5 : youthful days


「おはよう」
 その声が自分に向けられているんだと最初はわからなかった。
 やけにはっきりと近くで聞こえるな、とは思ったけど、日常では私にそんな挨拶をしてくる人はいなくて、朝の当たり前の習慣に疎くなっていたからだった。
「あ、待ってよ」
 即座に声の存在を忘れた私に次の言葉が届く。まだ私は半信半疑でまっすぐに歩いていた。程なくしてその声の主が私の後ろをついてくる気配を感じて、私はようやく振り返った。
 その先に困った顔をしたクラスメイトがいて、もごもごと言葉に詰まっていた。私が急に振り返ったので慌てているらしい。
「あ、その、いや、あの」
 無視して立ち去るべきか、そのままとどまるべきか少し迷う。私は待つことにした。時間的には余裕のある時間だったし、なにより彼が何か言いたそうだったからだ。
「おはよう」
 私がそう言うと彼はキョトンとして、
「え?」
 と言った。
「さっきの、私に言ったんでしょう?」
「あ、うん。そうそう。綾波にだよ」
「そう」
 私が歩き始めると、彼も慌てて私の横に並んで歩き出した。横に立つと彼の肩が私の目の高さにある。思えば一年半も同じクラスだったけど、こんな些細なことに気付くような距離で立ったことがない。
 それにこうして並ばなければ、彼が見た目ほどに華奢ではないことも気付かなかっただろう。線が細くて大人しいイメージのある人だと思っていたけど、側に立てば意外なことにそんな感じはまったくしなかった。
「それで何か用?」
「なに、って言われても……特にこれって用があるわけじゃないんだけど」
「そう」
 歩調を早めると、彼はまた慌てて私についてくる。
「酷いなぁ。おいてかなくてもいいじゃない」
 私は立ち止まって彼の目を見つめた。
「一緒に登校したいの?」
 碇君がたじろぐのがはっきりとわかった。彼はばつが悪そうな顔をして、
「……有り体に言えばそうなるかな」
 と言った。
「それならそうと最初に言うべき」
「あー、そうだね。ごめん」
 謝っているのにちっとも悪びれた様子はなく、彼はおかしそうに笑っていた。どうして笑っているのか私にはよくわからなかった。
「僕の顔になにかついてる?」
 首を横に振る。彼にそう言われるまで、じっと見続けていたことに気がつかなかった。急に恥ずかしくなって視線を逸らす。
 坂を下り終えると、だらだらと続く上り坂が視界一杯に延びている。逆向きに歩くときはなだらかなのに、いざ歩いて上るとなると急に勾配がきつく思えてしまう。そんな私の心理を読んだのではないのだろうが、碇君がうんざりした口調で言った。
「毎日まいにち、この坂だけは慣れないんだよね。なんでだろ?」
「体が目覚めきってないから」
 私がにべもない言い方をしても、碇君は怒らずに、
「そうなんだろうね」
 と言った。私がこういうしゃべり方しかできないのを知ってるみたいな受け答えが、とても不思議な感じがした。
 この人はどうして私の隣を歩きたがるのだろう。しかも楽しそうな表情を見せながら。
 私の顔を見ても無表情が張り付いているだけだろうし、何を考えているのかわからない不気味さを感じないのだろうか。この人はまったくそんなことを意に介してないだろうな、と思った。
 たったそれだけのことだけど、日常的な朝の風景がいつもと色彩を変えているような気がする。
 胸が少しだけ高鳴っている。
 心が弾んでいる? ――そうかもしれない。相手が異性だからっていう単純な理由でなく、私のありのままを嫌がらない始めての人だった。
 私はペースを落として彼の歩調に合わせて歩いた。そのとたんに自分が普段、どれだけ早足だったかに気がついてしまう。別段、焦って生きているわけでもないのにどうしてそんなに早足なのかと思うと少し自分が滑稽だった。目的がないから、短期的な目標に向かって最短距離を進んでいるだけなんだろう。
 無駄と無理をそぎ落としながら生きてきた結果が、日々の積み重ねの節々に姿を出していて、比べる気になればいくらでも人との違いが明確になる。他人のように寄り道をしながら、休憩を取りながら、という選択肢はない。そんな器用さがあるなら、綾波レイはもっと別の世界の人間になっていたはずだ。
 でもそれは人と比べて初めて見えてくることだ。私のように関係を絶ち、比べる人すらいないのであればずっと気がつくことはない。碇君の横顔を見ながら、そんなふうに考えたりはしないんだろうな、と皮肉な気分で見つめる自分が心のどこかに住んでいた。
 二人とも何となく黙ったまま淡々と足を進めた。所々で私達のほうを奇妙な顔つきで見ている同級生の顔があったけど、それもそうだろうなと隣人の気配を感じながら思う。
