4 : CROSS ROAD


 睡魔が白い霧に姿を変えているようだった。頭の中が霞んでいるみたいにぼんやりとしている。
 まただ。
 碇君のことを考えると必ずと言っていいほど起こる霧。大事な物を全部は見せまいとするかのように、記憶という世界を視界不良にしてしまう。
 車の止まる気配で我に返った。
 病院の前でタクシーは止まり、運転手が押したメーターが精算の文字を表示していた。慌ててお金を払い、車から降りた。
 そして急に恐くなった。
 半ば衝動的に病院へ来てみたものの、ここに来るための心の準備ができていなかったのを、白亜の巨塔のようにそそり立つ建築物を目の前にしてようやく思い出したのだ。
 鈴原君は感傷もなく早足で建物に進んでいく。重い足を引きずるようにして私も後を追った。こちらをチラッと振り返るが、彼の足取りが鈍ることはない。
 惣流さんの言葉を守らなければ、という固定概念があったわけではない。私は過去に何を見聞きし、何を失ったのかを思い出して、心の整理と覚悟を決めてからもう一度ここへ来るつもりだった。
 しかし時間がそれを許さない。
 鈴原君はどんな気持ちなのだろう。
 彼だって与えられていた時間は私とそんなに大きく違わない。
 逃げられないという事実に怒っているような険しい顔でずんずんと進んでいく。
 惣流さんは間違いなくここにいるだろう。今更、どんな顔をして会えばいいのか想像もできない。
 ただ、前回とは違うのだ。全ては思い出せていなくとも、私はなぜここに来るべきだったのか、その理由は理解している。忘れてしまっていた負い目は消えることなく、例え全てが繋がってもこのままいつまでも胸にくすぶり続けるだろう。それが昔は五里霧中となって逃げ出す理由だった。今はここにいるべき鎖となって足を縛り付ける。
 あと少し。
 あの日に起こってしまった事実の時系列はおぼろげに見えている。欠けたパズルピースはもう残り少ない。あの瞬間に私たちに何があったのか、そこさえ思い出せさえすれば……。
 私が碇君と一緒にいた時間の断絶さえ埋められれば全てが繋がるのだと思う。
 エレベーターを降りると以前見た待合室のような大きなホールが広がっていた。そこに散らばる無数のソファーの一つに彼女は俯いて座っていた。そしてゆっくりと顔を上げ、私たちの方を見た。
 彼女の目はまだ生きていた。
 あの時よりも明らかにやつれてはいた。頬もこけ、目の下に隈ができ、一見すれば病人のように生気が抜けてしまっていたとしても、ギラギラと強く光る瞳が彼女の意志の強さの本質を表している気がした。
 ゆらりと惣流さんは立ち上がり、
「待ってたわ。ついてきて」
 と力なく言った。
 数日ろくに寝ていないのか、彼女の美しい目は真っ赤に充血している。彼女はこっちよ、と言うと奥の廊下へ促した。
 惣流さんの姿に鈴原君が絶句していた。呆然と彼女のやつれた姿を見ながら立ちすくんでいる。私が促すと、ハッとした表情で惣流さんの後について歩き始めた。何もしなかったら、彼はもっと長い時間そのままだったかもしれない。
「大丈夫?」
「あ、ああ、すまん。平気や。あんなになっとるとは想像できんかったんでな」
 その言い方が引っかかる。
「惣流さんがここにいるって知っていたのね」
「まあ、おるやろうとは思うとった」
「どうして?」
「ガキの頃の話、聞いとったからな」
 惣流さんの耳に届かないよう、小声にしたつもりだったけれど、彼女は前を向いたまま言った。
「昔のことよ。今は今」
「かもな」
 投げやりに彼は言った。そして同じ口調で続ける。
「お前、シンジが好きなんやろ」
 惣流さんの肩がピクンと微かに震えた。
「なんでそう思うのよ」
「ならなんでお前はここにおるんや」
「……知ってたの?」
「んなわけないやろ。どこのアホが平々凡々のシンジとお前を結びつけて考えんねん。いくらワシでもお前が言うたとおり昔と今を繋げて考えたりはせん」
「そう」
「勘や、ただのな。せやけどお前がおる理由がそうでも考えんと繋がらん」
 フンと惣流さんも鼻で笑って、乾いた声で言った。
「鋭いじゃない、関西弁。筋肉バカの単細胞だと思ってたわ」
「今をときめく大スターに褒められてしもうたわ。明日は雨やな」
 彼が大人だったというよりも、心理的な余裕のあるなしの差だったのではないだろうか。惣流さんの嫌みも鈴原君は全部受け流しながら、それでいてなお元気のない彼女の生気を引き出そうとしているようにも見える。
 普段の惣流さんならば考えられないことだ。だからこそ余計に彼女の弱々しさがたまらなかった。
 彼女は周りの病室からは一際離れた場所にあるドアの前でカードを取り出すと、無造作にスリットの間へ差し込んだ。ピッと認証音のあとでディスプレイに解錠の表示が現れる。
 碇君が中で眠っていた。
「今は落ち着いて眠っているわ。もちろん予断は許さない状況に変わりないけどね」
 惣流さんの声がほとんど耳に入らない。
