2 : Children


 その日の夕方、僕らの担任が教室にやってきた。朝のホームルームと彼女の受け持つ授業以外で、こうやって顔を出すことは珍しいことではなかったが、眠たい英語の授業が終わったのを待ちかまえていたように先生が入ってきたのを見たとき、大体の生徒達が「何か忘れてた連絡ごとだろうな」と思った。
 と言うのも、僕らの担任葛城ミサト先生は教師にして遅刻の常習犯で、何かあるたびに「よくクビにならないものね」と、理科の赤木先生から嫌みを言われたりしてるような人なのだ。赤木リツコ先生はミサト先生の大学時代からの友人で、軽口を叩きながらも仲がとても良いということが生徒の僕らから見てもよくわかっているから、みんなもそんな軽口を笑って聞いている。
 そんなミサト先生だから朝のHRはドタバタしてることも多いし、出席をとる時間が無いような日もたまにあったりする。だから、そんなときは委員長から既に出席のとってある出席簿を受け取って、すまなさそうな顔をして苦笑いを浮かべたりしていた。
 ミサト先生が英語の先生に会釈しながら入れ違いに入ってきて、教壇の後ろでこちらを向いた。
「ちょっち聞いてねー。さっき連絡があったんで伝えておきます。急な話ですが、明日一人転校生が来るそうでーす」ミサト先生はそう言った。
 驚きの声は上がらなかった。かわりに、みんなきょとんとした表情をしていた。なんだそんなことか、と言いたげな顔もいくつかあった。
「先生〜、今朝言い忘れとったんやないんですか?」
 クラスで唯一の関西弁を話す僕の友達がからかい半分で訊ねた。先生は今日もHRが終了する直前で飛び込んできたので、「さっき連絡があった」という発言が言いわけじゃないかと思ったのだ。大半の生徒達の心を彼が代弁していた。
「昼頃に上から……教育委員会の方から連絡があったのよ。向こうが連絡するのを忘れたらしくて、アタシが朝に言い忘れてた、とか言うわけじゃないわよ。まぁ、あんまり説得力がないかもしれないけどね」
 ミサト先生は教育委員会を射貫きたいのか、窓の外をすごい形相でにらみつけている。だけど、あまり強くは言えないのだろう。この第三新東京市は第二次遷都計画によって造られた新しい街だ。だから、来年は首都になるこの街には、人口流入が当然のように近年希にみる勢いで起こっている。教育委員会だって手作業の部分も残ってたりするらしいから、そんな手続き以外のミスもあってしかるべきなのかもしれない。生徒と教員の増加は、この第一中学に限っても珍しいことではなかった。
 物心ついた頃からここに住んでいる僕からすれば、今でも十分人の数は多い。そうは言っても一学年二クラスで、一クラス平均二十人前後しか生徒がいない。これでも最近増えた方で、転校生と言っても驚くほど珍しいものでもなかった。一月に一人二人は学年で増えているのだから。
 ただ、いつもと違ったのはその後だった。
「それで、その転校生ってどんな奴なんですか?」
 こちらも僕の友達、メガネをかけた少年が訊ねた。彼は相田ケンスケ。先ほどの関西弁の子は鈴原トウジという。
「それがね、なんでもドイツから来るんですって。向こうでは去年大学も出た天才らしいわよ」
 そんな優秀な人物が、なんで今更中学校に?
 そう思うのは当然のことで、先生は僕らの反応を見ながら続けて言った。
「日本語は流暢にできるらしいんだけど、読み書きがまだそんなに得意じゃないらしくて。だから、大学レベルの日本語をマスターしてないんで大学院への編入は見合わせて、とりあえず中学校レベルからやり直す、と。まあ、そんなとこね」
 そうしたいという本人の希望もあるそうだ。僕らと同じ十四歳にして大学を出てしまった天才らしいが、僕らみたいにのんびりと生徒をやっていたわけじゃないだろう。だから、その辺をもう一度やり直したいのかもしれないな、と思った。
「ま、そーゆーわけだから、明日をお楽しみに。男子か女子かはアタシも聞いてないから」
 そう言い残し、先生はヒラヒラと手を振って教室から出ていった。二十九歳で、来年三十路になるとは思えないほど先生は若く見えるし子供っぽいところもある。今の仕草とかが、特にそう感じさせるところだ。
「おい、シンジ。賭けないか?」
 ケンスケが帰り支度をはじめた僕の所へやってきてそう言った。トウジもすぐに加わって、
「ええな、明日の帰りにアイス一本ちゅーのでどうや?」
「僕はいいよ。あんまり興味ないから」