 沈黙に耐えられなくなったのは彼の方だった。というよりも切り出すきっかけがないので仕方なく、という感じで煮え切らない喋り方をした。
「あのさ、失礼なことかもしれないんだけど」
「そう前置きするくらいなら聞かない方がいい」
「そ、そうだね」
 知らず知らずのうちに全身で彼のアクションを待っていた。なのに私の口から間髪おかずに出てきた言葉がそれだった。そういうことを言いたい訳じゃないのに、どうしてそんな受け答えしかできないのか、自分を少し呪いたくなる。
 碇君は明らかに鼻白みながらも、まだ私の隣を辛抱強く歩いている。
 私は自分にしかわからない小さなため息をついた。
「それで?」
「え?」
「さっきの続き」
「あー、うん。どうして綾波はいつも一人でいるのかなって思って」
 そんなことを聞きづらそうにしていたのかと思うとおかしかった。
 彼の杞憂は無駄だった。私に今更、そんな質問くらいで痛痒を感じることはない。
 小学校の頃から保護者向けの通信欄に必ず書かれていた。担任が替わるたびに同じことが繰り返される。私が施設出身者である事を知って、先生達は当たり障りのない適当な内容を書く。そして性格を把握すると問題ないという一文で終わる。
 私の周りの空気を変えようとしても変えられないと気づき、無駄な努力をやめてしまう大人をたくさん見てきた。
 碇君は私の外見やここまでの受け答えで感じるところはないのだろうか。
「わからないの?」
「ごめんなさい、嘘です。なんとなくわかります」
 わざとらしく碇君はかしこまって言った。それが妙におかしくてプッと吹き出してしまった。
 くすくすと笑う私を前にして、彼は苦笑いを浮かべながら頭をかいていた。私は笑えたんだ、と自分に軽く驚きながら、碇君の横顔を見ていた。人と話をして笑うなんて何年ぶりなのだろう。
「綾波が笑うところ初めて見た」
 とっさに、でしょうね、という返事が喉まででかかった。自分でも久しぶりだと思っているくらいなのだから、彼が見たことあるわけがない。
「私は人形じゃないわ。笑うような出来事がないだけ」
 周りからアイスドールと陰口を叩かれているのは知っている。お化けが実体化したみたいだと言われたこともある。皮肉なことに、上手い表現だなと自分で認めてしまっているから何も変わらないのだ。
 それでもいい。変える気がないのだから。ただ、私が生きている事を周囲が知ってさえいてくれさえすればいい。
 時々、無駄だとわかっていても、誰かに私の存在を強く意識してほしいと思うことはある。だけど私が変わらなければ、むなしい願いで終わるのだろう。
 碇君は強い調子で、
「当たり前だよ。人形なんかじゃない」
 と言った。自分の口調にびっくりしたみたいな顔をして、彼はばつが悪そうにまた頭をかいた。
「あ、いや、ごめん」
「構わないわ。私がそう言われているのを知ってたからでしょう?」
 少しためらって彼は頷いた。
「うん」
 私のために怒ってくれた、ただそれだけなのにすごく照れくさい。
「ありがとう」
 蚊の鳴くような私の声。
「え、なに? よく聞こえなかった」
「なんでもないわ」
 はにかんでいるのを久しぶりに自覚していた。でも嫌な気持ちはしない。世界がいつもより色鮮やかに見えるのは錯覚なのだろうか。顔がにやけそうになるのを必死で我慢する。
 初夏の風みたいに、その新鮮さがとても気持ちよかった。
 やがて坂の終わりが来る。
 碇君は校門をすぎたところで、改まった口調で言った。
「ねえ、綾波。僕が話しかけたのって迷惑だったかな?」
「どうして?」
「いや、なんとなく。違うならいいんだ、うん。安心した」
 不思議なくらい穏やかに笑う人だなと思う。彼は一人でなにやら納得したらしく、うんうんと頷いていた。
「あー。そうだ、職員室によってく用事があったんだった。ごめん、先に行くよ」
 それじゃまた教室で。そう言うと彼は走り出した。私も手を振りながら遠ざかる彼の背を見ていた。
 碇君が遠ざかるにつれて急に現実に引き戻された気がした。
 きっともう声をかけられることはない。今までのは夢の中の出来事。そう思っておけば今まで通り、何があっても心惑わされることなく生きていける。皮膚より外側の世界とはそうやって折り合いをつけてきたじゃないか。
 急に覚めていく意識の中、静かに深く息を吸った。自分に言い聞かせているのは深呼吸をするときの呪文。周囲と近すぎず、かといって離れすぎない間合いは自分でとっていくしかない。
 微妙なバランスの上に成り立っている距離感をもう一度、しっかりと思い出すのだ。
