8 : Good-bye, my dear


 日本には本当に無駄なほど自販機がたくさんある。それらが環境汚染の一役をになっていることに、未だにこの国の人たちは気がついていない。それらがあるから街が汚れていることを知らないのだ。私はそれらの恩恵にあずかりながら冷ややかな視線を向けずにはいられなかった。
 その恩恵を、私は溢れかえりそうになっているゴミ箱へ放り投げた。
 カランと乾いた音を立てて、ゴミ箱の端にあたって跳ね返った。アスファルトの上にコロコロといい音を立てる空き缶を、そのままにしておくことが出来ずに拾い直してゴミ箱に入れ直した。
 たった今買い物をしたばかりのコンビニに背を向ける。店先のライトに照らされた数人の男達が見えた。みんな暇なのかもしれないけど、意味もなくたむろっているような高校生風の連中だったので私は全て無視した。彼らの方はこちら側を興味深げに下心丸出しの視線を向けていた。
 私は声をかけられる前にさっさとその場を立ち去った。
 こんな視線も慣れっこだった。私が年齢を重ねるごとに、私を探るような視線は比例して増えていった。内面を探ろうとする見下した視線。外見をみて私を性的対象として見る視線。それは日本であろうとドイツであろうと変わりなかった。もっとも今回は、太股が丸出しのショートパンツにダブダブのTシャツなんかを着ていた私にもそれを助長させた原因はあるにしても。
 マンションから近いし通りのライトで明るく広いので、日本の治安の良さも手伝って、私は結構無防備だった。ちょっと前までは夜独りで外出しようと考えたこともなかった。それは今みたいに日が暮れだした時間帯にも言えた事だ。コンビニからマンションまでは歩いて三分。人通りは少ないけど、襲われる心配もないところだった。
 半分ほど来たところで、足下にあった空き缶を何となく思いっきり蹴飛ばしたくなった。
 じっとしばらく見つめ、やがてそれを思いっきり実行した。
「えい」っとかけ声をつけて蹴飛ばしたコーラの残骸はくるくるとまわりながら、私が予想した以上にきれいな放物線を描いて飛んでいった。カランカランと、私が捨てた空き缶よりもいい音がした。水たまりに転がって入って止まった。
 指の先がジーンと痛んだ。私はサンダルを履いていたことを蹴る瞬間まで失念していた。やってしまった後で悔やんでしまったけど、意外とすっきりしたので痛みより満足が勝った。
 私はこうやって、私という人間を知らない土地で、私を知らない人々の中で、やりたいことをして生きているつもりだった。向こうでは猫の皮を被っていて出来なかったことの何気ない一つ一つが、こちらでは生き生きとしてできる。人の目を気にしないですむというのはこんなに気が楽だとは知らなかった。
 はぁ、と溜息をついた。
 ヒカリの前で恥をかいた後も私はあの少年を無視し続けた。それはあくまで体面上のことであって、内面では洒落にならないほどの嵐が吹きすさび続けている。まるで、台風が停滞しているかのように思えた。
 だから私はその後も考え続けて自己改革を試みた。
 まず彼を意識しないようにしようとした。
 そう決意して席に着いたが、彼の顔を見た瞬間に頭に血が上ったので、一瞬で無理だと悟った。
 次に深く考えるのは止めようと思った。けど、それでは何時までも胸のわだかまりのようなモノは消えないままで悶々とした時間を過ごしてばかり。結局それに耐えられず、今の結論に至った。
 正面から捉えることにしたのだ。
 目を反らすことはやめようと思った。
 そうすると、不思議と心が穏やかになっていくのがわかった。時間が経つにつれて、私は心の水面が波立たなくなるのを実感していった。けど同時にわき上がる理由のわからない不安も大きいままだ。それは一向に小さくならない状態が続いている。安定と恐怖が今の私の中で同居している。
 それはどこから来ているのだろう?
