3 : I need you


 きっかけは思わぬ所から転がり込んできた。
 偶然というには出来過ぎているようで、何となく怖かった。
 一週間前にリツコに言われた言葉、頼まれた願い。それを反芻しながら過ごしたわずかな日々の間にも、綾波レイは何事もなかったかのように教室の一部となったように見えた。ただそれはあくまで表面的な部分を見ているだけに過ぎず、現実は静かに加速度をつけて転がり始めていたのかもしれない。
 彼女はクラスメイトの一部でありながら、個ではなかった。個ではあったとしても無視されているような、まるで観葉植物のような扱いをされているようだった。
 虐められているのであれば、シンジは目を逸らすことしかできなかっただろう。しかし彼女の超然とした独特の雰囲気は、周りに構う勇気を与えなかったのだ。彼女が弱々しさや媚びた態度を見せることが今まであったとしたら、今の彼女は存在し得なかったはずだった。
 確かにシンジは朝が弱かったとして、毎日チャイムギリギリに教室に駆け込んでくるような風紀委員泣かせの生徒だったとしても、教室に一番乗りしてみたいと思うのは不思議なことではない。それがたまたま朝早く起きれて、いつもよりも遙かに早く家を出て、少しいつもと違う清々しい空気を吸いながら数の少ない生徒達に混じって校門をくぐっただけだ。
 教室の扉を開けて、一番乗りのしんとした静けさを初めて味わうのだと思いながら足を踏み入れた。そこでシンジはいつもの場所にいつもの空色を見つけた。空想していた静けさと涼しさは教室にあるのに、希薄な存在感がそこにあっても損なわれていない。澄んだ空気が満ちているようだった。
 いつもと違ったとすれば、彼女はシンジの方を見ていた。二重の意外さのあまり、シンジはその赤い瞳から目が離せなくなっていた。
「おはよう」
 静かだが澄んだ声がシンジの両耳まで音を伝わってきたとき、ようやくそれが目に映る立った一人の少女の声だと認識することができた。
 シンジは夢から突然現実に連れ戻されたような気がした。
「お、おはよう」
 慌てて返す挨拶も声がうわずっている。そんなシンジを意に介さず、綾波レイは前をむき直し、読んでいたと思われる文庫本を広げ目を通し始めた。
 数秒は入り口でボーっとしたまま立ちすくんでいたシンジではあったが、頭の回転が戻り始めると慌てて扉を閉めて歩き出した。しかし頭脳は動作していても混乱気味だった。
 まさか、という思いがある。
 挨拶されるとは夢にも思わなかった、とシンジは思った。それが顔に出ていたのだろう。レイはシンジが傍らに立ったとき、再び顔を上げて無表情のまま言った。
「グラウンドを横切っているのが見えたから」
 だから足音でシンジが来たタイミングがわかった、と言いたいのだろう。だから扉を開けたらすぐに彼女がこちらを向いたのか。しかしもう一つ疑問が残った。
「あの、さ」
 シンジは言葉が出てしまえば、喋ることは難しくないと初めて知った。
「一つ聞いていいかな?」
 レイはわずかに視線をはずし、すぐにシンジの顔を見直して頷いた。
「挨拶してくれたけど、毎日誰かにしてるの?」
 彼女の首は左右に小さく振られた。その顔は表情が変わっていないのに、どこか寂しげに見えたような気がした。
「だったらどうして僕にだけ?」
「嫌だったの?」
「そんなことないよ!」
 思わず言葉が強くなってしまい、シンジは自分が大声を出したことに驚いてしまった。
「ごめん。嫌だったわけじゃないんだ。いつも綾波が一人でいるから、挨拶したりされたりっていうイメージが湧かなかっただけ」
「そう」
「けど本当はそうじゃないんだよね。赤木先生から聞いたんだ」
