5 : Prayer in the night


 壁一枚隔てた隣の部屋にあの少女がいる。
 ただ、それだけが身の回りで今までと違うこと。それだけでしかない。ほかに何か別の外的な変化が訪れたわけでもない。
 しかし僕の中では、もう一つあった。それは、僕自身の中での変化だった。それがなんなのかは何となく分かる。そんな気がするだけなのかもしれない。胸の中にある感情のスイッチ。嬉しかったり哀しかったりするときに入ったり切れたりするスイッチ。その中で、一度も使われたことのない一つがONになったのだ。
 何かが動き出した。そんな気がした。
 でも、これからどうしろっていうんだろう。そう自問してみる。もちろん、答えなんて返ってこない。最初から無いんだから、出てくるわけがない。何時間経っても、何日過ぎてもアスカという少女を思えば、いつもドキドキするだろう。そんな感情のスイッチが入ったのだ。
 それはいいことなんだろうか。
 電話の短縮に一つ新しい番号が加わった。隣の家の番号。僕が使うことはないであろうその番号。
 たったそれだけのことが、僕にとっては新鮮だった。
 嬉しい?
 そうかもしれないと思う。
 ただ、心の中の変化というか動きはひどく流動的で、一ヶ所にとどまろうとせず、おまけに固形物の形を絶対にとらないので、僕はゲルの中に手を突っ込んで一握りをつかみ上げるような感覚を味わい続けた。そいつのせいで言葉にできない。何一つ言葉にしたくてもできない。話しかけられたときも、何も言えなかった。もどかしくて、苦しくて、でも、どうしようもなくて、頭を抱えて悩むことしかできない。
 今日も顔を合わせる。明日も、明後日も、その次も、来週も来月も、きっと顔を見合わせることになるだろう。だけど、もしかしたらすぐに高校まで進んでいくかもしれない。僕らが卒業する頃には大学にいたりしてるかもしれないのだ。それは、ありえないことじゃないと思う。
 僕自身、そんなことを考えたってどうしようもないって判ってるはずなのに、いったいどうしたいというのだろう?
 何を望んでる?
 それ以上は、思考がループを描くだけで、前に進もうとしなかったから、それ以上考えるのは止めることにした。眠ろうとして、布団をかぶり直した。そして、何気なく寝返りを打ったとき、息が止まってしまうほど驚いた。そこに、青い髪の少女がたたずんでいた。僕をじっと見ていたのだ。
 誰にも向けていた冷たいまなざしを、僕にもまた向けていた。出会った頃の彼女そのままに、息を殺した僕を見下ろしていた。
 声帯が凍り付けになったかのように、僕は口をだらしなく開けたまま彼女を見上げた。その体勢のまま、しばらくは動けずにいた。
 彼女は何も言わなかった。ただ、僕がその僅かな金縛りの呪縛から解き放たれて、飛び跳ねるように体を起こしたときには、綾波レイの幻は霧散するようにかき消えていた。

 教室のドアを開けると、一瞬みんなの視線が私に集まったが、すぐに元のあるべき場所へと戻っていった。でも、その一つが私に向けられたまま、それが朝の挨拶に変わる。
「おはよう」
 委員長の女の子が挨拶してきた。私もすぐに、
「おはよう。えっと、」
「洞木ヒカリ。同じクラスだったのね」
「そう、ヒカリ、ね」
 私が、一瞬思い出すような表情をすると、彼女は私が記憶から検索するよりも早く名乗った。昨日、職員室まで案内してくれた子だった。
「うん。昨日も思ったんだけど、惣流さんてドイツにずっといたのに本当に日本語上手いね」
 昨日別の人達に何度か言われたことを、彼女も言った。ただ、ちょっと違ったのはその後に「ずっと努力してたの?」と訊いてきたことだった。
「さあ、どうだろう。パパと喋ってるときもほとんど日本語だったし、意識したことは無いわね」
「へェ…。なんかかっこいいよね、バイリンガル」
 私は知らず知らずのうちに笑った。
「むこうじゃ当たり前よ。フランス語ロシア語英語スペイン語ベルギー語にオランダ語」
 私が指を折りながら早口でそう言うと、彼女は納得しながらも目を輝かせたままだ。ぼんやりと「すごいなぁ」と言った。私は他意のない彼女の表情がとても気に入った。
「学校で判らないことがあったら何でも訊いてね」
「そうする」
 彼女は用事があるからと、私と入れ違いのようにそのまま教室から出ていった。職員室まで出席簿を取りに行くのがどうやら日課のようだと知ったのは、もう少し後でのことだった。このときは、どこに行くのだろうと首をひねった。
 私は席について隣の席を見てみた。まだその席の所有者は来ておらず、HRがはじまるチャイムまでは五分と少しあった。
 ふと考えた。家が隣ということは、いつか一緒に登校したり下校することもあるんじゃないかと。あり得ない事じゃないと思う。日本での保護者は彼の両親なのだから。いつか晩ご飯を一緒に食べようとか、そんな理由で彼の家へ呼ばれるかもしれない。私にはそれを断る理由もない。
 何となくくすぶっている苦手意識。けど、碇家の人たちに対してわだかまりがあるわけではないのだ。
 ただ、彼個人のことに限っていえば、少し気になる。
 これって何だろう?
 私とユイさんとゲンドウさんとだけだったら楽に想像できる。でも、そこにもう一人が加わると私の心は酷く乱されるのだ。掻きむしりたくなるような衝動が起こってしまう。
 これって何?
