痛いほどわかっていた。
 父が残していったテレビの中で、碇君が走っていた。私は部屋を薄暗くして、ぼんやりと流れている映像を何度も何度も見続けていた。もう既に時間の概念を無くしてしまっている。ソファーに深く座って毛布をかぶって身じろぎもせずに、私は何時間もずっとそうしていた。
 のんびりとした顔をしていても相当の負けず嫌い。
 とても臆病。
 本番に弱いのに追い詰められると別人のように集中力を発揮する。
 困った人を見捨てられずに自分が泥をかぶって損ばかり。
 そして最後はいつも穏やかに笑っている。
 相田君はそういう碇君を撮っていた。彼のいいところも悪いところも、包み隠さずにありのままを記録し、大切に残していた。
「映像や写真ってのはその時その瞬間の感情を後々まで残しておいてくれる」
 相田君の言葉を思い出す。彼の言葉に間違いはなかった。
 喜怒哀楽の全てを、中学校時代のものから昨年までの日常を数分単位で繋ぎ合わせてあるだけの、面白くもなんともないビデオ。だけどそこには私が知りたかった全てがあった。最初の碇君はくすぐったそうにはにかんで笑っている。
 相田君が昼間に言っていた、鈴原君が碇君をすごい形相で殴り飛ばすところとかもあったし、修学旅行で女子風呂をのぞこうとしているようなくだらない場面もあったり、教室でぼんやりと外を眺めている碇君を数分撮っただけのものもあった。
「ははは、何やってんだよトウジ」
 じゃかあしい! と鈴原君がテレビのなかで怒鳴っている。
 今日、何度もみた最後のシーン。教室の喧騒の中で、鈴原君と喋りながら笑っている碇君のきれいな笑顔が画面に映し出された。
 ぼんやりとそれを見つめながら、きっとこの笑顔に惣流さんは心を奪われたのだと思った。
「そんなことはないと思うよ」
 柔らかい碇君の声。
「綾波は自分でそういうけど、時の流れに身を任せてるって感じは端から見てる限りではしないんだよね。上手い表現が見つからないけど、僕には流されてるのがすべてネガティブだとは思えないんだ」
 聞いているだけでなぜかホッとするような心地よい声。不思議なくらい優しい響き。
 ――これも夢なんだ。
 微睡むような気だるさと霞がかかったようにはっきりとしない意識。私が勝手に作り上げた碇君の偶像が喋っている。
「流されてるからって言っても、日常に追われてほかのことを考える余裕がない人と、そこから岸を見上げて別の世界を見ている人とわかれるんだと思う。僕は綾波が後者だって気がする」
「それは買いかぶりすぎ」
 これは夢。私は彼の隣で穏やかに歩いていた。
「そうかな? 時々、綾波って教室で窓の外を見てるじゃない。あの時の目が、僕の想像もつかないくらい遠い世界を見てるんだろうなって思ってたよ」
 そう、これは夢……。
 違う?
 そう尋ねながら私の方を向いた碇君のイタズラっぽい笑顔。そして黒灰色の穏やかな瞳。
「……っ!」
 声にならない悲鳴を上げて飛び起きた。ビデオはとっくに終了して、テレビが放送終了後の砂嵐を映している。こちら側が現実だ、と頭が認識すると同時に動悸が異常なほどの激しさを主張する。胸が痛くなるほど強く心臓を押さえながら呼吸を整えた。
 額から汗が流れ落ちた。頬を伝う時の気持ち悪さが、何が本当なのかを教えてくれている気がした。
 あれは違う。
 夢じゃない。
 夢の中の幻なんかじゃない。
 指先が震えて止まらない。
 あれは“あの日”の光景だ。



 雨が降り始めた直後の埃っぽい匂いが鼻をつく。アスファルトの熱を奪った雨は生暖かい蒸気となって立ちのぼる。白い気体が立ちのぼっては降り注ぐ雨にかき消され、地面の上でゆらゆらと熱の固まり達が揺れていた。
 雨はあっという間に通り過ぎ、空は闇を残しながらじわりと青く染まってゆく。
 傘も差さずにそんな情景を見ていた。
 額を流れ落ちる水滴と、湿度の高い外気が混じり合って流れ落ちていく。背中にぴったりと張り付いたシャツが気持ち悪い。
 丘を越えるように道は延び、丘陵の頂点からはいずれの方向へも下り坂がなだらかに続いていく。なんの変哲もない通学路の途中だった。この場所が、という意識がいつのまにか頭に引っかかり、今も焦げ付いた跡みたいに残っている。
 ここであの日、私は碇君と共に病院へ運ばれ、記憶を失った。きっと私たちは一緒にここまで歩いてきたのだろう。昨夜の夢で見た記憶の断片も、この道を学校側へしばらく歩けばたどり着ける場所での会話だった。
 ――でも、なぜ碇君と?
