2 : open the next


 碇シンジは掲示板に掲げられた名前の中から自分の名前を確認し、小さく息を吐き出した。ため息と呼吸の中間ほどの吐息の理由は、新しいクラスに小学校の頃からの知り合いが一人もいなかったからだ。元々この第三中学校よりも、第二中学校へ通う生徒のほうが多かったし、考えられない事態ではなかった。だからシンジはあらかじめ心の中で予防線を張り、落胆が大きくないように努めていたのである。
 とはいえ、さすがに残念だとは思った。
 気を取り直して四階の新しい教室に向かった。慣れない詰め襟の学生服は大きめで着心地がいいとはいえない。しかし大人たちからすれば、「絶対体が大きくなるんだから、今のうちに大きめの服を買っておいた方がいいのよ」ということらしい。
 辺りを見渡すと、胸に花を付けた新入生たちは一概に似たような表情をしていたので、シンジは自分だけではないと知って安心することができた。保護者同伴の新入生も数多く、着飾った大人たちも多い。
 シンジの親も来るには来ているのだが、シンジは教室までついてくるのは絶対にやめてくれ、とシンジ自身が強く断った。特に父親の方には「女子が泣き出すかもしれないだろ」と、失礼極まりないことを言い残してきたが、客観的にみてシンジの意見は至極当然といえた。
 長身痩躯の父親はゲンドウという名で、とある研究所の所長をしているくらいだから、社会的ステータスは高いといえる。だが、不思議なほどに人望がない。母親のユイも同所へ勤めているが、こちらは評判がよいらしい。
 その問題の父親はひとえに顔と雰囲気で損をしているのである。鋭い双眸と、近寄るだけで切れそうな威圧感。右から左まで、顎を経由してつながったヒゲ。そして口調。ユイにいわせると「あれでかわいいところもあるんですよ」ということらしいが、実の息子であるシンジですらそうとは思えないくらいであるから、他人の評価は推してはかるべきであろう。
 密かにゲンドウがいつか仕返しをしてやろうと画策しているなどとは露も知らないシンジ。歩いているうちに気分も何となく晴れ、新入生らしく、不安と緊張と期待を入り交じらせた表情で階段を上っていく。先月までは小学校で最上級学年だったが、これからは立場ががらりと入れ替わる。時々見かける上級生の姿を見て、それを改めて認識する思いだった。
 一年は四階、二年が三階、三年が二階、職員室や保健室が一階という構成の校舎なので、しばらくは足腰が強くなりそうだな、などと考えているうちに階段が切れ、最上階までたどり着いた。
 自分のクラスの位置を確認し、そしてその前にできあがった人混みを見つけた。多くは一年生らしいが、自分の教室の出入り口にやたらと人の数が集まっている。よく見れば上級生の姿も混じっているようで、彼らに共通していたのは等しく囁きあうようにして何かを覗いていたことだろう。
 なんだろう、と思いながらその輪の最後尾に立った。だいたいの人間は教室の中の何かを確認すると、満足そうに踵を返して帰っていく。自分の順番がくるまで待ち、それから教室へ入った。
 べつに教室自体に変なところはないよな、と思った。今まで前を通り過ぎるときに見てきた隣のクラスと差別化が図られているわけでもない。
 シンジ以外の人間は、遠慮がちにチラチラと同じ方向を向いている。なんだろう。そう思いながら他の生徒と同じ方向へ目を向け、そして何も言えなくなった。
 一言目には驚いた、というしかない。
 シンジの目にもそこだけ別世界のように見えた。
 まず目に付いたのは髪の毛だった。多くの生徒もそこへ目がいっているようだ。光の加減では銀にも薄い水色にも見える。それでいて艶があって、決してくすんでいるような色ではなかった。
 そこに座っているのは何の変哲もない少女だった。ただ読書好きなのだろう、普通に本を読んでいるだけだ。
 そう思いこもうとしても、そこにいる全員が必ず失敗した。シンジの目に焼き付けられたのは、血管が透き通って見えそうなほどに白い肌と、横顔からのぞく紅い瞳。それらを見せつけられて、一般的という言葉を使おうと思うほうが間違っているからだ。
 もしかして髪の毛は染めてて、目はカラーコンタクト?