 窓の外で、生徒の数がまばらになった頃に校門から走り込んでくる生徒が見えた。
 それが碇シンジだった。
 門の中にはいるといったん立ち止まって息を落ち着かせていた。肩を上下に揺らして、肺の中の空気を一生懸命に入れ換えているのが見える。私はそれを醒めた目で見ていた。私との接点は、隣の家の保護者の息子。その程度でしかない。学校では席が隣の少年。それが加わるくらいだ。
 だけど、彼の見せる表情のあいだ間に見える影みたいなもの。そこには何かがあると思った。
 そこにあるものが私は気になる。だからこんなにも考えているのだ。
 彼は前を向いて歩き出した。遠くから見ても、まだ息は荒いままだった。私の席の少し前で、昨日彼と一緒に話をしていたジャージを着たのとメガネのビデオカメラを構えた二人が、私と同じ対象を見て何かを話していた。
 今日はやけに遅いな、早起きのあいつが、と言う声が漏れ聞こえてくる。私は彼らに気が付かれないうちに視線を向ける先をかえた。ドアが開いて、委員長のヒカリが戻ってきたのが見えた。なんとなく彼女とは波長が合うような気がしていた。そういうのは初めて会ったとき、ちょっと言葉を交わしただけでだいたいがわかる。そうじゃないと、大学みたいな高等教育機関を私のような、社会一般でいう「ひよっこ」が卒業できるわけなかった。
 処世術。
 嫌いな言葉だけど、私にはママが死んだときからそれが染みついている。
 自分一人で生きる。そう思い続けてきた。
 それのおかげで私はここまで来た。
 ここまで来た? こんな所に来た、じゃなくて?
 本当のところ、そんなことはどうでもいいことなのかもしれない。
 私は周りの子供達より先に教育が終わってる。今は、やらなくてもいいことをやっているようなものだから、別にのんびり構えていても文句は言われないだろう。
 最初から中学校に長居するつもりなんて、そんなにあったわけじゃない。でも、ちょっとだけ私の中でいろんなものの考え方が変わろうとしている。たった数日で知ることになった、私は動かされている、という自分を取り巻く環境と今までになかった感覚。それは決して不快なものではなかった。どこか楽しんでいる自分の意外な一面を発見して、私はすこし驚いたのだった。

 学校から帰るとき、僕は一人で帰っていた。特別な理由はない。いっしょに帰る人がいない。ただそれだけのことだ。
 今日もトウジは相変わらず委員長につかまってて、嫌々掃除させられてる。ケンスケは早退してしまった。なんでも横須賀の方に年代物の空母が来てるとかで、彼の写真と映像のコレクションはさらに増えているだろう。
 今日は、と前置きをしたけど、そうは言ってみても僕は一人で下校する回数の方が絶対的に多い。なんとなく、その方が気楽だから、というのが理由だろうか。人がいると頭を空っぽにして歩くとかできない。何かを喋ってなくちゃいけない、そんな強迫観念にとらわれて息苦しいし、どっと疲れてしまう。ただ、綾波がいた頃は、二人とも饒舌じゃなかったし、会話しなくてもいいような雰囲気があったから結構気楽だった。僕らはその辺りで波長がシンクロしてたんだなって思う。ただそこにいてくれるだけでいい。いてくれるだけで、心が落ち着いた。他の人からは絶対に感じられなかった安心感が存在していた。
「待って」
 僕が学校から出ようとしたときに、横の方からそんな声がした。僕はそれが自分に向けられたものだとは、最初気が付かなかった。
「あんたよ、シンジ」
 えっ、っという感じで僕は首を右にひねった。校門の外壁にもたれかかった惣流アスカがそこにいた。腕を組んで、こちらの方を睨むように見ている。
「なに?」
 僕は警戒してしまった。一番に考えたのは、何か彼女の気にさわるようなことをしてしまったかな、だった。でも、思い当たる事なんてない。そんな僕の思考を知ってか知らずか、厳しい剣幕のまま彼女はスタスタと僕の方へ一直線に歩いてきて、隣で立ち止まった。一緒に並んでみるとわかるけど、彼女は僕と同じくらいか、僅かに僕より背が高かった。でも、腰の位置は僕よりやや高くて、スタイルはやっぱり違うなぁ、と思った。
 彼女は腰に手をあて、僕を頭の上からつま先までをじっとみつめ、やがてなにを思ったのか深々と溜息をついた。
「ま、いっか」
 という独り言が僕にも聞こえた。なにがいいんだろう、と僕が思っているところへ、
「今から暇ある?」
 と言った。
「別に用事はないけど」
「じゃ、ちょっと付き合って」
 頼み方が命令調になっていて、断れないような雰囲気をつくっている。NOという理由もなかったし、僕は何も考えずに首を縦に振ると、彼女は急に歩き出した。ついてこい、と後ろ姿で言っている。結構早く歩いていくので、僕は小走りで追わないといけなかった。
「どこに行くんだよ」
「わからないわ」
「え?」
「だからあんたに来てもらったのよ」
 訳のわからないことを言う奴だな、と思って彼女を横目で見た。向こうも僕の方を見ていた。慌てて僕は視線を正面に戻した。隣でも目を前に戻す気配がした。
「私、あんたをシンジって呼ぶから」
 一回呼んでおきながら、そんなふうに彼女はいちいち説明した。
「うん」