 苦手てなだけなんだよね、と言おうとしたとき、扉が開く音がしてクラス委員の女子の姿が見えた。
 レイは突然黙り込んでしまった。シンジはそれ以上は何も言えず、続きは昼休みにしようと思いながら、空を眺めるレイの姿を横目で見ながら席に着いた。

 シンジは気が付いていた。
 レイはまだ本当のことを言ってはいなかった。シンジが尋ねた問いをはぐらかし、曖昧にしたままだったのだ。
 本当のことを知りたいと思うと同時に、どうしてすぐに答えてくれなかったのか、何となく分かるような気がした。しかし予想の範囲を飛び出ない以上、下手な行動に出るわけにはいかなかった。知りたいと思っても、じっと我慢して話してくれるのを待つしかないのだ。
 それが気取られないように、シンジは午前中ずっとムッとした顔を貫き通していた。綾波ならこんな顔してたって気にしないだろう。他の人は話しかけてこないだろうし。
 午後十二時半を回り、シンジは自分の行動は正当に評価され、誰も話しかけなかったし、レイも相変わらず隣で板書を移したりボーっとしていたりした。
 シンジは四時間目終了のチャイムが鳴ると同時に席を立ち、わき目もふらずに目的地へと歩いていった。お腹の辺りは空腹を訴えユイのお弁当を渇望していたが、シンジはそれすら忘れたかのように階段を下りていく。
 二分もせずに到着し、一度扉の前で表情を引き締め直した。二度扉を叩き、返事を待たずに引き戸を開けた。
「先生、いますか?」
 中を覗いても、主である赤木リツコは姿が見えなかった。
 もう一度廊下に出て上を見上げた。しっかりとプレートには『理科準備室』と書かれているし、視線を平行に戻せば実験器具や机、書類や薬品などがぎっしりと狭い部屋に詰め込まれていた。
 見ただけで息苦しくなりそうな狭い空間に金髪の教師が背中を向けて、パソコンに向かい合っている姿を想像していたシンジだったが、いるべきはずの空間にリツコの姿はない。開けはなった扉の奥から薬品の刺激臭に入り交じって、かすかにタバコの匂いがした。
 この場にいないのであれば職員室かと思ったが、しばらくこの場で待つことにした。理由は特にないのだが、何となくこの場で待っていたい気分だった。
 扉を閉め、アルミサッシにもたれかかるようにして座り込んだ。緊張の糸が切れ、ふうっと息を吐いて目を閉じる。下げた首をもう一度上げて空を見上げた。
 水色の空は深い。海の青よりも深いような気がした。ぷかぷかと浮かぶ雲と先ほど匂ったタバコがダブって見え、誰ともなく吐きだしたタバコの煙が空に上って雲と混じり合うところを想像した。なんかユーモラスだな、と思った。
 廊下を歩く足音がする。廊下よりも少し幅が広い場所に準備室はあるので、廊下からは直接シンジの姿は見えなかった。シンジの方からは足音で誰かが近付いていると察知することができた。
 ただ昼休みに突入ばかりのこの時間に出歩く生徒の姿はほとんど見られない。大半の生徒は教室で仲の良い友達と昼食を取っているのだろう。
「お腹がすいたな」
 呟いてから俯いた。
 地面からコンクリートの冷たさが伝わってきた。
 視界を閉ざすことで体中の感覚を研ぎ澄ます。まだ大きくない喧噪も、緩やかに流れていく暖かな風も、シンジに心地よさを提供して世界に溶け込んでゆく。
 その時、確かに世界と一つになっているような気がした。
 いつの間にか一瞬の浅い眠りについていたとハッキリ自覚したのは、彼が一メートル手前で立ち止まる足音を聞いたときだった。目を開き、視線をさまよわせながら足音の方向に顔を上げた。シューズが見えたので先生じゃないのか、と思いながら更に顔を上げる。
 ライトグリーンの制服から伸びる足の白さに見覚えがあった。ソックスの黒も、撫で肩も、頬にかかる巻き髪も。
