6 : ALIVE
ピッ、ピッ、ピッ。
ベッドの傍らで小さなパルス計が、彼の命を表示し続けている。
しかしすぐ横の脳波計の線はほとんど動かない。
碇君は眠り続けたまま、ついに目を覚ますことはなかった。その夜、父親の承認のもと正式に脳死と判定され、医学的に碇シンジという人間の死亡が確認された。
ドナーカードを彼は所持していなかったけど、仮に臓器提供者としての資格があったとしても、誰かの命をつなぐ一部分となるには、あまりにも体内が傷つきすぎていたのだという。ぐちゃぐちゃらしいわよ、と惣流さんは素っ気なく言った。彼女自身、もう碇君に死んだあとにこれ以上傷ついて欲しくなかったのだと思う。
結局、彼は私が負うべき傷すらも全て一人で受け止めてくれた形になってしまった。
脳死判定から数分後、彼の父親がパチンと人工呼吸器のスイッチを切った。それが午前二時三十一分。
続いて医師がその他の生命維持装置を停止させた。
四十三秒後、パルス計が最後の波形を表示させた後、一定の音を表示した。
心肺停止。
五分後には彼の体から全てのチューブが外された。
医師は血の気が消えた腕を持ち上げ、事務的に脈拍をとった。すぐに下ろし、彼の父親に向かって一礼した。
「お世話になりました」
彼の父親がそう言った。一人の命が完全に終わった瞬間だった。
脳波が弱まってきた頃から室外に出ておくよう指示されていた私には、その瞬間がいつ訪れたのか最後まで知ることはできなかった。
しかし中で何が起こっているのかは、誰かが言わなくてもわかっていた。
扉を隔てていても一つの終着は伝わり、人々の心の中に冷たい雪を降らせる。
碇君、あなたは本当にこんなところで降りてしまう人じゃないでしょう?
彼はもう答えてはくれない。何も聞こえない。廊下は静かな、静かすぎて痛みすら感じてしまう空気で満たされていた。
しんしんと心に降る雪。
灰色。真っ白。透き通るほどの青。
それぞれの思いが喪失の色を作りながら、確かな冷たさを伴って降る雪。
鈴原君も、相田君も身じろぎ一つしない。座ってからずっと同じ格好で固まったまま、まだ一言も喋っていない。
それは私も同じだった。
病室の中がすこし騒がしくなった気配を三人とも同時に感じる。顔を上げてお互いに目を合わせた。
それが何を意味するのかわからない人はいなかった。言葉にできない感情を宿らせながら、ぎゅっと目を閉じて彼らは俯いた。
私だけが顔を上げて、じっとドアを凝視した。
涙は誰も流さない。穏やかに過ぎていく時間の中で、今の気持ちを風化させないよう心に刻み込まなければならないからだ。
扉が開き、惣流さんがフラフラと力ない足取りで出てきた。相田君が息を飲む。
私が駆け寄ろうとすると、彼女は俯いたまま手で私を制した。ぶんぶんと首を振ると、
「行ったわ」
と、震えた声で惣流さんは声を絞り出した。そのまま私を押しのけるように反対の壁まで歩き、黙ってベンチに座り込んだ。
鈴原君が立ち上がって、病室に向かって深々と礼をした。そして惣流さんに向かっても同じように一礼をした。
「すまん、まだかける言葉がみつからん」
「いいわ。あんたの顔を見てれば気持ちは十分伝わるから」
そう言うと傍らの私を見上げ、喪失感の浮かんだ青い瞳を私に向けていた。
碇君がいない今、私に向けるべき黒く染まった感情は既に消えていた。
私が記憶を取り戻すということは、自分で作っていた壁の上から、碇君が笑いながら手を差しのべてくれていたことを思い出すのと同じだと思う。
彼は他人からどう思われようと構わない、という勇気を持って手を伸ばしてくれていたのだ。