 でも僕は、正直ホッとした。隣の少女には「碇君」とは呼ばれたくなかった。僕の中で特別になりつつある人に「碇君」と呼ばれるのは、どうしても心に痛みを感じずにはいられないのだ。きっと、そう言われて振り返るたびに、僕はあの写真立ての中の彼女を思い出す。
「だから、私のこと呼ぶときもファーストネームでいいわ」
「…わかった」
 そうは言ったけど、すぐにはできないだろうなぁ、という漠然とした思いが頭をよぎっていった。呼べても、軽い抵抗があるはずだ。なぜなら、僕は名前で女の子を呼んだことがないから。綾波レイの時だって、綾波だった。
「それで、僕はどうすればいいの?」
「別に。ただ私が言うことに答えてくれればいいわ」
 なにやらムチャクチャなことを言われているであろうということはわかったけど、不思議と腹が立ってきたりイライラしたりはしなかった。むしろなんだかのんびりとした気分で、彼女とは言葉を交わすことができた。苦手意識が彼女に対しても無くなっていた。いつのまにか、あのころの綾波に感じていた雰囲気と同じように。
 二人は口調だけでも全然僕と違う。言葉の強弱の付け方とかはまるっきり欧米のものだし、手振り素振りなども少し大げさなところがあって、その辺がドイツの子なんだな、と思わせる。それに、僕とは違って警戒しながら話さないから、言葉はハッキリとしていて力強さがある。声の大きさ自体は大きくなくても、しっかりと人に届くような気がする。中央に、意志のしっかりした芯があるのだ。
 僕は何も言えず、彼女の隣を早くなりすぎたり遅れたりしないように気をつけながら歩いた。なんでこんな事してるんだろう、とちょっとは思ったけど、あまり気にならなかった。彼女の強引さは、僕にとって不快じゃない程度のものだったのだろうか。それとも、初めてのことで僕が呆気にとられているだけなのかもしれない。
 会話の糸口は、すべて彼女の手中にあった。僕は訊ねたい事をとっさに思いつくほど、機転が利くわけじゃないのだ。しどろもどろになるのが関の山、といったところだった。だから彼女も、それを見透かして「私の言うことに答えてくれればいい」なんて言ったのだろう。
「どこに何しに行くの?」
「買い物」
「なんの?」
「いろんなもの」
「それだけじゃわからないよ。もっとはっきりした名前を言ってくれないと」
 すると、彼女は息をすーっと吸い込んだと思うと、
「洗顔料、机、イス、食器棚、電子レンジ、フライパン、トリートメント、クラッシックのCD、電話機、今晩の食事、タンス、下着、日本語と英語とドイツ語の本」
 といった具合に、一気に名前を列挙した。
「も、もういいよ。わかった」
 指折り言っていたけど、まだまだ終わりそうになかった。僕は慌ててリストアップをやめてもらった。放っておけば、まだまだ足りないものを片っ端から挙げそうだったのだ。
「つまりは、僕が売ってるところに連れていけばいいんだろ?」
 彼女は少し笑みを口元に浮かべて、コクリと頷く。
「だったら普通に言えばいいじゃないか。『売ってるところがわからないから連れていって』って言えば」
 僕の軽い抗議の声を無視して、彼女はグングンと歩いていった。とりあえず、僕らは繁華街の方へ向かって歩いた。僕が何も言わないと、このまま街を横切ってしまいそうだな、と思った。
「とりあえずさ、まず何がほしいか言ってよ」
「大きいものから片づけたいわ」
「じゃあ、電気類を先にすませようよ。そのあとインテリア。それでいい?」
 いいわ、と言いながら彼女は首を縦に振った。心なしか、校門で呼び止められたときより表情が軟らかくなっているような気がした。そう言えば、僕自身も警戒心がさっきよりも揺らいで薄くなっていることに気がついた。なんでだろう、と思うよりも早く十字路がやってきて、僕はそこを左だよ、と言わなくちゃいけなかったので、それ以上続きを考えることができなかった。

『校門で待ち伏せる。街を案内させるために』
 それが口実でしかないことを、誰かに指摘されなくても私自身が何より一番わかっているつもりだ。
 確かに私は引っ越してきてから、マンションの近所にあったコンビニエンスストアーで買ってきたレトルトなんかや、スーパーで買ってきた卵やパンで食事を済ませていたので、ほとんど生活必需品がそろっていないことも確かだった。
 私の住む住居の中にあるもの。ドイツから持ってきた橙色の柔らかいソファー。備え付けの旧式型電話機。ダンボールの山と、そこからまだ取り出されてない衣類の数々。毛布。最低限の食器。そして、色あせた猿のぬいぐるみ。
 殺風景すぎる、と言われればそれまでだ。溜まっていた疲れが一気に吹き出してきたという感じで、私は土曜の午後に帰ってくると、そのまま日曜日の昼頃まで寝てしまっていたのだ。そこから新しい地図なり本なりでこの街のことをある程度下調べし、いろんなものを買ってくるような気力は湧いてこなかった。そのかわりに、どっとけだるさが襲ってきて、小脳から首筋にかけての神経が甘く痺れたような、軽い睡魔が一日中抜けなくて、寝たり起きたりを一時間ごとに繰り返しているうちに夜になってしまった。
 私はシャワーをカラスの行水ですませると、あれだけ寝たにも関わらず、また朝までぐっすりと寝入ってしまった。だから、私はこうして隣の家の息子を連れ回している。