 不意に碇君が遠くで振り返った。私の心臓がドクンと大きく跳ね、呼吸が一瞬止まる。二十メートルくらい離れたところから彼は叫ぶように言った。
「あやなみー、言い忘れてたー。また声かけてもいいよね?」
 私がぎこちなく頷くと、彼はまた笑って走り去っていった。
 ドクン、ドクン、ドクン。
 落ち着け、落ち着け。胸を軽く押さえながら自分に言い聞かせた。いつもの自分を思い出せ。普段見える景色を思い出せ。辛くなる前に忘れろ。
 目を閉じると碇君の笑顔が鮮やかに蘇る。
 大きく息を吐いた。
 ダメだ。意識すればするほど逆効果になってしまう。
 再び歩き出そうとして、ギクリとした。背筋がぞくぞくするような視線を感じて、思わず私は振り返る。
 青い瞳が離れた場所から、私をじっと見ていた。
 いつもの明るい彼女の目ではない。どこか暗い、陰湿な感じのする視線が私にからみつく。
 知らない顔ではない。むしろクラスで最も目立っている人だった。
 そしてそんな顔をする惣流さんを今まで私は見た記憶がなかった。
 彼女は私が振り返ったことに気付くとフッと表情を緩め、私の横を通り過ぎていった。
「おはよう」
 その声にはさっきの暗い瞳をしていた人とは思えない、軽やかで耳障りのいい普段通りの声。
 私が返事をするまもなく彼女は早足で立ち去っていった。
 あれは一体なんだったんだろう。
 私を見ていたのは気のせいだったんだとも思えてくる。答えはわかるわけもなく、色々ありすぎた登校時間を思い出しながら私は歩き出した。
 腕に鳥肌が残っていた。



 朝から授業に身が入らなかった。ぼんやりとしているといつの間にか時間が過ぎていて、午後になると空腹と眠気が一緒になって襲ってきた。
 しかし気分が悪くて昼食は喉を通らなかった。
 後頭部が甘く痺れてまぶたを重く感じた。
 日差しが暖かくて心地よい。初老の数学教師のしわがれた声も強く眠気を誘った。
 碇君も惣流さんも一歩教室に入ると私に注意を向けることもなく、ああやっぱり今朝の出来事はすべて夢だったんだという気がしてくる。
 すぐに忘れてしまう夢。
 世界の扉は開かれてなんかいない。私の周りには閉じた扉と暗い闇だけだ。
 自分が傷つかないようにしたいのなら深い海の底へ逃げ込んでしまえばいい。深層心理という名の、底知れぬ海の最も深いところへ。
 心が傷つかないだけでなく、全てが閉ざされた何もない闇の世界。
 私のいるべき場所はここだった。
 太陽の光は私に相応しくない。
 安堵して闇の中を漂う。静寂に支配され、異物を拒否し続ける厳しい空間。
 私が感情を表に出したところで人から疎まれるだけだ。その逆でも結果は変わらない。
 幼い頃に知ってしまった他人の振る舞いが、私の闇をより深くしていったのだと思う。
 時は止まっていると錯覚するくらい穏やかに流れ、目を閉じれば上下左右の感覚を失って漂う。
 ある日、自分の歩いてきた道を振り返ると後ろにはそんな世界が広がっていた。
 疎まれなくなる代わりに誰からも相手にされない。空気と同じ扱いを進んで受け入れてきたのだ。
 他人と異質の容姿を持って生まれてきた自分を守り、他人を傷つけることなくこれからも生きていくのだと信じていた。
 でも。
 自分が凍らせてきたものは死んでいるわけではない。あの頃から置き去りにしてきた幼い私の残滓が海底の、さらに深いところから必死に泣き叫んでいる。
 ここにいたくないよ。
 一人はいやだよ。
 誰か助けて、私は人形じゃない!
 その気になればいつでも手が届く場所。意識さえして見れば目に届く場所。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 耳を塞ぎ目を閉じても、姿は消えず声が直接、頭の中へ響いてくる。
 いつの間にか幼い私は消え、今の私と入れ替わってしまっている。動きたくても凍り付いて動けない私をさらに大きな氷山が覆っている。
 声にならない悲鳴を上げて私は叫んだ。
 たすけて!
「わかったでしょう? これが本当のあなたなのよ」
 小さな私は歌を口ずさみながら私を見下ろしていた。
「いつまで偽りの世界で逃げているつもり? あなたは今、生きてるんじゃないわ。死んでいないだけ」
 そんなのはわかってるわ。ここから出して。
「自分で頑張ってみたらいいじゃない。あなたには凍らせてしまった心とは別に、もう立派なものを持ってるんだから」
 え?
「思い出してみればわかるわ。今まで使ったことがないから目に見えないだけ。手を伸ばせば、ほらそこにある」
 私には見えない。どこにあるの?