 どうしてここに彼女がいるんだろうと思い、それが愚問であることを思い出した。
「…………」
 互いに無言で見つめ合った。表情からは何を考えているのかは分からなかったが、漠然と彼女が望んでいるような気がした言葉を、シンジは口にしていた。
「赤木先生はいないよ」
 シンジに向けられた瞳は睨むわけでもなく、かといって見下しているような目でもなかった。ただ単純に見ている、という動作はこんな目で周り見る時を言うんだろうな、とシンジは思った。
 またお互いのスキマに沈黙が舞い降りてくる。
 だが今度はレイが踵を返すことで遮られた。
「職員室に行ってみるの?」
 背中にかけられた言葉にレイは首を振った。
「だったらここで待ってれば?」
「碇君」
「え、」
「赤木先生に頼まれたから私に話しかけるの?」
 シンジは思わぬレイの言葉に、とっさに反応できない自分を感じていた。
 正面切って聞かれたりしたら、どう応えていいのか分かるはずもない。そうでもあるような気もするし、最初からそうしたかったような気もする。都合がよいと思われても、リツコの言葉はきっかけに過ぎなかったような気がするのだ。
「わからない」
 呟き以上にはならなかった。しかしレイの耳には空気を伝わって届いている。
「だけどそれだけじゃないような、上手く言えないけど、そんな気がする」
 どうしてそのことを知っていたのだろう、とは思わなかった。
 レイは横顔をシンジに見せたが、彼の方を向いてはいなかった。見てもいなかった。
「先に戻るわ」
 静かに言い残し、足音をほとんど立てずにその場を歩き去っていった。

 シンジ以外の生徒たちも感じていたことだったが、敏感なシンジは強くそれを意識していた。
 綾波レイを包み込む空気は穏やかで凛としていた。
 教室の喧噪も、行き帰りの雑踏も彼女の静けさを消すことはできない。時々遠くを見つめているような目がとても印象的だった、と誰もが口をそろえる。
 その静寂の内側に最初に踏み入れることを許されたのは碇シンジ。
 実際は最初で最後の人間となったわけだが、もしシンジがそれを自慢そうにしたら、その時点で綾波レイと碇シンジの関係は二度と交わらない直線を描くことになっただろう。
 絡まり合う糸のように、二人のシンパシーが通い合った瞬間。
 それはやや唐突にやってくる。しかしそれはごくありふれた、当たり前の時間の中に存在していたのかもしれない。
 シンジとレイは同じ夕焼けを眺めながら、長い坂道をゆっくりと歩いていた。
「赤木先生は僕と綾波に同じ影が見えるって言った。最初はどこが似てるんだろう、って思った。外見なんてまるで違うし、しゃべり方とか立ち振る舞いとかがそっくりなわけでもないんだ。そうやって一つ一つ確かめながら何も似てないじゃないかって思い始めた頃、ようやく綾波と話をするチャンスがあったんだ。この前の朝と昼、が主かな」
 それまで綾波レイというキャラクターは話しかければきちんと対応するが、よっぽどのことがない限り自発的には口を開くことのない、面白みのない女子生徒だと思われていた。シンジも保健室に担ぎ込まれるまではそう思っていた。
 シンジが見方を変えたのは赤木リツコ教諭に言われた言葉があったからだが、それは見方を変えるための起爆剤でしかなく、自分の身の回りのわずかな変化で認識をし直していった。
 大勢の中では決して口を開くことのない少女だったが、人が少なくなったりいなくなったりすると、その静かな声で語りかけることがあった。いつもではないにしても、そうやって彼女が自ら口を開いてくれているのが自分だけだということを感じ始めたのはごく最近のことでしかない。