 私たちと彼の間にガラスが一枚、大きな壁となって立ちふさがっていた。碇君は隔離された治療室の、さらに隔離された無菌室のようなところで、静かに胸を上下させている。温度、湿度、空気の流れや成分まで制御された室内の中でポツンと置かれているベッド。それらを取り囲むように様々な電子機器、そして緊急用に用意されたと思われる薬品や注射器。
 そんな無機質で暖かみのない世界に横たわっていても、目元だけなら普通に眠ってしまっているだけだと錯覚してしまいそうな、穏やかな顔だと思った。
 しかし呼吸を整えるための管が体の中まで通され、大きな透明のマスクが顔の半分を覆っている。喉と胸元の境目には栄養補給のための穴からチューブが伸び、生命活動に必要なエネルギーはそこから直接流し込まれている。
 目の前がクラクラした。あまりに現実感がなくて、自分の記憶の中で笑っている彼の姿と目の前を結びつけて考えられなかった。あそこに寝ているのは彼の姿をしたマネキンで、私の隣に幻の碇君が立っているほうがよっぽどリアルだと思える気がした。
 浅い呼吸が聞こえる。私だった。まるで貧血の直後のようだった。
 私の隣で鈴原君がうめき声にもならない声をあげながらガラスの奥を凝視していた。
 一人、惣流さんだけが無表情で碇君を見ている。
 彼女の通ってきた道を私たちも歩いているのだとしたら、私たちもいつか彼女のように碇君の今の姿を見ても無感動になってしまうのだろうか。
 碇君の体中に包帯がまかれ、あちこちに血の滲みが色を変えてしまっている。
 胃の辺りが急に収縮して、とっさに口を押さえた。突然、左肩越しに伝わってきた骨の砕ける感触が思い出されたのだ。
 ギリギリのところで吐き気は収まったが、喉を胃酸が焼いた痛みが残っていた。
 このくらいでまいっているわけにはいかない。惣流さんは何日も彼のこの姿を正視してきたのだから。
 彼女は壁に背を預けて碇君をぼんやりと見ていた。私が振り返っても、鈴原君がずるずると座り込んでも眉一つ動かさない。彼女には私たちは見えていないのだ。
 ――お前、シンジが好きなんやろ。
 彼女の全てがそれを肯定していた。全身全霊をかけて、一人の少年をあるがままを受け入れている。
 数日前に彼女が体験した出来事は、衝撃の大きさも負担の大きさも私には想像すらできないものだ。にもかかわらず目を逸らさずに彼を見守り続けている惣流さんにとって、今という瞬間をそれぞれどのように感じ、考えているのだろう。
 彼女を支えている気持ち。そして碇君の姿。
 私へ向けられたあの時の憎悪や理不尽な罵声すら、今ではもう自分の中でも正しかったのだと思えてしまっていた。
 体の中でも外でも寒風が吹き荒ぶ。
 ただ、哀しかった。起きてしまった過去の全てが。こうなってしまった要因の一つ一つが、ただただ哀しかった。
「昨日ここに移ってきたわ。上じゃもう手の施しようがないからって」
 上にあるのは集中治療室と手術室だったはずだ。淡々とした抑揚のない彼女の口調が私の背筋を凍らせた。
「鈴原、あんたここにいて。私はこの子に話があるから」
 放心している鈴原君の耳に届いていたかどうかはわからない。彼のリアクションも確かめず、惣流さんが室外へ出て行った。言われるがままに廊下に出ると彼女はドアのすぐ横の壁にもたれかかり、目の前でずるずると床に座り込んだ。緊張の糸がぷっつり切れたみたいな大きいため息をついて顔を伏せる。体中から力が抜けていて立っていることもできない、そんな感じがした。
 私も黙って隣に座った。
「あんたに謝らなくちゃ、ってずっと思ってた。あの時は言い過ぎた。ごめん」
 ボソボソと蚊の泣くような声だったけど、私は驚いていた。罵倒されるのも覚悟していたのに、彼女の口から出た言葉はまったく想像の逆だったからだ。
 彼女は葛藤を乗り越えた後じゃないとできないような、とても穏やかな顔で私を見ていた。
「正直言うとね、今でもあんたを許せない、許したくない、って気持ちがないわけじゃないわ。でもそれは結局のところ嫉妬でしかないのよね。シンジは自分の意志であんたをかばって、私はその一部始終を見ていた。それだけのことよ。あいつが自分で飛び込んで……」
「もういい、何も言わないで」
 私は首を左右に振った。もう彼女に傷ついて欲しくない。私が理由で自分を追いつめて欲しくなかった。そう考えるのも偽善だろうか。――そうかもしれない。
 惣流さんはすがるような目で言った。
「本当に許してくれるの?」
 私はもう一度、同じように首を振った。
「許すも許さないもない。ここに来る前から私が謝らなくちゃいけないと思ってた。どうして惣流さんが謝る必要があるの? 碇君が傷ついて悲しい思いをしているのは私じゃない」
「どうしてあんたが謝るのよ。それこそ理由が無いじゃない。酷いことを言ったのは私なのよ」
 彼女の声が上ずった。
「全てを思い出せたわけじゃないから。私はまだ肝心なところを思い出せてない。なのにここに来てしまったから」
 驚いた表情が私に向けられていた。何を今更、と顔に書いてあるようだった。