 それよりもまず、私はどうして彼からあんなにも同じ匂いを感じ取っているのだろう。
 彼は私と同じように、何かを恐れている人間だと言うことは漠然とわかる。それは先の視線からだ。彼の目には、私に対する好奇が全くと言っていいほど浮かんでいなかった。初めて会話をしたとき、手を触れれば消えてしまう雪のように、とてつもなく脆い存在に思えた。だからイライラした。
 考えればまたあの時の苛立ちが蘇ってきそうだったので、私は頭を振って思考を消し飛ばした。
 私はボーっと考え事にのめり込んでいたらしく、缶を蹴飛ばしたところから一センチも動いてはいなかった。これじゃ不審者だ。周りに誰もいなかったことを確かめて、胸をなで下ろしながら歩き出した。
 もっとも、私が結論を出したのは数時間前のことでしかない。
 学校からわき目もふらずに帰ってきて、ソファーの中に倒れ込むという作業をここ数日繰り替えし続けていたのだ。いろいろ考えたけど、結局ある一線で私は止まってしまう。だったらそこまでで開き直るしかなかったのだ。それに気がつくと、私はミネラルウォーターを切らしたことを思い出した。だから今ココにいる。昨日、いや、数時間前までは、そんなことを考える余裕が全くなかったんだから、かなりの進歩だろう。だけどそれはあくまで彼がいない場所での話だ。それに私は、こんなにも自分のわき上がる想いを殺すかのように現れてくる不安が、どこから、どうしてやってくるのかをわかってはいない。今のところ不安が勝っているから、認めたくないという思いの方が圧倒的に強いままだ。
 今までみたいに「朝、顔をつきあわせてご破算。また嵐の中へご招待」というふうにならないとは限らない。だけど今回は大丈夫なんじゃないか、という期待が今までより強くかった。どうなってもいいからこの現状を打破したい、とまでは思わない。そんなことをして自分を壊したくない。でも何とかしなければという思いは、何にも負けないほどに強いのだ。
 ジュースで冷やしたはずの喉からは、相変わらず熱い息が吹き出されてくる。
 まだなんにも変わらないんだな、と実感せずにはいられない。
 結局は本当の答にたどり着いていないんだと。
 今はこの平穏を味わっていたかった。このままでいけば、明日の朝までは平穏でいられるはずだった。けど、どうも運は私の方に背を向けて逃げ去っていたらしい。
 というのも、マンションのエレベーターを待って、中に乗り込もうとしたときに見てしまったからだ。私はあれこれ考えるよりも早く、反射的に動いてしまっていた。心にまた嵐が戻ってきた。
「ちょっと! どうしたの、しっかりしなさい!」
 彼が壁にもたれかかるようにして倒れていた。その姿は、乗り込んだまま力つきて崩れ落ちたように見えた。
 私は半分叫ぶように彼に近づき、少し躊躇いつつも彼の手を取った。私の心を落ち着かせなくした原因は、彼の手に触れたことだったからだ。でも、今は熱いと思うことはなく、むしろ驚くほどの冷たさを感じて、私は心を寒くした。彼の体温と同じくらい、彼の顔は死人のように見えたからだ。
 けど、彼は声に応えて、うっすらと瞼を開いた。青ざめた表情で虚ろな目をしていたけど、その奥にある光は揺らぐどころか、見られている私が痛いほどに鋭かった。一瞬、その視線に気圧されたほどだ。
「……あれ? 僕どうしちゃったんだっけ?」
 声にならない程の弱々しい声が、彼の唇の隙間からこぼれ出た。
「倒れてるのよ! マンションのエレベーターで!」
 何でこんなに声を荒げないといけないんだろう。本当は心配をしているはずなのに、行動はちぐはぐになってばかりだ。
「そっか、ごめん」
 彼はよろめきながらも、私の手を振りほどいて立ち上がった。しかし、すぐに倒れそうになり、私は慌てて彼を支えなければならなかった。
「とにかく家に戻るわよ」
「ダメだ」
 私は驚いて、そして次には怒りがわき起こってくるのを感じていた。こんな状態のまま、どこかへ行こうとしている彼を放っておくわけにはいかない。それに、私の言葉を思いも寄らない強い語調で否定されたのが気に障ったらしかった。
「アンタ、こんな状態でどっか行く気? 無理に決まってんでしょ! あからさまに病人なのよ、そんなヤツをどこかに行かせることなんかできないわよ」
「ダメなんだ。これは心の病気なんだよ。家に帰ったって、絶対に直らないんだ」
「え?」
「ごめん、だから今回はほっといて」
 私と言葉を交わしたからか、彼はある程度の力を取り戻したらしく、ふらつきながらもエントランスへ向かって歩きはじめた。
 私は正直迷っていた。このまま彼を行かせていいのかどうか。良いはずはない。今すぐにでも、無理やりにでも家に連れ帰って布団の中に押し込むか、救急車でも呼ぶべきなのだ。でも彼の「心の病気なんだ」という言葉には、不思議と気圧されるような強さがあった。私はあんなに後ろ姿が頼りなくて線の細い少年に押されている自分に驚いていた。
 エレベーターが閉まりかける。閉じる瞬間まで、私は彼の後ろ姿を見ていた。けど、その瞬間にいたたまれなさが爆発してしまい、腕を扉の隙間にねじ込んでいたのだ。本当に哀しいと泣けないって判っていながら泣き出したくなっていた。
「待ちなさい」
 彼は驚いたようにこちらを振り返った。てっきり、私がエレベーターと一緒に登っていったと思っていたらしい。そういう表情をしていた。彼が何かいうのよりも先に私は口を開いた。
「どっかに行きたいんでしょ?」
 彼は困ったような表情をして迷っていた。でもそれは僅かな間だった。すぐに、申し訳なさそうな顔で頷いた。良いから放っておいてくれ、と顔に書いてある。
 放っておけるわけ無いじゃない……!