 会話と呼ぶほどの長さがない、お互いの言葉の応酬。しかしシンジの言葉を受け流したりはせず、レイは常に応えるようになっていた。それは他人ならばレイが無視するような言葉であったとしても。

――「おはよ、綾波」「おはよう」

――「それじゃ私、先に行くから」「あ、うん」

――「落とすなんて、以外とドジだね。はいこれ」「ありがとう」

――「何の本、読んでるの?」「あ、いや、……星の王子様」

 シンジの言葉を受け止めていた。
「…………」
 何も言わず、表情を変えることもないレイの姿を見れば、普通なら無視されたと思われてしまう。だがシンジとリツコなどのごく一部のものだけが、そうではないと知っている。
 レイは無言のまま次の言葉を待っていた。
 シンジはその音のないメッセージを確かに聞いた気がした。
「お互い黙り込んだ時って普通気まずい思いをするものなんだ。何か喋らなくちゃって話題をいつも探してる。けど、綾波の時はそうじゃなかった。別にそんなこと無理にしなくてもいいんだよね」
「…………」
「そんなときにようやく赤木先生の言葉の意味が分かった気がした。喋ってないとき、僕も何となく分かったんだ。その影の正体。言葉に置き換えれるものじゃなかったんだよ、きっと。それは空気みたいなもので、あまりにも当たり前すぎるものだったんだ。隣にいるだけで相手の考えてること、何となく分かっちゃうって、そうゆうことなんじゃないか、って思った」
 シンジが少し長い言葉に疲れたようにため息をつき、軽く下を向く。その時初めて赤い瞳が自分に向けられていることに気が付いた。シンジが見つめ返すと、傍らの少女はほんの僅かに表情を変え、微笑んだように見えた。
 レイは前をむき直して頷いた。青い髪がつられて揺れ、白い肌は傾いた太陽が夕暮れ色に染めていた。彼女が顎を少し上げ、遠くを見つめるように目を少し細めた。
「人が怖いんだよね、綾波は。いつも傷つけたり傷つけられることがないように距離を置いてる。僕もそう。けど僕と違うのは、僕みたいに曖昧にしたりせずに最初から拒絶してるんだ。人とふれ合うことを最初から拒んでる。無いものにしようとしている。でも、ホントにそれでいいの? そんなのって寂しすぎる。哀しすぎるよ……」
「仕方ないわ。私はこんなふうにしか生きられないもの」
「あきらめちゃダメだよ」
「あきらめてはいないの」
「え?」
 坂の頂上でレイの足が止まった。シンジは数歩行き過ぎ、慌てて彼女の隣まで戻ってくる。
 レイは歩いてきた道を見下ろしていた。
 シンジは彼女の横顔を見ていることしかできなかった。触れたくて触れることのできない、そんな微妙な距離。切なさが不意に胸の中で生まれていた。
 レイは吹き上げてくる風になびく髪を軽く押さえ、何かを考えていた。
 何かを探しているようにも見えた。
 風がやむと、レイは左手を下ろしシンジに顔を向けた。
「こんな私を理解してくれる人、今はいるから」
 いつもの無表情に見える。けどその顔は微笑んでいるわけでもないのに、とても嬉しそうに見えた気がした。
 その澄んで自信の満ちた声は胸の中に染み渡る響きだった。
 シンジはいつまでも、この言葉を忘れることはなかった。彼女がシンジの前からいなくなるときがあったとしても、この時、この瞬間を忘れないでいよう。そう誓い、彼は一生その誓いを守ったからだ。
 また風が吹いてきても二人は身じろぎもできずに、お互いの瞳の奥にある影を見つめ合っていた。

「僕はどこまで綾波のことを理解しているのだろう。どこまで理解してあげられるのだろう。そんなふうに考える必要はなかった。ただ側にいてくれたらなんとなく彼女が欲していたことをしてあげられたような気がする。彼女は人との関わりを恐れながら、誰か側にいて欲しかったんだ」