「…………」
 声は届かない。彼女は口ずさみながら消えてゆく。
 静かになったその場所で、時間は永遠のようにも思えるのだった。



「どうしたの? 顔、青いよ」
 ハッとして顔を上げると、すぐ側に碇君の不思議そうな表情があった。帰り支度をすっかりすませた様子で、慌てて時計を見るととっくに終業時間を過ぎてしまっていた。
「なんでもない。ちょっと昔の夢を見てただけ」
「ふうん。でも綾波がこんなに寝てるのも珍しいね」
 確かに私はウトウトはしても、他人ほど堂々と寝たりすることはない。急に恥ずかしくなって、
「そういうこと言わないで」
 と強めに言った。
「あ、ごめん」
 彼は言葉とは裏腹に悪びれた様子もない。なんだか上手く扱われているような気がする。
 そして同時に驚く。
 ――私が、この私が、人に扱われている?
 あり得ない出来事だと思った。ただ、不思議なくらい不快ではなかった。
 いつもの自分なら何も言わずに無視していたはずだ。
 がちゃん、と鍵の開く音が頭の中で響く。たくさんの閉じたドアが、重く軋んだ音を響かせながら少しずつ開いていくのを感じていた。
 碇君は私をじっと見ている。
「それで?」
 朝とまったく同じ口調で私は訊ねた。
 彼は微笑んで言った。
「一緒に帰らない?」
 今度は戸惑うことなく彼は言った。恐ろしく脳天気で、それなのにとても救われるような暖かい笑顔。
「ちょっと待ってて」
 さっきから教室中の視線が私たち二人に注がれていたのは気付いていた。
 というよりも碇君をほとんど全員が見ていたのに、彼はそれを知ってもなお平然と私の隣に立っている。
 鞄に教科書やノートを詰め込みながら、私は体を小さくした。別の生き物を見ているような視線を浴びることには慣れきっているけど、今はもっと生々しい男女を見る目だった。一人じゃない、と思えば不思議と耐えられる気がする。
 席から立ち上がった瞬間、背筋に悪寒が走る。時を同じくして全身に鳥肌が立った。
 この感じ、覚えている。
 特別に強い一つの視線。大勢が碇君を見ている中で、私だけをとらえている強い意志だ。
 目をあわせてはいけない、と本能が叫んでいた。
「行こう」
 そう言った碇君の声がさっきよりも明らかに低い。そして彼は間に立つようにして歩いた。
 彼も気付いている。
 人間は後ろからでも視線に気付くと言われている。私は外見の関係上、特に敏感だった。そして意識的にそれを無視する術も身につけている。
 しかし今はできなかった。それを易々と突破してくるのだ。
 先に行った碇君を追ってそのまま教室を出ればよかったのに、私は強い誘惑に負けて振り返った。碇君の「あっ」という小さい声が後ろで聞こえた。
 彼女は朝に見たあの瞳で私を見ていた。教室中の誰もがいつの間にか、私たちのただならぬ気配に気圧されて黙り込んでしまっている。
 しんとしてしまった教室が、一瞬、時が止まってしまったみたいに凍り付き、空気の対流すらも止まってしまったような気がした。
 静寂を碇君が破った。彼は私の腕を引っ張って強引にドアの前から連れ出した。
 入れ替わるように碇君が惣流さんの視線を浴びる。彼は一瞬だけ哀しそうな瞳をひらめかせ、すぐに私のほうへ向き直った。
「なんだろうね、いったいぜんたい」
 おどけた口調が停止した私に再び命を吹き込んだ。助けられた、という事実が私を茫然とさせていた。過去のいろんな場面を一人で切り抜けてきたのは、誰も助けてくれないから仕方なくだった。それが突然、こんな形で――
「さあ」
 彼もそれだけ言うのが精一杯だった。
 碇君は肩をすくめて歩き出した。今朝よりも少し早足。私も遅れないようについていく。
 想像もしたことがない事態に頭の処理が遅れがちになっていた。
 惣流さんが私をあんな目で見ていたことも、碇君が一瞬だけ哀しそうな表情になったのも、私が彼の後ろをためらいもなく歩いている事実も、全てが悪い夢のようだ。
 下駄箱の近くになって、碇君はふう、と苛立たしげに息を吐いた。
「ごめん。妙なことになっちゃったね」
「ううん、ありがとう」
「いや…まあ、うん」
「ところでそろそろ離してくれない?」
「え?」
 彼の視線が私の見ている場所を追いかけ、
「あ、ご、ごめん」
 慌てて私から飛び退いた。
 彼はずっと私の私の手首を握ったままだったのだ。しかも、かなりの力で。彼が手を離すと、案の定と言うべきか、私の白い腕が真っ赤になっていた。その痛みでさえも、助けられたのだと思い出すきっかけになるような気がする。
 どことなく、他人の腕がくっついているような、奇妙な感覚だった。
「本当にごめん」
「助けたんでくれたんでしょう? なら謝る必要はない」
 碇君は今朝と同じ仕草で頭をかきながら照れ笑いを浮かべる。でもそれはどこか無理して笑っているような、微妙な違和感があった。
