3 : My girl


「バカだなぁ……」
 第一声がそれだった。私が初めて足を踏み入れた新居は意味もなく広かったのだ。十四歳の女の子が独りで暮らすには十分以上に広くて、これがラビットハウスと揶揄されていた日本の住宅環境とは俄に信じ難かった。玄関から抜けていくと食堂兼台所。それでも八畳くらいある。いや、もっと広いかもしれない。そのとなりにもっと広い居間があって、八畳の部屋が二つ。結構な大きさのお風呂と洗濯機を置いても十分なスペースのある洗面所&脱衣所。四畳半の物置部屋まであった。
 マンションとはいえ、こんな所を用意した不動産の人間の常識を少し疑ってしまった。欧米の一軒家と変わらない環境がここにある。私の荷物は段ボールにして十個程度くらいなもので、日本でインテリアなどを整えたとしても物置部屋と部屋一つは封印してしまわなくてはならないだろう。リビングだって、テレビとソファーとステレオくらい置くかもしれないけど、それですら自分の部屋で十分事足りた。
 空港から私はまっすぐここには来ないで、隣に住む本当のママの友達だった人に挨拶してきた。その人はとても感じのいい優しそうな人で、私の保護者になる人の奥さんだった。本当は彼女でもよかったが、彼女の旦那さんが「そう言うことなら喜んで保護者になろう」と言ってくれたのだ。こういう場合は、と思って素直に甘えさせてもらうことにした。そうでもしないと、私みたいな子供が、ほとんど異国のような日本で独り暮らしできるはずもないのだ。いくら高学歴があっても、社会的立場というくだらない壁が許可を与えてくれなかった。
「息子がいるんだけど、まだ帰ってこないのよ。今日に限って何してるのかしらね」
 その人はそう言って苦笑いを浮かべた。私も「ええ」とも「そうですか」とも言えず、同じように愛想笑いをするしかなかった。ここの家庭は家族三人で暮らしているという話だが、隣の家も私の住むとことおなじ部屋割りや広さなわけで、三人や四人でも広いと感じれるような間取りに住むことになった私がどんな風に呆れたかを、同一の環境に置かれたなら誰しもが同じ思いで共有することになるだろう。
 玄関の中にドイツからの荷物が積まれていた。明日は土曜日だから、明後日に家具を買いに行こうと思った。テレビだとか洗濯機だとか電子レンジだとか冷蔵庫だとか。あと、テーブルや大小のタンスや本棚。重いものばかりだけど、無いと困るものばかり。でも一人分だから、たかがしれた量にしかならない。
 私は前もって買っておいた唯一の物の上に倒れ込んだ。
 それはソファーだった。ドイツを発つ前の日、街を歩いていて偶然に見つけた。とても柔らかそうなオレンジ色がすごく気に入ったのだ。即決で私は買い、日本のこの住所へ空輸してもらった。輸送料の方が高くついたけど、私には気にならなかった。
 とりあえず、段ボールの中から毛布を一つ引っぱり出して少し眠ることにした。あとでいろいろ用意しておかなくちゃいけない。明日の準備もある。久しぶりに同世代と同じ教室で授業を受けるという感覚は、私には思い出せなかった。最後にそうなったのはもう五年近く昔の出来事なのだから。それがいきなり同じ歳の人間が並ぶところへ一人放り込まれるのだ。それに対しての不安とかはない。転入には慣れてしまっているから、高揚も興奮もなかった。
 ただ、なんとなく寂しいな、と思った。
 一人でいるということ。誰もいないということ。
 それはこういうことなのかと初めて知った夜。コンビニエンスストアーで買ってきたミネラルウォーターを一口だけ口に含んで、哀しくなる前に寝ようと思った。だけど、私は電気のついていない広い、広いだけの温もりのない部屋で、ただ一つ置かれている家具の上で小さくなって、孤独におびえて震えなければならなかった。

 僕が人と正面切って向き合うのが怖くなったのは、何時のことなんだろうかと思い返すことがある。人と向き合ってつきあうのが苦手なのは昔からだけど、それが少し恐怖すら感じてしまうようになったのは、つい最近になってからだと思う。いつも答えは一カ所に落ち着くのだが、何度も考えてしまうというのは、自覚はないにしてもやっぱりそれなりに辛いことだったのだろう。
 僕が中学校に上がった頃、恋愛対象としての『好き』というわけではなかったけど、好意を寄せた、大切な友達だと思っていた女の子がいた。彼女は僕以上に人付き合いが苦手で、クラスではいつも一人でいることが多いような子だった。だけど、根暗だったわけではない。彼女はどこか周りの世界を拒絶しているような雰囲気を持っていたような気がする。彼女が身にまとう空気は、やっぱり普通の人たちとは違っていた。入学したときに席が隣だったことが僕らが出会ったきっかけだったのだが、そうは言ってもベラベラと多くの事を喋ったり聞いたりした記憶はない。
