7 : Chink


 私が彼に対して、あの日の朝に正直に言えたことは奇跡に近い。あれは、あの日だったからまだ言えたのだ。おそらくは、ラジオであの曲を聴いたからだろう。数日経ってしまった今では、あんな事、口が裂けても言えない。私の精神の地平には、一秒ごとに目に見えないくらい僅かな狂気が、確実に降り積もっていった。
 それは甘い麻薬だ。私を私でなくしていくための。私を天才からただの少女へと劇的に変化させてしまうための劇薬だった。
 私が私の理性を保つための唯一の手段は、彼の顔を見ないようにすること、声を聞かないようにすること、存在を感じないようにすること。何より、考えないようにすること。本能の奥の方からじんわりと熱くなり、私を突き動かすような固まりを押さえつけるには、こうするしかなかった。
 だから、ユイさんに食事に誘われるたびに、色々理由をかこつけてすべて断っていた。私は謝りながら、受話器の向こうでユイさんの声に混じり、バックグラウンドで父親と会話している彼の声が聞こえてくるたびに、心臓が違うリズムで動き出すのを感じなければならなかった。
 ガキ。
 私がいくら自分をそんな風に罵ってみても、何もかわりはしないのだ。ただ、今は耐えるしかない。
 自分を騙し続け、そうじゃない、彼の事なんてその辺のカボチャと一緒だと思い込もうとし、彼の顔を教室で見るまでは完璧に成功する。しかし、朝一番の努力はどんなにがんばっても、朝八時半には負けて消え去ってしまう。かといって、学校に行かないわけにはいかない。そうでないと、私が日本にいる理由まで消え去ってしまうのだから。
 一番簡単なのは心を解放することだ。容易い事だというのはわかっている。だけど、実行に移せない。私が最も危惧するのは、今までの私でなくなってしまうのではないか、今までの自分を保ちつづけることができなくなってしまうのではないか、そればかりが頭の中で狂ったように踊りつづけていて、私は感情よりも理性を優先させているのだ。
 だけど、なんて苦しいことなんだろうと思う。
 今、私の精神は普通の状態と、この錯覚の間には薄い膜がある。そう、壁ではなくて、膜ほどの厚みしかない。シャボン玉のように向こうが透けて見え、いつでもはじけ飛んでしまうような、物差しで計ることのできない厚みの膜が、私を支え、形作っている。
 でも、私は何でこんなにも怖いのだろう。
 それは、やはり惣流・アスカ・ラングレーの約十四年間を否定しまうような気がしていたんだと思う。
 それがやせ我慢なのか、それともバカバカしいことでしかないのか。それは後になってみないと結論は振り返ることはできない。
 ただ、私はそれが私にとって素晴らしいものになってくれることを祈るのみだった。
 私は彼を避ける代わりに委員長のヒカリと仲良くなっていった。わざとらしくなく気をかけてくれる、彼女のその微妙な人間との距離のとり方がとても自然で、私は彼女に感謝と好意を抱いた。そうすることで彼から逃げているのがわかっていたから、ヒカリに対しての小さからぬ罪悪感があった。でも、そうするしかなかった。
「こっちには慣れた?」
 私は来日して即座に『好きな人ができて悩んでいます』などとは、口が裂けてもいえなかったから、その質問には曖昧にしか答えられなかった。
「一応、ある程度は」
「どの辺が慣れてないの?」
「まあ、いろいろと……」
 私が言いよどむと、彼女はそれ以上踏み込んでは来ない。聞いて欲しくない、みたいなその場の空気をよくわかっていて、それより後は私が自発的に言ってくれることを待っているのだ。そして、それを急かしたりはしなかった。
 私がこちらに来て学校に通い始めて一週間。私たちは親友というほどではないにしろ、それなりに親密な友好関係になっていた。これは、とてもいいことだ、と思った。ある程度気がねなく喋ることのできる同姓がいるというのは、やはりいいものなのだ。