あの時、走り出したきっかけがどうであれ、彼の想いを受け止められなかったのは間違いない。私は彼の手を最悪の形ではねのけてしまったわけだ。挙げ句に記憶を都合良く消すという、卑怯な手段で自分を守ろうとまでしてしまっていた。
命まで投げ出して守ってくれた人をバカにしてると思う。臆病の一言で片付けられるわけがないし、自分のエゴが招いてしまった結末を曲げることはできない。
惣流さんがどうしてあんなに敵意を向けてきていたのか、今になってようやく全部を理解することができる。
恨まれても当然だった。もう逃げたり隠れたりする気分にさえならない。
放心してしまった惣流さんは私を通して碇君しか見ていない。双子も同然として育ち、そして男女の自覚を持ち始めた頃に生まれてしまった感情のやり場を未だに見つけられないまま、彼の成長を待っていた日々を思い出しているに違いない。
彼女は彼を選び、彼は私を選び、私は彼を選べなかった。今更「もし」や「たら」や「れば」はありえないけど、彼がこれからも生き続けてくれていたら、私は彼の気持ちと向き合って碇君を想うことができたのだろうか。
わからない。
誰かを好きになる自分を想像したことがないし、今この瞬間を刻みつけていくだけで精一杯で、そんなことを考える余裕が全然なかった。
時間は感情の高ぶりを流し去り、記憶だけを残してゆく。胸を焦がした思いは過去形となって二度と蘇らない。
黙り込んだ私たちに足音の響きが届いていた。
足音に重なりながら加持先生が角から現れると、みんなが彼の方を向いた。日付が変わる前に一度、自宅に戻ってきた先生は私たちの様子で、なにがあったか全てを悟ったらしい。
「彼は?」
そう訊ねた口調は質問ではなく確認だった。
惣流さんがゆっくり、小さく首を横に振った。
先生も改まって惣流さんに頭を下げた。
数秒の間。
惣流さんは確かな足取りで立ち上がって礼をした。
「今日はありがとうございました」
誰に向けられたでもない言葉は、染み渡るようにそれぞれへと届いた。人が変わったような毅然とした口調に、最後まで自分が身内の人間として振る舞わなければならない、と彼女を奮い立たせている気持ちがにじみ出ているように思えた。
いつの間にか瞳に力が宿っている。
ふう、と彼女が息を吐く。それだけで彼女の周りの空気が変わった。
なんて強い人なんだろう。
惣流さんの姿に、自然と鳥肌が立った。
「葬儀等の日取りにつきましては後日、ご連絡させていただきます。ご友人、恩師の皆様におかれましてはご参列いただけますよう、どうぞよろしくお願いいたします」
映画やドラマで見る、完璧な姿だと思った。それが演技とは思えない凄みが彼女の体から立ちのぼっている。しかし、彼女がよどみなく言い切ったからこそ、私はその向こうに見え隠れする感情の揺れを感じ取っていた。
突然、迫力を増した彼女に気圧され、相田君と鈴原君はあっけにとられたまま慌てて頷いた。
加持先生だけはいつものフランクな口調を消して、
「惣流」
と彼女の名前を呼んだ。二人は目を合わせて頷き合うと、それで意志は通じ合った。慰める言葉も見つからず、ただ名前を呼ぶことしかできなかった先生を誰が責められるだろう。大人だって言葉を見つけられないときがあっても当たり前なのだから。
そして私とも目が合う。彼の眉がピクリと動いて、ふむ、と言った。
「俺は帰るよ。お前達も帰るだろ? 送ってくよ」
と、加持先生は鈴原君と相田君の肩を叩いた。有無を言わさない迫力で「綾波は?」という言葉が彼らの口から出てくる前に連れ去ってしまった。
彼らの気配がなくなるまで見送って、私は惣流さんと向き合った。