 数年後、シンジが中学生の一年時を振り返って言った言葉である。
 綾波レイは無口で無表情、感情をほとんど表に出さない面白味に欠ける女子生徒であったことは確かだった。だからといって嫌われるようなことはなかったが、避けられているのも仕方がなかったと言える。そんな自分の置かれた立場というものを誰よりもよく分かっていたレイ。
 彼女があるときシンジにこう言ったのは当然なのかもしれない。
「私が一緒にいると、碇君に迷惑がかかるわ」
「え、どうして?」
「だってあなたまで避けられるもの」
「はは、そんなことか。気にしなくていいんだよ」
「…………」
「僕がそうしたいと思うんだから、誰がなんて言おうと後悔したりしないよ」
 シンジは心からそう思ったことを口に出しただけだった。だから深い意味も他意も含まれていない。
 それをレイはまっすぐに受け止めた。
 気恥ずかしさで顔を逸らしたりしていればそうでなかっただろう。だがシンジもよそ見をしなかったから気がつかなかった。
 レイの頬が少しずつ、ゆっくりと紅潮していった事に。

 何度この道を歩いたんだっけ。
 シンジはふとそんなことを思った。
自分の隣に綾波レイが、綾波レイの隣に碇シンジがいることが当たり前になってから、短くもなければ長くもない時間が過ぎていた。
 季節は春が終わり梅雨も半ばを越える。
 梅雨前線がもたらす恵みの雨も、中学生にとっては鬱陶しいとしか感想を持てない天気だった。元気な生徒は昼休みに校庭でサッカーができないといってフラストレーションをためたり、図書室は晴れの日の何倍もの生徒たちで溢れ返っている。
 雨足は強くも弱くも、いろいろな姿形をとりながら春の眠たさを洗い流していく。雨が降るたびに増していくような気がする湿気の強さ。徐々に増してゆく暑さを九月まで続くと考える人間は少なくても、時間と季節はゆっくりと歩み続けていた。
 レイは湿気を吸い込んだ髪を少し重たそうに振った。
「春と比べたら、結構綾波の髪の毛も伸びたよね」
 レイはシンジを見返した。きょとんとした表情でシンジの顔を眺めたあと、手にしていた文庫を机の上に置く。
 両手で毛先をつまんだり頭を押さえたりしながら、潤いが過剰気味の髪の毛を確かめる。
 シンジの言葉通り、確かに髪の毛は春と比べて毛先の位置を一回り外側にしていた。
「いつも散髪はどうしてるの?」
 シンジの目はシャギーのかかった水色に注がれる。
「自分で切ってる」
「へぇ……」
 言われてみれば、という顔をしたシンジ。よく見れば不揃いの長さだったり形がおかしくなっている部分もあるような気がした。
「どうして散髪しにいかないの?」
 と訊いたシンジだったが、答えは分かる気がした。
「そんな必要ないから……」
「ならさ、うちにおいでよ。頼めば母さんが切ってくれると思う」
「碇君のお母さん?」
「そう。どうせならご飯も食べて返ればいいじゃんか」
 表情を変えないレイ。シンジは黙って言葉を待つ。人が無視されたか受け流されたと思ってしまうような時間を待ち続けた。
「そうね」
 レイの言葉は短く簡潔だった。しかしそれだけであったとしても嬉しかった。
 シンジは頭の中で少し前のことを思い出していた。
 一人なんだよな、と。
 少年が綾波レイに家族がいないと知ったのは梅雨が始まる少し前だった。
 乾いた空気も終わった新緑の光の中で、レイは遠くの稜線を見ながら話し始めた。レイは自分の話をするときはシンジの顔を見ずに、どこか遠くの自然に目を向けていることが多かった。どこか遠く。それは過去を見ていたように、シンジには見えた。だとしたら、彼女の中では過去はそんなに昔のことなのだろうか?