 惣流さんのことは気になったけど、深く考えることはやめておいた。彼が側にいる間はゆっくりと自分の思考に没頭する気分になれそうもなかったのだ。
 よくわからないことだらけの今日、一つだけわかっていることがある。
 碇君が私の「当たり前」を「当たり前だった」に良くも悪くも変えているということ。
 私がぼんやりと腕の跡を見ていたので彼は不安げな顔で私をうかがっていた。
 大丈夫、と私は首を振る。
 ホッとした碇君を見上げながら、こうやって人を見上げて喋るのも久しぶりだなと思った。そしてそれが嫌じゃないのも不思議だった。
 この、心の中にある浮ついた感じ、なんだろう。
 背徳みたいな、甘い痛み。
 彼に気づかれないように、そっと手首の跡に触れる。
 靴を履き替えている碇君に私は言った。
「碇君、よかったの?」
 なにが、と彼は聞き返さなかった。黙ったまま靴を掃き終え、とんとんとつま先で地面を蹴って彼は私の方を向いた。
「いいんだ、どんな目で見られても。覚悟はしてた」
「でも、私と一緒にいると必ず迷惑がかかるわ」
「それは僕の台詞だよ。綾波が迷惑がってるんじゃないかって、実は今でもビクビクしてる」
 彼はハハハと楽しそうに笑った。
「迷惑だなんて思ってない」
「うん。そう言ってくれると助かる、っていうか嬉しい。僕も後悔なんかしないよ、自分で決めたことだから」
 私も靴を履き替えて、並んで歩き出した。所々から相変わらず視線を感じる。隣の彼だってわかっているはずなのに、どうして私なのだろうか。
「碇君にとっていいことは何もないのに」
 損得じゃないんだよ、と彼は言った。
「僕は綾波と仲良くなれたら、それがいいことなんだ」
 照れもせずに真顔でよくそんなことを言えるなと私が感心してしまいそうだった。聞いていた私のほうが恥ずかしいくらいだ。
「私と?」
「ダメかな?」
「ダメじゃない」
 口に出しながら同時に驚いてしまう。間髪入れずにそう答えられている自分自身に。私のどこにこんな自分が住んでいたのだろう。
 校舎から出る間も、校庭を歩いているときも、門を通り過ぎても、私の心臓が強くビートを打っていた。彼に聞こえてしまうんじゃないかと思うくらい、今朝よりも高鳴る胸の中。気にすればするほど余計に鼓動が大きく感じられてしまう。
「綾波は、」
「え?」
 反射的に答えてから、自分のうわずった声で頭に血が上る。頬が熱い。
「普段から雰囲気がちょっと違うよね。物静かなだけじゃなくって、なんていうのかな、綾波の周りだけ空気が冴えてるっていうか、厳粛な気持ちになるというか」
「京都の庵みたいな表現ね」
「そうそう、あんな感じ……ってよく考えたら庵は世捨て人が住むところだよ」
 そのまんま私のことだ、と思った。
「とにかく綾波が持ってる空気が特別って事。もちろんいい意味でだよ」
 彼はなんとかフォローしようとするが、そのあわてる姿がおもしろい。
「そんなふうに表現した人は碇君が初めて」
「そうなの?」
 小さく頷くと、彼はふうんと気のない返事をする。
「私はみんなと違う。みんなが川を泳ぐ魚なら、私はその上を流れる葉っぱみたいなもの。水面に触れていても私は水の中へは入れない。碇君は逆側から都合よく見てる」
「そう?」
「葉っぱは何もできない。常に受け身で、ただ流されるだけ」
 碇君は唸りながら、
「そんなことはないと思うよ」
 と言って考え込んだ。私が横から見上げても気がつかないのか、遠い目をして言葉を探している。
「綾波は自分でそういうけど、時の流れに身を任せてるって感じは端から見てる限りではしないんだよね。上手い表現が見つからないけど、僕には流されてるのがすべてネガティブだとは思えないんだ」
 そういって彼は私の方を見て、私が横顔を見ていたことに気がついた。二人ともハッとして同時に視線をそらす。
「流されてるからって言っても、日常に追われてほかのことを考える余裕がない人と、そこから岸を見上げて別の世界を見ている人とわかれるんだと思う。僕は綾波が後者だって気がする」
「それは買いかぶりすぎ」
「そうかな? 時々、綾波って教室で窓の外を見てるじゃない。あの時の目が、僕の想像もつかないくらい遠い世界を見てるんだろうなって思ってたよ」
 違う?
 そう言って彼は私の顔をのぞき込んだ。彼のいたずらっぽい笑みと、吸い込まれそうな黒灰色の瞳が私に向けられている。
 深淵が見えない。
 ギクッとしてとっさに視線を落とす。
「そんな格好のいいことはしてない」
 私が遠い目をしているとしたら、水面の下の魚たちが気持ちよさそうに泳いでいるのを眺めているだけだ。自分の中にある暗い部分を見えないふりして。
 失ってきたもの。
 そうなるように自分で選択してきたのだから弁解の余地はない。しかし、未練があるのか、と訊ねられたらきっとイエスなのだろう。
 ――私は人形じゃない!
