6 : Do you like me ?


 私は目覚めた後も何もやる気が起こらず、とりあえずということで碇家から借りてきた少し古ぼけたラジカセでFMを聞いていた。テーブルに上半身を倒して、登校までの少しの時間をこうやってぼーっと過ごしていようとしてた。
 数チャンネルしかないFMは、さすがに朝から私が聞きたいような番組はなかなか無くて、すこし鬱な気分にさせてくれる。ただ、一チャンネルだけ古い曲を集めた特集をしていたので、私はそこにあわせておいた。前世紀末の頃によく流行った曲を集めたもので、毎日月ごとのトップテンや隠れた名曲を紹介してる、リクエスト待ってますと声が耳障りなDJが言っているようなチャンネルだった。
 私はとりあえず買ってきたばかりの冷蔵庫の中からミルクを取りだしてコップに注いだ。白い液体がガラスの中でゆらゆらと揺れるのをぼんやりとながめる。時計に目をやったけど、まだ余裕がありすぎるくらい時間は余っていた。
 私は溜息をついて、またテーブルの上に上半身を倒した。ラジオでは、フォークソングの流れをくんだような曲に乗せてちょっとハスキーな二人が歌う曲が終わろうとしていた。普段聞いたら良いかなと思うかもしれないけど、朝一で聞くにはちょっとテンポが速すぎて、私にはなんの感銘も与えなかった。
 短い天気予報をアナウンサーが読み上げている。第三新東京市の天気を言ったところを、ちょうど外を飛んでいった鳥たちに気を奪われて、そこだけ聞き逃してしまった。ただ他のところは午後から曇りだとか時々雨だとか言っている。ここだって似たようなものだろう、と思った。
 私はもういいや、と思ってラジオに手を伸ばした。家を出るにはちょっと早いけど、ゆっくり歩いていけばいい。
 けど、スイッチは切ることができなかった。手がスイッチにかかったところで、小さなスピーカーから流れてきた曲に聞き覚えがあったのだ。ちょっと眉をひそめて、すぐにこれが日本へのフライトの最後に聞いたあの曲だと思いだし、もう一度聞きたかったことも思い出して少し嬉しくなった。
 私はもう一度イスに腰を下ろして耳を傾けた。
 ドラムのリズムにホッとしながら、ゆっくりとしたギターの音で懐かしい感じも味わう。手を伸ばせば届きそうなくらいちょっと前のことなのに、あの時とは全然心構えみたいなものが違う。肩肘を張っていないのは今も一緒だったけど、あの時とは決定的に何かが違っている。自分をどう捉えていたかが、全く別のものになっている。
 日本の地を踏んだときにはほとんど自分でなんでもできると思っていた。分からない事なんてすぐに解決できる。私自身の精神を完璧にコントロールできる。けど、もろいガラスの上に乗っていた子供の戯れ言はあっという間に崩壊してしまった。今、私の中では、ただどうしようもできない自分の心への苛立ちと不安がある。感情を持て余すということを知っている。本当は無力だったということを知っている。
 よく聞けば、この曲は愛する人へ贈ったラブソングだった。
 胸が痛くなってしまうくらいにまっすぐに歌っていた。
 私にはできない。
 この錯覚が怖い。未知に対する好奇心が先頭に来ない。ただ、恐れだけが佇立している。
「心の奥の方で感情のスイッチが入った。初めて出会って何かが動き出したような気がした」
 要約すると歌い出しはそんな感じだった。
 その歌詞はあまりにも私に当てはまりすぎてて、泣けてしまうくらいに胸に痛い。
 それは抜けない棘なのだろうか。それとも、一瞬だけの痛みには悦楽が待っている?
 私は恋愛小説とかが大っ嫌いだったけど、今はなんだかわかりたい気分だった。
 こんなときどうしたらいいのだろう。もう少ししたら顔を合わせなくちゃいけない。いくら極力会わないようにがんばっても、教室まで行けば同じ事なのだ。
 今はこの静かな嵐が私の中を通り過ぎるのを待つしかないのだろう。竜巻になるか台風になるか、それとも晴れ空が待っているのかわからないけど、私は行かなくちゃいけないのだ。
 ラジオを切った。
 あの曲を聞けたおかげだと思う。
 ほんの少し軽くなった足で、私は外へと飛び出した。

