4 : No name mind


 ママの国、日本。
 桜が咲いたというだけでニュースになるような平和な国だ。でも、そんなことが報道されるからといってバカにしたことは一度もない。ただ、どんなところなのだろうかとずっと考えていた。小さな頃、一度だけ二週間ほど居たことがある。ママが死んだ時に手続きや葬儀関係で来たときにだ。だから、日本のイメージなんてほとんど残っていなかったけど、ドイツに帰ってからもいろいろと想像はしていた。
 こんなもんだろうな、と私は学校に向かう坂を上りながら思った。胃が食欲と絶交したらしくほとんど受け付けなかったので、朝食はミルクと食パンを二口かじったくらいしかとらなかった。
 緊張してる?
 私の柄でもないような気もするが、そうかもしれない、と思った。なにせ初めてなんだし、当然ここでは私の容姿も浮くことになるだろう。血の四分の三は日本人で顔立ちも日本人に近いとはいえ、髪の毛だけは立派に赤が少し混じった金髪なのだし、一見しただけでもわかるように、頭の大きさとか体の均整は欧米人のそれに限りなく近い。物珍しそうに同じ制服を着た純血日本人の少年少女達が私を見ていた。けど、これも予想の範疇だった。別に驚きはしない。じきに私も私を見る人間も、どちらも慣れてしまうだろう。そして、みんな私の本性を知ったら一線を画してしまうに違いない。
 自分で言うのもなんだけど、私は傲慢で薄情でわがままな性格をしている。何でもかんでも一番をとらないと気がすまない。それで、同調性もあまりないときている。きっとすぐに失望するだろう。でも、それは気にしない。演技で調子のいい異国の少女を演じるよりも、素のままの方がよっぽど気楽でいい。今まではいい子を演じなければならないことが多々あった。わざわざ生活環境をかえてまでそんなことをする必要はないのだから、最初から素直にいこう。そう思った。人に嫌われたって構わない。
 校門をくぐると、とりあえず近くの女子生徒に職員室の場所を聞いた。最初、職員室という単語がなかなか出てこなかったけど、その女子生徒は「転校生?」と私に質問を返してきて、私がそうだと言ったら、何も言わずに職員室まで連れていってくれた。お下げの、そばかすが顔に残ったちょっとかわいい子だった。
 ありがとう、とお礼を言って、私はプレートで単語と漢字を確認しながら職員室のドアを叩いた。

 春が過ぎ去っていった。暖かいと感じた風が生ぬるいと感じるようになったし、暑いと感じ始めるのもそう先の事じゃないと思う。僕は窓際の席に座って、ぼうっと外を眺めていた。HRまでの登校してからの短い時間、話しかけられない限りはそうやって過ごしていることが多い。前は綾波と話をする、という選択肢もあったけど、いまではほとんどそれもない。トウジもケンスケもHRギリギリに来ることが多くて、僕は話をする相手も特にいないからだ。
 ドアの方からトウジの大きな声が聞こえ、ちょっとしてからケンスケの声も聞こえてきた。会話の内容は、どうやら、今日転入する転校生の話題らしかった。
「おはよう」
 僕がそう言うと、二人は挨拶もそこそこに早速僕にも話を振ってきた。
「おい碇、聞いたか? 転校生はすっげー美人の女の子だって話」
「そんなの知らないよ。でも、女の子じゃないかって話は聞いたけど」