 だけど、買い物に付き合わせているというのは、彼と言葉を交わして胸の中のモヤモヤをクリアにするための口実でしかない。本当は、昨日の日曜日の間中、まどろみの中で考え続けていたのだ。それだけの時間はたっぷりあったし、慌てる必要のない時間だったから、よけいに冷静になることができた。だから、時間を損したとは思ってない。代わりに有効利用した、という感じだろうか。
 私の中で、その漠然としたモヤモヤは、時間をかけて徐々に輪郭を形作ろうとしている段階だった。まだ、それがなんなのかは見えてこないけど、何となくは予測でわかっているつもりでいた。しかし、それが不鮮明で、しかも私が今までに感じたことのない感情のうねりだけに、その予想が当たるとは思っていなかった。当たったら当たったで、まいっか、程度のことでしかない。でも、当たって欲しくないという防衛本能みたいなものも、確かに存在してる。
 その形の無い雲のようなものは、私の思いとは裏腹に時間以外の概念は受け付けてくれない。つまり、時間だけがそれを成長、もしくは形成していく。私の力だけではどうにもならないものを心の中で抱え込んでいる。
 太陽は、もう高い位置にあるとは言えないというところまで降りてきていたが、私は気にしなかった。
 さっきから何度かこの少年の横顔を盗み見ていたけど、そこからは特に変わったものは感じ取れなかった。初めて教室で出会ったときと一緒だった。ただ、今は心に抱えているものがある分、ちょっと印象は違う。
 私たちは、校門で私が声をかけてから二時間以上あちらこちらへ足を運んだ。私が冷蔵庫もないことを告げると、彼は酷く驚いたようで、
「そりゃまずいよ。梅雨知ってる? 六月頃からはじまる長い雨の時期のことをそういうんだけど」
 私はよく知らない、と言うと、
「その時期はすごくムシムシして湿度が高くて、カビが生えるしすぐものが腐っちゃうんだ。冷蔵庫の外に半日置いた生ものなんか食べたら、一発で食中毒になっちゃうよ」
 ムキになってそう説明してくれた。その後、自分が力説してることに赤くなって、「ごめん」と謝った。意味もなく謝る子だな、と思った。
「昨日、母さんといろいろ話してたんだよ。何か困ったこととか足りないものとかないのかな、って」
 彼自身、日本に来たばかりの私に気を使っているのだということはわかった。だけど私は、
「何かあったらユイさんに相談するわ」
 と、彼の顔を見ずに言った。
「あ、うん」
「だったら、まず冷蔵庫が見たい。どっち?」
「もうちょっと行くと電気店が並んでるところがあるから、そこで探そう」
 彼は、その辺まで行くと、ちらちらと私の顔をのぞき見るようにして、何かを訊ねたそうだった。私の方が我慢できなくなって、ちょっと強い声で言った。
「何? 何か訊きたいんでしょ?」
「うん。お金の方、大丈夫なのかな、って思ったから……」
 私はフンっと鼻で息を吐いて、鞄の中からカードを取り出して見せた。それだけじゃ不十分だから、説明を付け加える。
「私の実家、こう見えてもそこそこのお金持ちなのよ。私が頼めば、車の一台くらい、運転手付きですぐ手に入るわ」
 嘘ではない。ママの実家はそこそこの旧家だそうだ。同じような立場だったパパはパパで、しがない研究者をやっていたけど、それはお金持ちの道楽みたいなものだった。結構お坊ちゃん育ちだったパパが、唯一親の意見に反対したのがママとの結婚だったそうだ。今の私の義母は、そのパパの親、つまり私の祖父祖母にあたる人が推薦した再婚相手だった。家柄にこだわる下らない風潮は、パパの代で途切れてしまっている。だから、私には何ら感化するものはない。それであの義理の母を好きになれなかったのかもしれない。とにかく、祖父母達は数年前に亡くなり、父へと呆れるような額の遺産は受け継がれた。義理の母に結構持っていかれたとはいえ、私に入ってきたパパの財産は生命保険と合わせても悠々十年くらいは生活するくらいのお金があった。だから、腐るほどある、と言うわけではないが、一人で生きていくために必要なものをそろえるくらいの資金は十分な量が確保してある。
 それらを、要点まとめて説明してやると、ふーんと興味なさそうに相づちを打っただけだった。その時、彼はこの質問自体に興味がなかったんだということを感じた。動揺を隠しているように見えないこともなかったが、ほかにもっと訊きたいことがあるのに遠回しにしてタイミングを逸しているみたいだな、と思った。
 それ以上は彼も何も言わず、私たちは必要最低限の会話を繰り返していくつもの買い物を済ませていった。冷蔵庫、テレビ、ビデオ、留守電付きの電話。インテリアで必要だと思った簡単なテーブルセットも、カーテンも買った。ほかにはとっさに思いつかなかったので、それらをある程度まとめて、後日届けてくれるように頼んだ。送り先は、つたない日本語しか書けない私にかわって、彼がすらすらとボールペンを毎度走らせてくれた。ありがとう、と言うと、彼は笑って「どういたしまして」と言った。
「冷蔵庫とかが届くまで、うちでご飯食べればいいよ」
 彼はそう言った。私もそうね、とだけ言った。素っ気ないけど、ほかに言うような言葉が見あたらなかったのだ。本当は、こんなしゃべり方、したくなかった。ただ、どうしてもこんな言い方しかできなかった。表現力と語彙力と感性が冬眠してしまったかのように、私は無意識に言葉を紡ぎだす機械と化しているような気がする。