 けど、そんなセリフを口の外には出せない。何故かそうなのだ。思っても、すぐにかき消される。口の外に飛び出る前に飲み込んでしまう。これもきっと、あの不安な気持ちのせいなのだ。
 しかし、このまま無視できない状況であることには変わりなかった。
「私もついて行くわ。無視しておいて、のたれ死にでもされたら後味が悪くて仕方ないでしょ?」
 彼があからさまに嫌な顔をしたので、言葉の後半は付け足したのだ。
 彼はその場で深く考え込み、やがて諦めたように口を開いた。
「いいよ。それでも構わない」
 どこか投げやりな口調だった。彼のこんなヤケクソな言い方は、今まで聞いたことがない。学校でも見せることの無かった冷たい顔をしている。青ざめている以上に、絶望した老人のような苦悩が顔に浮かんでいた。
「どこに行く気?」
 そう言いながら、私は彼の肩を支えていた。意識しないでもそんなことをしていた。恥ずかしいとか損得勘定を働かせている場合ではないと、私の精神が感じ取って反応したのだろう。
「……何もないところだよ」
 彼の口調は、変わることなく冷たかった。

 僕を知っている人たちにこの姿を見せるわけにはいかなかったのに、よりによって今一番見て欲しくない人に見られてしまい、僕はどん底に突き落とされたような気分だった。そう、暗い穴のギリギリの所まで追いつめられていた。
 どこかへ行く気? と訊かれた。でも、答えられるわけがない。今から過去にすがりに行くだなんて。死んだ人の所へ行くだなんて、どうして彼女に言えるだろう。おそらく、僕がこうなってしまった遠因は彼女だけど、責任を問うわけにもいかない。そんなことをしてもお門違いなのだから。
 僕は彼女の肩を借り、今までの二倍の時間をかけてその場所へとたどり着いた。その道中、彼女は目を伏せて何も言わずに僕と歩き続けた。だが、僕はそんな彼女を見る余裕など持ち合わせてはおらず、ただひたすらにこの場所へとたどり着くことだけを考えていた。
 できれば独りで来たかった。そして彼女だけには知られたくなかった。
 僕らは小高い丘に来ていた。何もない、この街にしては珍しいだだっ広い丘だ。野球の球場が二十個くらいは楽に入る面積の土地を一本の道路が横切っており、その左右には似たような空き地が広がっている。土と雑草の無意味な土地は夜の帳に冷まされて、アスファルトの上より居心地が良い気がした。
 彼女は「本当にココなの?」と言った。
 僕は彼女の目を見ることは出来ずに、ただ頷き返した。
 そう、僕はこの場所へ来たかったのだ。
 ここに来れば、心の欠片を一瞬でも取り戻せると信じて。
 でもそれは夢でしかないのだ。半年経った今、ココはこんな場所へと変貌してしまっている。もう何も残ってはいない。鉄とコンクリートと一緒に、僕の心までもが切り離されていったのだと知った。
 綾波が住んでいた場所だ。
 綾波が僕に初めて笑ってくれた場所だ。
 綾波と僕が心を共有していた事を示す唯一の場所だ。
 でも、全ては「だった」なのだ。
 順次壊されていたマンション群は、今では再開発で空き地へと姿を変えられてしまった。もう半年すれば、またこの場所は別の景観になる。
 僕は、この場所にはもうなのも残されていないことを知っていたはずなのに、夢の欠片ばかりを追いかけていたのだ。綾波が死んでから、もう来ることはやめようと思っていたのに来てしまった。
 どうしたらいいのかわからず、この寒さは避けられないものだと知りながらも、僕はここへ来ることしか思いつかなかった。そして、この現実が待っていた。
 哀しいはずなのに、涙がちっとも流れない。綾波が死んだときもそうだ。あの時も泣けなかった。泣くことでは、もう取り戻せないとわかっていたのだ。半分欠けたものをどうやって埋めればよいというのだろう。涙を流したってどうにもならないと知っていた。
「訊いてもいい?」
 彼女は、しばらくしてから口を開いた。それまでは、僕と同じように何もないこの場所をただ眺め続けていた。僕には、彼女が何を訊きたいかわかっていた。それが答えたくない質問であることも。
「……いいよ」
「ここで何があったの?」
 僕は座り込んだ。へたり込んだ、と言った方が正しいかもしれない。
「想い出だよ。僕の過去がここにあったんだ」
「心の病気って、ここに来れば直るの?」
 彼女の声は下世話な言い方ではなく、乾いた口調で淡々と質問をしていた。
「そう思ってたんだけどね……。ダメだったみたいだ」
 僕は震え続ける手を見て言った。心の寒さは結局収まらなかったのだ。綾波が姿を見せたところで、僕は回復するとは思えずにいた。だけど、ここに来たら何かわかるんじゃないか。そんな甘い考えだったの僕を、現実が今、冷徹に戒める。
「……頼むよ。少しでいいから、一人にしておいて」