 僕は、昨日の母さんとのやりとりを思い出しながら言った。ケンスケはかなり興奮しているようだった。彼はカメラが趣味で、動画静止画を問わず何でもかんでも撮りまくっている。ただし、かわいい女の子を撮るのもかなり好きなようで、第一中学美女十傑とか書かれたアルバムを見せられたこともある。正直、確かにかわいい子をかわいく撮る術にかけてのケンスケの腕は、なかなかのものだった。
 新たな被写体を本当に楽しみだと言わんばかりの顔をしたケンスケの隣で、トウジも嬉しそうな顔をしているが、トウジの場合はちょっと事情が違う。彼の場合はケンスケの撮った写真を男子生徒に売りさばくことを考えて顔の筋肉をゆるめているのだから。前々から結構もうけているらしいという話は聞いている。僕はそのあたりに関してノンタッチだったので、よくは知らないが。
「どないな女子なんやろ」
 すっぽり主語が抜けているが、おそらくは転校生の容姿のことを言っているのだろう。にやついた顔をする彼は、向こうの方で委員長がこちらを睨むように見ているのに気が付いていない。彼の大きな声は、教室の中では筒抜けで、しっかり洞木さんの耳まで届いていた。そんな洞木さんを見るたびに、トウジの顔と見比べて思うのだ。どこを気に入ったのだろうか、と。
「ま、シンジにはあまり関係の話やろーな」
 そんな僕の思いとは裏腹に、トウジは平然としてて、視線に気がつく気配すらない。
「そうだろうね」
 僕はそう答え、事実そうだろうと思った。隣に越してきたということだが、そんなに懇意にするとかいうのは無いだろう。そうなる原因は、きっと、人と向き合うことが苦手な僕のせいになるだろうな、とも思った。
 すぐにチャイムが鳴って、二人はいそいそと自分の席に戻っていった。扉が開き、今日は早めに登校して来たミサト先生が早足で教壇の前に立った。
 すかさず洞木さんが号令をかけて、僕らは礼をして座った。
「よろこべ男子!」
 先生は挑発するような声と表情で生徒に話しかけ、「噂の転校生を紹介するー」と言った。
 僕はそんな先生の見え透いた態度に急速に興味を失って、なんとなく目を反らした。嫌でも毎日顔を見ることになるんだからぼーっと外でも見ていようかなぁと、その時あまのじゃくが僕の中で囁いたのだ。けど、男子の驚きの声と女子の感嘆が聞こえ、僕は何事かと思って前を向き直した。
 そこで、目が離せなくなった。
 少しうつむき加減で、目元は前髪に隠れてよく見えなかった。でも、口元は笑みをたたえている。
 その子はつかつかと黒板の前まで来ると勢いよく筆記体のローマ字で自分の名前を綴った。
 くるりと振り返ったとき、音楽でも聞こえてきそうだと思った。日差しが彼女の半身を照らしていた。その絶妙なコントラストが僕を抱きすくめて離さなかった。
「惣流・アスカ・ラングレーです。よろしくお願いします」
 すべてが完成されている美術品とは、彼女のことをさしていう言葉なのかと思ってしまったほど、彼女は飛び抜けた美しさだった。いや、そうじゃない。美しいというより、幼さの残る顔立ちや身にまとう雰囲気は、かわいいという表現を限界まで昇華させたところにいた。流れるような、ちょっと茶色の混じった金の髪が柔らかく揺れていた。一本一本が眩しくて、僕の心臓が知らず知らずのうちに早鐘をうち続けたように激しく脈打っている。
 急に、前日の母さんとの会話を思い出した。確か、母さんの友達の姓名は惣流だった……。
 僕は唸った。
 この子が隣の家に住むことになったのか、と思うとなんだか変な気分になった。何とも表現しがたい空気が僕を捕らえたまま逃がしてくれないのだ。