「本当に大切なところは、あの日の夕方だと思う。けど、その前後しかまだ蘇ってきてない。覚えているのは碇君が私の代わりに……私の肩越しに壊れていく嫌な感触だけ」
 惣流さんが息を飲む。そしてまた顔を伏せて、しばらく考え込んでいた。
「どうしてこんな事になってしまったのかはまだわからないまま。あの時、何があったのかは……ごめんなさい、まだ思い出せてない」
「あんた、バカでしょ」
 惣流さんが呆れたように言う。
「どうして謝るのよ。私がますます惨めじゃない。冗談じゃないわ」
「ごめんなさい」
「……もういいわ」
 彼女は手をヒラヒラと振った。何を言っても無駄だ、と言外に表していた。そして小さなため息をつく。
「あんた、いい子ね」
 何気ない惣流さんの声が柔らかかった。思わずとまどってしまう。とっさには言葉の意味を計りかねた。
「私さ、あんたをボロクソに言った後、冷静になるにつれてどんどんブルーになったわ。四六時中、自己嫌悪しっぱなしだったのよ。あんな言われ方したら、自分なら相手に一発や二発はグーでお見舞いしてやるところね」
「…………」
「それなのにさ、あんたときたら……。バカ正直に私の言ったことを真に受けて真剣に思い出そうとしてるじゃない。ますます私のほうが惨めよ。感情を爆発させて人に八つ当たりした挙げ句に、またあんたに返り討ちされた気分ね」
「そんな、私は」
「いーのよ、冷静に考えれば私だってバカじゃないからわかるわ。悪いのは私で、あんたじゃない。私には罵る権利もない」
「あるわ」
「え?」
「私はあなたの大切な人を、結果的にはこんな状態にさせてしまった。碇君が私をかばわなかったら、今頃、中で眠っていたのはきっと私。あなたも鈴原君もここにいる必要はなかった」
 惣流さんがまじまじと私の目を見つめてきた。探るような、そしてどこか本気で呆れているような、不思議で美しいディープブルーの瞳。
「ねえ、あん……綾波さん、自分で変わってるって思わない?」
 初めて彼女が私の名を呼んだ気がする。すこしこそばゆい気がした。なぜだろう。
「さあ。人と自分を比べる事ってないからわからない」
 彼女はクククと笑った。
「私とは大違いだわ。人間国宝級かもね、あなたのその純粋さは」
 純粋? 私が?
 膝の間に頭を埋めて彼女は俯いてしまった。紅茶色の髪の毛がキラキラと差し込む日差しに照らされて輝いていた。どんな時でも眩しさを失わない惣流さんが今、一番素敵だと思った。
「ますます自分が嫌になるわ」
 くぐもった声が廊下に溶け込んでゆく。
 惣流さんは泣いているのだろうか。
 私の知っている惣流さんは表面的なものでしかないけど、何があっても絶対に泣くような人じゃなかった。だから想像できない。彼女が演技以外で涙を流すことなどあり得ないと、ずっと思いこんでいた。
 一つだけはっきりと聞いておきたかった。しかし彼女の小さくなった背中を見つめていると言葉に詰まってしまう。肩は震えているわけではなかったけれど、その姿は痛々しいくらいに美しく儚い。
 思い切って言葉を声に乗せてはみても、口をついて出てくる瞬間ですら本当に聞いてもいいのかと自問が頭を離れない。
「彼のこと、本当に好きなのね」
「さっき聞いてたでしょ」
 惣流さんの声は小さかったけどしっかりとしていた。
 やはり彼女は私の何倍も強いのだろう。感情の高ぶりも己で制御しきってしまえるくらいに。
 私とは違う。私は凍らせて何も感じないように感情を殺してきただけだ。結果として出来上がったのは無表情のロボット。
 しばらく黙り込んでいた彼女もしばらくして顔をあげ、ふうっと大きく息を吐き出した。
「聞かなくてもわかってるでしょ? あんなにみっともない姿をあの時、見せちゃったんだから」
「でも、胸に刻むためにははっきり聞いておかなくちゃいけないこともあるわ」
「そう……ね、かもしれないわね。同じくらい言っておかなくちゃいけないこともある。思い出したわ」
「え?」
「なんでもない。独り言よ」
 惣流さんが遠い目をしながら、窓の奥を見ていた。青い空に何を思い浮かべているのだろう。
「ごめんなさい。余計なことを言った」
「謝ることじゃないわよ。ただ、ちょっと面白くない出来事を思い出しただけだし。それはそれで過ぎたこと。あん……綾波さんのせいじゃないわ」
 ああ、この人も諦めたんだ。彼女の口ぶりが哀しいけれどそう言っていた。
 胸が詰まるほど苦しい。
「いいわ、あんたでもあなたでも綾波さんでも、呼びやすければ」
 それだけ言うのが精一杯だった。
 碇君は今、まさに進行形で過去の人になろうとしている。努めて感情を押し殺し、理性を優先させることで己の葛藤を終わらせようとしている惣流さんを見ていると、この気持ちを軽々しく表現することができない。言葉の無力さと、その何万倍も大きな無力感と、さらにそれよりも大きな苦しさが私の中でぐるぐると回っていた。
「どうして碇君は私なんかを助けたんだろう……」
「バカ」
「え?」
 思わず漏れた独り言に惣流さんはボソッと言った。
「バカって言ったのよ。本当に一番肝心なところ思い出してないのね」