 ただ、一つ不思議に思ったのは、私以外に彼女にとっての友人らしい友人はいないようだった事だ。
「たぶん、委員長としての私を見てるから、ちょっと距離をとってるのよ」
 そんな状況を自嘲するでもなく、すらりと口からこぼれ落ちるように出てきたとき、何となく訊いてみた私の方が軽く面食らってしまった。
「アスカはね、まだこっちに来たばかりだから先入観がなかった。だからだよ」
「じゃあ、普段とは違う顔をしてるの? クラスイインチョーをやっているときは」
「それなりにね、真面目な生徒を演じたり、口やかましく言ったしないといけないところもあるでしょ。それは素のままの私じゃないよ」
「確かにね……」
 いい子なのになァ、と私は青い空を見ながら思った。
 私たちは屋上にいた。昼休み、ご飯を食べるのと教室で溜まったストレスの発散には、やっぱり空の下が広々として気持ちよかった。私たちとは距離をとって、数人のグループが所々でお弁当を広げているのが見える。
「ヒカリって上と下両方に兄弟がいるでしょ?」
「お姉ちゃんとと妹がいるよ。どうしてわかったの?」
「なんとなくね、そんな気がした」
 彼女の人との距離のとり方は、呼吸するくらい自然なものだ。それがどこから身についたものだろうと考えると、まずは家族を思い浮かべる。そこで思ったのは、両親と兄弟が上と下にいるんじゃないかということだった。姉の世渡りを見て成長できるし、妹がいればしっかり自分が姉として振舞うことができる。それがずっと続いていれば、甘え上手も毅然とした態度も上と下の姉妹から学ぶことができるんじゃないかなと、不意にそう思ったのだ。そこから、ごく当たり前に今の間合いの取り方が身についたのだろうと。
 私の場合は、自分より年上の人間しかいない高等教育機関に放り込まれることで身についたものだから刺がある。けど、彼女にはほとんどない。
 私が自説を述べると、彼女はなるほどと頷き納得していた。
「本当かどうかはわからないから、信じちゃ駄目よ」
「でも、外れてないと思うけどなぁ。さすが大卒」
 他の人間が言うと嫌味に聞こえそうな言葉でも、冗談ですませられるところがよかった。
「一つ聞いていい?」
 後はくだらない話に終始していて、二人とも昼食が最後の一口になろうかという頃に、彼女が少し改まった口調で私に言った。
「なに?」
「向こうでは、もちろん友達いたんでしょ?」
「まあ、多くはなかったけど、いたわよ」
 そういいながらも、本当にそうだったかと思いなおして私は少し頭をひねったが、確かにいることはいた、という程度だった。気軽に会話ができたのはパパくらいなものだと思う。現に、空港に見送りに来たのは大学の研究室で知り合った、二十歳を超えた男女が数人、お世話になった教授も一人来てくれたけど、同級に近い人間はいなかった。
「ふーん」
 彼女は少し落胆の色を見せた。
「何が聞きたかったのよ、本当は」
「いや、ボーイフレンドの一人や二人、いなかったのかなって思って」
「い、いないわよ」
「アスカくらいかわいかったら、選り取りみどりだったんじゃないの?」
 ヒカリは懐疑的な口調で、私を横目で見た。
「だからいなかったってば」
「もったいないなぁ…。絶対もったいない」
 一人で唸られても私は困るだけなのだが、どうやらヒカリの頭の中では「欧米の人間はその方面で成長が早い」とでも、太い油性ペンで書かれているらしかった。
 ただ、私は別の部分で少し焦っていた。向こうでは半分小バカにしてた恋愛沙汰を、こちらでは本気になりかけているなんて知られたら、それこそ私はどうしていいのかわからなくなってしまう。喋らなければいいことなのだが、不自然にあの少年を避けつづけていると遠からずバレてしまうだろう。もっとも、私がそこまでの期間、この現状に耐えられる自信もなかったが。