 自分の声が遠くから聞こえた気がした。
「そっか」
 碇君は寂しそうに言った。予想が外れてがっかりしているのとは違う、私から何かを感じ取ったような響きだった。
「ごめん、妙な詮索しちゃったかな」
 首を左右に振って、そんなことないわ、と言った。
「ならいいんだ」
 彼は遠い目をして私の左に広がる街並みの景色を見ていた。
 その横顔が、一年前の教室で初めて彼を見たときの姿と重なっていく。記憶の中でも、彼は同じ雰囲気と表情で景色を見ていたはずだ。
 あのときに見ていた高圧電線は私たちの頭上を通り、街から街へと繋がっている。そして同時に見ていた景色は、別の場所で隣を歩きながら相変わらず共有している。どこか懐かしい感覚が体中に広がっていった。
「じゃあ代わりに僕に質問してよ。どんな秘密でも隠さずに言うから」
 それであいこにしよう、と彼は言った。
 聞きたいこと? 他人に興味がないわ、と言いかけて思いとどまる。
「碇君は入学式の日、覚えてる?」
「入学式? うん、覚えてるよ」
「あの日、碇君は私を見てなかった」
 一斉に注目を浴びる惣流さんと私。そのほとんどが好奇の視線だった。大勢の人が遠慮がちのつもりで容赦なく私たちの一挙手一投足を注視していた日だ。
「どうして?」
「よく僕が綾波を見てないってわかったね」
「みんな私を見てるから、周りを見渡したらこっちを向いてない人は目立つわ」
「なるほど」
 彼はまた言葉を選ぶように黙り込んだ。三歩くらいの間を置いて彼は言った。
「似たような人をずっと近くで見てきたから、ってところかな。正直に言うと本当は僕も綾波の外見には驚いたんだよ。でも冷静に考えてみると、僕の近くにはいつもそういう目で見られてた子がいて、僕はその子の立場がよくわかるから、人にされて嫌なことは自分でもしたくなかった」
 僕にとっては他民族の血もアルビノも大差ないんだ、とも彼は言った。
「自分が望まないのに注目を浴びるのって気持ちいい事じゃないからね。だからジロジロ見るなんて冗談じゃない、って思ったんだ」
「…………」
「その子も最初は自分だけみんなと違うって泣いてたことがあったんだ。だからどれくらい傷ついていたのかはわかってる……つもり。自分の髪が生まれつき青だったり赤だったりするわけじゃないから、わかってるつもりでもわかってないのかもしれない」
「正直ね」
「それくらいしか取り柄がないからね」
 彼は苦笑いを浮かべて頭をかいた。そしてぽつりと言った。
「綾波ってさ、話をしてると思ってたより全然、普通だよね」
「私が?」
「うん。ほかの人と喋ってるのとあまり変わらないよ」
 一瞬、耳を疑った。そんな馬鹿な、と思いながらもどこかで喜んでいる自分がどこかにいた。
「冗談はやめて」
「嘘じゃないよ。冗談でもない」
 穏やかに、彼は強く否定した。
「ごめん、言い方が悪かった。誤解しないでほしいんだ。僕の勝手なイメージだけど、ずっとね、綾波って氷像みたいに触れたら溶けて消えちゃいそうな気がしてたんだ。けどそうじゃない、ってわかったってことなんだよ」
「…………」
「遠くから見るから特別に見えるだけで、近くに寄ってみれば当たり前と変わらない。って、そのまんまか」
 ハハハっと彼は笑う。
 私は今の気持ちをどう言い表していいのかよくわからなかった。混乱と喜びと戸惑いが入れ替わり立ち替わり出てきているような、初めて体験する不快じゃない変な感覚。
 ――こうして無為に時間が過ぎてゆくのだ。と、遠い昔に誰かが言った。
 無為に過ぎていく時間を日常というのなら、変化もまた日常の中から生まれてくるものなのだ。
 当たり前の目覚めから始まった気だるい一日も、こうして碇君が話しかけてきてくれたことで、違う方向へ収束していこうとしている。
「どこかに寄っていく?」
「どこへ?」
「喫茶店とか、とにかくゆっくり話ができるところ。もうちょっといろいろ話したいなと思って」
 私は迷った。素直に「はい」と言ってしまいたい自分がいる。それと同時に、あまりにも急激な変化に警戒心をむき出しにする私もいる。お互いがせめぎ合っていた。
 彼と話すのは嫌じゃない。でも、どこかで私は怖がっている。
 真剣に考え込んでしまった私に、碇君は慌ててつけたした。
「いや、無理ならいいんだ。遅くなると親が心配するとか、用事があるとか」
「親はいないわ」
「あ……ごめん」
 いいの、と私は言った。
「最初からいない人たちを気にしろというほうが無理だから」
「そっか」
 彼は神妙な顔つきでそう言った。
 なんだか急に気まずくなったようだった。碇君もそんな空気を察したのだろう。