暗い廊下は様々な光源があちこちから仄かな光を飛ばし、私たちの周りにたくさんの薄い陰をいろんな向きに作っていた。
惣流さんは肺の空気を全部はきだすと、よろよろと椅子に倒れ込むように崩れた。
そして素早く、私を制するように、
「ごめん、今は何も言わないで」
と言った。私は黙って彼女の隣に座る。
「まだ私の中で二つがせめぎあってる。あんたを許せない気持ちと、嫉妬でしかないからやめろと押さえてる理性的な部分。あんたの声を聞いたらバランスが崩れそうだから、もうしばらく黙ってて」
無感情で、抑揚のない声。まるでいつもの私が目の前にいるような感覚が襲ってきた。頭がくらくらする。彼女の葛藤は、幼い氷付けの私と今の自分に置き換えれば驚くほどはまってしまうようにも思える。
「あのバカ、最後まで私を振り向かずに行ったわ」
彼女の表情が苦しげにゆがむ。
「日本に帰ってすぐに一緒の中学に行けばよかった。もっと常に近くにいたら私だけを見てくれていたかもしれない。高校受験ではっぱをかけなければあんたに出会うこともなかった。今はそんな仮定がぐるぐる頭を回ってる。結局は後悔が形を変えただけよね、こんなの。無意味なことしてるのはわかってる。けど止められないのよ」
自嘲しながら彼女は体を起こして座り直した。そんなふうに笑わないで欲しかった。
あなたはもっと楽しそうに笑うべき人。私みたいな顔をしちゃいけない。
「でも一番大きく後悔してるのは、あの日、あんたたちを追わなければよかったってこと。そうすればあんたも私から逃げることはなかったでしょ」
「…………」
「そうしたらシンジがかばうこともなかった。誰も傷つかなかった」
「やめて」
「やめないわ! 私がシンジを殺したも同然じゃない!」
「違う、違う、違うわ……」
壊れたレコードみたいに私は同じ言葉しか言えない。
「なにがどう違うって言うのよ。言ってみなさいよ」
「あの時、私たちの後ろについてきてなかったら、あなたがもっと哀しい思いをして傷ついていたはずなんじゃないの?」
「…………」
惣流さんは怒りでぶるぶる震えながら、その感情のやり場がないことに戸惑っているようだった。
「あの時、逃げ出したのは私。惣流さんからも、碇君からも、逃げようとしたのは他の誰でもないわ。命を奪ったのはあなたじゃない」
彼女は小刻みに握った手を震わせていたけど、しばらくしてがっくりと体中の力を抜いた。そして私の顔を見て、何か気付いたらしかった。
「あんた、まさか」
私は頷いた。
「全てを思い出したわ」
驚きに見開かれた青い瞳が揺れている。
「そう」
彼女はがっくりとうなだれて、呟くように言った。
「あんたが責任を感じちゃダメよ。思い出したんならわかるでしょう? シンジがあんたに近づいた日の出来事を忘れるくらい辛い事だったんなら、忘れたままだったほうが幸せだったこともあるって。だからもう一度、何もかも忘れなさい」
支離滅裂なこと言ってるわね、と彼女はまた自嘲した。不意に同じことを言っていた鈴原君の顔が頭をよぎる。
私も彼女もお互いの胸にある自責の念を消すことなどできっこないとわかっていた。責任という単純な言葉で片付けるレベルではないのだ。
碇君が私に残したものは、ほんの少しのきっかけだけだったのかもしれない。しかしそれは少しずつ私の中で育ってゆく。あの時に感じた思いは、後戻りを拒否しているのだ。
そして前に進めば進むほど、彼の存在はより忘れられない存在となってゆく。
記憶の雪原に彼の墓標が沈んでいっても、手がすり切れ凍傷になっても掘り起こし続けるのだろう。
思い出せて良かったと感じる今の気持ちを嘘にはしたくなかった。
義務?