「私に親はいないわ」
 シンジは思わぬ言葉に目を丸くしたが、彼女はかまわずに言葉を続ける。
 私が生まれたのはいつなのかもわからない。三月三十日、この誕生日は仮のモノでしかない。私は第三東京市駅のコインロッカーの中で拾われたコインロッカーベイビーだったの。そのあとしばらく施設に入れられて、すぐに養子にもらわれるはずだった。けど私は生まれたときからこの髪、この目、この肌の色だったから誰ももらい手はつかなかった。物心ついた頃、私はこの街にいた。詳しいことは分からないけど、養子の縁組があったらしいの。その人がくれた姓が、この綾波だった。
 シンジはコンクリートがむき出しになった壁に視線をさまよわせながら、必死に考えようと努力していた。耳に入ってくる言葉を逃がすまいと、繋げとめようと、必死に吸収しようとした。
 考えろ、考えるんだ、彼の中で誰かがそう叫んでいる。
 なんて言えばいい? それとも黙っておいた方がいい? そんなことより考えなくちゃいけないの? 黙って聞き流しちゃいけないの? 僕はどうすればいい?
 困惑をあらわにするシンジに、初めてレイが向き直した。
「この部屋は、私を育ててくれた人の遺産なの。もう彼女はいないから」
 レイはまた窓の外の稜線を眺める。シンジの視線はそれを追わなかった。
 鉄パイプ製の黒いベッド。勉強机とタンス。CDや本が並んだ小さな棚。大きめの部屋にしてはあまりにも少なすぎる家具。ベッドの上に座っているレイは、あまりにその中へ溶け込んでいるようだった。
「どんな人だったの?」
「普通の人だったわ。私を憎み、当たり前すぎるくらいに疎んでいたの」
「…………」
「もう、昔の話」
 瞼の後ろが潤んだ気がした。鼻の奥がつんとする。シンジはズズッと鼻をすすった。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ」
 心配ないから、そういってシンジは笑った。自分ではそれが泣き笑いになっていることに気がつかなかった。
 それを見たレイは表情を変えなかったが、それからしばらくシンジの顔を見ることはできなかった。
 彼女自身、どうしてシンジの顔を見るのが辛いのか分からなかった。

 カードを通したとき、後ろでレイが体を強ばらせるのが目に浮かぶようだった。
 シュッとスリットを通り抜ける音がしたと思うと、断続的にピッという電子音が二人の耳に届いた。
「ただいま〜」
 シンジのやや間の抜けた声が廊下に響く。
 遠くの方でリズミカルな音がしていた。トントントン……という音。包丁がまな板と奏でる単調なメロディーラインがレイの耳に残った。
 目をわずかに細めて聞き慣れない音、見慣れない光景を眺める。並んだ靴箱の中身。人数分よりわずかに多い傘。癖のない芳香剤の香りが鼻をくすぐる。小綺麗に整理整頓された玄関を眺めていると自分が酷く違和感のあるものに映ってしまっていた。
 ぼーっとしてしまった彼女をシンジは玄関で靴を脱ぎながら呼んでいた。
「ほら、遠慮せずにおいでよ」
 躊躇いがちにレイは頷いた。しかし足は思うように前に出ない。
 緊張している? そうかもしれない。こんなこと、今までなかったから。
 レイの自問をシンジは見抜いていたが何も言わなかった。彼がしたことといえば、レイが入ってくる前に扉が閉まってしまわないように、さりげなくスイッチを操作したことと、恐る恐るという感じでドアをくぐるレイに笑顔を向けていたことだった。