 気が付けば、彼女は僕の隣に立っていた。そして、すました様子もなく社交辞令の笑みを僕に向けて、隣の空いていた席に腰を下ろした。周りの男子が皆こちらを気にしていた。遠くの方の男子は僕の方をみて、真剣に羨ましそうな表情をしていたりもした。
 困ったな、と思った。
 何でそう思ったかも、どうしていいのかも判らなかった。そのときまで僕は惚けていて、ミサト先生が「空いてるところなら何処でも良いわ」と言ったらしい事にも気が付かなかった。
 後々になって、惣流・アスカ・ラングレーが僕の隣の空席を選んだ理由は知ることができる。しかし、その時は十個くらいの空いた席の中からそこを選んだのかは判らなかった。みんな窓に近くて、太陽の光を浴びている彼女がとても眩しかったから、自分を見せるために確信犯的にそこを選んだのではないかと噂するようになる。そんな場所の空いた席は、僕の隣しかなかったからだ。そして、僕も最初はそうだと信じていた。信じずにはいられない、そんな感じだった。そうじゃなかった事を知るのは、まだまだ先のことだった。

 家に帰ると私はすぐに靴下を過ぎ捨てて、寝起きしたソファーに倒れ込んだ。心地よい疲労感が私を包んだが、意識は高ぶったままで、意識が妙にハッキリとしていた。それは、いつもよりも物事を集中して考えれるときの感覚。そうなったままの理由は分かっていた。
 まず、疲れた理由。それは初めての日本の中学校に行ったことでの緊張とそれからの解放。周りの生徒達の質問責めも結構疲れるものがあった。「どうしてそんな日本語がうまいの? ドイツにずっと居たんでしょう?」と訊ねられた。私は父親が日独ハーフで、母が日本人だったから両方の言語ができるのだと言った。それに似た、私を興味深そうに探る質問が一日中続き、バカらしく感じ始めたところでそれらは終わった。答えられる所だけは答え、話したくないことは話さなかったから、周りに人垣をつくっていた連中もそれを感じ取ったのだろう。いつでも聞ける、とも思ってくれたのなら別にそれはそれでかまわないし、ありがたかった。
 ただそんなつまらない時間の中で、私は教室の中で一人だけ気にかかった少年がいた。なんと言うことはない、普通としか表現のしようがない、ただの日本人の中学生がいた。窓際で唯一最初から私を見ていなかった男子が彼だった。ちょっと悔しかったから、先生が何処でもいいと言ったので嫌でも意識するように隣に座った。そうしたら、驚いた表情をしたまま固まっていたので、心の中で笑ってやった。確かに、よく見れば中性っぽい顔つきをしていて、整った顔立ちとも言えないことはない。だけど、特別なハンサムならテレビや雑誌を見てれば掃いて捨てるほどたくさんいる。
 その時に限っては、優越感に浸っていることができた。興味なさそうに窓の外を見ていた少年が私に見とれていたのだから。だけど、その質問責めの間、彼は石になったかのように隣で窓の外の景色を眺め続け、私にはいっさい話しかけてこようとしなかった。また私はムッとしてしまい、結局私の方から話しかけることになってしまった。そうでもしない限り、話をするきっかけがなかっただろう。
「なんでこっちを見ないのよ」
 彼は驚いたようにこっちを見た。まるで、話しかけられたこと自体が夢の中の出来事なんじゃないか、そんな表情をしていた。
「別にそんなわけじゃ……」
 歯切れが悪く、そう彼は答えた。私は彼の、ただそれだけの短い言葉の中で、説明できない何かが気になった。特別強い印象を受けたのでもなかった。ただ、暖かい固まりみたいなものが現れて、私の中にじんわりと熱を持ったまま残った。
 なんだろう?