違うと思う。
もうためらいはないのだから。
「碇君の前から逃げ出した理由も、惣流さんから恨まれる理由も、あの時に私に向けられていた視線の意味も、何もかもが今ならわかる。けど、それは忘れていいことじゃない」
時間にすれば数時間だったのだ。しかし彼が私に蒔いた種は確実に根付き、最後には花を咲かせてくれるのだろう。私は成長を見続けたい。辛いことがこれから待ち受けていても目を逸らしたくはない。
「だったら忘れないで、今の気持ちを」
彼女は吹っ切れたように言って、うっと呻いた。
「くそう、なんでよ」
彼女は笑おうとしていた。しかし彼女の瞳からはぽろぽろと滴が止めどなく流れ落ちていた。
「ごめん、時間切れ。もう、ダメ、みたい」
最後は言葉になっていなかった。彼女は声を殺し、止まらないしゃっくりで顔をしかめながら、ぐちゃぐちゃに泣き始めた。なのにどうしようもなく惹かれるほど彼女は美しかった。
小さな小さな嗚咽が廊下に染みていく。
シンジ、シンジ、嫌だよ、なんでよ、おいていかないでよ、シンジ、シンジがいないと私だめだよ――彼女は幾度も愛おしい人の名を呼び続けた。
私は碇君と彼が残したものを生きている限り忘れないだろう。
気持ちだけじゃなく、碇君を通して知り合った全ての人たちを。彼らの話してくれた思い出を。彼女の、清々しい泣き笑いで私を許そうとしてくれている優しさや、触れると割れてしまいそうな純粋さを。
しばらくすると、泣き疲れたのだろう、惣流さんから寝息が聞こえてきはじめた。
私は扉の向こうで永久に眠りについた人を思い、そっと目を閉じた。
――ありがとう。あなたのおかげで私は何かが変わり始めた気がする。
無性に哀しかった。
初めて隣に人がいて欲しいと思った。私の隣にいてくれるだけでよかった。
叶わぬ願い。
その人に向かって語りかける。心の中で言葉にすれば、彼に届くだろうか。口に出せない、たったそれだけなのに哀しさが胸をいっぱいにしていく。
ありがとう。さようなら、碇君。あなたに出会えてよかった。
寝入った惣流さんを碇君の父親と惣流さんの母親と一緒に起こしてタクシーに乗せ、自分も次のタクシーで家に着いたのは朝方に近かった。大人の二人は病院にずっと残るつもりなのだという。私は深々と頭を下げて病院を出た。
空気が一日で一番冴えている、最も好きな時間帯。ちくちくと肌を刺激する引き締まった風が、私の眠気をもどこかへと運び去っていったようだった。
過去に記憶がないほど体は怠かったし、疲労はピークをとうに過ぎてはいたけど、帰りのタクシーの中でもベッドに潜り込んだ後でも、気の高ぶり以上に胸の苦しさが意識が途切れるのを拒否していた。
喪ったものは大きく、得たものは小さい。気がつくのが後になってしまったのは、今となってはどうしようもないけど悔やんでしまうのは止められない。
眠るのを諦め体を起こしたところで電話が鳴った。
時計を見ると午前五時より少し前。こんな時間に、とは思わなかった。今日は何があっても不思議じゃない。
電話に出ると向こうで息を飲む気配。そしてすぐに早口が耳に飛び込んできた。
「こんな時間にごめんなさい。洞木です」
相手の声も待たずにまくし立てるような話し方は、彼女らしくない気がした。この前に話したときはもっと穏やかな話し方をする人だったからだ。
「おはよう。それで?」
「綾波さん?」
「ええ」
「急にごめんね。アスカ、病院でどうしてたかわかる?」
「惣流さんなら病院でわかれたわ。ほとんど同時に帰ったから、一時間前には家に着いていると思う」
「そっか」
そう言うと彼女は黙り込んだ。私も碇君のことは知らせるべきか少し迷う。
「あのね、さっきアスカから電話がかかってきたんだけど、その……碇君が亡くなったって言ってた」
自分で気持ちを整理しているときに、他人から改めて事実を突きつけられるというのはどうしようもなく苦しい。胸がぐっと詰まる。
「そうよ」
ため息にならないように気をつけながらそう言った。
「あの子、初めて従兄弟だって教えてくれたわ。綾波さんは知ってた?」
「病院で聞いた」
「その後が変だったの、アスカ」
「変?」
「うん、急に謝るの。ごめんねヒカリ、って」
じわりと嫌な感じが首筋を撫でた。
「なんだかサバサバした感じで、黙ってた後ろめたさとかじゃなくて……ごめんね、上手く説明できなくて。とにかくあの子、なんだか様子が違ったの。そういうアスカ今まで見たことがないから気になって綾波さんなら何かわかるかなと」
感じが違う、というのならば碇君を喪って身心失調気味になっても不思議ではないから、洞木さんがそう感じる可能性はあると思う。しかし私のあてにならない第六感みたいなものが言っている。
――理由を後付けしても不安は育っていく一方でしょう?