 雑音の中で、そう囁く誰かの声が聞こえる。確かにそうかもしれないが、だとしたら近寄るとケガするタイプの人間なのではないだろうか。だったら、近寄らなきゃいいんだよな。関わらなかったらトラブルなんて起きないだろうし。
 シンジは彼女に対して非積極的に関わることにしよう。そのように決定を下して自分の席を黒板で確認する。そして即座に凍り付いた。
 幸か不幸か、彼女の真横が彼に割り当てられた席だったからである。
 しばらく教室の後ろで突っ立ったまま考え、チャイムが鳴るまで今立っている場所から動かないことにした。入学式から波瀾万丈だな、とシンジは嘯き、今度こそため息をついた。
 冷静に考えてみれば、奇異の視線の中へ自分も飛び込んでいかねばならない、ということでもあった。
 何かの病気かな、と思う。
 いままでシンジは虐められたということはないが、それに近い事件がなかったとは言えない。虐められる対象にならなかったのは、ひとえに周りの環境の、偶然の産物だったからだ。だから、人の身体的特徴を何か言うのは反則だと感じていた。
 シンジの場合はちょっと人より気が弱いだけだ。それだけでも、十分周りの人間からは浮く存在になり得る。
 彼女の場合、外見が一般的とはいえないだけで、立ち回りにおかしいところは見られない。
 チャイムが校舎に鳴り渡った。
 小学校の時と微妙に違うメロディーを聴いて、改めてここが新しい学校なのだと認識する。何もかもが新しい。
 席についていく生徒たちに混じって、シンジも自分の席に向かった。
 隣に座る少女は本に目を落としたまま、周りに目を向けることはない。シンジにも一瞥すらしなかった。無関心を装っているのか、それとも本当に周りに対して興味がないのかはわからない。シンジには、ただじっと読書を続ける少女の横顔が印象に残った。
 ほかの生徒たちは居心地悪そうにしていたり、緊張で身をこわばらせていたりする。なのに、隣の少女だけは超然としていて、さもここにいるのが当然だと言わんばかりに落ち着いていた。
 ガラガラッと引き戸を開ける音がした。その音で少女を見つめ続けていた自分に気がつき、シンジはあわてて正面を向き直した。
 扉からは老齢に片足を突っ込んだくらいの教師が入ってきた。猫背気味に歩く、ごくありきたりの教師の雰囲気を漂わせながら教壇に上った。
 その姿を目で追うシンジ。だから気がついていなかった。水色の髪の少女が、教師ではなく、横目でシンジの顔を見ていたことに。
 ただそれも一瞬のことで、手元の本を机にしまい込む。シンジが横目でそれを見たが、すぐに正面に視線を戻した。
 教師が乾いた手で黒い名簿を開き、出席を取り始める。
「では、えー、はい、まず出席をとります。その後今日の、えー、入学式についてとホームルームの説明をします。式が終わってから、えー、明日以降についてガイダンスします。質問はまた後ほど聞きます。えー、相田君、碇君、梅原君、……」
 教師はずいぶんと間延びのするしゃべり方をする人らしかった。のんびりとした口調はこの場ではよい方に働いたようで、生徒たちも多少リラックスしたように見える。担任の教師が怖いタイプだったら、と気をもんだ生徒も多かっただろうし、シンジも心の中では「怖そうな先生はいやだなぁ」と思っていたのだから、少し和んだのは当然と言えるかもしれない。だが皮をかぶっているのかもしれないし、怒ったときが猛烈なタイプかもしれないので、生徒たちは油断しきっているわけではなかった。
 教師は生徒の返事を聞きながら、一人一人の顔を確かめていた。男子が終わり、教室の半分の生徒の名前が分かったハズなのだが、さすがに一度には覚えきれない。シンジも前後の男子、特に目の前の眼鏡の生徒が相田という名前だということしか頭に入ってない。何かあればすぐに忘れてしまいそうだった。
 それもそのハズで、教師の言葉を待っていたからだ。
「はい、えー、では次、女子ですね。相川さん、綾波さん」