 ダメだ。こんなんじゃいけない。
 そう思ってはみるものの、これといった打開策があるわけでもない。
 だから私たちはただ歩き回り、買い物をし、必要最小限の言葉しか使わなかった。いや、使えなかったというべきなんだろう。
 彼が疲れたような表情を見せたので、私はお礼の変わりに何か奢るからと言って、最初に目に入った飲食店の中で、一番私の好みに合いそうなオープン・カフェに半ば引き込むような感じで入っていった。そうでもしないと、彼ははっきりと意思表示をしそうにないように見えたからだ。
 私が堂々と席に着いたのに対して、彼はいかにも慣れてません、という雰囲気で恐る恐る席に着いた。
「何にする?」
 私はメニューを一瞥し、彼の方に向け直した。
 私から受け取ったメニューを、彼は一生懸命に二分くらいは見つめて考え込んでいた。そんなに悩むものでもないでしょうに、と思ったけど口には出さなかった。そのかわり、私はいくつか彼にぶつけてみたいと思った質問をストックしながら、じっと周りの景色やこのカフェの店構え、私たちのマンションからの位置とかを漠然と眺めたり考えたりしていた。
 誘った最初から日は傾いてたし、西の空の一部がちょっと赤らんでるだけで、もう時間で言えば夜だった。ドイツはもうちょっと日が長いのにな、と思いながら通りを歩く人や車の流れを見ていた。この街の人たちは歩くのが早い。何にそんなに追われているのだろうか。そう考えてしまうくらい、彼らは急かされるように私の目の前を横切っていく。そのかわり、飽和状態になりつつある車の流れはゆっくりだった。足の遅い人間は急ぎ、スピードを出せる車はのろのろとしか進まない。
 カフェはちょっと街のはずれの方の、ファッション系の小さなお店が建ち並ぶ通りの一角にあった。周りを見れば、ブティックとかが目に飛び込んでくるほど、たくさん並んでる。店内の方はシックな感じで、外側の方も木の皮で編んだようなイスとテーブルで、この店の醸し出す雰囲気が何となく気に入った。周りには観葉植物が邪魔じゃない程度に置かれていて、それも好印象の一つだった。ただ、目の前でメニューを眺めている少年にしてみれば、こんな場所にはほとんど来ないのだろう。そんな周りのことを意識するような素振りはちっとも無かった。
 歩いた感じと地図を見た感じでは、私たちのマンションから歩いて三十分弱といったところだろうか。そのくらいだったらいつか自転車も買って、何度か来てもいい場所だなと思った。
「決まった?」
 横目でウェイトレスが近づいてくるのを確認した私がメニューを少し引っ張っていった。
「あ、そうだなぁ。じゃあ、アイスティー」
「それだけ決めるのに何分かってるのよ」
「ご、ごめん」
「別にいいけど」
 右肘をテーブルの上に載せ手の甲で顎を支えながら、じっと彼を見てみた。何を遠慮しているのか、彼は私と視線を合わせることはできない。私は小さく溜息をついた。
「ご注文はお決まりですか?」
 二十歳くらいのウェイトレスが、のんびりとした口調で言った。
「アイスティーとカフェ・オレ」
「以上でよろしいですか?」
 私が頷くと彼女は店の奥の方に引っ込んでいった。
 この時間は風が熱くも寒くもなくて心地よい感触で私の皮膚を撫でていく。ちょっと湿っぽいところもあるけど、風があるとあまり気にならない。木陰はアスファルトのため込んだ太陽の暖かみを感じさせないので、やっぱり涼しく感じる。
 今度は両肘を机の上に載せて、手は重ね合わせる。その上にまた顎を乗せて、また彼の方を見てみた。今度は彼も私の方を見ていた。けど、すぐに下を向いてしまう。なんでそんなふうに目を逸らすんだろう。何がそんなに怖いんだろう。
「あの、僕の顔に何かついてる?」
「なにも」
「だったら、なんで僕の方、さっきからじろじろ見てるの?」
「する事がないから」
「え?」
「あんたが一つも喋ろうとしないから会話が途中で切れちゃうでしょ。だから何もすることなくて、こうやって見てるの」
「…それって楽しい?」
「私が喜んでこんなことしてると思う?」
 ジト目で私が聞き返すと、彼は少し慌てて、
「思わない」と言った。そして、また「ごめん」と言った。
「思ったんだけど、会ったときから私に質問するか謝っているかのどっちかしかしてないでしょ?」
「あ、ごめん。そんな気がする」
「ほら、また謝ってる」
「……………」
「私も困らせようと思って、こんな事言ってるんじゃないのよ」
 私は苦笑せずにはいられなかった。彼のかしこまった態度を見ていると、ついつい何か言ってみたくなるような気がしてきて、それを意識せずに実行してしまう。そんな感じで、出会った日から私は彼と会話している。それは今まで感じたことのない感情を含んでいて、戸惑いと喜びと、そして自分に向けられた「何をやっているんだか」という、自虐を込めた反省とが混じり合っている。
 外は随分と忙しないのに、私たちの間だけにはそんな空気がちっとも感じられなかった。ただ、彼は居心地の悪さを感じているのかもしれない。初対面に近い女の子と向き合うことに慣れていないようだし、私が選んだこの場所にも、なんだか自分自身の存在を違和感として捉えているような顔つきをしている。