 彼女の名前は綾波レイといった。彼女は容姿だけでは人を惹きつけるようなものも確かにあったが、それ以上に人目を引く原因があった。綾波はいわゆる先天性色素欠乏症とかいう病気で、肌は常に青ざめたように真っ青、髪も銀色に見えたり、すごく薄い水色に見えたりするような色だった。ちょっと癖毛で耳の前の毛が顔にすこし巻いていたのが、ちょっとかわいいと思ったこともあった。
 ケンスケは僕の前の席だったけど、仲良くなったのはもうちょっと後になってからだ。なんでも「お前達二人の間には入りがたい何かがあった」らしく、彼に前の席から話しかけられたのは数えるほどだったように思う。
 綾波はいつも凛としていて、人目や周りの評価など気にせずに生きていた。むしろ人との接触を拒んでいたような節もあった。けど、決して卑屈な態度はとらなかったし、彼女は騒音に負けないくらいしっかりとした自我を持っていた。それが僕には眩しかった。それを伝えると、彼女はちょっと戸惑ったような表情を見せた。
「そんなことないわ」
 あまり感情を表に出すことがない綾波にしては珍しく、軽い戸惑いから生まれた歯切れの悪い言葉だった。とにかく、人はよく「無表情で無機質で面白味に欠ける女だ」と言った。それが一般的な綾波の評価だった。
 僕は彼女にとって唯一の話のできる人間で、僕が傍にいないときは他人が見れば頭が痛くなるような難しい本を読んでいるか、頬杖をついて窓の外をおもしろくなさそうに見ていた。その二つだけは今でも思い出せる。言い換えれば、僕らは学校でその二つ以外の行動をとっている彼女の姿は記憶にない、ということなのだ。
 先ほどは感情が乏しいと言ったけど、本当はそうじゃない。いや、そうじゃなかった。僕と同じで、僕以上に、素直に喜怒哀楽を人に伝えることができなかったのだ。僕と違ってそれを悩んだりはしていなかったみたいだけど、伝えられないもどかしさは感じていたのだ。
「どうしてなの?」と僕が訊ねたことがある。あれは彼女の部屋でのことだった。今でも目を閉じればその場所にいるような錯覚をしてしまうほど、あの時間をハッキリと覚えている。鉄パイプ製の黒いベッド。勉強机とタンスが一つ。CDや本が並んだ小さな棚。コンクリートがむき出しで、ヒンヤリとした感触が夏でも感じ取れる無機質な壁。窓から差し込むのは、太陽よりも月の明かりが似合うような、少女趣味を感じさせるものが何一つ見あたらない、彼女らしい部屋だった。彼女が住んでいたのは、同じ建物群が三十いくつも並ぶマンモス団地の一つの棟で、ほとんど人が立ち退き、住んでいる人間がいなくなった棟から壊し始めてるような、ちょっと隔離されたような建物で生活していた。
 そんなマンションの壁にもたれかかりながら、綾波は本を読む手を止めた。しばらく無言で考えていた後「多分、昔一度殺されかけたからだと思う」と言った。
 思ったことを言って首を絞められ死にかけてから、彼女は感情を表に出さなくなったと言った。出せなくなったのかもしれない、とも言った。
 つらくないかと僕が訊ねると、「もう慣れたから」と綾波はこともなげに素っ気なく言って、分厚い何かの学術書のページをめくって読書を再開した。呆気にとられた僕は何も言うべき言葉が見つからずに、読んでいた本に目を戻したが、そこから先のストーリーは全然覚えていない程に動揺していた。そんな大変なことを事も無げに言う綾波に、正直面食らってしまったのだ。
 そんな彼女と僕はどういう関係だったのだろう。繰り返すけど、僕は彼女を得難い友人だと思ったことはあるけど、好きだとか愛してるとか、恋愛感情の対象として考えたことはこれっぽっちもない。そんなふうに考えられるほど大人じゃなかっただけなのかもしれない。だけど、今でもそれが変わってないのは確かだ。
 トウジに一度訊ねられた。
「本当のところどうなんや?」
「何が?」
「センセと綾波や。つきおーとるのやろ?」
「そうじゃないよ。そうじゃないと思う……」
 そんなんじゃなかった。異性という垣根を越えて、黙っていても相手の心の中で考えていることは分かるような、そんな仲だった。それを恋人と人が呼ぶのならば、素直に認めよう。でも、僕はまだ中学一年生だったし、今はそれから一年くらいしか経ってない。彼女が短い寿命を全うしたのは、今から約半年前のことでしかないのだ。そんなことを考える余裕なんて、ずっと無い日々が続いていた。
