9 : Love song


 きっと、今までの生き方を否定するような気がしてたんだ。だから、怖かったんだ。
 毛布にくるまり、私は空を見上げていた。
 ソファーを窓の方に向け、外が見える場所で、私は不思議なくらい穏やかな気持ちで待ち続けている。先ほどまでは、まるで暴風みたいに強烈な感情が荒れ狂っていたのに、彼の声を聞いただけですべてが洗い流されてしまった。これが家族以外の他人から得る安心感か、と思った。決定的な違いは、喜びが私の中で生まれていることだ。
 我慢なんかするんじゃなかった。最初から素直にしておけば、あんなに考え込んだり悩んだりしなくてすんだのに。だけど、我慢せずにはいられなかった。それが今まで作りあげられていた惣流・アスカ・ラングレーなのだ。
 私は震えていた。やっぱり少し怖い。自分が今まで築きあげて信じていた、アスカという少女のイメージが全く別人のものになってしまったような、なってしまうような気がする。でも、それはなってからじゃないと判らない。
 割と高いこの階は、窓を開け放っても虫とか騒音とかが飛び込んできたりしなくて、それでいて吹き込んでくる風は、ほとんどが心地いい。レースのカーテンが風とダンスを踊るたびに、私は膝を抱えた自分の存在を場違いなものに感じる。頭から毛布にくるまって、じっと待ち続けた。
 胸の奥で、心臓がトクントクンと静かだけど力強く鼓動しているのは、この暖かみのせいだ。
 今までの私の短い人生は、普通の人が車なら私はTGVかICEだ。何倍ものスピードで世渡りを続けてきて、パパが死ぬまで、それまでを振り返ったこともなかった。そんな暇、与えてもらえなかった。
 ゆらゆらと雲が浮かんでいた。こうやって薄暗い夜に、街の明かりで少し照らされた雲を見ていると、私は南の島の海辺で揺られているような気持ちになるのだ。吹き込んでくる風や、微かに聞こえる車の通り過ぎていく音。私の前髪を揺らして溶け込んでいくそれらの息吹は、とても優しかった。自分を許すということ。それは、きっとこういうことなのだ。
 今になってわかる。それぞれの瞬間で見せた、ここしばらくの彼の視線には、絶対に私のものと同じ粒子が過分に散りばめられていたのだ。でも、それは私も同じ。同じ事をしていた。だから、それを聞きたかった。話してほしいと思った。それは、自分が相手に対してしてあげたいことの裏返しなのだ。
 私はあてもなく待ち続ける。きっと来てくれる。根拠のない自信を胸に、私はひたすら待ち続ける。
 毛布をかぶり直し、私は焦点を定めることなくぼんやりと空を見続ける。星が、今日は少しだけ多く見えた。今日は何等星の星まで見えてるんだろう。そして、それらの星達を、すまなさそうに雲が覆い隠しては通り過ぎていく。遠くに見える月が、気がつけば随分と位置を変えていた。左から右へスライドして、それでいて同じ模様をくっきりと浮かび上がらせていた。
 ピンポーン。
 申し訳なさそうに、呼び鈴が静寂を破った。けど、すぐに元の静かな何もない世界が辺りを押し隠していく。
 私は動かなかった。そして、何も見ていなかった。何も考えずに、ただ側に来てほしいと願った。
 少しためらっている。そして、その場にいない何かに弁解しながらドアキーを震える指先で押しながら、玄関の扉を開ける。私を呼び、そしてまたしばらくその場で立ち止まって考え込む。
 そんなとこに私はいない。ここ。ここにいるよ。
 また躊躇っている。私をもう一度呼んで、今度はガサゴソと靴の脱ぐ音が聞こえてくる。そして、暗闇の中を手探りで進み、ダイニングまで来るとまた小さく私の名を呼ぶ。
 ここにいるよ。私は心で彼を呼んだ。
 彼の手が目の前の扉にかかり、ゆっくりと横に引かれていくのを感じる。そして、ソファーの上でくるまる私の姿。それを見つけて、ホッとして溜息をつく。寝ているのではないかと疑いながら、側まで歩いてくると、頭から毛布にくるまった私を見つめた。
 何一つ私は見てなんかない。目を見開いていたって、私の視覚はもっと別のところにあった。五感の全部で彼を見ていた。歩く音。ドアを開ける音。私を呼ぶ声。それらで、私は彼をイメージして見ていた。
 彼は立ったまま私を見続けていた。静かにそこにたたずんで、私が何か言うのを待ち続けているみたいだった。そうしなくてはならないような使命感を肩に背負っているかのように。
 私はゆっくりと首をひねって、彼の方を見た。私は微笑んで、彼の目を見て、また空を見た。
「さっきわかったの。シンジの声を聞いてわかった」
 彼はまだ何も言わない。私はもう一度彼を見て微笑んだ。
「ねえ、座って」
 彼は素直にもう一人分のスペースに腰を沈めた。三十センチあけて座った彼の心理を無視して、私は強引に体をくっつけた。彼はびっくりしたように私の顔を見てきたけど、慌てて目のやり場に困ったように星達の方に視線を向けた。
「どうしたの?」
 彼の声が面白いくらいに声が裏返ってて、私はまた少し笑った。
「わかってるんでしょ?」
「……………」
「だったら、もっとリラックスしてよ」
 カチコチになった彼の緊張がほぐれるまで、私はじっと待った。何かを諦めたように深々と大きく溜息をついて、彼は私のセリフに降参したような、それでいて安心したような顔になった。