「……おじゃまします」
「どうぞどうぞ。そんなに緊張しなくてもいいよ」
 とシンジは言った後で顔色を少し変えた。レイが緊張のあまり何も喋れなくなってしまう原因が我が家のなかに存在していると思い出したからだ。
「客か?」
 シンジが慌てて覗くよりも早く、体から湯気を立ち上らせた父親の姿がダイニング入り口の所にあった。クビだけをつきだしているが、どう想像しても風呂上がりで下着姿のはずだった。シンジは当初の懸念とは違うところで慌てふためかねばならなかった。
「と、父さん、なんて格好なんだよ! 女の子がいるんだから!」
 シンジが顔を真っ赤にして叫ぶ。しかしゲンドウは顔色一つ変えずシンジの後ろに立っている少女の姿を一瞥し、
「そうか」
 と言って顔を引っ込めた。そのまま歩き去っていく音がする。ため息をつきながらシンジは振り返った。
「ごめん。変な親で。母さんはあんなことないんだけどね」
 そう言って、レイの顔が大きく見開かれているのを見た。初めて見る顔だけに、シンジも少し驚いた。普段の彼女は少々の出来事では眉をピクリとも動かさないからだ。相当驚いたんだな、とシンジは解釈した。
「本当にごめん」
「あ、……」
 レイの言葉もやはり歯切れが悪い。シンジは父親に心の中で悪態をつきながらレイをリビングまで連れていく。彼にとって幸いなことに、父親はもう一度姿を見せなかった。
「座ってて。着替えてくるから」
「ええ」
 レイがテーブルの前に座るのを見届けてからシンジは一度ダイニングに向かった。すぐそこにあるカーテンの向こうで人が動いている気配があった。
「父さん、もう変な格好で出てこないでよ」
「ああ」
「まったくもう……」
 憤慨やるせない、といった面持ちでその場をあとにするシンジ。彼の母親は鍋の火加減を身ながら、笑い声が漏れないように背中を向けて口元を押さえていた。

 テーブルの上に置かれた自分の手から視線を上げる。まず大きな窓が見えた。窓というよりもベランダへ出るための扉と言った方がいいのかも、と考える。部屋の隅には観葉植物の植木鉢が置いてあった。窓の右横には隅に凹凸を合わせるように、ワイドテレビが鎮座していた。テレビ台の下にはビデオデッキ、DVD デッキなどが縦に並ぶ。そのまま右に目を移すと壁に掛かっている絵画が見えた。その下には棚があり、その棚上にも小さな植木鉢が花を咲かせている。その隣には写真立て。親子に挟まれた幼いシンジがカメラに手を伸ばしていた。
 いずれも自分の部屋にないものばかりだった。珍しいというよりも、自分の部屋との違いから生まれる違和感に身を固くしてしまう。落ち着かないのではなく、自分の存在が酷く「違うもの」に感じられてしまうのだ。
 だが心は掻きむしられるどころか落ち着いている。
 何故なの、と思いながら視線が宙を泳ぐ。何気なく天井を見上げた。
 優しい強さの照明も、全体が明るめに統一された部屋のコーディネイトもシンジの母親のセンスなのだろう。置いてあるものにはどうしても自分の馴染ませることができないレイだったが、一つだけ落ち着ける要因があったとしたら、それは空間全体の空気だっただろうか。自分が座っている暖色系のカーペットやクリーム色に近い壁紙などは平穏を保つのに必要不可欠だった。
 居心地を悪いとは思わなかった。むしろ自分の部屋と何もかもが違うように見えるはずのリビングに落ち着いて座っていられることが不思議だった。
 彼の家だから?