「ねえ、私と喋るの、苦痛に感じる? 素直に言って」
「思わないよ。そんなふうには」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ、どう思ってるわけ?」
「どうかな…。口でいい難いよ。言いたくないんじゃなくて、上手く言葉にできない」
 ああ、一緒だ。とっさにそう思った。
「とにかく、なんかまだ上手く言えないんだ。時間をおかないと……あ、アスカとは上手くしゃべれないような気がする」
 私の名前を呼ぶとき、ちょっと緊張してどもったのが妙におかしかった。私は笑いをこらえた。
「まだってどういうこと? 時間をおくって、それってどのくらい?」
「そんなのわかんないよ。とにかく、ゆっくりと頭の中のゴチャゴチャ、整理し直さないといけないから、すぐは無理だと思う」
 ますます私と一緒なんだな。何でゴチャゴチャなのかって、聞かなくてもよかった。だけど、その混乱が私と同じものなのかどうか知りたい。強烈な熱望が私を襲っていた。どうなんだろう。一緒なんだろうか。それが知りたい。
「それって……」
 言いかけて、私は言葉を飲み込まなくてはいけなかった。
 さっきのウェイトレスがすぐ側まで来ていたからだ。彼女は「お待たせしました」と、相変わらずゆっくりとした口調で言うとコースターを敷き、その上にグラスをそれぞれ置いて、伝票を裏返しにして風で飛ばないようにガラスでできた重石を上に載せた。
「ごゆっくりどうぞ」
 彼女の居た間は、多分三十秒に満たなかったのではないだろうか。だけど、僅かなその時間で遮られた私の質問は宙ぶらりんになってしまい、彼に訊ねるタイミングを失ってしまっていた。
 私はムスッとしてカフェ・オレに口を付けた。ミルクとよく混じり合って、不機嫌だけどおいしいと思った。何かの出会い頭を叩かれるほど嫌なものはない。それを、この冷たい飲み物がいくらかは和らげてくれた。
「まー、そんなに深く考えなくてもいいんじゃないの。あんたにとって、私はただのお隣さんでしょ? ついでにクラスメイトで席は隣。そのくらいなんだから」
「そう、それだけ。でも、ただ何となく考えちゃうんだ」
 それはきっと嘘だ。何となくじゃない、ずっと考えないと落ち着かない、居ても立ってもいられなくなるようなものだ。少なくとも、私はそうなのだから。考えている間だけ心に平穏が訪ねてきてくれる。ただ、穏やかさをもたらしては帰っていく。ずっと永住してくれる気がないのは、私が一番よく知っている。そして、また自分でコントロールできない感情の嵐が吹きすさぶ。その繰り返しだ。
 ただ、それはきっと私と同じだけど、私と同じ所を向いて考えているのかどうかを知りたい。
 でも、今は聞けない。
「じゃ、ついでにもう一つ聞かせて。私と一緒にこうやって二人でいること。今回が初めてだと思うけど、こういうのって嫌だと思う?」
 以外と口から出すには、難産な質問だった。言ったあとで、意外な疲労感が私を襲った。
 彼の答えはノーだった。口元に笑みを浮かべ、彼は首を横に振った。そして、今度は私の目をまっすぐに見て言った。
「アスカといると、なんだかホッとする。不思議だけど、なんか落ち着く感じなんだ。でも、ちょっとドキドキもしてる」
 私は不意に息が詰まりそうになった。
 突然、シンジの言葉と、パパが昔に私に言ってくれた言葉が重なったのだ。突然の懐かしさに、私はちょっと慌ててしまった。
 私が四歳になろうかという頃、パパに言ったことがあった。
「パパ、あすかのことすき?」
「ああ、好きだよ。とっても。アスカと一緒にいると、嬉しくてドキドキするよ」
 その時、私はパパの言葉の「ドキドキ」という表現の真意をつかむことができなかった。握りしめるには、私の両の手のひらは小さすぎたのだ。わかる今となっては、どうっていう事のない擬音だと思う。けど、それは私の心の中に住む、小さな住人。もう帰ってこない人の、永遠の記憶だろう。
 私は緩みかけた涙腺のバルブを何とか締め直した。
 私はどうして、とは聞かなかった。昔も今も。二つではその持っている意味がそれぞれ違うし、聞かなくてもよかったのだ。
「それって、シンジにとっては良いこと?」
「多分。それより、さっきから質問ばっかりしてるね、アスカ」
「あんたの質問病が伝染したのよ」
 私はぶっきらぼうに言おうとして、失敗した。大目に見ても、それは照れ隠し程度にしかならなかった。彼に迷いのない声で名前を呼ばれて、意味もなくドギマギしてしまっていた。結局、それから私たちは互いの家に帰るまで一言も口を利かなかった。だけど、それを気まずいとは感じなかった。彼はどうだったんだろう。でも、さっきの言葉を信じるなら、私と一緒のはずだと思った。
 それは偶然だった。
 そう、たまたま。それ以外にない。そうでないとしたら、神様の仕業でしかない。
 彼の家の前で私たちは一度立ち止まり、
「今日はありがとう」
 と、今日連れ回したことの礼を言った。確かに彼は助けてくれたのだから。
「うん」