 そんなふうに考えていたらキリがない。
 肝心なことは何一つとして思い出せないままではいるけど、起こった過去がそうだったのだと断言しながら教えてくれる。
 私はあの日、話をしたこともない碇君とこの場所にいたのだ。
 頭に残る記憶の残滓が断片を繋げあわせた紐へとかわっていく。いつのまにか確信にも似た予感を呼び起こしていた。
 碇君のことを知れば知るほど、眠り続けている記憶をぐらぐらと揺さぶり、ゆっくりとではあるけど目覚め始めているのを感じていた。再び眠りにつく間も与えないように行動し続けなければならない、と思った。抵抗する隙を見せたら、すぐにまたどこかへ消え去ってしまう。
 思い出すときはすぐなのに。きっかけさえあれば簡単に蘇ってくるのに。そんなもどかしさを感じずにはいられない。
 私はずぶ濡れのまま立ちつくしていた。
 なのにすぐ側に碇君の気配を感じる。
 あの日まで話をしたことも意識したこともないのに、どうしてなのだろう。
 おぼろげな輪郭は時と共に薄れてやがては消えてゆくものだというのに、思い出せば思い出すほどに色彩を増し、輝きを放ち始めている気がする。
 私はきっかけを探していた。
 空に漂っててもいい。道に落ちていてもいい。
 思い出そうとする意志を手伝ってくれるのなら、何でもよかった。
 この場所、今日のこの時間ではダメなんだろうか。
 空を見上げた。
 太陽はまだ見えない。
 雲は白く、空は青かった。
 深い青に目をこらしながら、朝焼けを待った。
 あの日の夕方、空は同じくらい青かったはずだ。



 担任の一言が始まりだった。
「碇君の入院は長引きそうだという連絡がありました」
 教室が一気にざわつく。一週間の半分も姿を見せない彼を不審がり始めていたみんなは、入院してたのかよ、と驚きながらも納得した表情を見せていた。その中で、洞木さんが沈んだ顔をして俯いている。周りはそれに気付いていない。
「ありゃ、言ってなかったっけ?」
 葛城先生は悪びれもせずにケロリとしていた。たぶん先生は知ってて黙っていたのだろう。彼女が洞木さんを見る時だけ顔から感情が抜けているのを私は見逃さなかった。
 虫の知らせというのか、朝から授業を受けていても落ち着かなかった。予感と言うよりも胸騒ぎがずっと収まらず、もやもやを抱えたまま昼休憩に入った。昼食も喉を通る気分じゃなくて、頬杖をついたまま外の景色と洞木さんと空席を順に見ながら時を過ごしていた。
 ガシャン。
 金属がぶつかり合って吹き飛ぶ派手な音が突然フロア中に響く。重なるように女子生徒の短い悲鳴が重なる。驚くよりも「来た」という感覚で私は思わず立ち上がった。ドアの向こう、廊下を伝って隣のクラス。
 配給トラックに群がる難民のように、生徒達が一斉に殺到し始めた。必死に私はすり抜けながら隣のクラスの入り口まで辿り着いて、中の様子をうかがった瞬間に固まった。
 鈴原君が相田君の胸ぐらを掴んで睨み付けていた。周辺に椅子や机が散乱している。私の足下にフレームの曲がった眼鏡が落ちていた。
 鈴原が殴ったと囁いているのを聞いた。散乱しているのはそのせいだ。相田君は特に小柄でも大柄でもない、普通の体格だ。その彼が吹っ飛んでしまうほどに鈴原君は手加減なしで殴ったと言うことに他ならない。
 二人の衝突のとばっちりをうけたらしい女子生徒が少し離れたところで床にへたりこんで、ガタガタと震えている。
 相田君は鈴原君の手を払いのけ立ち上がった。そして顔をゆがめて吐き捨てたのは血と折れた歯。
 鈴原君は顔色も変えずに一人だけを睨み続けている。きっと彼には、他の誰も見えていないのだろう。
 二人は奇妙なほどに何も言わず、すごい形相でにらみ合っている。周囲の人間は例外なく気圧され、圧倒されたように輪を作っただけで止めることもできずに成り行きを見守るだけの存在になってしまっていた。
 すぐ真横で「ごめんなさい」と言いながら誰かが前に出てくる気配。私がそちらを見るのと、彼女が息を飲むのは同じタイミングだった。洞木さんが目を見開いて、とっさには把握できない状況の理解に苦慮しているようだった。
 今度は逆側に別の人間の気配。というよりも柑橘系のフレグランスが私の鼻を刺激した。
 見上げる位置にこのクラスの担任がいつのまにか立っていた。
 彼だけがこの空気の中でただ一人、飲まれずに事態を傍観できているような顔をして彼らを見ている。
「黙ってみてるんだ。いざとなったら俺がとめる」
 加持先生は私の肩を叩いてそう言った。
 私は頷いてから、どうして私に言うのだろう、と一瞬だけ考えるがすぐに意識を目の前に戻す。