 強くもなければ、弱くもない、ただ芯が通っただけの乾燥した言葉が私を追いつめる。
 まただ。また私だけが知らない。惣流さんも、帰り道での相田君も、タクシーでの鈴原君も、みんな何かを知って言えずに黙り込んでしまっている。
 ここまで来て何も知らないのは当事者である私と、物言えぬ姿になってしまった碇君だけ。
 その事実が私を強烈な脱力感となって襲った。
 私を助けてくれた人が苦しんでいるというのに、私はここで一体何をしているのだろう。彼を助けてあげることもできないだけでなく、自分に何があったのかも思い出せていない。
「二人とも大バカよ。そろいもそろって似たもの同士で……まあ、だからなんでしょうね」
 フッと彼女が笑った横顔が儚い。
「惣流さん」
「何?」
「私と碇君て、似ているの?」
「嫌になるくらいにね。ただ、表面的なものじゃないわ。話したときの感じとかが似てるのよ」
「そう」
 彼女が断言するのだからその通りなのだろう。私が感じた、碇君とのシンパシーは夢や幻ではなかったということでもある。
「所々で思い出した碇君の言葉が、私の心を揺さぶるのはどうしてなのかようやくわかった気がする」
「正直言って羨ましいわ、そう感じられるってことが。私はシンジと響き合うことはなかった」
 過去の出来事を淡々と語る口調。そこにはなんの感情もこもっていない気がした。
「もしよかったら碇君のこととか、惣流さん自身のことを聞かせて欲しい」
 パッと見ただけでは冴えない平凡の典型的見本である碇君と、華やかさの王道を突き進むかのようにスターダムに上り詰めていった惣流さん。
 二人はどのようにして過去に知り合ったのか、興味と言うよりも人をそこまで好きになれた彼女が、私は眩しかったのだと思う。他人の心に関わるのを嫌がっていた私が誰かを好きになれるわけもなく、ましてや遠ざけようとすらしていたというのに。
 未知の世界で惣流さんは苦しんでいる。私では同情も気持ちを理解してあることもできないけれど、話を聞いてあげることだけならできる。
 一人の女性として、私は惣流さんの話が、碇君への思いが聞きたかった。
 彼女なら碇君を誰よりも深く知っている気がした。相田君や鈴原君と話をした後くらいから漠然と感じていた。惣流さんなら、きっと碇君のことを一番知っている。
 たっぷりと黙り込んでから、彼女は、
「いいわ」
 と言った。
 洞木さんなら、友達として惣流さんの隣にいたらどんな言葉をかけるのだろうか。プライドの塊のような彼女に、下手な慰めは逆鱗に触れる逆効果でしかない。私にはそれを避ける術が永遠に見つからないような予感さえする。
「あと、洞木さんが心配していた」
「そういえばあの子に連絡してなかったわね」
 今、ここにいない人に興味はない。もしくはそこまで気が回らないのか。彼女の声は無感動そのものだった。
「どこから話せばいいのかわからないわね」
 惣流さんはそういうとしばらく考え込んだ。
「シンジはいとこなのよ、私の」
 重たい口を開いた彼女の言い方が、開けてはいけない扉を開いてしまったような気がして、厳粛にならざるをえなかった。気分が沈みそうになるのを必死にこらえる。これは自分で踏み出した道だ。
「そのことは私とシンジと、あの眼鏡とサルしか知らないでしょうね。別に私が黙っててと言ったわけじゃないけど、あいつらやシンジが自分で考えてそうしてくれてたのは嬉しかった」
 人の心に触れることは、けっして楽しいことではない。そして軽くもない。
 でもこれが最後だと思う。自分自身を削りながら人の言葉と感情を受け止めてきた数日間の旅路は、きっと彼女が終わらせてくれるだろう。
 辛くないと言えば嘘になる。
 だけど、ここにいることを後悔することはない。
 なぜなら、私は碇君を知ってしまった。惣流さんの本当の気持ちを知ってしまった。
 受け取るのは重いけど、それは義務とも少し違う、やらなくちゃいけない大切なことだと思うのだ。
 彼女の美しいうなじを見つめながら静かに続きを待った。



 惣流さんのお父さんは彼女が物心つく前に亡くなっている。
 勤めていた研究所で起きた爆発事故の話は少しだけ聞いたことがあるので私も知っている。国内初の原子力事故として当時は大騒ぎになったので、その手の話題になるとよく引き合いに出てくるからだ。
「戦争以来、初めて被爆で死んだ人らしいわよ。日本では」
 どこか他人ごとのように彼女は言う。
 母親に抱かれながら迎えた葬式の事なんて覚えてるわけもなく、写真でしか知らない他人のような感じだと彼女は言う。
 しかし彼女はハーフだった父の、アーリア人種の血を確かに受け継いでいる。
 惣流さんは一人っ子だったけど、家の中には母親以外にも住んでいる人たちがいた。
 それが碇君と、彼の父親だった。
 双子のように育てられた彼らは小学校に入学する歳まで共に生きてきたという。
 元々は生物学の研究者として国連関係の仕事に従事していた碇君のお父さんと、彼女らの母親たちは同じ建物の中で仕事をする仲だったそうだ。