 自分の中の感情にある名称を与えたからといって、特別何かが変わることはないんだな。
 そう思ったのは、彼女が僕の後ろから声をかけてきたときだった。
 彼女の顔を見て、確かに少しドギマギして動悸も僅かに早くなった。だけど、昨日や一昨日やその前の日と比べても大した差はなかった。
「おはよう、シンジ」
 快晴の空の下、彼女はサラサラと流れるような少し赤い金髪を揺らして僕を見ていた。
「あ、おはよう…」
「朝一から元気のない奴」
 じろりと冷ややかな目で見られたけど、僕は昨日より機嫌がいいみたいだな、と思った。なんとなく、表情が生き生きしていたような気がするのは、太陽の日差しを浴びていたからっていう理由だけじゃないだろう。
 僕の隣まで早足で並ぶと、彼女はそのまま右隣で歩調を合わせて、僕らは緩やかな坂を登った。
 さっき出会ったときのインパクトが薄れていくと、しみじみと不思議に思う。隣で誰か歩いていると、大体は息苦しさや焦りを感じてしまうのに、隣の少女と一緒にいてもそんな風には感じなかった。「何か会話の言葉を見つけなくちゃ」とか「気まずさをつくらないようにしなきゃ」って普段思う。トウジとケンスケの二人はそんなふうに思わない。それは、きっと僕の分まで彼らが喋ってくれるし、気を使わなくてもいいような雰囲気を僕らは共有しているからだ。
 そして、綾波の時もそれがあった。いや、そうじゃない。それ以上のものがあったんだと思ってる。
 言葉がなくても平気なのは、あとにも先にも隣の少女と綾波だけだ。
 彼女が体半分僕の先を歩き、僕は半ば従うように歩いた。
 しばらくして彼女は突然、
「あんた、変なやつよね」
 と言った。
「そうかな?」
 そうはいって見たものの、自分でも思い当たる節は多すぎて、全くその通りだと肯定してもなんの問題もない。
「だって、こんなにかわいい女の子と一緒に歩いてて黙りっぱなしなのよ。普通は気を引こうとか思って色々話しかけたりするもんでしょ。自分のこととか」
「そういうの、苦手だから…」
「ま、そんなふうに見えるわ」
 僕は苦笑した。
「で、苦手だからっていう理由だけ? 話したがらないのは」
「僕と話がしたいの?」
「……………」
 彼女は突然不機嫌な表情をひらめかせ、僕を睨み付けるように見た。
「ご、ごめん」
「冗談でも、女性に対してそーゆー言い方しない事ね。失礼よ」
「ごめん」
 僕はまた謝る。確かに謝るのが癖になってる。特に、この少女と居るときは。
 でも、怒るのは僕の指摘が当たっていたからじゃないかな、とも思った。
 僕らはまたしばらく黙ったまま歩き続けた。
 そして、また彼女が突然思いだしたように言う。
「そういえば、私が初めて教室に行ったとき、あんただけ私の方見てなかったでしょ。なんで?」
 僕は彼女の目を見た。さりげなく聞いたような顔をしているけど、目元はちっとも冗談めかしていなかった。眉がきっと引き締まっていて、僕はまた訳もなくドキドキする。とっさに交差した視線をはずした。
「怒らない?」
「答えにもよるわね」
 僕は溜息をついて、半分諦めていった。どうせここで言わなくたって、いつか追求されるのが何となくわかったからだ。
「正直に言って、転校生にあんまり興味がなかったんだ」
「ふーん。で、今は? 私に興味がある?」
「………わからない。だって、そんな、転校生がいきなり自分の家の隣に引っ越してきて知り合いになるとか、普通思わないだろ?」
「まあ、そうね」
 今度は彼女が溜息をついた。僕の答えは彼女を完璧に満足させるには至らなかったらしかった。
「苦手な自分の話を聞かせてくれたお礼に、私のことも一つ聞かせてあげる」
「え、いいよ。そんなの」
「バカ。これで貸し借りなしにしてあげようって言ってるのよ」
 これって、貸し借りって言うのかな?
 僕はそう思ったけど、彼女の次の言葉に対する興味の方がその疑問よりも勝った。
「私がいきなり碇シンジ君の隣を選んで座ったわけ、わかる?」
「え?」
 彼女はアスファルトから、コンクリートの階段へ足をかけてから僕の顔をちらりと見た。勝ち誇ったように微笑んでいた。
 僕は「窓に近くて、太陽の光を浴びている彼女がとてもキレイに見える場所」を考えた結果が、僕みたいな何の取り柄もない人間の隣しか空いて無くて、仕方なく選んだのだと信じていた。というか、それしか思い当たる理由が欠片すらも思いつかなかった、というのも正直なところだ。
 彼女の表情から察して、僕がそう考えていることを知った上でそんなふうに言ったように見えた。だから理由は別にあるんだと思う。でも、本当に全然わからない。
 僕は後を追って階段を登った。彼女の先には階段の続き、その遙か向こうに太陽が眩しく輝いている。僕は一段一段足を進めるたびに、まぶしさで目を細めた。
「わからない?」
 僕は首を左右に振った。すると彼女はまた笑って、何も言わずに階段を登ることに専念しだして、僕が慌てなくてはいけなかった。答えを聞かせてもらってない。
「あ、ねえ、どうして? 教えてよ、アスカ」
 僕は夢中で彼女の名を呼んだ。
 階段の途中で、彼女は平地にいるみたいにくるりと体の向きを入れ替えた。その動きがとてもリズミカルで、揺れた髪が太陽の光で、キラキラと輝く微粒子が見えたような気がした。そして、今まで見た中で一番の満面の笑みで僕を見下ろして、風で揺れる肩までの髪を片手で押さえている。
 くるくると表情が入れ替わるように変わる彼女の感情。その中で一番美しい部分が、今まさに僕だけに向けられていた。僕は、目から飛び込んできたその映像にすべての思考を止められて、ただ見とれることしかできなくなってしまった。
「それはね」
 イタズラっぽく、彼女は自分の言葉を確かめるようにして言った。その言葉で、僕も我に返る。
「それはね、シンジがあそこに座ってたからよ」
 意味深な言葉を残し、彼女はまた階段を登りはじめたけど、僕はしばらく動けなかった。そして、彼女も後ろを振り返りはしなかった。
 僕が持て余す感情の正体を言われた側の人間だけど、僕の方がそうなってしまったようだった。
 僕はペチペチと自分の頬を叩いてみた。数人の生徒が、僕を変な目で見ながら長い階段を登っていく。けど、いつもなら気にしてしまう僕が全然それを無視した。
 僕がいたから?
 それはどんなふうにとれば良いんだっていうんだ、いったい。
 僕は混乱してしまった頭を押さえながら階段を登りきった。学校が見える。僕らの教室も見える。あそこに僕がいたからだと彼女は言った。
 それってどういうことなのだろうか。
 僕は欠けてしまった、居心地の良かった隣を時々見ながら、そればかりをリフレインした。
 そして、僕は彼女のことを好きなんだなということを、改めて気がついたような気がした。




// 7 : Chink //