内なる声を否定できなかった。
「ごめんなさい、よくわからない。たぶん惣流さんは碇君が亡くなって動転してるんだと思う」
「そう、よね……。ついさっきのことだもんね」
「たぶん洞木さんが気にしてるような心配はしなくても大丈夫だと思う。いま全部の説明はできないけど、惣流さんは自分で落ち着こうとしていたから」
そう言ってから自分でハッとする。落ち着いていたのに突然取り乱したりしたというのならば、不安を感じたりすることはなかっただろう。彼女は最初から落ち着いていて、最後は取り乱すこともなくさめざめと泣いていたではないか。
――シンジがいないと私だめだよ……。
堰を切るほどに哀しんでいただけで、一度として自分を見失うようなことはなかった。
彼女は私を許そうとするほどに、自分自身の心へ大きな穴を掘っているのだ。そしてその穴を埋めてくれる人はもういない。
そんな人が感情を爆発させたら、と思うとたまらなく怖かった。
「一緒にいた綾波さんがそういうなら大丈夫よね」
洞木さんは自分自身に言い聞かせるようにそう言った。
「洞木さんは、あの人の電話番号を知ってる?」
「かけてみる? そうね、綾波さんも話をしてあげて。一人だとどんどん暗い方に考えちゃうから、そうしてあげてくれるとあの子もホッとすると思うから。手元にないから、学校のメールアドレスに送ればいいかな?」
「それでおねがい」
「わかった。切ったらすぐ送るね。それとアスカの代わりに謝らせて。あの子、実は綾波さんの病室で少しやりとりがあった後、すごく後悔してたの」
「…………」
「それじゃあまた明日ね。じゃない、今日だった。こんな時間だけどおやすみなさい」
電話が切れると、あわただしく学校用の端末を起動させた。
三分後にメールがサーバに届いていた。すぐに受信して紙にメモを走らせる。住所まで載っていたのでついでに書き殴ると、端末の電源を落としてソファーに投げ捨てた。
ルルルル、ルルルルル。
電話が再び鳴った。
洞木さんが何か言い忘れたんだろうか?
「はい、綾波です」
「もしもし。おはよ、惣流です」
想像外の出来事に、心臓を捕まれるくらいびっくりして言葉を失った。
「こんな時間に電話って、あんた変わってるのね。話し中が続くから、おかげで四回もリダイアルしたわよ」
そしてすぐに洞木さんの言わんとしていたことを私も理解した。説明しろと言われたらやっぱり難しいけど、惣流さんから感じるものがどことなく違う。一言でいうと強い違和感。
「ごめんなさい。急ぎだったから」
「まあいいわ」
「でもどうしたの?」
「うん、なんとなくね」
何となくで夜明け前に電話してくるような人だっただろうか。もしかして空元気を絞り出してるんじゃないかと思うと、心がどんどん冷えていった。
「ねえ、あんたはシンジのことどう思ってるの?」
彼女は容赦がなかった。軽く混乱しているところに次の炸裂弾を平気で投げ込んでくる。そんなこと想像したこともなかった。彼に対する気持ちなんて考えたこともない。考える余裕もなかった。
改めて聞かれてもよくわからなかった。私は彼のことをどう思っていたのだろう?