 おそらくこの教室の中で一番注目を集めているであろう女子生徒の名字は綾波だということが分かった。シンジだけでなく、他の生徒の大半も、彼女の名前が呼ばれたときは自然と視線を向けた。
「はい」
 小さな声だったが、澄んだ声が全員の耳に届いただろう。唯一、老教師だけが何事もなかったかのように点呼を続けた。おかげで、彼女が教師からも特別扱いを受けるわけではないのだと全員が認知することになる。
「大平さん、掛川さん、……」
 相変わらずとぼけたような、茫洋とした口調で老教師は名前を呼んでいく。やがては、この教師の授業で居眠りが大流行するのだろうが、今は皆がまじめな顔をして注目してた。
「山田さん。……えー、計二十四名の皆さん、ご入学おめでとうございます。十時から式があるわけですが……」
 後は退屈な説明が続いた。この数日は、このクラスが暮らすとして運営されるための役職決定や、詳しい自己紹介などで費やされるだろう。
 自己紹介、という言葉を聞き、シンジは隣で遠い目をして前を向いている少女がどんなことを喋るのか、大きな興味を持った。ただそれと同時に、どうしてこんなにも気になるのか自分でも分からず、少し困惑気味でもあった。

 綾波という少女のことも確かに興味があった。だが、シンジを被う周りの環境が、シンジの知識欲を満たすのを妨害して回った。彼はクラス内で自分の立場を確立するのに不要な労力を費やさねばならず、隣の少女と会話することは全くなかったのである。
 大まかに分けると、新しいクラスには三種類の人間がいる。活発的に周りとコミュニケーションをとって輪を広げていくタイプ。希望はあっても実行力がないため、他人にコミュニケーションの拡大をゆだねるタイプ。そして前者二つの人間から避けられるタイプ。最後にあてはまると、悪くていじめの対象になりうるが、彼らは彼らでグループを形成することが多いので、空気と同等と扱われることが多いらしい。
 しかし、それらに分類できない人間もいた。それが綾波レイだった。
 シンジは二番目にあてはまるが、綾波レイは全く周りとの関わりがなかった。まず、よっぽどの用がない限り自分から話しかけない。また、用事があっても言葉が極力少なく、相手の人間は少なすぎる言葉の意味を汲み取るのに多大な苦労を強いられた。
 それに感情がない、といわれるほどに無口で表情を崩さない。いつも万事に無関心そうな表情で本を読んでいるか、窓の外へ視線を向けているだけだ。独特の雰囲気が彼女を包み込んでいて、近寄りがたい何かを感じさせる空気が人を遠ざけ始めていた。
 最初は一番目のタイプの、明るく社交的な女子が綾波レイに話題を振って話を引き出そうとしたり、いろいろな決定事や行事に誘ったりしていたのを、シンジは隣の席で無関心を装って聞いていた。ただ、水色の髪を横に振るだけで、綾波レイは軽い拒絶の意を示してばかりいた。
 彼女の評判がそれでいて悪くならなかったのは、やはり冷たすぎる空気のおかげだろう。
 色素の薄い唇から「ごめんなさい」と囁かれると、誰もが怒りよりも遠慮を感じてしまうのだ。病弱な様子ではなかったが、どことなくガラス細工のような繊細さを感じさせる少女だった。
 シンジが彼女に話しかけたのは、皆がそう思い始めた、桜の花が散りきった時期だった。

「あ痛たた……」
 目尻に少し光るものを溜め、シンジは足首の痛みを必死に耐えていた。
「ちょっと待ってね。湿布張ってあげるから」
 白衣の教師が、少しあきれ顔で薬箱の中を探り始める。
「私もそれなりに保健室の主の代理をやってるけどね、最初の授業で担ぎ込まれた生徒は初めてよ」
 横幅十センチくらいの湿布を取り出してシンジの方を向いた。
「どうやったら捻挫できるのか教えてほしいわ」
「はあ……」
 やっちゃったものはやっちゃったんだ、とシンジは思った。自分でもドジなのは重々承知の上だった。この金髪の女性教師は体育の授業中に足首を捻ったのだと思っているようだが、実はそうではない。階段を下りている最中、上ってきた生徒の一団を避けようとして足を踏み外したのである。