 泣けないはずなのに、声だけは泣き出しそうに聞こえるのだ。それがまた哀しくてたまらない。
 彼女は何も言わず、僕の側を離れていった。
 一人になり、孤独を思い知る。片膝をたてて座り、その膝の上に額を押しつけた。
 指先の震えは止まらない。
 でも、体のあちこちが暖かい。僕は救われてるんだ、と思った。
 一人にならないと気がつかなかった。彼女が触れていた場所が優しいまでに暖かかったのだ。
 僕はまだ絶望の縁までたどり着いていないらしい。
 綾波の姿が見えなくても、僕は確かにここに存在し続けている。
 不意にあの日の映像が思い出された。僕が階段の途中で目を離せなくなった、あの朝の光景が色鮮やかに浮かび上がってくる。僕は確かに救われているのだ。
 喪失を埋めてくれる何かを、僕はすでに見つけていたのだと知った。

 あの少年がどんな思いでこの場所へとやってきたのかは知らない。訊いたところで話してくれるものでもないということはわかっている。
 今までは彼のはにかんだような笑顔や、すぐに謝ってしまうその態度の裏に隠されていた影が、鎌首をもたげて前面へと現れていた。それを隠す努力の欠片すら見せず、青ざめていた彼を直視するのは、正直言って辛くてたまらなかった。しかし、私が普段から孤独を感じているのと同じように、また彼も一人でいることの意味をかみしめているのだろう。
 何も言われなくても、私はその辺りを感じ取れるようになってしまっている。私との共通項を持った彼の心の中は、ハッキリとまでいかないまでも、ある程度はわかってしまうのだ。
「……頼むよ。少しでいいから、一人にしておいて」
 そう言ったときの彼の横顔が、瞼に焼きついて離れない。
 私は今日何度も繰り返したことをまたやってしまった。何かを言いかけて口をつぐんでしまったのだ。本当は「泣きなさいよ」と言いたかった。
 人間は泣くことを我慢しすぎると、泣きたいと思うときに泣けなくなってしまう。誰かが死んだとき、恋人に振られたとき、そんな人生の中で何度もない大きな哀しみに出会ったとしても、泣いて気を紛らわしたりする事が出来なくなってしまうのだ。それって、それだけで十分哀しいことだと思う。
 今の彼の顔は、まさしくその人間の顔だった。
 追いつめられ、救いが与えられずに泣き出しそうな顔をしていた。でも、そこからすぐに沈み込んでしまった。私は、泣けないんだな、と直感で悟った。
 この殺風景なところが元々何があった場所なのか、雰囲気で分かる気がした。呆れるくらいに広いこの場所は、たぶん住宅地だったのだろう。所々でそれらしき建物の基礎のような跡がいくつも見ることができた。区切りも残っていて、公園の跡地だったことを思わせる砂場も残っていた。
 ここからは予測の話でしかない。
 私は、きっとここに誰か彼の大切な人がいたんだろうと思った。そしてその人がもうこの世にいないことも、この場所を見て感じていた。だけど、彼の表情にはそれ以上の寂しさが浮かんでいて、それを隠そうともしていない。人に見られること自体気にしていない様子で座り込んだままだ。人通りは皆無だし、今は夜だから気にする必要がないのは確かだけど、それでも無気力すぎるように思えた。
 私は彼のそばから離れ、しばらく辺りをトボトボと歩いた。雑草が申し訳程度に生えた、何もない荒廃した感じが、まるでここが日本ではないような錯覚を引き起こす。こんな場所があのゴミゴミとした狭苦しい街の中にもあったのかと、改めて驚いてしまう。
 空を見上げたけど、街の光が明るすぎて星空はほとんど見えない。当たり前だろう。まだ九時にもなっていないのだから。真夜中を過ぎるまで、星を見ることなど叶うべくもなかった。
 たったそれだけのことで、私は情けなくてたまらなかった。
 何がそんなに情けないのかもよくわからなかった。顔が歪み、漏れそうになる嗚咽を抑えることに必至だった。
 彼があんな姿になっているときでさえ、私は気持ちとは裏腹の言動を繰り返してばかりだ。
 気の利いた一言を言うつもりでつっけんどんの態度をとってばかりなのだ。
 何がそんなに私を抑圧しているんだろう。
 彼といっしょにいることで乱されるのとは、また別の嵐が私の中で沸々と蘇ってくる。
 私は唇をかんで耐えた。
 この感情を押し殺してまで、こんなに苦しい思いをしてまで、身代わりにしなければいけないものがあるとでも言うのだろうか。
 彼は震えていた。何かを恐れているようでもあり、何かを欲しているようでもあった。
 何より寒さに震えていた。
 だけど、私も同じだと思った。
 体の芯から生まれ出てくるこの寒気は、いったいどうしたことだろう。
 寂しさとはまた別の、嫌な感情が私を支配しようとしているのがわかる。
 たぶん、哀しいのだと思う。
 自分が何より情けなくて、哀しくてたまらないのだ。
 私は何をそんなに恐れているの?