「ごめん」
「なんで謝るのよ」
 自分でも不思議に思うくらいに、のんびりとした話し方をしている。言葉の強さもスピードも声の裏に隠された意図とかも。
「かってにドア開けて入って来ちゃったから」
「今度からはいつでも入ってきていいわよ」
 彼は力無く笑った。私の言葉が冗談にしては、素直すぎていることに戸惑っていた。
「僕ね、考えた。ずっと考えてた。ここのところずっと毎日。一日中考えてた」
 主語なんか無くてもわかる。
「でも、よくはわからなかった。でも、一つだけこうなんだろうな、って思うことだけはハッキリしてた。それがどうしてなのかとか、そんなことあっていいのかとか、考えれば考えれるほど臆病になっていくのが分かっちゃって、嫌だった。でも、こうしてるとそんな事どうでもよくなって来ちゃったな」
「私もよ。怖かったの。なんだか私が私でなくなるような気がしてて、ずっとこうなるのを拒んでたのよ。でも、それって哀しいことでしかないって事が、こうしてるとよくわかる」
 そう、一時の時間の共有が、幾時間もの悩みなんかよりよっぽど大切なのだということが。
 私は彼も毛布にくるんだ。彼もそれをすんなりと受け入れた。私は頭を彼の肩に乗せて、窓の外を眺めていた。
「僕ね、君のこ……」
「お願い。名前で呼んで」
「……アスカのことが好きだよ。こんなに好きになるなんて思わなかったよ」
 そう、それはあふれ出てくる感情の別の姿だった。そう言ったことで、彼は一層おだやかな表情になった。
「うん」
 私はそれだけ言って、見えない彼の腕をそっと抱いた。そして、ゆっくりと手を下におろして、彼の手を取って自分の指と絡ませた。ちょっと骨の感覚なんかが私と違ってて、やっぱり男の子の手だなと思った。
 なんにも音が無くてよかったと思う。
 私たちはただ、そうやって寄り添っていることしかしていないのに、ずっと前からそうしていたような気分になって、やっと私は手が触れてしまったあの時から、ずっとこうしたかったんだということに気がついた。もう、彼の手は熱くも冷たくもない。そのかわり、軽く力が込められて握られた私の手からは暖かさを感じている。
「直ったのね、心の病気」
「うん。アスカのおかげだよ。もう大丈夫」
 恥ずかしそうに彼が言う。それを見ただけで暖かさを感じている。やっぱり我慢するんじゃなかった。
 彼も、きっと同じように考えているんじゃないだろうか。
 だけどそんなことはどうでもよくなっていた。
「ずっとこうしていたい」
「僕もこうしていたい」
「ねえ、私が寝てもこうしててくれる?」
 私はほんの少し、右手の力を込めた。
「いいよ。朝までここにいるよ」
 もしかして、これが幸せの形なんだろうか。自分が喜びを感じていること。それが幸せなんだろうか。そうであれば、私は今、これ以上にない幸せを味わっていた。そして、突っ張ってきた今までの自分をおかしく思えてならなかった。私は何もかわりはしないのだ。ただ、そこに一つ加わるだけのことなんだと、ようやくわかった気がした。
「目が覚めたら、いっぱい話したいことがあるの」
「僕もたくさんある。考えてたこととか、全部聞いてほしい。アスカのドイツでのこととか聞きたい」
「いいわ。聞かせてあげる」
「ありがとう」
 私は彼の顔を見た。彼も私を見ていた。お互い微笑んで、私は彼の肩の上にまた耳をくっつけた。もう、前みたいに不自然に視線を逸らしたりしない。
 慌てることはないと思う。
 ゆっくり、急がずに進んでいけたらいい。人の目とか気になるかもしれない。この先の進学のこととかあるかもしれないけど、私はゆっくりやっていこうと思った。
 彼の暖かさは私の体温と一緒だった。二つで一つ。不完全な二つが寄り添うことで一つになっているような気がする。
 暖かさにくるまれているうちに、私は眠ってしまっていた。
 彼の心臓の鼓動の音が耳に直接聞こえてきて、寄り添って寝入ってしまったのだと気がついた。でも、頭の位置を少しずらして窓の外をハッキリと見えるようにしただけで、それ以上動く気なんてちっとも起こらなかった。彼の寝顔も、もっと長く見ていたいと思った。この時間を、少しでも長く。この奇跡のような暖かさを、少しでも長く。
 白々と明けていく空が見える。もうちょっとで太陽が地平線より顔を出してくるだろう。
 私は彼の鼓動を聞きながら、繋ぎっぱなしだった彼の手の感触をもう一度確かめた。
 目を閉じて、自分に言い聞かせるように言った。
「……こんなに好きになるなんて思わなかった……」
 今度ドイツに帰るのは何時になるかわからないけど、絶対に彼を連れていきたい。そして、ドイツで眠ってるパパとママの前に引きずって行くのだ。少し戸惑う彼を無視して、強引に抱きついてこう言いたい。
「こんなにも情けなくて臆病で頼りないヤツだけど、私の大好きな人だよ」
 そして、最高の笑顔で笑っていたい。
 うたをずっとうたっていよう。

 いつでも口ずさもう。
 この、はじまったばかりのあいのうたを。







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