 当事者の二人に、その言葉は聞こえていないらしい。まったくこちらを気にした様子がない。
 加持先生は子供っぽく笑っているように見えて、目元はまったく逆だった。誰よりも鋭い視線を彼らに向けている。周囲は先生が動かないので見守ることしかできず、思い空気の中で事態が動く何かを待っていた。
 相田君がふう、と少し大きく息をはいた。
「なあ、トウジ。この世の中で言っていいことと悪いことはあるよな。でもな、俺は悪い方を選んだ覚えはない。真実は」言葉を切ると、再び口の中の血を床に吐き捨てた。「真実だからな」
 危険なほどに鈴原君の目の色が変わった。加持先生も気付いているらしく、もう顔が笑っていない。
「お前がそんな薄情やとは思っとらんかったわ」
 彼のこんな冷ややかな声は聞いたことがない。心底、軽蔑している言い方だった。
「心配してるのがお前だけだと思うなよ。この一発はお前の気持ちがわかるから無かったことにしてやる。けど今ある現実から目を逸らすなって」
「なんやと?」
「引っぱたいてでもあいつを起こしたいのは俺だって一緒なんだ。くそ、いてぇ」
 その場で彼は左頬を押さえて座り込んだ。
「…………」
 鈴原君は苦々しい表情のまま、何も言えずに立ちつくしている。振り上げた怒りの拳を振り下ろせないまま、どこにその気持ちをぶつけていいかわからない。そんなふうに見えた。
 ただのケンカじゃないことに周囲も気付き始めていた。最初から何が元になっているかわかっていたのは、恐らく私と洞木さんくらいだったのだろう。
 ざわめく人たちはお互いに顔を見合わせながら「碇って誰だっけ?」「あいつ入院してんの?」「容態がそんなに悪いのか?」と口々に情報を交換しているようだ。
 真偽を確かめたそうな顔で加持先生を見つめる視線は徐々に増える。先生は私に聞こえるか聞こえないかくらいの声で「説明しろって言われてもなぁ」と呟いて無精ひげを撫でた。
 その時、後ろから加持先生を呼ぶ声がした。
 私も含めて数人が振り返ると、事務室の中年女性職員がでっぷりとした体をゆらしながら走ってくるところだった。既に息が荒い。
 彼女は私を押しのけるようにして加持先生に何事かを耳打ちすると、初めて教室の中の荒れ具合に気付いて呆れ顔を見せた。
「なんですかこれは」
 彼女の体からムッとした熱気が立ちのぼっている。私の肌にも触れて、とても不快だった。
「いや、まあ、いろいろありましてね」
 何で止めないんですか、と言っても加持先生が煮え切らないため、彼女は目を逆三角形にしてますます機嫌を損ねたらしい。しかしこれ以上言ってものれんに腕押しと悟ったのか、不機嫌を隠しもせずに足音を響かせながら戻っていった。
 加持先生は何かしばらく考え込んだ後、風のない水面のような無表情と無感情を一緒に顔に貼り付けて、教室の中心に向かって一歩を踏み出した。
 二人はハッとなってそちらを凝視する。それを取り囲む大勢の目も先生へ注がれた。
「お取り込み中、大変申し訳ないんだが」
 先生は「まあまあ」と手で押さえるような仕草をしながら、
「まずは落ち着け。それでお前達にはちょっと来てもらおう。ここの惨状もそうだが、その原因の方でも急ぎの話がある」
 この中で何人の人間がとっさに碇君の名前を思い浮かべられたかはわからない。
 でも、睨み合っていた二人は明らかに一瞬で顔色が変わった。私の横では同じように洞木さんが青い顔で自分の両手を握りしめていた。
 私自身、顔色には出ていないだけで内心は動揺していた。加持先生は間違いなく「急ぎの」と言った。手のひらが汗でじっとりと濡れている。震えが起きないように、ぎゅっと強く手を握った。
 加持先生は私と洞木さんを見て小さく頷いた。お前達も彼の現状を知ってるんだな、と言いたかったのだろう。
「すまんがこいつらは俺が預かるんでみんな、机とか直しといてくれ」
 先生は誰にいうでもなく大きな声でみんなに聞こえるように言う。そして相田君を立たせながら、鈴原君を促して人の輪を抜け出した。
「君もだ」
 先生は私の前を通る瞬間、静かに私の目を見て言った。
「え?」
 しかし先生は二度は言わず、彼らを連れて行ってしまった。
 一瞬、自分がどうしていいのかわからず、ただ呆然と彼らの遠ざかる背中を見つめていた。
「綾波さん」
 洞木さんが、私の後ろで青い顔のまますがるように私を見ている。反射的に目を逸らしたい衝動に駆られ、必死に押さえた。
「大丈夫」
 後から考えれば何がどう大丈夫なのかと思ってしまうかもしれない。だけど洞木さんに必要な言葉は多くなく、ただ一つ、それだと思ったのだ。そして心の中で自問する。
 大丈夫なのはあの二人? それとも碇君? 惣流さん?