「私のママがお姉さん。シンジのママが妹さん。ママたちって身寄りがなかったみたい。詳しくはしらないけど。だから二人とも結婚して同じ時期に妊娠して、すごく喜び合ったって言ってたわ。家族に凄く憧れてたって」
 惣流さんの父親が亡くなってすぐは、乳飲み子を抱えて一人では何かと大変だからと妹夫婦の家に何かとお世話になっていたのだという。しかし碇君のお母さんも産後に崩した体調が最後まで戻らず、碇君が一歳の誕生日を迎える前に帰らぬ人になってしまった。
 碇君のほうが半年ほど生まれたのは早かったけど、二人は双子のように育てられた。
「だから私には父親が二人いるの。遺伝上の父親と、シンジのお父さんは私のお父さんでもあるわ」
 そして碇君にも母親は二人いる。生んでくれた人と、育ててくれた人。
 転機は惣流さんのお母さんにアメリカに来ないかという仕事の話が来たからだった。そして決断を後押ししたのは、皮肉にも別れを望まない惣流さん自身だった。
 その頃から天才としての片鱗を見せ始めていた彼女を、さらに才能を伸ばす環境が整っているのはどちらかというと飛び級も制度化されているアメリカだった。碇君は一般の子供と大差がなく、仮に一緒にアメリカに行ったとしても結局は学校もすぐに分かれてしまうかもしれない。ならば日本のままのほうが苦労も少ないだろう。そんな消去法で決まった別れの理由だった。
 こうして五年ほど続いた幼年期は終わり、二つの家族は二つの道を歩き始める。母子家庭と父子家庭、アメリカと日本。時間も距離も離れてしまった二人にとって、それは永遠というのと変わらない。
「二度と会えないんじゃないか。飛行機の仲でそう思ったら本当に心細かった」
 しかし太平洋を隔てていても家庭でリアルタイムに映像を送りあえる今の時代、お互いの顔を見ながら喋るのは時差にさえ気をつければ、壁のパネルを隔ててはいたけど難しいことではなくなっていた。
 確実に天才としてエリートの道を歩きながらも、美しく成長していく幼なじみを長年見続けていた碇君は、どんなふうに彼女をとらえていたのだろうか。
「環境が違いすぎたし、私が飛び抜けてても自分の中の物差しで比べられないから、純粋に嬉しかったみたいね、我が事のように」
 碇君は孤独にさいなまれたこともあるのだろう。それでも彼は惣流さんが積み上げていく成功を心から喜んでいた。彼は彼女から距離を置くことも見捨てることもなかった。惣流さんに必要とされている意味を、幼くても正しく理解していたからだ。そういう意味では、彼も早熟だったのかもしれない。
 惣流さんの心の支えは碇君が喜んでくれることだった。
「隣にいるのが当たり前だったのに、急にいなくなって寂しかったのは私も一緒。シンジと電話してるときは明るく振る舞ってたけど、向こうじゃ友達らしい友達もできなかったわ」
 信じられないでしょ、と彼女は悪戯っぽく笑う。
 確かに信じがたい話ではあったけど、彼女は言葉を続ける。
「シンジが電話の向こうにいてくれるだけで、私は無理に仲良しを作る必要はなかったし、本気でいらないと思ってたわ」
 家に帰っても多忙の母親が常に待っていてくれるわけではない異国の中で、小さな女の子の心を支えていた絆の大きさを感じずにはいられない。
 彼女の母や碇君の父親が想像した通り、惣流さんは飛び級でどんどんと履修を終えていった。それに伴って周りの人間からは実年齢以上に扱われ、幼い彼女はそれを受け入れるしかなかった。自主性を重んじ、それに付随する責任を等価値に考える自由の国。
 閉鎖的な日本よりは遙かにましだったのは間違いないとしても、相当なストレスはあったはずなのだ。
 髪をかきむしって泣き出したくなるほどの重圧に耐えられたのも、時には兄として、時には弟として、いつでもどんなときでも支えになってくれた碇君がいたからだ。
 碇君の家でも親が多忙で家を空ける日は珍しくなかったという。
 彼が三年生になる頃まではお手伝いさんが来てくれていたが、それ以降は家事をほとんどこなせるようになっていた彼が家を仕切るようになっていた。学力は惣流さんの足元にも及ばない代わりに、碇君は親離れの早い子供だった。彼のお父さんは碇君の自主性に期待し、悪い言い方をすれば放任した結果なのだけど、それが心の成長を促したのは間違いないだろう。ただし、親として褒められる行動とはお世辞にも言えないのだが。
 だけど碇君は少し違う家庭環境下で生活してきたこともあって、迎えるべき時期に大きな反抗期もなく今に至っている。それは彼が幼い頃から身につけてきた、孤独と世界をバランスよく渡っていくための処世術だったのかもしれない。
 それはどこか私が感情を奥深くに凍らせ続け、やがては心そのものが動かなくなった今の状況とよく似ている気がする。
 成長する惣流さんは自然とこう考えるようになっていた。
 ――こっちで勉強を終わらせれば日本に帰れる。
 彼女は帰りたかった。もっと正しく言えば、碇君と一緒にいたかった。一人その思いを胸に秘め、碇君にすら言わず彼女は勉強に打ち込む。