「今日はやめとこっか」
 とサバサバした口調で言った。
 私も数瞬、自分がどうしたいかを考えてから頷いた。
「焦ってもいいことはないわ」
「ハハハ、そうだね」
 碇君が笑うのを横目で見ながら、半分は私自身に向けた言葉を反芻する。
 焦っちゃダメだ。急いでは事をし損じるっていうじゃないか。
「明日、か」
 そう呟きながら人差し指で頬をかく碇君。「言われてみたら焦ってたのかもなぁ、僕」と自分に言い聞かせながら何か考えているらしく、ころころと表情が変わっていた。思っていることがすぐに顔に出る人だなと思った。こういう人はだいたい嘘が苦手ですぐに損をしてしまうタイプ。
 何事も無表情で流してしまう私とは正反対だ。
 彼を横目に見ながら、今日はいい一日になったなと思う。人と深く関わったわけではない。そのとっかかりの段階なんだろう。しかし、そこまでですら避けてきた私に、今日の出来事はエポックメイキングだったのだ。
 どうして漠然とそう感じてしまっているのかは、隣に歩く人の気配があるせいだろう。
 碇君と話ができたからという理由だけではなく、今まで見てきた世界が少しずつ色彩を変えて私の前に広がっているからだ。無味無臭、無色透明で私にまったく干渉してこなかった世界が「見え方が違わない?」と訊ねてきている。
 オレンジに色づき始めた夕日が、言葉ではなく光で私に語りかける。僕たちは今の君にはどう映っているんだい、と。
 モノトーンだと思っていた世界が実は鮮やかに彩られた美しい世界だと気づき、その一部が見え始めたところ。今の私にはそう答えるのが精一杯だ。本当に美しい世界であるのかすらわかっていないのかもしれない。一を知って十を知るほど私は賢くはない。
 でも碇君を通してみる世界は、予想に違わないように思える。美しい代わりに残酷なのかもしれないけど、かといってモノトーンの世界に興味が急速に失われつつある今、振り返って戻ろうとも思えなくなっていた。
 もう一度自分に言い聞かせる。
 焦っちゃダメ。
 まずはモノクロのトーンが濃くなった程度の変化でもいい。次に繋がるステップを踏めさえすれば、それでいい。
 五感を通じて感じ取る世界は、自分の気持ちや思いこみで全てががらりと入れ替わる。今まで見向きもしなかったところに「どうしてだろう?」という小さな興味を持つだけでいい。私は流されるだけの木の葉で終わるのではなく、皆より遅くても泳げるようになれるのかもしれない。
 変化はありふれている。道ばたに転がっている小さな石のように。
 私が私であり続けようと思うのなら、凍り付いている氷の塊に太陽の光を当て続けてればいいのだと思う。変わるというよりも取り戻すのだ。幼い頃に失ってきた何かを。
「碇君」
「うん?」
「次に繋がるステップを見つけたとき、人はどんな顔をすると思う?」
「そうだね……うん、笑うんじゃないかな」
「そう」
 今はまだ笑えない。私の深いところまでまだ日の光は届いていないのだから。
 しかし悲観的になる要素がない事も確かだ。小さな発見を大切にしていけばいいと思う。
 心が痛がらない程度に距離を広げていこう。傷つくのを恐れるのは悪い事じゃない。でも止まっていては次がない。
 深海の底で藻掻いている私が光を見つけられるように、それでいいよって言ってくれるようにしたい。
 顔を上げると、登りに転じていた坂がまもなく終わろうとしていた。
 一年半の間で、私は何度かここで碇君が別の道へ曲がっていくのを見ていた。分かれる場所がここなのは知っている。そして彼がここに辿り着くまでに何度も話を切り出そうとしては言い出せなかったことも、気配を感じてわかっていた。
 私の体半分、前を歩いていた碇君が坂の一番上で立ち止まった。数メートル先には左に曲がると彼の帰路。まっすぐ行けば私の家へと続く道。
 彼は一度、何かを言いかけ口をつぐんだ。
「どうしたの?」
「なんでもない。今日は綾波と話せて良かった」
 そう言った碇君の顔は晴れやかだった。
 私も頷いた。彼が言いたいことを胸にしまった以上、聞こうという気にはなれなかった。
「でも私といると碇君が変な目でみられる」
「そうでもないよ。それは僕が自分で決めてること。覚悟はしてたって、さっきも学校で言ったじゃない」
 ズキンと校舎で彼に握られていた部分が疼いた。
「私が気味悪くないの?」
 彼は微笑みながら首を振った。
「ねえ、綾波。自分で自分をそう思ってるから人にそう見られるんじゃないかな? 僕は綾波がどうしたいのかはわからないけど、自分が考えていることは他人にも伝わるんだよ」