私が答えられないでいると、電話口の向こうで彼女はため息をついた。
「シンジがあんたに惹かれたわけ、今ならどうしてなのかわかるような気がするわ」
「え?」
「あいつには見えたんでしょうね、あんたのバカがつくくらい臆病で素直なところ。嫌になるくらいシンジとよく似てる」
「…………」
「自分で感じたことがないとは言わせないわよ」
「……少しだけ思ってた」
「ほら、馬鹿正直に答えてる」
そう言うと彼女はクスクスと笑った。
「生きるのが不器用で、損ばっかり背負い込むような性格が本当にそっくり」
私は答えられない。しかし彼女は私の言葉を待たずに続ける。
「私はあいつのそんなトロいところがどうしようもなく愛おしかったわ。同じくらいイライラさせられたのに不思議よね。あんたと話してると、シンジと話してるような錯覚しちゃうわ。嘘をつくのも下手くそで、困ると謝るか黙り込んじゃうのよね」
――僕も綾波みたいに考えてたことがあったから何となくだけどわかるんだ。
碇君の言葉がよみがえる。それだけで胸がいっぱいになる。
「…………」
「ほら、黙り込んじゃってる」
言い返せない。その通りなのだ。私が彼に拒否反応を示さなかった理由は、そんな単純なことだった。
同類であるが故のシンパシー。
そしてそれをズタズタに切り裂いた私。
「まだ自分を責めてる? だったらすぐやめなさいよ」
「ごめんなさい」
ドキッとしながら反射的に謝る。
「ったく、本当に不器用ね」
彼女が電話の向こうでまた笑った気がした。まるで優しい姉に叱られているようだと思った。
「もうちょっと時間があれば、私でもあいつをまたこっちに振り向かせることだってできたのかもしれないわね。そういう可能性を考えられなかったってところも後悔の一つかな。だけどもう私の負けで勝負はついちゃった」
「勝ち負けなんてどこにもないわ」
「わかってるわ。人の気持ちには勝ち負けなんてつけられない。だからこれは私自身の問題」
「惣流さん……」
「自分の気持ちには嘘がつけないのよ、私」
フフフ、と彼女は寂しそうに笑っていた。
「ついでだから教えてあげるわ。あいつがあんたに惹かれてるの、かなり前から気付いてたのよ。当たり前よね、自分が好きな人があんたばっかり見てるんだから。焦ったわ。告白したのも私から。でも手遅れだった。あいつ、寂しそうに『ごめんアスカ』って。バカじゃないの、こんな美少女を捨てて他にもっといい女がいるっていうなら私が聞きたいわ」
「…………」
「その次の日よ。あんたにシンジが近づいたのは。私のアクションが、あいつの中のモヤモヤを振り払う手伝いをしたなんて皮肉よね。シンジは私の気持ちも気がついてたわ」
「あの、」
「ううん、いいから黙って聞いてて。ついでのおまけ。あいつのファーストキスは私。あんまり悔しいから謝った後で強引にキスしてやったわよ。そのあと思いっきり引っぱたいてやったけど」
熱っぽく彼女は言った。
「あいつ、キスしてから引っぱたくまで目を白黒させておかしいったらありゃしない」
笑い話のはずなのに私の中ではムクムクと大きくなる不安。笑うどころではなかった。
彼女は全てをさらけ出そうとしている。ありったけの自分を私にぶつけるつもりなのだ。その後に惣流さんの中で残るのはからっぽの空間だけ。
このままじゃダメだ、と私の頭の中で誰かが叫ぶ。
「…………」
「シンジはそれでもあんたを選んだのよ。ちゃんとあんたはあいつから受け取るものは受け取った?」
「たぶん。だから聞いて」
「そう、じゃあもう何も思い残すことはないわ」
「惣流さん」
「最後に話せてよかったわ。違う形で出会えてたら、私はあんたと最高の友達になれた気がするもん。今まで辛くあたってごめん」
「謝らなくてもいい。罵り続けてもいい。だからやめて」