 僕はそう答えた。事実、そんなに印象に残ることでもなかったのだ。その手の賭が嫌だとか言うんじゃなくて、ただ何となくそんな気分じゃなかったのだ。どうも僕は初対面の人が苦手だ。初対面じゃなくても苦手な人はいっぱいいるが、それ以上に初めて顔をあわせる事自体が苦手なのだ。よっぽどのことがないと、僕は人付き合いをうまくこなせない。苦痛に感じることも少しじゃない。だから、不思議と波長が合うトウジ達は別にしても、友達らしい友達もいない僕だった。転校生。そんなものはどうでもいい空気みたいな存在なのかもしれない。
「つきあいの悪やっちゃなぁ」
 トウジはそう言ったけど、あまり気にしていないみたいだった。二人とも僕はそういう奴だとわかった上で仲良くしてくれてるから、ありがたいと思ってるし感謝もしている。人付き合いが苦手なのは今に始まった事じゃないのだから。
「それよりもさ、今日の帰りは付き合うだろ?」
 僕は頷いた。ゲームセンターの格闘ゲームで一勝負しようという話は前から出てたし、そっちは嫌じゃなかったからだ。
「じゃ、委員長に見つかるとうるさいから早く行こうぜ」
 僕はまた頷き、今度はトウジも真剣な顔で積極的に同意した。
「ほんま、後で何言われるかわからんしな」
「へえ、どんなこと?」
 得意げなトウジに訊いたのは僕でもケンスケでもなかった。僕らは少し冷や汗を自覚しながら黙って後ずさりした。トウジは腕を組み、えらそうにウンウンと頷いて気が付いていない。
「そりゃ決まっとるやないか。耳をねじり上げられたり嫌みをネチネチ言われたり……」
「ふーん……。じゃあ、その二つを今やってあげようか?」
 トウジが驚いて振り返ったその先には、もちろん我らが委員長、洞木ヒカリがこめかみに青筋を浮かべて仁王立ちしていた。手にはしっかりホウキを持っていて、それを焦るトウジにつきだした。
「今日こそ掃除当番、ちゃんとやってもらうわよ」
 トウジは救いを求めるように振り返ったが、もちろん僕とケンスケの姿はもうすでにそこにない。
「う、うらぎりもーん!」
 トウジの悲痛な叫び声は、もちろん僕らに届きはしなかった。当番ではない僕らは関係ないのだが、三日も連続で掃除をさぼったトウジが全面的に悪いのだ。帰り道、僕らはトウジに哀悼の意を示して精一杯遊んで帰った。
 家に帰ったのは六時頃だった。
「ただいまー」
 そう言った僕に「おかえり」と返事をした母さんだが、次の瞬間には残念そうな顔をして軽く叱っていた。
「今日早く帰ってくれば会えたのよ」
 思い当たる人物が頭に浮かばなかったので、僕は首をひねった。
「誰のこと?」
「シンジは覚えてるかしら……。私の古い友達で惣流キョウコって人がいてね、そのキョウコの娘さんがこの街に引っ越してきたのよ。で、さっきまで挨拶しに寄ってくれてたのよ。ほとんど入れ違いだったのに」
 頬を一本だけ立てた人差し指で押さえながら、反対の手でもう片方のひじを支える仕草が妙に子供っぽい。もったいなさそうに言う母さんは、ミサト先生とは別の意味で子供っぽさがあるなぁ、と思う。
「ふーん」
 僕は気がなさそうに言った。事実、あまり気にならなかった。
 ただ、その女の子が残していったとおぼしき飲み残しの紅茶が入ったティーカップが、まだ机の上に残っていたのが目についた。たしかにそこだけには、ついさっきまで人のいた気配がぽっかりと空いた空間に残っていた。
「また来るかもしれないから、そのときはちゃんと挨拶しなさい。シンジと同い年だから、もしかしたら同じクラスになるかもしれないわね」
「今日ミサト先生が、転校生が来るって行ってたけど、もしかしたらその子のことかな?」
「多分そうでしょうね。お茶入れてあげるから、手洗ってらっしゃい」
 ティーカップを片づけながら、母さんは言った。
「うん」
 徐々に日常の食卓へと姿を変えていくテーブル。僕はぼんやりとそれを見ながら返事をしたが、生返事にしかならなかった。
 鞄を置きに自分の部屋に戻ろうとリビングを出ようとしたとき、何かの匂いが残っていることに気が付いた。それは淡い香水の匂いだった。

 ……何の匂いだろう?

 それは本当に微かな残り香だった。それがどんな植物からとったものかは分からなかったけど、何となく心惹かれるものがあった。僕が服を着替え手を洗って戻ってきたときには、もう香水の香りは霧散してしまっていた。




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