 やがて彼女は普通の人が十六年かかって修める知識を、わずか六年半で吸収してしまう。自他共に認める天才が本気になった結果なのだから、当然と言えば当然だろう。
 彼女の母親の契約は一年ほど早く終わっていたが、大学卒業までは滞在したいという意向で日本への帰国は遅らされている。その間、始めて母は家庭に入り、娘に母親らしく接した。そして卒業を迎えた日、娘の目を見ながら母親は静かに告げる。
 アメリカに残って大学院へ行くのか、何か別のことをしたいのか、あなたが決めなさい。
 惣流さんの答えは最初から決まっていた。
 迷うことなく一つの道を選んだ。
 惣流さんは十三歳の夏、晴れて西海岸のユニバーシティを卒業した。季節が秋になる頃には日本で碇君に卒業証明書を誇らしげに見せる惣流さんがいた。
 最初はすぐにでも中学校に編入するつもりだった。しかし手続きが煩雑で時間がかかりそうだとわかったときから、惣流さんは別のやり方を見つける。
 そうした理由は他にもあった。
「映像をずっと見てたわけだから、あいつが今、何センチでどんな顔してどんな声になっているかとかはずっとわかってた。でもね、実際に生で再会したとき全部吹っ飛んだわ。違うのよ、上手く言えないけど、全然違うの」
 眉をひそめ、悩ましげな仕草で惣流さんがため息をついた。
「わかる?」
 私はわからない、と答えた。
「後から探せば要因っていうか理由はたくさんあると思うし、そういうバックグラウンドを持っているのは私たち以外にそうそういるわけないし、わからないのは当たり前かもね。ただ、私はあいつのリアルさを実感したときにはもう遅かった。幼なじみっていう関係から、気持ちと感情が何歩も先を走り出しちゃったから」
「その時、碇君は?」
「あいつ? あのとーへんぼくがわかるわけないでしょ。私の顔を見るなり『おかえり、アスカ。背のびたね。でもどうしたの? 気分でも悪いの? 顔が赤いよ』って言ったのよ、あのバカ。なんで赤いのかくらい想像しなさいって言うのよ」
 そういう惣流さんは本気で怒っているようでもあったし、本気でおかしく思っているようでもあった。
 六年間という時間が育んだ土壌に、支えとして頼りにしてきた想いという養分が、一つの生まれたての感情を爆発的に育てていった。
「以来、ずっと私だけからまわり」
 最初は恐かった。生まれたばかりの感情が、始めて自分の思い通りにならない心の揺れが惣流さんには恐くてしかたなかった。自律神経を無風の水面のように保つには、しばらく距離を置くしかない。そう思った結果、彼女は中学編入を諦める。
 もちろん年頃の男女ということで家は別になったが、碇君の住んでいるマンションの同じフロアに惣流さん達は引っ越してきて、新しい生活がスタートした。それが嬉しくもあり、少しだけ辛かった。
「振り返って考えると、それが失敗だったのかなーと思わないでもないのよね。まあ、理由はそれだけじゃないからきっかけかな。あいつはなんで? って不思議がってたわね。私が向こうで中学に編入するって言ってたのをこっちで急にやめちゃったから」
 惣流さんはとっさにあやふやな嘘をついてその場はごまかした。碇君は残念がっていたけど、惣流さんがどんな思いで決断したのかは想像もできなかったに違いない。
 私を見る目でわかるのよ、と惣流さんは言う。
「視線に、こういう言い方は変かもしれないけど、いやらしさがないのよね。そう見て欲しいって意味じゃないわよ。男の子って異性への興味って、つまりは性的興味とイコールでしょ? つまり私はその時まだ幼なじみであって、一人の異性として見られてなかったわけね」
 そんな目で見られてたらそれはそれで恐かっただろうけど、と惣流さんは鼻で笑った。
「私たちは距離が近すぎたのかしらね。それかシンジがまだガキだったか」
 だから彼女は距離と時間が解決してくれることを祈った。碇君が幼なじみのかわいい女の子ではなく、一人の恋愛対象として自分を見てくれるようになる日を惣流さんは待つことにした。
「だけどね、高校は一緒のところにしようよってシンジが言ってくれたときは泣きそうなくらい嬉しかった」
 しかし彼女はぐっとこらえて碇君に言い放つ。
「ふん、あんたの頭で私と同じところ行けると思ってるわけ? そーとー頑張らないと厳しいわよ。あんたがもし落ちたら私は大学院へ行ったっていいんだからね」
 碇君は苦笑いを浮かべながら「そう言えばそうだね」と言い、惣流さんの横顔を見ながら照れ隠しだと気がついていたのだと思う。かなり赤い顔してたはずだから、と惣流さんは言った。
 彼女は日本国内の大学受験資格を、同年齢の生徒達と同じ道を歩んで得ることに決めた。それがどうしてかは誰にも言わなかったけど、わかっている大人たちにしてみれば見え見えだったようだ。ただ、それに反対する大人が周りにはいなかった。
 それから碇君は人が変わったように勉強に打ち込み始める。惣流さんに恥をかかせるわけにはいかないからと、少しでも受験するレベルを上げたかったのだという。惣流さんは彼の努力を黙って見ていた。彼が男子校にでも行かない限り、どんな僻地であろうとも彼と一緒の学校へ行くつもりだった。