 彼が頷いて、私たちは別れをすませて、彼が家のドアを開けようとインターホンのスイッチを押そうとしたときだった。このマンションは玄関の扉が電車のドアのようにスライドするようになっている。キーの変わりに暗証番号を入れるようになっているのだ。それを代わりに行う専用カードもある。
 雑貨をたくさん買ったはいいが私の鞄には入りきらず、彼の鞄に詰め込んでいたものの一つが、鞄の口からその時に限ってこぼれ落ちた。後で考えても、歩いてる最中に飛び出していてもおかしくないように思う。だから偶然だというしかないのだ。
 リップスティック。
 私たちのちょうど間にコロコロと転がって止まった。
 私は彼の鞄の中に荷物をつっこんだままなのをその時思いだし、それを言うより前に拾おうと手を伸ばした。
 もちろん、彼も手を差し出した。
 そして私の手がリップスティックに触れた瞬間に、彼の手が半瞬遅れて私の手の上に重なった。
「あっ」
 思わず声を上げてしまったのは私の方だった。
「あ、ごめん。忘れてた。今出すから」
 そう言って彼が思い出したように鞄に手を突っ込むよりも早く、気がつけば私は手に取ったリップスティックを握りしめて自分の家の中へと駆け込んでいた。
 壁の向こう側で呆然としているはずの、見えない彼の顔が網膜の中で浮かび上がる。
 だが、私はそんなことにかまっている余裕など、一ミクロンの隙間さえなかったのだ。
 右手の甲が、彼と触れた部分が異常なまでに熱を持っている。触れた瞬間に巨大な衝撃を受けたような感覚があった。
 それらは錯覚でしかない。
 だけど、私の心はもっと大きな錯覚を引き起こしていた。
 私は知識の上だけでは知っていた。この錯覚が何であるかを。
 一度走り出したら、なんからの結果が出るまで止まることのない、ブレーキのない車だ。
 見聞きするのと、実体験ではまるで違う。いや、一緒だけど全く違う。
 レンアイって錯覚だ。
 私は動悸が鳴りやまない心臓を押さえつけながら、ぼんやりとする頭でそう思った。
 ああ、ついにこの時が来ちゃったんだな、とも思った。
 私はこれから何処へ向かうんだろう。
 まだ日本に着たばかりなのに。
 頼れる人もほとんどいないこの街で、私は一番頼りにしたい人を見つけてしまったのだ。
 手が熱い。
 だけど私の心の中は、自分で持て余すこの感情の方がよっぽど熱を帯びている。
 私はよろめくようにして何とかベランダの側までたどり着くと、ばたんと倒れ込んだ。空が半分目に入ってきた。もちろん、今までとは全く違う夜空がそこにある。決定的な違いは、星が暗いことだ。いや、今はもっと違うことがある。
 滲んだ世界が私の目に映っている。
 涙が一滴、耳の側を通って絨毯に吸い込まれていった。
 もう、ダメなんだ。
 私は今から襲いかかってくるものに勝てる自信はない。
 もうダメだ、と思った。
 プライドなんて、こんな時は全く役に立ちはしない。
 もう、ここにいるのは大学を卒業した天才ではないのだ。ただの、十四歳の女の子が今ここにいる。

 彼女の髪が翻ったとき、僕は自分で扱いきれないこの感情の正体にようやくだけど気がついた。右手の指先に彼女のひんやりとした感触が残っていた。
 僕が預かっていた荷物を渡す前に、彼女は体を蝶のようにふわりとした動作で、それでいてすばらしく素早くドアの奥へと消えていった。僕はそれを呆然と見送ることしかできない。インターホンを鳴らしてドアを開けてもらおうとか、全然思わなかった。それよりも僕は平然をずっと装っていただけに、急にガスの抜けた気球みたいに萎んでしまう気力を何とか最後の一握りだけ取り戻して、僕も自分の家に入った。
 自然と早くなりかけている息を、何度も母さんに聞こえないように静かに深呼吸する。そうやって呼吸器官と心拍数は普通に戻して、僕はダイニングに入っていった。もう父さんも帰ってきていて、僕を待ちながら夕刊を読んでいた。
「ただいま」
「ああ、遅かったな。すぐに夕飯だ」
 僕が話しかけて、ようやく僕が帰ってきたと気がついたようだった。新聞から視線をはずして、ちらりと僕を見、すぐに新聞記事の続きを読み始めた。僕はその横を通り抜けようと、父さんの後ろに来たとき、父さんがぼそりと言った。
「顔が赤いが、風邪か?」
「え、いや、違うよ」
「そうか」
「うん」
 僕はそれだけ言うのがやっとで、行き先を自分の部屋から洗面所に切り替えた。僕は鞄を足下に放り出すと、すぐに自分の顔を石鹸で洗った。水の刺激が心地良い。冷たさで目が覚めたような気がするし、少し落ち着いた。ただ指先の熱まで消えてしまって、その時になって後悔してしまった。
 普段はやらないことをしていたから、そんな僕の行動を不審そうに見ていた父さんだけど、いつものように何も言わなかった。
「母さんは?」
「買い物に行った。もうすぐ帰ってくる」
 壁に掛けられた時計を見ると、もう八時半になろうとしていた。意外と時間が経ったんだな、と思った。彼女と出歩いたのは四時間くらいだったけど、実際はその半分ぐらいの感覚しか残っていない。色々やることがあったから短く感じたんだろう。
「ご飯になったら呼んで」
「ああ」
 それだけ言って、僕は部屋に引っ込んだ。