 このままでは自分を見失うかもしれないと思うと、いてもたってもいられなくなった。
 私は遙か遠くまで来ていた。慌てて、彼の元へと走り寄っていった。そこまで戻れば、きっと大丈夫だという、根拠のないよりどころを求めて。
 しかし、彼の座り込んだ所まで三十メートルというところで、私は立ち止まった。それを見てしまった私は、どうしても足がそれ以上前に進まなかった。
 彼は空を見て泣いていた。涙は流しておらず、肩を震わせて嗚咽を漏らしていたのでもない。一見すれば惚けて夜空と街の灯を見ているようにしか見えなかっただろう。しかし、確かに彼は泣いていた。人は涙を流さずに泣けるのだと、初めて知った。
 私はその姿がとても儚くて近づけなかった。彼の溶け込んだ景色を壊したくなかったのだろうか。
 しばらくそうしているうち彼が私の方を向き、いつもの表情で話しかけてきた。
「……ありがとう。だいぶ落ち着いたよ」
「そう」
 私は彼の顔を直視できず、彼の近くの石ころに焦点を合わせていた。こちらを向いた彼の顔は、先ほどまでとは別人の顔で、いつも学校で見せる表情に戻っていた。なんとなく私はホッとしていた。やっぱり心配だったんだな、と思った。私は今度こそ彼の側まで歩み寄って、彼を見おろして言った。
「何も訊かないわよ」
「うん」
 声も、いつもの彼の声に戻っていた。
「けどね、なくしたものは戻ってこないのよ」
「わかってる」
「ならいい」
 それ以上は何も言うべき言葉が見つからず、私たちは押し黙って座ったままと立ったままで、バカみたいに街の灯りと星空を見続けていた。
 彼は何を思い続けていたのか知りたいとは思うけれど、訊いてはいけない部分なのだろうとわかってしまうから、もどかしくて仕方がないのだ。話してくれればとは思うけど、そうすることでかえって傷つけることになるのかもしれないと考えると怖くて仕方ない。
「今日は、本当にごめん」
 彼は視線を落とし、つま先を見ながらそう言った。彼の顔には自虐的な苦笑が見え隠れしていた。明かりのないこの場所では、僅かな表情の動きは俯かれるとよくわからなくなってしまう。
「別に、私はなんにもしてないのよ。あんたもしてない。だから謝る必要なんて無いわ」
 私はまた心にもないことを言い続けていた。それが繰り返されるたびに、私は死ぬほど惨めな気持ちになる。自分を罵っても仕方がないのに罵倒したくなってしまうのだ。こんな時にまで、どうしてあなたはそうなのよ、と自分を叱りつける声が聞こえてきそうだった。
「もう本当に何もないんだ。ここには」
 彼はいよいよ頭を下げてしまって、完全に俯いてしまった。
「……何も残ってないんだよ。だから、僕はどうすればいいのかわからない……」
 彼の声は、私に向かって語られているものではなかった。彼は完全に、ここにいない誰かに向かって話しかけているようだった。私は一瞬迷い、今度こそは思ったことを言おうと思った。
「あんたがなにを悩んでるのか知らないけどね、誰の心にも存在自体にも、永遠なんてないのよ」

 彼女が言った言葉を聞いて、僕は今まで考え違いをしていたのかもしれないと思った。
 ずっと欠けたと思っていた心は元からこの大きさで、二つあわせた心が一つなのだと思い込んでいたのかもしれないと。綾波を失ったショックを、そうすることで何時までも忘れないように縛られ続けようとしていたんじゃないのかと。
「永遠なんてないのよ」
 彼女はそう言って、数瞬あけてからまた続き言葉を探しながらしゃべっていた。
「だから、ここでも何処でも何も残ってないなんて当たり前のことよ。元からないの。あると思ってるだけ。そこにあったと思い込んでるだけでしかないわ」
 僕は雷に打たれたように、彼女を仰ぎ見ていた。なんでかはわからないけど、考え違いをしていたのかもしれないと、その瞬間に思った。
 共有していたのは確かだけど、元から一つしかなくて、欠けたのでも無くしたのでもないのかもしれない。ただ、消えていった。もしくは、曖昧だった輪郭が、綾波を失ったことでハッキリしただけなのかもしれない。僕は甘えていたのかもしれない。綾波というかけがえのない存在に。