 誤解させておいた方が都合が良さそうな上、真実を話すのは恥ずかしかったので黙っておくことにした。まあ、悪いことしてたわけじゃないしな、と自分に弁解する。
 ヒンヤリ、というよりは冷たい感触がシンジの皮膚に接した。一瞬、全身に鳥肌でも立ったような気がした。総毛立っているのがハッキリとわかる。
 うっ、と思わず耐えた声が漏れてしまった。教師、赤木リツコはフフフっと笑ってシンジの膝を叩いた。
「はい、あとは安静にしてね。帰るときになっても腫れが酷いようだったら病院に行かなくちゃいけないかもしれないから、もう一度ここに来てもらえるかしら」
「わかりました」
「うん、いい返事ね。……さて、と。碇君、だったわね?」
「え、あ、はい。そうですけど」
 リツコは来訪者記録の真新しい欄を見ながら、子供がイタズラを思いついたような顔でシンジを見た。もちろんシンジは警戒心の色を濃くして見返している。
「一のAよね?」
「はい」
「綾波さんって知ってる?」
「は……い?」
 思わぬ質問にシンジの声が裏返る。なぜここでそんなことを聞かれるのかわからない上、いったい何を意図しているかさっぱりである。ただ今日は、朝からその姿を見ていなかったことも同時に思い出した。
「ええ、一応は。席が隣だし」
「その綾波さん、いまそこの奥で眠ってるわ」
「そうなんですか」
 シンジの声は無感動そのものだった。だから僕に何の関係があるのか、と思った。
「今朝、昇降口の近くでうずくまっているところを運ばれてきたんだけど」
 リツコは少し困ったような顔をした。
「少し重い貧血みたいね」
 この先生はもしかして僕を試しているんじゃないか、と不意に思った。何となく言葉が綾波レイに興味を持たせようとして誘導尋問されているような、そんな感覚に捕らわれたのである。
 シンジが黙っているので、リツコが自然と続きを喋ることになる。
「そこで一つ、あなたに尋ねたいんだけどいいかしら?」
「はい」
「彼女、もしかして教室で浮いていない?」
 シンジは一瞬言葉に詰まった。正直に言って良いものか迷ったのだが、言葉に詰まった時点でリツコの言葉を肯定してしまったようなものである。それに気が付いて、シンジは躊躇いがちに首を縦に振った。
「やっぱりね」
 ため息混じりにリツコは洩らす。シンジはそれを聞き逃さなかった。
「先生。やっぱり、って?」
 リツコはやおら立ち上がると、流し台の隣に置いてあるコーヒーメーカーに手を伸ばし、猫柄のカップに黒い液体を注いだ。シンジの鼻腔をカフェイン独特の臭いが刺激を与えていく。
「あなたもどう?」
 リツコは肩越しにシンジを見た。
 シンジは遠慮とコーヒーの苦手意識から首を横に振る。
「あの子、ちょっと顔見知りでね」
 それ以上は言わず、コーヒーを味わいながらカップに口を付けていた。
 にしても、とシンジは思う。本来この保健室の主は長野という初老の先生なのだが、なぜ理科教師の赤木リツコ教諭がこの場所にいるか少々不思議だった。
「そういえば長野先生は?」
「今日は風邪でお休み。だから今日は一時間交代でいろいろな先生が登板することになってるわ」
 綾波がいるからここにいるんじゃないかな、と思ったシンジだけに、この答えは肩すかしを食らったようでガッカリしてしまった。質問からしてなにかもう少し深い理由でもあるではないかと思ったのだが、実際はそうではないらしい。
 そう考えたところにリツコの次の言葉が飛んできた。
「碇君」
「はい」
「ちょっと無理なお願いしていいかしら?」
 リツコはシンジの後ろで寝ている少女を、カーテン越しに見つめるような目をした。シンジもつられるようにまっさらなカーテンを見る。が、リツコのように中がどんな風になっているか、想像することはできなかった。
「なんですか? お願いって」