 僕らは気兼ねなく思ったことを言い合えた。かといって饒舌に話をするのではなく、ポツポツと言葉を選び拾うように互いに伝え合った。男女を意識してなかったから互いの部屋でも平気で入っていけたし、そこで僕らはテレビを見たり、本棚から本を引っ張ってきて読んで時間を過ごしたりすることしかしなかった。話をするか、本を読むか、テレビを見るか。他に何かをした記憶なんて、全くと言っていいほど残ってない。
 それでも、僕は満足だった。
 そして、彼女は夏の暑さの本番が始まる前に、穏やかに消えていった。彼女は自分の命があまり長くないことだけは、僕に言わずに隠し続けていた。僕が哀しむのを見たくないからと、ただ一つだけの手紙を残していった。
 一通りの感謝の言葉が並び、最後の方ではこう記してあった。
『短い人生だったけど、最後の最後で心を解き放ってくれる人に出会えた幸運を感謝しています。私にとって碇君のことが大切な人でした。ありがとう。ほんとうなら、こんな手紙じゃなく、自分の口で言えればよかった。勇気が、あと少しだけ足りませんでした』
 この手紙のことを誰にも言ってない。父さんも母さんも綾波の存在が消えてしまったことをとても残念がった。母さんは彼女のために泣いた。吹けばかき消えそうなほど影の薄い女の子だったけど、僕らの家族のに混じって夕食の机を囲んだりしたし、なんとかその事のお礼を言おうとして上手く言えずに口をつぐんでしまう綾波を、本当に大切に思っていたのだから。クラスメイト達にも言っていない。親友のトウジやケンスケにも言えるわけがなかった。
 僕は涙を流すことなく、彼女の存在自体儚かったのを感じながら、同時に心の半分を持っていかれるような喪失感を味わった。でも、立ち直れなかったわけじゃない。ただ、無くしちゃいけない何かを失ったような感覚は今でも何処かで残っている。ぽっかりと口を開けた空洞はずっと消えないだろう。
 一度だけ見た笑顔。それ以外はいつも無表情だった綾波レイという少女。
 こんな日がいつか来るかもしれないと、彼女と過ごす時が増せばますほど感じてなかったわけではない。ただ純粋に、そんな日が来て欲しくなかったから考えようとしなかったのだ。それでも現実は、一陣の風となって僕の背中を押し続ける。もっとよく見ろと、僕を追い立てるのだ。
 彼女がいなくなってから、人と付き合うということがつらく感じることが増えていた。たぶん、もう二度と失いたくなかったのだ。自分を分かってくれる人、大切にしてくれた人、そんな人間を失うくらいなら初めからいない方がいい。そんな風に考えるようになっていた。
 彼女が生きていたという証明は、僕のベッドの隣に置いてある本棚の中段にひっそりと置いてある。そこには写真立てが立っている。綾波を僕が古いカメラで撮った一枚だけの写真。僕はもらった手紙をその写真の裏に押し込めてそこに置いた。
 写真の中の彼女は十三歳の誕生日に僕がプレゼントしたイヤリングを手に、うまく笑えないのをもどかしそうに、はにかみながら笑っていた。それはとても素直な笑顔だった。ほかによけいなものが何一つ混じっていない純粋な喜び。それだけが印画紙に焼き付けられている。
 僕はそれらだけを残して、彼女を思いだしてしまうようなものは全部処分した。生きていた証の一番手になるネガすらも自分の手で焼いた。父さんがそう言ってくれたのだ。彼女を失って、魂の抜けたような僕に父さんがこう言った。
「人は忘れることで生きていける。だが、忘れてはならないこともある。全ては心の中だ。今はそれでいい」
 僕の頭がまともに働くようになって、最初にしたことはそれだったのだ。父さんの言葉だけが、不思議と無気力な僕の中にも残っていて、それが僕が何かを考えるわずかな時間すら与えまいと、衝動的に突き動かしていた。
 全ては心の中。かけがえのないものは全部心の中にしまってしまおう。
 それが僕の唯一の答えだった。
 この世界を一人で生きていくには寒い。寒すぎる。僕は十三歳という人生の早すぎる時期に、失ってはならない、なくしちゃいけないという感覚をすでに味わってしまっていた。だから、心の隙間を埋めるには誰か信頼できる人が、大切な人がいないと怖かった。でも、もう二度と無くしたという感覚を味わうのは嫌だった。耐えがたい恐怖だった。
 だから、僕は凍えているのだ。
 それは避けられない寒さだ、と思った。




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