 もちろん自分でもそんなのはわかるはずもない。
 洞木さんは小さく頷いて祈るように言った。
「お願い」
 私も頷いて歩き出した。
 不意に相田君の言葉を思い出す。
 ――ただみんなが哀しいすれ違いを繰り返してるだけなんだよ。
 洞木さんの一言に込められた思い、たぶん碇君と惣流さんを案ずる言葉なのだと思う。けど私には誰のためというわけではなく、みんなのための言葉だとも聞こえた。惣流さんや碇君だけじゃなく、心配する者同士の彼ら二人。
 先生達の後ろ姿を見失わないように早足で歩いた。
 前をゆく三人は左右に避けた群衆の真ん中を歩く敗者の列みたいだった。私も黙って彼らに追いつくと敗者の列に加わって歩いた。生まれて初めて、沈黙がありがたい、と思っていた。



 ドアを開けた瞬間に埃っぽい匂いが鼻をつく。あまり使われていないソファーや、放置されている段ボールや、沈殿した空気の濁りが混じり合った、長期間閉め切られた部屋の独特の匂い。
「適当に座って」
 中で待っていた葛城先生が促す。加持先生が扉を閉めると、室内がいっそう埃っぽくなった気がした。
 先生が正面に来るように三人が並ぶように座り、加持先生は私たちの斜め後ろに立った。相田君は顔をしかめたままアイシングしている。鈴原君は誰とも目を合わせずに、渋い顔で大人しく座っていた。
「さて」
 そう切り出した葛城先生は大きなため息をついた。目の下に大きなクマができていて、顔にありありと疲労の色が浮かんでいる。普段から外見に気を使っている葛城先生が今までに見せたことのない顔だった。
「どこから始めたものかしらね」
 と、言いながら私たちの顔を一瞥する。
「ただのケンカで呼ばれたんじゃないのはわかってるわね?」
「はい」
 私が答え、二人は頷いた。
「時間がもったいないから重要なのから言うわ。碇君が入院してるの、あなたたち知ってるわね?」
 三人は無言で頷いた。
「さっき病院の方から連絡が入ってね。容態が急変して、今夜が峠だそうよ」
 大きな鈍器で殴られたような衝撃が体の芯から襲ってきた。止まりそうになる思考を必死にたぐり寄せながら、碇君のビデオを思い出していた。彼の声、彼の姿、彼の笑顔。
 私たちが言葉の意味を理解する時間をたっぷりとってから、先生は静かに言った。その瞬間、私と目が合う。ああ、この人も同じように時間を必要としたんだ。先生の瞳を見ながら、わけもなくそう感じていた。
「担任だからとか先生だからとか学年主任だからっていう肩書きじゃなく、一個人の私の意志として聞くわ。あなたたち、すぐにでも病院に行きたい?」
 隣の椅子がカタカタと音を立てて震えていた。相田君だった。その向こう側で鈴原君は同じ体勢のまま身じろぎもせずに黙り込んでいた。ただ呆然とした表情で葛城先生を見返しながら、自分の耳に届いた言葉を反芻しているようだった。
 加持先生は何も言わず、目を閉じて何も見ない。聞き耳だけを立てて、事の成り行きを見守っている。無言の存在感が私たちに落ち着けと言っているようだった。
 今度は先生の方から視線を合わせてきた。彼女の目から逃げられない。
「綾波さん、あなたは悪いんだけど拒否権はないの。どうしても行ってもらわなくちゃならないわ」
「なぜですか?」
 脳裏に惣流さんの冷たい表情がよぎった。嫌な気持ちはない。むしろ行かなければ、と自分自身で思っていた。同時に、そんなふうに逃げず向かい合おうとしている自分が不思議でもあった。
 今までの自分なら真っ先に現実から目をそらしていたはずなのだから。
「言わなくても自分でわかってるんじゃない?」
「そうかもしれません」
 正直に言うと、自分が本当はどうしたいのかなんてわかっていない。ただ逃げたくなかった。心が苦しくなることもあるだろう。辛いこともあるだろう。それでも楽なほうへと緩やかに流されていくだけの木の葉には戻りたくなかった。
 先生の目には光があった。遠くで輝く恒星なんかよりもよっぽど強い意志の光だと思った。どんなに疲れていても、先生にはあれがあるから強い意志を保てるのだ。惣流さんの目に似ている気がした。
「いいわね?」
「はい」
 私は頷く。
「公人としてはあなたの意見を尊重すればそれで済む話なんだけどね。個人としてはどうしてもあなたには行って欲しいの。実はもうタクシー呼んであるから、そろそろ来るはずよ」
 と先生は言い、にっこりと笑った。
 言葉をぼかしていても伝わってくる。
 先生が言いたいこと。関わった者としての責任を果たさなければならないということ。
 私は素直に頭を下げた。
 先生は倍以上を生きた経験で教えてくれている。
「惣流さんと会うのは辛いかもしれないけどがんばってね」