「あの子と仲良くしてあげて欲しいの。確かに取っつきにくいかもしれないし、無表情で冷たい感じがする女の子かもしれないわ。でも、それはあの子の本当の姿じゃない」
 とまどった表情をしたシンジだったが、リツコはそれを見ても言葉を止めなかった。
「だれも気がつかないだけ。それにあの子自身がそれを止めようと努力していないの。だから誰かが、笑顔を引き出してあげない限り、彼女は永久に笑うことはないわ」
 思わぬ言葉に、シンジはリツコから目をそらすことができなかった。覗き見るようなリツコの深い瞳の色に吸い込まれそうだと錯覚しながら、その真面目すぎる口調と意外な内容の落差に頭が少し混乱していた。
「でも、なんで僕なんですか?」
「それはね」
 不意にリツコは自分から交錯した視線をはずしたい衝動に駆られ、あっさりと敗北した。シンジの窓の外を見る仕草が、一瞬綾波レイと重なって見えた気がしたのだ。
 言おうと思っていた言葉が口から出にくくなっていた。
 ふうっと小さくため息を付く。一度目を閉じ、改めてシンジを見返した。
「……あなたにも彼女と同じ影が見えるからよ」

 シンジは綾波レイの姿を一度も見ることなく、リツコに見送られて保健室をあとにした。
 おぼつかない足取りで教室に戻る間も、教室に戻ってからもリツコの言葉が頭から離れなかった。いったいあれはどんな意図で発せられた言葉なのか。それに僕が綾波と同じ影を持っている?
 言われてみれば自己分析で似ている部分も無いとは言い切れない。
 しかしあそこまで徹底して人を避けているわけではないし、ましてや感情を表さないこともない。授業で先生が面白いことを言えば笑うし、映画を見て悲しければ涙腺が弛むことだってある。
 しかし綾波レイがそんな素振りを見せたことなど一度もなかった。シンジはそう言いきる自信があったし、彼女の方にしても肯定しかしないであろう。
 影で鉄仮面と揶揄される所以である。
 教室に帰った後も、彼の隣の席はぽっかりと空いたままだったにもかかわらず、他のクラスメイト達はいつものように過ごしていた。確かにそこには空気しかない。しかし彼女がいるときでさえ、空気と同じように振る舞っていないだろうかと考えて、シンジは背筋に寒気を感じてしまった。
 まさか、と思いつつも持論が完璧なまでに正しい気がしたのだ。
 もし自分だったらなどとは恐ろしくて仮定もできない。
 歯がガタガタと音を立てて鳴り始めようとしていた。クラスメイト達に不審がられるわけにはいかないので必死に耐えた。しかし寒気は収まらず、両腕で自分の体を抱きしめるようにして机に伏せた。これなら寝ているだけに見えるだろうと、思いながら。
 ぎゅっと閉じた瞼の裏に、振り返った姿でこちらを見ている綾波レイの姿が浮かんできた。不意に見えた映像に驚き瞼を開ける。木目と長年の汚れで薄黒くなった机の表面が至近にあった。自分が夢を見ていないと認識し直して、深々と肺の中の空気を空っぽにした。
 胸の奥にわだかまりがあった。
『人から忘れられていく存在』という恐怖を目の前にしたときに発芽した、ある人物の未来の姿という種子は、これから大きな木に育ってしまうのだろうか。
 リツコも同じ未来を見ていたのだと今になって分かった。
「けど、僕には何もできない……」
 前の席の少年がシンジの呟きを聞き振り返ったが、シンジは気が付かずにある少女の強さだけを感じていた。
 どしてあんなに超然としていられるのだろう。僕には絶対にできないのに……。
 今度の呟きは空気には伝わらずに、シンジの意識の中へと吸い込まれて消えた。
 リツコの言葉が思い出されて息苦しくなる。
 そんな馬鹿な、と思いながら可能性を否定できない自分がいる。
 知りたい、と思った。世界と分け隔ててもなお生き続けていられる少女の強さがどこから来てどこへ行くのか。
 首を捻って隣の席を見る。
 からっぽの席に、綾波レイの影が見えた気がした。




// 3 : I need you //