「じゃあ、こっちに来てからめぼしい男の子はいた?」
「根も葉もない言い方ね……。売り物じゃないんだから」
「逃げようたって、そうは問屋がおろさないわよ。ねえ、いた?」
 私は苦笑し、ため息をついた。
「男なんて、みんなバカでスケベの塊よ」
 今度はヒカリが苦笑する番だった。
「そっか、いなかったか」
 彼女の顔は、何か含みを持たしたような表情をしていた。口の端だけが笑っていたのだ。それが何となく気になったけど、藪をつついて蛇を出したくなかったので、私は何も言わなかった。
 だけど、そんな私の思いを知らずに、彼女は無邪気に言った。
「私はてっきり、碇君のことが気に入ったのかと思った。いきなり碇君の隣に席を決めたじゃない? 今も一番仲がいい男子って碇君みたいだし」
 彼女の台詞の後半は頭に入っていなかった。一瞬で頭の中のスイッチが切り替わってしまい、今まで必死に考えまいとしていた努力が無駄になってしまったのだ。そう、私は彼の名前を挙げられただけで、こんなにも平静を失うようにまでになってしまっている。ヒカリは立ちあがった瞬間を見ていなかったのだろう。ただ振り向いたときに、ボウっとしかけていた私を見て、不信げな表情を作った。
「どうしたの?」
「なんでもない」
 私は慌ててそう答え、彼女の隣に並んで歩き始めたが、やはりまわりの景色もろくに見ている余裕がなかった。
 気がついたとき、私はヒカリの「危ない!」という警告を隣で言われていたにもかかわらず、遠くに感じながら、案の定目の前から平地が消えていることに気がつかず、十段ほど階段を転げ落ちてしまったのだった。ヒカリ以外の人間に見られていなかったのが、せめてもの救いだったなと思いながらも、私は自分の優柔不断に心底嫌気がさしていた。
 ヒカリの差し出した手を握って、引っ張り起こされながら思った。自分を客観的に省みてもうそろそろだなと。一週間耐えた。でも、そろそろだろうと思った。それは我慢の殻を割って外の世界に飛び出してくる雛なのだ。
 しかし、言いしれぬ恐怖を私に与える未知の領域で誕生したその生命は、私に幸せを運んできてくれる青い鳥の雛なのかもしれない。それを私は世間体を気にして恐れているに過ぎなかった。

 隣人から避けられていた。
 トウジやケンスケ、それに時々トウジとケンカしている洞木さんからも言われているように、僕は確かに鈍感な方の人間だろう。少しは自覚がある。
 でも、そんな僕ですら一目瞭然なほどに、一緒に買い物に付き合った次の日からシカトされている状態だった。僕が話しかけても、彼女は聞こえないふりを決め込んでいたし、それよりもまず僕と顔を合わせることがないように、お互いが目の届かない場所へ行っていた。
 普段の僕だったら、ホッとしたか、そのままにしておいても平気だと思ったに違いない。というか、むしろそのままにしておきたかっただろう。人とのつき合いで長くなればなるほど、深ければ深いほどに僕は疲れとフラストレーションを体中に溜めていく。それが気を許せる友人であっても、かなり軽減されているとはいえるけど、やっぱり少しづつ蓄積されてしまう。それが目一杯溜まってしまうと、僕は街を彷徨うように歩きたくなるのだ。発作のように突然震えがやってくる。そうすると、僕はふらりと外をさまよい歩いている事に気がつくのだ。
 誰も僕を知らないところで、僕は自分が大海中の一滴の水になったような気分を味わう。そこでは皆が平等で混じり合っている。でも、それぞれがバラバラ。そんなことで、僕は綾波がいなくなってから癒されていたような気がする。どうしようもなく情けない行動だとわかっていても、他にどうすればこの淀みの中から抜け出せるのか、僕には分からなかったのだ。寒さから抜け出る方法を僕は他に知らないでいた。