 教えてるのは数学だけじゃないのよ、人生経験だって時には伝えるのが教師という仕事よ。
 そんなふうに言いたげな顔だと思った。
「センセ、シンジはそない悪いんですか?」
 鈴原君の声は震えていた。それ以上は聞くに耐えないほどの怯えた声だった。耳を塞ぎたい衝動を抑えながら、手を握りしめた。
「それは自分の目で確かめなさい。そのためにあなた達を呼んだんだから」
 先生ははっきりと言わない。それが答えだった。鈴原君は呻きながら天を仰いだ。
「くそっ、なんでよりによってあいつなんや」
 先生の顔がふっと和らいで、少し遠くにしまった記憶を探しているように虚空を見上げた。
「心配のあまり殴り合いのケンカになるくらい大切な友達なんでしょう? だったら尚更、行ってあげなさい。惣流さんみたいに無断で病院に張り付きなさいとは言わないけど」
 もしかしたら最後になるかもしれないでしょう。先生の優しい目がそう言っている。言葉にするのが恐い気持ち、私にも痛いほど伝わってきて胸が痛かった。一度でも思いを言葉にしてしまうと、本当になってしまうと信じ込んでしまう。
 建物のすぐ下で車のエンジン音が止まった。葛城先生が窓から下を覗きながら、
「丁度よかったわね。話はこれくらいにしましょうか」
 と言った。先生の笑顔は無理している。痛々しい笑顔だったけど、私たちはそれに救われている。
「トウジ」
 一言も喋らなかった相田君が、初めて口を開いた。芯の通った鋭い声。先日、あの丘陵の上で聞いた時と同じだった。
「なんや」
「悪いけど二人で先に行ってくれ」
 鈴原君の眉が跳ね上がる。
「なんでや。お前は?」
 詰問口調にも相田君は表情を変えない。
「さっきお前に殴られたときに折れた歯のとこ、血が止まらないんだよ。応急処置でどうにかなるってもんでもなさそうだからさ。ちょっとこのままだと洒落じゃすまされなさそうなんで」
 相田君の口の中は真っ赤に染まっていた。鈴原君も自分がやったことだけに、それ以上は何も言えないようだった。
 相田君はニヤリとして、
「さすがに唾と一緒に血を飲み込むのはそろそろキツくてね。大丈夫だよ、俺も行くから。今逃げたら、きっと一生後悔する」
 揺れる心の整理がまだついていないのかもしれない。相田君も無理して作る笑顔の裏で、逃げないといいながら逃げ出したい心と戦っているのだと思う。それくらいショックだったのだ。自分の心を落ち着かせるくらいの間は、誰も逃げたとは言わない。
 鈴原君がボソッと、
「悪かった」
 と言って目を伏せた。
「いいよ。それより早く行けって。もうタクシー来てんだろ」
「そやな。行くわ」
「ああ」
 ゴホン、と加持先生がわざとらしく咳払いをして私のすぐ後ろに立った。
「さて、話はまとまったようなので」
 彼がドアを開くと、外の熱気が室内に流れ込んでくる。ただそれだけで、淀んだ空気が動き出して、私たちの気持ちも一緒に動き出したような気がした。思えば、この部屋にいた間は深海の底で時の流れすらも止められて沈んでいた気がする。
「先に二人には行ってもらうとして、相田は俺が責任もって後から連れて行くよ」
「そういうことだからこのまままっすぐ行って。荷物は後で加持先生に持たせるわ」
 タクシーに私たちが乗ると、葛城先生は無造作にポケットからお札を抜き取ると私の手に握らせた。
「タクシー代、預けておくわ」
 私は手元を見て驚いた。明らかに多すぎる。それを察したのか先生は首を左右に振って、
「あまったらコーヒーでも飲んで。惣流さんによろしくね」
 と言った。有無を言わせずに彼女は手を離すと、私の頭をポンポンと軽く叩いた。
「行ってください」
 先生は扉を閉めながら、運転手に向かって言った。
「ありがとうございます」
 もう車は走り出していた。ドアごしでも私の声は聞こえただろうか。遠ざかっていく葛城先生の姿が、私を見つめながら頷いているような気がしてならなかった。
 タクシーは滑るように加速して体にほとんど圧力を感じなかった。白髪を刈り上げて制帽をかぶった運転手の横顔を見つめる。彼は私たちの方を見向きもせずに、黙々と車を走らせ続けた。
 私たちのただならぬ気配を感じたのだろうか。俯いて一言も喋らない後部座席の二人に話しかけようとはしなかった。それとも気を使ってくれているのかもしれない。いずれにせよ、今の私にはありがたかった。
 車窓からいつもの通学路が何倍ものスピードで後方に流れていくのが見える。丘が、学校がどんどんと遠ざかっていく。
 あの場所へ碇君は戻れる日は来ないのだろう。
 それを信じたくないのに、現実から逃げられず目も背けられない人たちが自らを傷つける。迷い、苦しみ、大きな喪失感を抱えて行かなければならないことに最後は気付く。