 しかし二人は受験校を決める時に最もシンプルな理由で今の学校を選ぶことになる。
「結局は一番近いとこが通いやすくていいんじゃないか、って話になってね」
 碇君がめきめきと偏差値を上げている頃、惣流さんはスカウトの目にとまる。碇君に勉強を教える以外は特にやることもなかった彼女は、軽い気持ちでアイドル募集のオーディションを受け、見事に合格したのだった。
 芸能活動は遊びみたいなものだった、と惣流さんは言う。
「要は人の目を意識する職業でしょ。だから自然と自分に対する美意識とか、自分の見せ方とかが身につくかなと思ったのよね。今頃は出席日数ギリギリで仕事してたけど、最初の頃はシンジの勉強を見るほうが大切だったから、無理なスケジュールは断ってたわ」
 でもたぶん、もう私はあの世界に戻らないでしょうね。最後に彼女は疲れた口調で付け加えた。
「どうして?」
 今が活動してきた中で一番、売れている時期だと言われていたはずだ。
「自分でもそうなんじゃないかって思うことはもちろんあるけどね、これからやっててもっと輝けるかもしれないし、どんどん落ち目になっていくかもしれない。でもね、そんなのはどうでもいいのよ、もう。さっきも言ったでしょ、私は自分を人に見られる意識を持つためにやってたって。終わったの。私の目的は」
 そう言いながら惣流さんは壁の向こう側で眠る彼をまっすぐに見ていた。真剣な眼差しに一欠けらの曇りもなくて、彼女の純粋な思いが透けて見えるような気がしてしまう。
 彼女は不特定多数の視線を気にしたかったのではないのだ。
 たった一人の幼馴染みだけに見てほしかった。きれいだね、って言ってほしかった。その人は今、生死の境を彷徨いながら戻ることのできない岸まで行こうとしている。
「太陽だって自分の光を受け止めてくれる星がいるから輝けるのよ。たった一人で闇を照らすだけなんて私にはできない」
 さばさばとした声で彼女は言う。
 ふっきれた、という感じはしない。だけど目の前の事実から逃げ出さない。足元がふらつくような頼りない道の上でも、彼女ならまっすぐに歩いていくのだろう。遠い目をした彼女の横顔がそう言っているように思えた。
 しばらくして彼女はうつむき、ひざの間に頭をうずめる。
「愛してる、シンジ」
 微かな独り言。
 その静かな小さい声が、ガンッと私の頭を激しく打った。彼女から奪ってしまったものがいったい何だったのかを改めて思い知らされ、激しく打ちのめされた気分になる。
 微かに肩を震わせる彼女に言葉をかけることも肩を抱いてあげることもできず、私は碇君の笑顔を思い出しながら、じっと黙り込んでいることしかできなかった。
 こんなにも自分は無力だった。
 その事実が、ただ哀しかった。



 二つの足音に、私と惣流さんは同時に顔をあげた。エレベーターの方から誰かがこっちに向かってきている。
 だんだんと大きく高くなる音。
 無意識のうちに相田君と加持先生を思い浮かべた。
 二人が廊下を曲がって座り込んだ私たちを見たとき、驚いていたのは相田君一人だった。彼がギョッとした表情を見せたのは惣流さんの疲れきった顔を見たからだ。私は想像できていたし、惣流さんは無関心、加持先生は動じない余裕がある。
 先生は厳しい顔つきをしていたのもわずかの間で、私と目が合うなり「お疲れさん」と声をかけてくれた。私はペコリと頭を下げる。
 惣流さんは二人を見てもすぐに視線を逸らした。今は誰とも話をしたくない気分なのだろう。彼女は座り込んだまま動かない。
 仕方ないので私が二人を室内に促す。今は惣流さんを一人にしておいてあげたかった。
 病室に入ると、加持先生はさっきよりも一段と険しい顔つきになった。鈴原君はベンチにもたれて俯きながら、私たちの方を見ていた。
「遅いわい」
 彼の声に力がない。
 相田君はさっきの鈴原君みたいに言葉を失って、ぶるぶると震えていた。耳に届いていないのか、聞こえてても頭が反応できていないのかはわからない。
 その彼の肩にポンと加持先生が手を乗せる。彼の表情は状況の厳しさを睨み付けているようだった。
 時折顔をゆがめながらも感情を消し、碇君から視線をはずさない鈴原君。落ち着きを取り戻した様子だったけど、それにも増して強い疲労の色が見て取れた。相田君を見ていたらさっきまでの自分を見ているような気持ちになってしまうのかもしれない。
 誰もが今ある状況を受け入れたくないと思っているのだ。
 プシュっと扉の開く圧搾空気が抜ける音。
 間をおかずに彼女はさらりと言った。
「だんだん脳死に近づいてるそうよ」
 きっとそんな冷たい言い方でしか言葉にできないのだ。普通に喋ってしまえば、その言葉に自分の心が押しつぶされてしまう。他人であってもそれは例外ではない。彼女が言った事実の先にどんな未来があるのか、想像できない人なんていないのだから。
 今までの私ならこの場所にいる自分を振り返れば不思議でしかたなかっただろう。