「あんたはこれからもシンジが好きになった素直な綾波レイでいて。私は自分の気持ちに決着をつけてくるわ」
「惣流さん、お願い、惣流さん」
「バイバイ。シンジはやっぱりあんたにはあげないわ」
フフっと小さな笑い声の後、ブチッっと何かを引きちぎる音が重なった。数秒も待たないうちにツーツーと通話終了音が続いた。
震える指で着信履歴からかけ直す。呼び出し音が遠く、ひどく遅い。
話し中のまま応答がない。きっとさっきの音は、家の電話回線を引きちぎった音だ。
不安が嫌な確信に変わりつつあった。
疲労と混乱で頭がくらくらしていたけど、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
脱ぎ捨ててあった制服を乱暴に着ると、財布とさっきのメモを持って家を飛び出した。洞木さんに連絡をしたかったけど、今は時間が惜しい。こんなときに携帯電話があれば、と思うが後の祭りだ。私はかける相手もかかってくる相手もいないから持つ必要がなかった。
エレベーターが降りる間に財布を確認する。
昼間、先生が握らせてくれたお金が十分すぎるほど余っていた。心から葛城先生に感謝しながらマンションを飛び出す。三十メートルほど先の道路は歓楽街と駅を結んでいるので、タクシーがよく通りかかることを私は知っていた。
家で電話して呼ぶよりも、走っている車を止めるほうが断然、早いのだ。
惣流さんの家までは三キロくらい。その方向に走りながら通り過ぎるタクシーを待った。
五十メートルくらい走ると、視界にライトの光が飛び込んでくる。シルエットですぐに目的の車だとわかった。黄色いタクシーの空車を確認して車道に飛び出す。強引に止めて乗り込むと、頭のはげ上がった運転手は明らかに憤慨していたが、気にしている時間も惜しい。近いからと乗車拒否されている場合でもないのだ。
まだ何かを言おうとしている彼にメモを突き出す。
「ここまで急いでください。お願いします」
乗り込んできた人間がオバケみたいな女の子というファクターも加わったせいか、運転手はついさっきまでの怒りも忘れて、カクカクと頷くと黙ってすぐに車を発進させた。
惣流さんの家はコンフォート17マンションの四階。この街でも有数の高級マンションに数えられるところだ。
タクシーは片側二車線を縫うようにどんどん追い越しをかけながら走ったが、それでも私には遅く感じられて仕方なかった。
惣流さんに限って、とは思う。いや、思いこみたいのだ。祈る神も持たない私ですら、今は祈らずにはいられなかった。私が行って眠そうな顔で出迎えて欲しい。何時だと思ってるのよあんた、と自分を棚に上げて叱って欲しい。
一分一秒が絶望的なほどに長く感じられた。
あまりに長すぎて気が狂いそうになる。限界の寸前でタクシーは停車した。時計を見るとまだ数分。札を数枚、何円札かも確認せずに渡すと車内から飛び出した。
「あ、おい! 多すぎるだろ!」
運転手の声を無視して薄暗いマンションのホールへ走る。
自分の足はこんなに遅かったかと思うくらい、世界が進んでいかない。
建物の一番高いところと稜線が続いていた。その向こう側から朝焼けが始まろうとしている。しかし夜が明けても私の心は一向に晴れそうもなかった。
感傷にひたる間もなくエレベーターに駆け込んだ。
どうしようもない、まどろっこしい上昇時間。
四階に着くとすぐに四○二号室を探した。つきあたりにうっすらと光が当たる表札に見覚えのある文字と探していた部屋番号が見える。側に駆け寄ると、特注で作ってもらったものなのだろう、金属のプレートにかわいい手書きの文字で『惣流』とあった。
はぁ、はぁ、はぁ。
息を整えながら扉の前に立った。廊下は静まりかえって、私の荒い呼吸だけが響いていた。
インターフォンに指を伸ばして気がついた。液晶の部分に『UNLOCKED』と表示されている。
鍵がかかっていない?