 車は旧道を抜け、幹線道路へと入っていった。街並みは左手から後方へと移り、やがてすぐに見えなくなるだろう。
「綾波、あいつのことなんか知っとるみたいやな」
 不意に鈴原君が言った。どのレベルまでを知ってるというのだろうという考えが一瞬、頭をよぎった。
 彼は反対の車窓から空を見上げている。空は抜けるように青くて、正視すると眩しいくらいに雲も白い。彼がこちらを向かない理由が少しだけわかって、胸がチクリと痛んだ。
「知ってるって程じゃないわ。あの日のことは何も覚えてないから」
「覚えてない?」
「私はあの日、あの時、あの場所で碇君と一緒にいたはずなのに何も覚えてない。どうしてなのかもまだわからない」
「……報われなさすぎやわ、あのアホウが」
 一瞬の間。短い沈黙の後に鈴原君が苦り切って言った。主語は私に向いていないはずなのに、まるで自分が責められているようで苦しかった。
 これが私が逃げ続けてきた他者と関わる事で感じる苦しさ。碇君と関わってしまった以上は避けて通れない道。
「ケンスケが言うとったわ。お前も一緒に病院に運ばれとったんやろ? ほな間違いないわ」
「なにが?」
「お前ら車に跳ねられて救急車呼ばれたんやろ。てことは超のつくお人好しのシンジが庇ったに決まっとるやないか。相手が綾波だったんや、尚更や」
 突然、ガツンと殴られたようだった。頭がズキズキと痛む。表面じゃなく、ずっと奥の深いところから痛みが何かを言おうとしている。
「そう……。私たち、車に跳ねられたのね」
「覚えてないんやったな」
「ごめんなさい」
「ワシに謝っても仕方ないやろ」
 ぶっきらぼうに彼は言って、ハァとため息をついた。
 その時だった。
 目の前でフラッシュがたかれたみたいに一瞬世界が消えて、あの日のあの瞬間が蘇った。突然のスキール音。タイヤの金切り声が至近で空気を切り裂く。ほぼ同時の体を突き飛ばす衝撃。
 ――なんで、なんで忘れることができたというのだろう。あんな嫌らしい音を。
 アスファルトとタイヤが互いに悲鳴を上げながら近寄ってくる音を私は聞いていた。一度聞いたら忘れるはずがない、嫌で嫌で仕方ない音だ。でもあの瞬間のことはボンヤリとしている。耳に残る印象が強すぎたのだろうか。何となくしか思い出せない。
 現実と記憶の境界の曖昧さが視界をねじ曲げる。
 ダメだ、今じゃなければ。
 思い出すチャンスはそうそうあるものじゃない。
 念じるように祈った。
 碇君、碇君、お願い。教えて。あの日、あの時……。
 ドン…ドガッ!
 音がもう一度蘇る。
 そうだ。
 衝撃は一度じゃない。
 そう、あの強い衝撃の後にもっと強い衝撃があったはずだ。記憶と一緒に私の左肩に痛みが蘇ったようだった。現実の痛みはない。しかし痛かったことを心と体が、あの時の熱をはっきりと覚えていた。その生々しさが強すぎて、私はあまりのリアルさに目を開けていられなかった。
 本当にわからない。どうして今まで忘れることができたのだろう。
 感覚が触れ合う肌を通して伝わってくる、硬質の固まりがめちゃくちゃに壊れていく気持ち悪さ。生暖かい何かが潰れていくおぞましい感触。
 手を伸ばせば届きそうな位置にあったというのに。
 体の奥の深いところから急に冷えていく。もちろん錯覚。しかし体は大気よりも心の感じる温度を信じて、感じたことがないほどの寒さを必死に訴えていた。
 ガチガチと歯が鳴る。かみ合わせようとしても顎に力が入らない。
「……少しだけど思い出した。碇君は私を庇ってくれたわ」
 鈴原君がちらりと私を横目で見た。私の様子を見て気付いたらしい、彼は少し驚いた顔をして、すぐに視線を逸らした。
「そか」
 そう言った声がどことなく誇らしげだった。どうや、俺のダチは他人のために命をかけれるんやで。まるでそんなことを言いたげに。
「ごめんなさい。言われるまで思い出せなかった」
「せやから謝らんでええがな。綾波にとっちゃキレイな思い出ちゃうやろ、しゃーないて。誰でも忘れてしまいたいことはあるやろし、忘れてしもうたほーが幸せかもしれんのやで」
「でも、私が忘れてしまったら彼は報われないんでしょう?」
「あいつがあの日、何をしようとしたかは知っとる。けどな、お前が思い出せんのかあいつがなんもよう言わんかったんかはわからんからな。ケンスケやらワシらから口を挟むことちゃうねん。報われるか報われんかはシンジの心がどう感じるか次第やで」
 あの日、碇君は私に何を言ったのだろう。
 まだ思い出せない。
 記憶はまだ断片だ。紐ではない。
 沈黙をエンジン音とロードノイズが埋めてゆく。運転手は相変わらず何も聞こえないふりをして、淡々と車を走らせ続けていた。
「鈴原君は碇君をよく知ってるのね」
「は? あー、まあ、付き合いの長さ分くらいはな」