 僕はまたハッとなった。震えが止まっていたのだ。心の奥からあふれ出る寒さが収まっている。
 僕はまた隣の少女を仰ぎ見た。今度は彼女も僕の方を見て、優しい表情で笑っていた。
「だから、誰かがいたという記憶をしていても、その人の想い出は忘れなくちゃいけないのよ。最初からなかった幻想を追い続けちゃいけないの」
 彼女は柄にもないことを言った、という感じで頭を軽くかき、空をの方に目を転じた。
「って、偉そうなこと言ってるわね、私」
 僕は、もう一人じゃないのかもしれない、と思った。
 少なくとも今の僕には暖かさをわけてくれる人がいる。そして、その人を好きなんじゃないかと思ってる。そうすることで、僕は救われているのかもしれない。
 その瞬間、世界が広がったような気がした。もちろん錯覚だろう。だけど、確かに僕の中で、何かが変わったような、そんな感じがしたのだ。
 綾波が現れたわけが初めて分かったように思えた。
 僕は大切な人を失うのが怖いから、そういった思いを抱くことに無意識でブレーキをかけていた。なくすくらいなら、失うくらいなら、哀しい思いをするくらいなら、最初からいて欲しくなかった。
 僕は彼女に対して、恋愛感情を持ってる。
 きっと、その感情が怖かったのだ。好きになってしまうこと自体が、怖くて怖くて仕方なかったのだ。
 だから綾波は僕の前に現れたのだと思う。
 僕を見おろしたあの時の、あの表情は限りなく冷たかった。裏を返せば哀しんでいたのかもしれない。負担に思って欲しくないから、僕に姿を見せたのかもしれない。
 心が軽くなった気がした。いや、元々この重さだったのを、自分で重たくしていただけなのかもしれないのだ。自分で自分の精神を追いつめ、ギリギリのところで立ち回らせていた。ただ、それだけのことなのだろう。それに気がつかなかっただけなのだ。
 綾波を言いわけにして、目を向けなかった。
「ありがとう」
 僕は、自然に彼女に向かって礼を言っていた。
 彼女はフンと鼻で笑った。
「礼を言われるまでのことじゃないわ」
 そして、ポツリと言った。ほとんど、聞こえるか聞こえないかの声だった。
「だって、あんただけじゃないもの……」

 お互いに、帰りの道中では一切口をきくことはなかった。
 私は喋りたくなくなっていたし、彼も落ち着きを取り戻したみたいだけど、憔悴しきっていたからだ。彼は自宅に消える前に、一言「ありがとう」と、また礼を言った。
 それを聞きながらドアの奥に彼が消えるのを見て、私は何をやっているんだろうと思った。自分をおいておいて、私以外の誰かに心を縛られていた彼を助けてる。
 これじゃまるっきりあべこべではないか。
 助けて欲しいのは、むしろ私の方だ。それを言い出せない性格だから、ただ自分の中で抱え込んで、外では平然としているに過ぎないというのに。
 私は部屋の中に足を踏み入れて、立ち止まった瞬間に何かが音を立てて切れた音を聞いた。抑圧されていたものが一気に噴火するように、暴力的なうねりとなって私を突き飛ばしたのだ。
 気がつけば、部屋の中にあった全てのものを、手当たり次第に投げ飛ばし、蹴飛ばし、破り捨てていた。全てをメチャクチャにしてやりたいと思った。これも全部、私が抑圧してきた想いの、一つの出口であることには変わりない。
 けど、荒れ狂った別人の部屋と化した自分の部屋を見たら、急に胸の奥が痛くなった。ちっとも苦しみは癒されず、それどころか益々苦しくなるばかりだった。
 助けてほしい。
 初めて誰かに助けてほしいと思った。
 私も泣きたいはずなのに泣けない人間なのだ。感動や切なさで涙は流せても、本当の哀しみでは涙があふれ出ることはない。ふと、ひび割れた鏡に目が行き、そこで髪を振り乱した女の子が立っているのが見えた。顔を歪めているくせに、涙は目を潤わせもしない。
 息が詰まりそうだった。
「ううう……」
 泣けないことがこんなに苦しいものだなんて、初めて知った。
 つい先ほどのことを忘れ、今度は苦しむ立場が入れ替わってしまったかのように思えた。
 ふと、足下にぬいぐるみが転がっていることに気づいた。
 サルのぬいぐるみだった。首から綿を吹き出し、頭を不自然な方向に曲げている。それを拾い上げると、首がちぎれそうに垂れ下がった。