 でも初めて知りたいと思った。
 いつもは何処か他人に対する恐怖があった。綾波と両親以外で、安心して一緒にいられたのは彼女だけだった。僅かな短い時間を共有したに過ぎない僕だから、誰かから「何を言ってやがる」と思われても仕方ない。けど、その思いは本当だった。
『安心感=好意』
 そんな単純な式は成り立たない。それ以外の何かがあるんだと思う。胸の中から掻きむしりたくなるような、何かが。
 情けない話だけど、こんな時綾波が側にいてくれればと常々思う。彼女なら、きっと僕の下手な説明でもすべてを理解してくれて、何かの助けになる助言を与えてくれるような気がしたのだ。静かに朝日のような心地よい微笑みを浮かべながら、聖母のように優しく包み込んでくれるだろう。僕は、そこへ再び還ることは望まない。ただ、居てくれたら僕を助けてくれたのは間違いないと思うのだ。
「ねえ、シンジ。今いい?」
「あ、うん」
 考え事で足音を聞き逃していた。いつの間にか、部屋のドアの前に母さんが立っていた。
「アスカちゃんのことなんだけど」
「うん」
「調子が悪いとか、聞いてない?」
「なにも」
「そう……。でも、何か変だと思うでしょ? 心当たりもない?」
「……さあ。知らない」
 母さんは疲れた後のような溜息をついた。僕はわざとぶっきらぼうに言ったけど、心当たりがないというのは本当だった。避けられる理由がよくわからない。ただ単純に嫌われたというのであれば、仕方ないですまされるかもしれないけど、時折一瞬一瞬に垣間見た彼女のあの視線は、僕を嫌っているような目ではなかった。嫌がられるのであれば、それは無感情であって冷笑と嘲笑と共に向けれられる凍てつくような寒い目つきのはずだ。だけど、彼女の顔には何かの感情が交じっていたような気がする。追いつめられたような目をしていた。僕の錯覚かもしれないけど、これだけは不思議と自信もって言える。人に疎まれるのは慣れっこだったのだ。僕も、そして綾波も。
「とにかく、顔見せに寄ってって、アスカちゃんに伝えておいてね」
 僕の無気力さに会話の不毛さを悟ったのだろう。母さんはそれだけ言って会話をうち切ると、ダイニングの方へ帰っていった。
「伝えておいて、か…」
 一人呟いてみても虚しいだけだ、と思った。
 一人。
 独りか……。
 こんな時、半身を失った意味を改めて感じずにはいられない。その半身は、影が見え隠れしながらも、僕には何も言わずに佇むだけだ。あの時のように。それ以来、思い出したように夢に出てきたり、背後に気配を感じたこともある。人混みの視線の中に紛れていたこともあった。そのようにして、僕は綾波の気配を感じていた。
 僕はずっと考えていた。
 綾波は、どうして…。
 なぜ…。
 そう、なぜ今になって僕の前に現れたりしたのだろうか。
 それに、どうして何も言ってくれないのだろう。
 今一番気になる女の子と同じくらいに、過去の心に縛られるのはどうしてなんだろう。
 あの夜、夢に思えた綾波は、たぶん僕に何か言いたかったんだろうと思う。だけどそれが分からない。
 僕の中では、問いかけはいつもメビウスの環を造り出すだけでゴールのテープの影も形もない。それはもう取り返しがつかないモノだ。自分自信の力で埋めなくちゃいけない大きな空洞。でも今はまだ大きく口を開けて、僕の弱い部分を飲み込もうと、虎視眈々と狙い続けている。僕が堕ちないのは綾波がいてくれたという記憶だけで助けられている。そう、心の片割れが、どこにあったかを知ることで救われている。それを忘れ去る前に欠けた心を取り戻さないと、僕は永遠に暗部をさまよい続けるだろう。もう僕は生きていくことができなくなる。
 カタカタと耳障りな音がするな、と思った。顔を巡らせて、その出所を見つけようとした。
 どこだ?