 あるがままを受け入れようと思っている自分が、過去の私とは違うのだとはっきり断言できる。
 鈴原君は表情を変えずに、目だけを細めて惣流さんの言葉を受け止めていたようだった。彼の心に私は触れた。体の震えが収まって目元を押さえている相田君の心にも、後ろから碇君の上下する胸を愛おしげに見つめる惣流さんの心にも、私は彼を大切に思う人たちの思いに触れ続けてきた。
 そんな小さな理由の積み重ねが、私の命を碇君が庇ってくれたのと同じくらいに重く、大切な事だったのだと思う。
 あの瞬間から私は私でなくなった。そして同時に部外者でもなくなってしまった。
 ブラインドから斜陽がスリットを通り抜けて部屋の一部をオレンジ色に染める。碇君の顔に、光がかかっていた。
 その横顔。その色。
 ハッとした。その時だった。
 体の芯に電気が走ったみたいに、碇君の声が、姿が、取り巻く景色が一気に蘇ってきた。
 ――きっかけはどこにでも転がっているわ。
 幼い私の声がリフレインしている。
 全てが繋がっていった。
 オルゴールが鳴らす旋律のように、途切れることなく続いていく過去のシーン。
 甘い痛みが私を蝕んでいく。そうか、だから私は記憶を失うという選択をしなければならなかったんだ――
 碇君が私に言ってくれた事。
 そして私を守ってくれた事。
 彼が残した全てはもう手の届かない場所。眺めるだけのその場所で、何もかもが広がっていった。



 息するのを忘れるほどの静寂。
 深呼吸をしたらシンバルを鳴らしたくらいに聞こえる無音の中で、ガラスに耳をくっつければ微かに伝わってくる電子的なパルス音。
 それだけが私と碇君の間をつなぐ、たった一つの絆。
 そして彼がまだ生きている確かな証。
 もう助からないと宣告された彼に残された時間は余りに少ない。
 時計は午前一時を指している。緊張を保てずに寝入ってしまったみんなを残して、私だけがこの部屋に残っていた。一人で立ちすくむ以外、彼のためにできることは何もない。それでもここにいたかった。
 神様がいるのなら、とても残酷なことをすると思う。どうして私をあそこで寝かせておいてくれなかったのだろう。あそこにいるのが私だったなら多くの人が苦しまず、幸せなままでいられたというのに。
 たった一人、悲しむであろうその人はガラスの向こう側で横たわって眠っている。
 左肩の感触が蘇る回数だけ真っ黒な後悔が心を覆う。幼い頃から涙も枯れて久しい私が泣けずに重さをため続けているのは罰なのだろうか。
 どうしてあの時こうしなかったのだろう。そんなたくさんの「なぜ」「どうして」が止まらない。ほんの少しだけでも重なってしまった偶然がずれていればこんな事にはならなかった。「たら」「れば」は手遅れだというのに、振り返らずにはいられない。
 無益でキリがないのは承知の上で、それでも頭の中では後悔が止まらなかった。
 だから、というわけではないけど、私はもうここから逃げたくない。背を向けたくない。目を逸らしたくない。
 プシュッ。
 扉の開く音に私は振り返った。電気の絞られた室内に、長身の男性が入ってくるところだった。眼鏡の向こう側から私を見る目が、碇君のそれとよく似ていた。顎を経由して繋がるヒゲを剃ってしまえば、きっと年齢を重ねた碇君の顔になるのだと思った。
 惣流さんの言う「お父さん」は間違いなくこの人だった。目を逸らしたい衝動と戦いながら、彼が私の目の前を通り過ぎるのを待った。
 私はガラスの前を彼に譲った。碇君の父親は黙ったままガラスの正面に立ち、静かに息子の姿を見つめ続ける。
 どんな顔をしていいのかわからなかった。ただ彼の斜め後ろで黙って控えているくらいしかできず、謝らなくちゃ、とわかっていても口がカラカラに渇いて動かない。自分の情けなさに絶望しながら、静寂が再び空間を埋め尽くすのを待つことしかできなかった。
 彼は後ろ姿を私に見せたまま無言を貫く。
 数秒だったのか数分だったのかもわからない時間が通り過ぎ、ゆっくりと彼は振り返った。
「シンジが助けたのは君だったか?」
「はい」
「……あいつを忘れないでやってくれ」
 怒ってくれたらどれほど楽だったろうか。惣流さんの時よりも何倍も打ちのめされながら、私はやっとの思いで、
「はい」
 と返事を絞り出した。ごく普通の、大きくないその一言に私は圧倒され呼吸が苦しくてたまらない。
 違う、もっと言うべき言葉はあるはずだ。助けてもらった感謝、息子の命を削らせてしまった謝罪。声が枯れても足りないくらい、もっともっとあるはずなのだ。
 彼の瞳が全てを悟っているかのように私を見つめ、言葉を封印してしまう。
 眼鏡が光の加減でキラリと輝いて目元が見えなくなる。
 何も言わないまま小さく頷くと彼は部屋を出て行く。
 意識が遠くなるほどの息苦しさの中で、また沈黙だけが私の周囲に横たわり、静かに空間を埋めていった。




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