 良かったら彼との思い出を聞かせて欲しい。そう言うと鈴原君は驚いた表情で私を見つめてきた。数秒間、彼は頭をかいて「報われんなぁ、シンジ」といない人に向かって言った。お前が笑い話で聞かせたらんとしゃーないやろが……。そう彼が本当に小さく呟いたのを聞き取っていた。私は聞こえてないふりを決め込む。
「ええやろ。今日だけはワシがシンジの代わりや」
 ゴホン、とわざとらしい咳払いまでして鈴原君が喋り始めた。その横顔を見ながら、本当の彼は碇君の思い出話をしたかったんじゃなく、碇君と思い出を語り合いたかったんだろうなと思っていた。そんな仕草はみじんも見せなかったけど、おしゃべりな友人というキャラクターを作ったふりをして、陰湿になる気持ちを紛らわしているような気がしてならなかった。
 碇君と初めて出会ったのは中学校の同級生としてだったと鈴原君は言った。
「シンジはあの頃から変わらんやっちゃ。ノートと教科書開いてぼーっとしとるかぐっすり寝とるか、どっちかやったな」
 そんな彼と鈴原君はまるで接点がなかったという。鈴原君は明るく、何事も物怖じしないタイプ。何かあると自分から突破しようとするような人。碇君はまったく逆だった。模範的なほどに平均的な性格と学力と、少し気弱そうな印象。もらったビデオを見ながらまったく同じように感じていた部分だ。
 彼らの接点は中学生として迎えた最初の初夏。発端はそこからだった。
「妹がおったんや。四つ違いの」
 鈴原君がさらに遠い目をして言った。
 碇君はその日、たまたま駅前まで買い物をしに来ているところだった。当時から相田君と仲が良かった鈴原君も二人で別の街まで遊びに行く途中だった。
 その日、偶然が幾重にも折り重なっていた。
 鈴原君が家に財布を忘れたことに気がついて電話をしなかったら。
 彼の妹が自転車でそれを届けに来なかったら。
 碇君が駅前ではなく、もっと近場の本屋へ行こうとしていたら。
 一つでもファクターが欠けていたら、私の隣に鈴原君は座っていなかったかもしれない。
 碇君が鞄の何かを取り出そうとした。
 妹さんが確認もせずに角を勢いよく曲がった。
 今か今かと妹の到着を待っていた鈴原君はその場所を遠くから眺め続けていた。
 ガシャーン。
 鈴原君の位置からは、妹が突き飛ばされたようにしか見えなかった。
「恥ずかしい話や。瞬間湯沸かし器みたいにな、カーッと頭に血が上ってな」
 実際は碇君が角をいきなり曲がってきた自転車を避けようとして逃げ切れなかった。そして結果的に自分の体を守る体勢を取ったら、踏ん張っていた彼に体重の軽い女の子は弾かれて自転車ごと転んだ格好になったわけだ。しかし兄にとってはそんなことはどうでもよかった。
「妹の頭から血流れとって、冷静さがなくなっとったなぁ」
 妹さんを助け起こしながら大丈夫? と声をかけていた同級生に向かって駆け寄るなり殴り飛ばしたのだ。
 碇君にしてみれば後ろから怒号を浴びせられたかと思うと、振り向きざまに一撃をもらったのだから、たまったものではなかっただろう。
「相田君のビデオにあった」
「ああ、そういえばしっかり撮られとったな」
 相田君は恥ずかしそうに笑いながら、
「その直後や、シンジをさらに殴り飛ばそう思うとったワシの背中を思いっきりドンっ。息がマジでできんかったで」
 その時の痛みを思い出したのか、少しだけ顔をしかめる。よっぽど痛かったらしい。
「『なにすんのや、このボケアニキー!』って、自分の兄貴捕まえてボケはないやろ」
 蹴り飛ばされて我に返った鈴原君に、仁王立ちした妹は自分に過失があって迷惑をかけた人に何をしてるんだ、とさらに追い打ちをかけたのだ。鈴原君は顔面蒼白になりながら頭を地面にこすりつけた。
 碇君はポカンと成り行きを見ていた後、自分がどういういきさつで地面に座り込んでいるのか、ようやく理解した顔で立ち上がった。
 誤解が解けたんならそれでいいよ、そう言ってヒラヒラと手を振る。本気で気にしてなさそうな彼の頬は青く腫れていた。
「あいつ、ほとんど怒っとらんかった。こっちはますます平身低頭やったで。ワシがあいつの立場やったら怒り狂って殴り返しとるわ」
 けじめや、一発殴ってくれ。それでチャラにしようや。頼み込む鈴原君。
 碇君はがんとして首を縦には振らなかった。それどころか笑みすら浮かべて言う。
「君らがあやまって僕が許してるんだよ。それでいいじゃない」
 鈴原君も頑固だった。そっちがよくてもこっちがあかん。主張を曲げない彼をなだめたのは相田君の一言だった。
「バカの上塗りになるからやめとけ」
 バカとはなんや、バカとは。そう言い返す鈴原君を見て碇君はまた笑った。
「もし僕が困ったときに力を貸してくれたらいいよ。それで貸し借りはなしにしない?」