 父さんと僕との会話はいつも味気ない。こんな風に、短い言葉だけのやりとりで終わる。僕もそうだけど、父さんはもっと寡黙な人だから、用件を伝えるためだけの簡潔な言葉だけが交わされることになる。慣れてしまえば、それは不快なものではなかった。僕みたいに一人で居ることが多い人間にとって見れば、親であっても話しかけてほしくないときとかがある。母さんも父さんも優しいけど、その辺りの僕の心理を汲み取ってくれるところはとても嬉しいし、なかなかできないことだと思う。
 僕にとって、その一人になりたい時が今だった。そんなときは大体、考え事をしてる。本とかマンガを読んだりすることよりぼんやりと天井を見上げながら、ベッドに寝そべって天井以外の何かを見つめてその日あったことや悩み事なんかを思い返す。ウジウジと考え込むってこういう事なのかなって思うけど、今さらどうしようもない。これは僕の一部だから。
 目に映るのは、今まで何年も見続けてきた天井だ。それは何も変わらない。ただ、そこに映されてきた映像は何度移り変わったことだろう。どれだけ多くの記憶という名の映画が、そのスクリーンに投影されてきたのだろう。いままで一番多く出演した女優は、間違いなく綾波レイだった。
 そして、それが過去形で語られる日が来たのかなと、漠然と今考えている。
 あの惣流アスカという少女に対して抱いている感情は、今まで出会った同性異性すべてひっくるめて感じたことのないものだと思う。それは自分の思い通りにならないという一点だけが、今までの感情のスイッチが何とかある程度自分で制御できていた所と違っている。
 綾波に対しては、穏やかな感情だけがあった。大切な人だけど何処か危うくて、護ってあげたくなるような、そんな思いがあった。何か包み込むようなものがほしかった。彼女をシャボン玉の幕で包み込んで、外の汚い空気と触れ合わないようにしてあげたい。そんな慈しみがあったのだろう。それは今でも変わることはない。薄れていくことはあっても、絶対に消えることはない。
 でも、僕の隣人に対する感情はそれとは違っている。狂おしいというほどではないにしても、僕が彼女をどう見ているかくらいはハッキリと自覚している。
 それは好きって事だと思う。これが、恋愛感情なんだろう、と。
 僕を見てほしい。彼女のことをもっと知りたい。聞かせてほしい。聞いてほしい。
 それは、まだまどろみのような感触でしかないけど、いつ熱をもって僕と突き動かすか分からないものだった。自分で自分のことを一番よくわかっているつもりだから、一応そんな風に暴走したりすることは無いと思う。
 こんな風に考えると、綾波の言葉が頭によみがえってくるたびに、僕は改めて彼女が子供だったのか分からなくなってくる。綾波は言葉以外の、そう、強いてあげるなら、心ですべてを見聞きしていたように思われてならない。彼女にとって言葉なんて道具でしかなかった。「初めて人を信じれたわ」と僕に言った綾波は、僕以外の人間にはついに心を開くことはなかったし、それだけに僕らはお互いが側に居ることを確認する以外何もいらなかったのだろう。
 言葉を使い、心で会話していたのだ。
「恋って、何だと思う?」
 僕が、僕と綾波の間にあるものが恋愛感情以外の何かだとぼんやりと悟り始めていたときに、彼女にこう訊ねたことがあった。彼女が僕らの前からいなくなるちょっと前の、一緒に帰った帰り道だった。夕焼けが目に痛いほど赤くて、見てるだけで理由もなく懐かしくて哀しくなるような、そんな日だった。
「人を好きになることよ」
「でもさ、僕は綾波のこと好きだよ」
 照れもせずに僕は言った。
「私も碇君のことは好き。それは間違いないわ」
「でも、これってなんだかちょっと違うよね」
 綾波はゆっくりと頷き、軽く空を見上げるようにして顔を上げた。
「私たちは、それ以外の所で繋がっているのよ」
 僕は、その時は彼女の言葉の意味を、正確には理解することができなかった。何となくでしか、しかも感じることでしか、彼女の言葉を受け取ることはできなかった。
 ただ、彼女が居なくなってからようやくわかった。遅い、と言われるかもしれないけど、仕方がないのだ。大きな喪失感を味わって、僕はやっと彼女と心を共有していたような状態だったんだと知ったのだから。目に映る間には、決して理解することのできなかった尊い時間とかけがえのない人。一つは過ぎ去り、一つは消えるように失われた。それだけで、十分僕は無知であったことの報いを受けたのではないか。それで許してほしい、これ以上、僕を苦しめないで。
 綾波の写真を見るたび、僕は忘れていく自分を戒め、それ故に彼女を思い出させるものを捨て去ったのだ。全部、心の中でいい。
「恋は、きっとステキなものよ。でも、それは私には与えてあげることができないものだから…」
 君の言うとおりだと思うよ。僕は、確かに心が喜んでいるのを感じてる。嬉しさを感じてる。
 明るく見える彼女は、僕の前では少し陰を見せるんだ。そこにね、何となく僕はどこか似た感じを受けるんだよ。それって、錯覚じゃないよね? 好きって事、それと一緒に考えてるわけじゃないよね?
 僕は、ガラスの向こうの綾波に、心の中で話しかけた。
 あの夜のように、僕の前に現れたりはしない。
 彼女は小さく微笑んだまま、写真立ての中で永遠に僕を見守っている。




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