「…………」
 まさにその通りだった。自分で自分がどれほど気持ち悪い外見をしているか、一番理解しているつもりだった。
「怒らないで聞いて欲しい。僕も綾波みたいに考えてたことがあったから何となくだけどわかるんだ。心の闇は自分にしか見えないけど、どうしてそう考えてしまうかはわかるよ。でもそれは別にして、僕は綾波と話してみたいと思ったんだ。綾波の性格がどうとか外見がどうとか、今は関係ない」
 彼はじっと私の目を見ていた。視線をそらせない、まっすぐで魅力的な瞳だと思った。
「……どうして私なの?」
 私のくぐもった声に、彼はくすぐったそうな表情でキッパリと答えた。
「君のことが好きなんだ」
 ヒュッと空気が収束した音が聞こえた気がした。
 一瞬で周りの音が吹き飛んだ。聞こえるのは私の心臓の音と、彼の言葉だけ。
 ドクン、ドクン、ドクン。
 心臓が今日一番の強さで脈を打っているのに、頭は怖くなるほどクリアだった。言葉の意味もわかっているのだが、まったく理解できていない。
 吸い込まれそうな彼の目に私の顔と赤い瞳が映り込んでいる。互いに逸らせない。彼の本気さがそこから私の体の中へゆっくりと注ぎ込まれていくような感じ。
 さらに心臓が跳ね上がる。
「あの、」
 喉がからみついて声にならない。困惑を超えて、思考の全てが止まろうとしていた。
「やっぱり迷惑だったかな」
 私は壊れたロボットみたいに首を振った。もちろん横にだ。
「ごめんなさい。なんて言っていいのかがわからないけど、そうじゃない」
 絞り出すように言って、私は息を大きく吸った。
 この気持ちはなんだろう。どう表現すればいいのだろう。
 それがわかるのは凍り付いている私の深い部分だけ。それが急速に溶け出しているような気がした。
「よかった」
 彼が安堵した表情で息を吐いた。
 その時だった。
 音が消し飛んだ世界にカツン、と足音が響いた。
 ハッとなって音のした方向に目を向ける。坂道の中腹、私たちが通ってきたところに紅茶色の髪が夕日を浴びて輝いていた。見とれてしまうほどの美しい頭髪の下に、さっきとは違う、はっきりとした感情が張り付いた目元が私を睨み付けていた。
 私からは碇君の肩越しに姿が見えていたが、十数メートル後ろの光景は彼から見えていない。
 碇君は私の言葉を待っている。しかし私の意識は彼女に奪われていた。
 心臓が同じ強さで跳ねている。ただし、先とは違って締め付けられるほどの恐怖でだ。
 碇君が私の視線に気付き、振り返った。
 彼の視線が私からはずれた瞬間、気がついたときにはもう足が勝手に走り出していた。
 どうしようもなく本能的な恐怖がここにいてはいけない、と私を駆り立てる。
 再び冷え込んだ心には、碇君の想いも重たすぎる存在でしかない。
「一方通行なのはわかってる。ただ、どうしても伝えておきたかったんだ。そうしないと僕は綾波に信じてもらえないと思うから。疑われ続けるくらいなら、嫌われたほうがいい」
 きっと彼ならあの後、頭をかきながらそう言っただろう。それが彼の言う決心なのだから。
 その思いをストレートに受け止められるほど、私は強くなかった。心の距離を縮めるとは、気持ちを受け取れるかどうかのキャパシティ。私にはそれが圧倒的に足りていない。広げようと思い始めた矢先だったのだ。
 走り出した私に碇君が気付いた。
「綾波!」
 その瞬間、我に返った私の耳にはっきりと飛び込んできた。
 ギャギャギャー!
 鼓膜を切り裂くような、鋭く甲高いタイヤの悲鳴。車道に飛び出していた事に気付いていなかったのだ。私をめがけてまっすぐに突っ込んでくる車がひどくスローモーションに見える。そして下半身の力が急に抜けていった。
 ドン。
 へたり込みそうになった私を背中越しに碇君がきつく抱きしめた。体に痛みを感じた時には、次の衝撃が私たちを襲っていた。
 ガシャンという金属とガラスが潰れる音。上下がわからなくなるほど強く揺さぶられた。
 嫌な感触。
 左の肩ごしに柔らかいものが潰れ、砕ける感覚が伝わって私を蝕んでいった。
 頭の中がどんどん真っ白になる。
 ぐちゃっと嫌な音と一緒に地面に叩きつけられたとき、アスファルトで私は強く頭を打った。
 体の痛みは感じなかった。
 それよりも空虚が大きかった。心の中から闇すらも消え、大きな穴が空いていた。
 途切れていく意識の中で、これが夢であったら、と強く思った。
 碇君の体温が急速に冷えていく。私は彼の腕の中で駆け寄る彼女の姿をどこか他人事のように感じながら、現実と夢の境界を見失っていった。




// 6 : ALIVE //