 私はそれがいったい何なのかを探した。
 うつむき、私の顔をまともに見れないような情けない男の子。それだけなら目の前の少年じゃなくても、どこだって捜せば出てくる。
 少し赤くなっている頬? 違う、それじゃない。次に何と言えばいいのか、何かいいたそうでそれを言葉にできないもどかしい態度? それも違うと思う。
 きっと……。
 私は、それが彼の目なんじゃないかと思う。
 グレーの輝きの奥に、驚きがあった。そして、傷つけられるのを何より恐れるおびえが見てとれた。まるで、狩られる前の小動物みたいな目だ、と思った。
 一見しただけではただの狼狽にしか見えない、なんでもない瞳だった。そこにはいろんな物が含まれていたような気がする。私の考え過ごしかもしれないけど、彼の目には私と同じ部分があったような気がした。それは心のとても深いところにある。手を伸ばしても決して届くことのない湖の底に沈んだ宝石のようなものだ。
 たった一言で、私は感じ取ったのだ。彼は、人と向き合うことを怖がっているのだと。私に警戒心を見せまいとして、知らず知らずのうちに笑顔を作ろうとしているように見えた。それが、とても痛々しかった。ただ、この少年の態度を見ていると、無性に苛々する。私と違う点は、それを人に感じさせるかさせないか、そこにつきると思う。
 私は決して他人には見せない。でも、彼は自分で気づかないうちに滲ませているのだ。
「名前は?」
 私は少し言葉を鋭くして言った。
「…碇シンジ」
 それだけをいうのがやっとだというのが手に取るようにわかった。
「よろしくね」
 私はそれだけ言って、一方的に会話を打ち切った。これ以上しゃべっていると、何か叫び声をあげずにはいられないような衝動に駆られたためだ。彼は相変わらず何が起こったのかわからなくて目を丸くしてみました、という表情のまましばらく私の横顔を見ていた。少ししてから、慌てて恥ずかしそうに目をそらせた。
 何で私はこんなにも苛立っているのだろう。そればかりをしばらく考えていた。知らないうちに、動悸がかなり早くなっていた。私はそれを怒りのせいだと思っていた。のろまなヤツ。そんな人間を見ると、訳もなくフラストレーションがたまってしまった。それは半分当たっている。でも、半分は外れていた。
 その原因がわからなくて、私は夜も眠れないほど考え込んでいる。碇シンジという少年。あれから少しだけ会話をしたら、すぐに隣のユイさんの息子だということがわかった。日本の姓名に詳しくはないけど、碇という名字はあまり多くないんじゃないかと思った。それに昨日の今日だし、その名前はよく覚えていた。
 碇シンジ。
 あいつに何があるというのだろう? 私はあの少年に対して、何を感じている?
 そして、どうしたいの?
 私がこんな時、数学のように決まった解を出せない問題に手こずってしまう理由は、自分でよくわかっている。十四歳の女の子のくせに、それ以上に見せようと必死になるところがあるせいだ。人に見られるとき、そう見せたがる。ママが死んだ後、いつのまにかそうなっていた。だけど、本当はそうじゃない。ただの意地っ張りの十四歳だ。認めたくはないけど、私は人が思っているほど頑丈な神経をしているわけじゃない。ワイヤーロープなんかじゃなく、細い蜘蛛の糸のようなものが私をギリギリ現実と繋ぎ止めているに過ぎないのだ。
 それはどこにつながっているのだろう。
 どこに?
 その先には何があるの?
 誰かに教えてもらいたかった。でも、私に近い人たちは、みんな土に還った。
 私は一人でほとんどをやっていける。
「……でも、わからないことがあるのよ」
 私は、古ぼけたサルのぬいぐるみに話しかけた。ママが生きてた頃に買ってくれたものの中で、手元にあるのはこのぬいぐるみだけしかない。ガキじゃないんだから、と思いつつも捨てることはできないでいる。だから時々こんなふうに、ママの代わりに話を聞いてもらったりしている。
「ねえ教えて。私は何を想っているの?」
 底知れぬ不安が、日本にきて始めて私を貫いていった。その余波がいまだに残ったままだ。壁を一枚隔てた向こう側に住んでいる碇シンジ。
 彼のことばかりが気になって、私は何もする気が起きなくなった。彼の瞳が、網膜に焼き付いたように、瞼を閉じれば浮かび上がってくる。
 気がつくと、カーテンの外では夜の帳が訪れていた。ソファーに倒れ込んで、そのまま夜遅くまで寝てしまっていたらしかった。目が覚めたとき、もう星が輝いていた。どこかで、私の心臓以外の音がする。
 辺りを見回した。月の光がたった一つの明かり。そんなくらい部屋の中で、時計の時を刻む音だけが哀しそうに泣いていた。




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