 僕は嫌な予感を感じつつ顔を巡らせた。
 原因は僕の腕の先端だった。頭の後ろで組んでいた指先が、触れていたベッドの木の部分と不協和音を鳴らし続けている。震えているのだ。
 そう、これはいつも感じる寒さからきた震えだった。歯をかみしめないと、体の奥底からわき上がるこの寒気を押さえつける事なんて不可能だった。気がついたことで一層、僕の全身は戦慄くように震えを引き起こしていく。腕を抱いてみても、血が出るくらいに歯をかみしめても、暖かさの欠片なんて手に届くところにないのだ。
 僕は耐えられず、ベッドから這い出るように逃げ出した。布団を被ってみたって、風邪をひいたわけじゃないんだから意味がない。それにそんなことは何度もやってる。でも、今回は今まで感じたことがないくらいの寒さだった。
 外は真夏日の名残で、気持ち悪いまでのなま暖かさが残っているというのに、どうして僕だけが震えなくちゃいけないのだろう。
 僕はたまらず、誰もいない空間へ向かって呟いた。
「ねえ、どうしてなんだよ……。僕は、どうしたらいいっていうんだよ……」
 どうして、あの紅茶色の髪の少女が現れたのと時をほぼ同じくして、僕の前に再び現れなくちゃいけなかったのだろうか。
 今、目に映ってはいない少女に向かって呟かなくてはならないのだ。絶対に父さんにも母さんにも聞かれるわけにはいかない。これは僕だけの問題だ。二人に迷惑はかけられない。
 制服を着たままだったのが、この状況下での唯一の救いだったのだと後で気がついた。服を着替えていたりしたら、僕は倒れたところを母さん達に発見されるまで気を失ってしまっていただろう。
 もう一度だけ会いたいと思った。
 何も言ってくれないかもしれない。けど、あそこに行けばきっと何かわかる。
 僕がどうしたらいいのかわかるような気がした。
 絞り出すようにして、僕は母さんに「出かけてくる」と言った。
 母さんは夕ご飯の支度をしていて僕の方を見ていなかった。だから母さんは見ていないだろう。僕が今にも死にそうなほどに青ざめていたことを。放任主義の父さんでも、その場にいたら出かけようとする僕を力ずくででも止めただろう。仕事で帰りが遅くなっているのが、その時は幸いだった。
 よろけるようにしか進まない足取りで、僕は玄関までたどり着いた。震えは一向に収まる気配がない。それどころか、意識そのものを刈り取ろうかとしているようでもあった。僕は徐々に薄まりつつある世界を自覚していた。
 あの場所へたどり着くことはできるのだろうか、という疑問はわいてこなかった。
 僕にはわかっていたのだ。
 その場所にたどり着くことが不可能であると。でも、無意識が僕の体を突き動かす。『あの場所へ』と、ローラレイの声が僕を呼んでいるかのように、肉の塊になってしまったような体と鉛のような重たさの心を引きずって玄関の外に転がり出た。
 ドアを開けた瞬間から、気持ち悪い生暖かさが頬をすり抜けていく。
 でも、そんなことはどうだって良かった。何も考えず、何も感じないで進まなくてはいけないのだ。
 今、頭でとらえているのはただ、あの場所で一時でも心の欠片を取り戻すこと。そして、どうしてこんなに寒さを感じなければならないのかを考えなくちゃいけない。五分でいい。時間が削っていく過去を、一瞬だけでも取り戻すために。
 前に倒れそうになる。危ないな、と別の僕が別の視点から見下ろしているかのようだった。今自分の体に起こっていることを、どこか浮世離れしたことのように感じていたのだろう。けど、意識というステージには上ってこない。
 体を支えようと手をついた壁からも嫌なぬくもりが伝わってくる。
 違うのだ。
 僕が欲しい暖かさは、これじゃない。
 慌てて手を引き剥がす。
 一歩ごとに体力も一緒に吸い取られていくようだった。最初からおぼつかなかった足取りは、益々危ういものになっていく。エレベーターの前までたどり着くだけで、僕は全身全霊を傾けなければならなかった。こんな事では、あそこへたどり着くことなど絶対に無理だ。
 行かなくちゃいけないという思いと、震え続ける体は別の所にある。
 そんなことを考える余裕もなく、登ってきたエレベーターの中に転がり込んだ。壁に背をつけると、空調が効いていたおかげでヒンヤリとした感触が伝わってきた。寒いはずなのになぜかホッとしてしまう。
 どうして綾波はこんな姿になっている僕の前に姿を現さないんだろう、と思った。
 僕のこんな姿を見るためだけじゃないはずなのに。
 だったら、どうして……。
 そこで僕の緊張の糸はプッツリと断絶した。不思議に思うまもなく、床が眼下に凄い勢いで迫ってくるのが見えたような気がした。全てを見る間すら与えられず僕の意識は白濁していく。僕は無彩色に染まっていく世界に倒れていった。




// 8 : Good-bye, my dear //