多少のためらいはあったけど、すぐに『OPEN』を押した。
小さな空気の圧搾音と一緒にドアが開き、中にはいるとすぐに閉めた。不法侵入の四文字が頭をよぎるが即座に忘れた。惣流さんが無事でいてくれさえすればいい。怒られるのなら喜んでそれを受け入れよう。
彼女の母親はまだ病院にいるはずだから、ここにいるのは惣流さんだけのはずだった。
室内も廊下と同じように全くの無音。
「惣流さん」
少し大きめの声で呼びかけるが反応はない。広い空間に音が吸い込まれていくだけだった。弾んだ息を少し落ち着かせて、もう一度、彼女の名を呼んだ。
奥の方で泣き疲れて寝ているのだろうか。
反応は先ほどと同じで返ってこない。音が完全に飲み込まれたのを確認して、心の中で謝ってから歩き出した。自分の足音が大きく聞こえる。
「惣流さん」
大きく呼ぶが、静けさだけが私と相対していた。人らしい反応はない。
目が暗さになれないせいか、あちこちに体をぶつけた。手探りでそろそろと進むと、廊下の突き当たりから右手にダイニングキッチンが見えた。そこの奥にリビング。その向こうには明るい空を見せる窓。
光が室内を少しだけ見やすくしていたが、暗さになれつつある私にはそれで十分だった。
「惣流さん」
今度はあまり大きくない声で呼ぶ。しかし相変わらずの静けさ。
一歩、小さく踏み出した。
ぴちゃん。
普段なら自分の呼吸にかき消されて気付かない、小さな小さな水の跳ねる音。静かすぎる部屋だからこそ聞こえたと言ってもいいのだろう。ハッとしてダイニングの右側を見ると、カーテンの向こうにバスルームらしい部屋が僅かに見えていた。
引き寄せられるようにその方向へ歩き出す。
カーテンの隙間から明かりが漏れていた。と言っても予備灯で、煌々と光が点っているわけではない。
「惣流さん」
カーテンのすぐ側で呼びかけながらノックをしたが、やはり反応はなかった。ふと目を上げると、カーテンのすぐ側に表札と同じ文字で「お風呂」と書かれた木の札がかかっている。
カーテンを一気に開けると赤い瞳が目の前に現れて息を飲んだ。何のことはない、鏡台に映り込んだ自分だった。自分に驚いていれば世話はない。一瞬心臓が縮んだ思いだったけど、気を取り直して辺りを見回した。
左に大きな乾燥機付きの洗濯機。右には曇りガラスの折りたたみ式扉。そこから先ほどの灰色に近づけたような照明がひっそりと点っていた。
一歩、その扉に近寄ったときに体中が総毛だった。異変を真っ先に感じ取ったのは鼻だった。そして磨りガラスの向こうにある色の配置が未来を教えてくれた気がした。
磨りガラスごしに彼女特有の紅茶色の髪が見える。暗くてくすんだ色になっていたが間違いなかった。
ドアに触れるとカタカタと音を立てた。寒さ以外の理由が私の手をひどく震わせる。力の入らない腕では扉が開かない。
体でぶつかるように扉を開けた。
ぴちゃん。
さっきの水滴が落ちる音がはっきりと耳に聞こえていた。
そしてそれを即座に忘れさせる、嗅覚を奪う血の臭い。
浴槽はもう赤を通り過ぎて黒を混ぜたような色に変化しつつあった。
彼女はその傍らにいた。浴槽にもたれかかるようにして、眠っているような顔で片手を浴槽に浸していた。もう片方の手には血糊がべったりと残るカッターナイフ。
美しい髪の一部は湯船だった血の池に浮かび、赤黒く染まっている。
その瞬間に現実を見失った。
目の前の光景に追いついていけなかった。
それほどに壮絶で、今まで見た中で一番美しい彼女の姿だったのだ。
体中の力が抜け、私は扉にもたれかかるようにへたり込む。
目が奪われ、思考は止まり、時だけが過ぎていく。
彼女は微笑んでいた。もうやり残したことがない人間の顔だった。
「惣流さん……」
彼女は応えない。
血の気のない彼女の横顔に、命の輝きは残ってはいなかった。
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7 : Tommorow never Knows //