「ごめんママ…。ごめんなさい……」
 大切なものをこんなめにあわせてまで我慢し続け、抑圧し続けて得られるものががあるというのなら、私はそんなものいらない。それがプライドであり、天才という肩書きであっても、今の私が求めているのはそんなものではないのだ。
 欲しいのは、たった一つだけ。
 私は自然と電話に手を伸ばしていた。自分の部屋からでて、無事だったリビングへ行って電話に手をかけ、彼の声を欲した。
 もう、耐えられなかった。
 目もくらむような長い時間、コールが続いたような気がした。
 夢の中に落ちていくような感覚を感じ始めたとき、電話が不意に繋がった。

 どのくらい眠っていたのかわからない。
 いったい何時の間に眠ってしまっていたのだろうか。
 何もすることもなく、ぼんやりと考え込むことと寝入ることは親密な関係にあるんだと思ったのはそんな時だった。半分意識が朦朧としていたとき、リビングで電話が鳴っている音で、僕は現実に引き戻された。まぶたをこすりながらぼんやりと時計を見ると、僕ががこの部屋に帰って来てから一時間半も経っていた。
 しばらくそのままにしておいたら、電話は留守番電話に切り替わってしまった。誰もいないのかと、まだ寝たりない頭で思った。母さん、何処に出かけたんだろう。
 僕は起きあがり、電話の方に歩いていった。もう今からとっても、って気分だった。誰からかかってきたのかを確認するだけにしようと思った。
 留守電でお決まりの「ただ今出かけております。ご用の方は発信音の後にメッセージをどうぞ」という声が聞こえてきてくる。僕はそれを素通りして、のどの渇きを潤そうとおもって冷蔵庫に近づいていった。
 ピーッ。
 ちょっと甲高い電子音の音がして、誰かの声が聞こえてくるか、着られた後のパルス音がするかと思ったけど、予想に反して電話は沈黙していた。
 イタズラ電話かな、と少し疑った。
 僕は冷蔵庫から麦茶の入ったペットボトルを取り出してふたを開けたとき、初めて誰かの声がした。ボソボソっとしたか弱い声がしている、と思った。ただ、妙にそれが気になって耳をすませた。
「……誰もいませんか? 惣流です。いないみたいなので、また電話し……」
 彼女が最後まで言い終わる事はできなかった。
 僕が、お茶を投げ出して、慌てて受話器に飛びついたからだ。
「い、いるよ。ごめん」
 電話の向こうで息をのむ声がしたのが聞こえた。
「どうかしたの?」
「…………」
 彼女は、まるで僕がここにいることを忘れていたかのような反応だった。僕が居ることなど、まるで最初から頭になかったのように困惑していた。何も言い出せず、といった彼女の言葉を、僕はずっと黙って待った。
 何も言っちゃいけない。待ってなきゃいけない。そんな気がした。
 それからどれだけの時間が過ぎたのか正確にはわからないし、大体のところでもあやふやだ。三十秒だったのか五分だったのか一時間だったのか。
 彼女は、今までに聞いたどの声よりもか細く声を絞り出して言った。
「…………私の部屋に来て。お願い」
 何か言う前にプツッと回線がとぎれる音がして、ただ呆然と立ちつくす僕がいた。
 受話器を置き、思考の嵐が通り過ぎた。彼女のこと、僕のこと、綾波のこと。今まで考えてきたことに結論がでてしまうと、そこに残ったのは穏やかな感情だった。
 大きく息を吸って、大きく息を吐いた。
 彼女のところへ今すぐに行って、何も言わずに抱きしめたくなっていた。
 そこまで彼女のことが好きなんだな、と思う。
 だから、僕は今からそのことを彼女に伝えよう。彼女の不安そうな声を聞いて、急に護ってあげたいと思った。
 天井の方を見上げ、肩の力を抜いて目を閉じて二度目の深呼吸をする。息をするたびに胸の中に暖かい気持ちが溜まっていって、これが恋愛感情なんだな、ってしみじみ思いながら、涙が出そうになるのを必至に耐えた。嬉しいと泣けるんだな、と思った。
 もう、我慢も止めよう。
 もう、怯えることも終わりにしよう。嫌われたり疎まれたって構わない。
 そして彼女を失うことも恐れるのはやめよう。
 彼女が僕のことを好きでも嫌いでも関係ないのだ。