 碇君は右手を差し出す。鈴原君は不承不承、その手を握り返した。碇君はそのまま、鈴原君を引っ張って立たせた。
「あんときのは握手って言うんかなぁ。まあ、あの時や。こいつには勝てんわ、そう思うたのは」
 それから三人は急速に距離を縮めた。というよりも、
「ワシらがシンジに絡んどっただけやったけどな、最初は」
 ということらしい。最初は迷惑顔だった碇君も、やがてはそんな表情もしなくなり、いつしか本当の友達と呼べる仲になっていたのだった。
 鈴原君は話し終わると、ふう、と大きなため息をついた。
「結局あの時の借りは今でも返せたとは思っとらん。むしろ増やしてしもうたかもしれんあぁ。いろいろ悪さをしてはシンジが庇うてくれとったもんや。迷惑ばっかりかけるだけかけといて、借金ぶくぶくにふくらしといて、返済期間は腐るほど残っとる思うとったんが間違いかもしれん。甘ったれるのもたいがいにせいや、そういうことなんやろか」
 最後になるほど自戒が込められた言葉が続く。私だけでなく、自分にも言い聞かせていた。いや、最初から全部がそうだったのかもしれない。彼は頭を抱えながら、くそっ、と吐き捨てた。
 沈黙が重たかった。同じくらい、鈴原君の思いも。碇君がその日から今日に至るまで感じていたことも。
「碇君は」
「ん?」
「鈴原君達が仲良くなる前に友達はいたの?」
「いや、おらんかったハズや。人見知りが激しかったからな」
 思った通りだった。そして少しだけ息を吸い込む。言葉を曖昧にしない為に。
「鈴原君と相田君が本気でケンカするくらい、彼のことが心配なんでしょう? それだけ大切に思われてるのは、彼にとってとても素敵な財産だったはずだと思う。碇君なら『僕のほうがいっぱい貰ってるんだ』って言う気がするわ」
 碇君の事をほとんど知らない私がこんな事を言うのは本来ならおこがましいのだろう。
 だけど友達がいなかった時の碇君の気持ち、私ならものすごくわかる。だからどれだけ彼が与えられたのか、彼らが考えている以上に私なら理解できる。
 鈴原君は黙り込んだまま目を伏せた。かける言葉が見あたらず、私も自分のすぐ横の車窓から流れ続ける景色に視線を戻していた。ただ見えているだけで、頭の中に入らない。流れていくガードレールをただ見ていた。
 頭の中でぐるぐると疑問が渦巻いていた。
 なぜ私は碇君に友達がいなかったことを知っていたのだろう。あの時、私はほとんど確信を持って質問していた。確認だった、と言えるかもしれない。
 車内の空気は相変わらず重い。息が詰まりそうになる。
 ため息を我慢しながら景色が流れるのをぼんやりと眺め思う。どうして私はここにいる必要があるのだろう。一体なにが私を突き動かしているというのだろう。
 非日常的な瞬間の連続にとまどいはあるが、同じくらい受け入れてしまっている自分がいた。
「僕はね」
 ああ、そうか。
「二人に助けられたんだ」
 碇君の声が頭の中で響いていた。
 そうだ、碇君の言葉だ。
 彼があの日、私に向かって話した内容とその意味。それは記憶と同時に消えてしまっても、心に刻まれたものまでは消せなかったのだ。
「挫けたり、ちょっとでも辛いことがあったりするとすぐ殻に閉じこもってしまう、そんなやつだったんだ。僕は」
 碇君、どうしてそんなことを私に言うの?
「けどトウジやケンスケが僕に絡んでくれるようになって、僕は自分の立っていた足下がようやく見えたんだ。今まで硬いとばかり思っていた大地は、実は深い深海の底で酷く不安定な中をゆらゆらと彷徨っていただけだった」
 私はあなたとは全然、関係なかった。
「太陽の光さえも届かないようなね。だけど、太陽はあったんだ。僕に見えてなかっただけで。僕は二人にそんな場所から本当の大地まで連れ出してもらえたんだ。たぶんね」
 私たち、今まで話をしたこともなかったのに。
「本当に心を許せる友達って、大地みたいなものなんだよね。僕の中では二人が大地で自分は木なんだ。地面があるから木はその上に立てる。葉を青く繁らせ、幹を膨らませられる。逆に僕は二人の大地であれればいいなって思うんだよね。深海の底にいたままなら、僕はきっとそのまま今でも沈んだ流木だったはずだよ」
 それなのにどうして。
「深海の底がどれだけ孤独だったか、本当の地面があって初めてわかるよね。あそこは時間すら止まってる。一見すごく穏やかでも、結局は何もないっていうのは破滅って意味とあんまりかわらない。目は死んだままだし。それに気がつけただけでも、僕は一生、あの二人には感謝すると思うな」
 どうして私とそんなに響き合うの?




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