1 : If you were here


 肩に必要以上の力を感じて、シンジはため息をつきながら右肩に左手を伸ばした。
 もうほとんど終わったな、と思いながら体中の力を抜く。
 暗い部屋での作業が思っていたよりも力を奪っていったのだろう。よくユイに、「暗い部屋で勉強しない方がいいわ」とか「テレビを見るときでも電気を点けなさい」と口を酸っぱくして言われていた。それは確かに当たっていて、彼は表層的な部分だけでなく、奥深い芯のような所から疲れを感じ始めている。
 本当はそうじゃなかった。もっと早くに疲労感は体にのしかかってきていた。それを見て見ぬ振りを続けてきただけで、今はそれすらできないほどに消耗しているだけだ。
 部屋の明かりがないから。
 それが陳腐な言い訳にしかならないことを、シンジ自身が一番よく知っている。
 品々を片づけながら、何故自分はここに居るんだろう、と考え続けていた。どうしてこんなところで、灯りを拒否しながら手を動かし続けているのだろうか、と。
 頭を働かせることが出来る状態ではなかった、と断言してもいい。実際、シンジの父親はそれを見越してあんなセリフを言ったのだろう。放心状態から抜け出したわけではないが、それでも体を動かすことはできる。いや、そうしないと前に進むきっかけにもならない。おそらくゲンドウは、現実を突きつけられた後の息子の様子を、誰よりも長く見守り、熟考の末にああ言うしかないと結論づけたのだろう。
 人は、忘れることで生きていける。
 今のシンジはその言葉があったからこそ一人でここにやってきた。他人の手に任せることは不可能だった。それが例え自らの母親の申し出であっても、シンジは頑なに一人を選択した。誰一人、そんな彼の行動を言葉で諫めはしなかったものの、いい顔をした人間もまたいなかった。ただ一人、ゲンドウだけが黙ってこの部屋のキーを渡してくれた。
 シンジは顔を上げ、暗視にも慣れた視界を見渡す。元々少なかった部屋の装飾品が、手元の段ボール箱に次々と仕舞われていく課程は、心を重たくすることはあっても、軽くするようなことは決してない。たいして大きくもない紙の箱へ、残された無機物だけが吸い込まれていく。
 全部要らないものなんだ。
 自分に言い聞かせるようにつぶやき、棚の上の本を手に取る。暗がりの中で見えた本の、ビビッドな色のタイトルが見て取れた。
『いつでもまた会える』
 子犬が亡くなった飼い主の少女を思い出す、短い文章と簡単な絵で綴られた古い絵本。読んだ本はすぐ捨ててしまうか、図書館などへ寄付してしまっていたくせに、こんな小さな本はいつまでも手元に置いていた。学術書でも参考書でも、ミステリー、推理、ファンタジー、ありとあらゆる活字を目に通していたくせに、結局最後に選ぶのは、初めて文字を目で追う愉しさを覚えた絵本だった……。
 胸が痛い。
 痛くて痛くてたまらない。
 ギリギリと心臓の辺りが締め付けられ、重く淀むようだ。
 これを箱に入れ、ガムテープで封をしてしまえば全てが終わる。そう信じてここに来たのに、それを目前にしても釈然としないのはどうしてなのだろう。
 達成感よりも、不安が大きいのは何故なのだろうか。
 深く考えることは、やはりできなかった。靄のかかったような頭では、その疑問が浮かんだ時点で一杯いっぱいで、できることは体を動かすことだけに限られてしまう。
 少しでも胸の奥が軽くなることを期待して、深くから肺の中の空気を吐き出した。
 抜けた力を再び右手に入れ、絵本を取って箱に入れる。
 そのとき、白い紙がシンジの視界を横切りながら滑り落ちていった。何かが絵本の中に差し込んであったらしい。
 少し躊躇い、それでも段ボールの中に絵本を入れた。これで、あとはこぼれ落ちた紙を箱に入れて全てが終わる。
 真っ白な紙切れに見えたのは、何も書かれていないせいだった。
 シンジが拾い上げたのは真っ新な封筒で、一枚の便箋が折り目正しく収められていた。端を触れると切れてしまいそうな便箋を取り出し、丁寧に拡げてみる。それが何を意図して書かれたものか、シンジはすぐに悟った。
 一行だけ目を通し、シンジは顔を上げた。
 夜の闇の中で静まり返った世界はどこか儚かった。シンジがそう感じただけかもしれない。そう感じたのが彼だけだったかもしれない。半開きになっていたベランダへのサッシから、カーテンを踊らせる風が吹き込んでくる。そのままシンジの前髪を少し揺らして、部屋の中の闇へと溶け込んでいく。
 薄地のカーテンの外には青白く月が光っていた。
 蛍雪と昔の人は言ったけど、月も入れておけばよかったのに……。
 シンジは暫く考え、封筒に便箋をあった通りに戻した。そのまま隣に置いてある、何十倍も重いガムテープの上に軽い紙を乗せ、落ちないように少し角をガムテープの隙間に差し込む。自分の家から持ってきた数点の品を入れても、まだまだ余裕がある。一杯にならなかった箱を蓋する作業は、シンジの労力を一分も必要としなかった。
 体についたホコリを払い、段ボール箱を抱えて立ち上がる。
 そのまま出口へ向かって足を運んだ。
 扉が開く音がして、すぐに閉まる音がした。
 取り残された、いつか無くなってしまうコンクリートたちがその音を聞いていた。




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