 そうしないと、僕は先に進めない。
 そうしないと、写真立ての中の少女は本当に笑ってくれない。
 不意に、誰かがドアのところで僕を見ているような気がした。多分錯覚だろう。でも僕は振り返った。
 もちろん、そこには誰もいなかった。だけど、そこに確かに一人の少女がいて、僕を見ていたのだ。誰がいるのか、もう僕はわかっていた。この気持ちの気がついたときに、きっとまた彼女は僕の前に現れるような気がしていた。
 綾波レイ。
「私はもう消えてもいいのね?」
 寂しそうに、でも嬉しそうに彼女は笑っている。
「……うん。たぶん、僕はもう大丈夫だよ。僕だけじゃダメだけど、今は一人じゃないから」
「そう……、よかったわね」
 穏やかに綾波が言った。
「ありがとう……」
 僕は言いしれぬ寂しさを感じていた。そう、僕は今別れに直面している。もう元に戻せない時計の針に、別れを告げる時間が目の前に迫っている。
「どうしても行っちゃうの?」
「私の存在は、もう碇君の重荷でしかないもの」
「そんなことないよ」
 彼女は寂しそうに笑ったまま静かに頭を振った。
「ダメよ。碇君が先に進んで行く為には」
「……ごめん」
「謝らなくていいわ」
 僕は一筋だけ流れた涙を手で拭った。そして、最後にふさわしい表情はどうすればいいのか考えて、一生懸命に笑った。崩れてしまいそうになる笑顔を綾波に向けて、僕は頷いた。
「最後に聞かせて。綾波は、僕のこと好きだったの?」
 今だから、訊けたような気がする。
 綾波は何も言わず、ただじっと微笑んでいた。そして、また寂しそうに笑った。
「例えそうだったとしても、もうどうしようもないわ。私たちは不完全で、二人で一つだったのは本当のことだと思う。そこに、碇君がなかった感情を私が持っていただけ。ただ、それだけのことでしかないわ」
 そうだね、とは言えなかった。言えるわけがない。僕は溢れそうになる涙を一生懸命に我慢し続けた。
「ごめん」
「いいの。私は。それより早く行ってあげて」
 僕は崩れた表情で、もう一度だけ笑おうとした。そして失敗して、涙に耐えられなくなった。一度堰を切ってしまうと、嬉しくても哀しくても情けなくても、どんな感情でも高ぶったら泣けてしまうのだ。目元を手の甲で何度も拭わなければならなかった。
「ごめん。ごめん……」
 綾波は最後まで笑っていた。いつかくると思ってた日がたまたま今日来ただけ。でも、彼女はそれまでの日々を歯がゆい思いで待ち続けたに違いない。あの時も、もどかしくて仕方なかったんじゃないだろうか。だから、僕の前で、あんなに冷たい表情をして見せたのだ。いつまでも前に進めない僕の背中を押すために。
 そして、今はこんなにも喜んでくれてる。
 もうしわけなくて、僕は謝ることしかできなかった。
「ありがとう、綾波」
 かき消えるように失った彼女の存在を、懐かしむように僕は言った。
 もう、彼女を夢に見たり、何かあるたびに彼女の存在へ逃げ込むことはないと思う。だけど、いつか居心地のよかったこの場所へ還ってきたいと思った。遠い未来、僕が本当の意味で強くなったとき、一人でも大丈夫なくらいに強くなったときに。そのとき、きっと彼女はまた僕に笑ってくれる。
 部屋まで戻った。部屋の扉を開け、手探りで本棚のところまで行って、写真立てを手に取った。僕はそれを写真が下になるように倒して置き、その場を後にした。
 僕を待っている人のところへ行くために、僕はゆっくりと歩き出した。
 まだ彼女の気配を感じていたけど、もう振り返らなかった。薄れていくのが、見なくても背中で感じ取れる。何度も振り返りたくなる弱い精神を、僕は何度も必至で押さえつけた。歯を食いしばって、玄関のドアに手をかけた。綾波との想い出がフラッシュバックしていく。最後の未練を吹き飛ばすように、ドアを開け放った。
 その瞬間、最後まで残っていた綾波の気配が、ゆっくり夜の闇へと溶けていった。
 ごめん。
 心の中で、彼女に頭を下げた。
「ありがとう」
 僕はそうつぶやいた。
 もう振り返ったりしない。過去に逃げ込んだりしない。
 そして今こそ、僕は新しい世界へと飛び出すのだ。




// 9 : Love song //