 その疑問を否定しようとし、完全にはできない自らの心に気づいて軽く驚いた。
 そう……そうなのね。
「どうかしたの?」
 ハーフパンツにダークブルーのTシャツという姿でシンジが姿を現した。
 レイは髪が僅かに波打つ程度、左右に首を振った。
「そうそう、ご飯の用意ができたって。行こう」

 その時間はシンジの予想を大きく裏切って、楽しくない時間になってしまった。
 原因は彼の父親にある。
 そして彼の母親と来賓は楽しい時間だった。
「そのときシンジはもちろん素っ裸で飛び出してきた。たかが風呂場に温泉ペンギンが居て、それと偶然かち合わせたというだけで驚いてな」
「父さん、もう止めてよ」
 シンジの顔は赤くなって以来、もう三十分以上、肌色には戻っていない。ゲンドウは酒の入った勢いで調子に乗って、シンジの恥ずかしい話ばかりを選りすぐってレイに語っていたのだ。レイの表情はほとんど変わらないが、子と一緒でゲンドウもそれが彼女なりに楽しく聞いているのだと分かっていた。
 だからなおさらシンジにとっては忌々しい。このときほど遺伝を恨めしく思ったのも珍しいだろう。
「お父さんからもらったものでしょう。だったらそれは考え方が逆よ」
 ユイの言うとおりなのでまさにぐうの音も出ない状態のシンジ。国語で習ったばかりの四面楚歌の意味が、やけに胸に染みる思いだった。
「もういい! 後で呼んで!」
 五分後、シンジは突然席を立った。
 さらにゲンドウの追撃を予感してか、シンジは憤然としつつも逃げ腰でダイニングを出ていく。
 三人は顔を見合わせて、期せずして三人とも苦笑の混じった表情を作った。
「あなた、言い過ぎですよ」
「確かに少し大人げなかったな」
「ごめんなさいね。恥ずかしいところを見せちゃって」
 ユイが頭を下げるが、レイは困った顔しかできなかった。
「いえ……」
 ユイは微笑みを浮かべ、レイに言った。
「私たち、綾波さんにとても感謝しているのよ。シンジがここまで気を許した友達って、今までいなかったし、これからもないかもしれないと思ってたから」
「感謝しなければならないのは私の方です」
 か細い声で言って、レイは口をつぐんだ。
「私の事は、彼からどのくらい聞いていますか?」
「シンジには黙っていたが、私は君のことをよく知っている」
「え?」
「君の養母だった赤木ナオコは私と大学の同期で、勤め先も一緒だったからな」
 ゲンドウの言葉に、レイは言葉に詰まった。そこにいたのは、先ほどの親ばかとも思えるような姿のゲンドウではなく、背筋に寒気が走るほど険しい顔をした、一人の疲れた人間の姿だった。
「……」
 突然のことで何と言っていいかわからない。だが自分の養母のことを知っているとしたら、自分のことを知られていても不思議ではない、と思った。
「だいたい彼女が君に対してどう接したかも調べさせてもらった。それを知りながら、結局今まで何もできなかった。すまないことをした。もっと早く、彼女を止めておけばあんな事にならなかったかもしれない」
 ゲンドウに頭を下げられても困るだけだった。今はそれを言うことすらできずに、頭の中のゴチャゴチャとした感情を何とか言語にしようとしている。だが、何も言えない。
「せめてもの罪滅ぼしかもしれないが、今からできる限りのことをさせてもらうつもりだ。だから君も私たちを頼ってかまわない。いや、頼って欲しいと思っている」
 ユイもゲンドウの言葉に頷いた。
「なら、私の体のこともご存じなんですね?」
 消え入るような声で、レイは確認を求める。
 数瞬の間。ゲンドウが重たそうに口を開いた。
「ああ」
 声は素っ気なかった。お互いにとって楽しい話題ではないからだろう。
 ゲンドウたちはレイの次の言葉を待った。
 沈黙が部屋を包み込む。
「……」
 レイは俯き、膝の上に置いた白い手をじっと見つめていた。血管が浮き出てしまいそうな、透き通るほど白い肌。鏡を通してしか見えない赤い瞳。顔にかかる水色の髪の毛。それらがもたらすものの結果を、自分以外に知っている人間が居ることを初めて知った。
「シンジ君には黙っておいてもらえますか?」
 しばらくゲンドウは黙って考え込んでいた。机の上に注がれている視線の先には、きっと未来を見ているんだろう、とレイは思った。その結末が何をもたらすのか。
「わかった」とゲンドウは短く言った。「君のことも含めて安心してくれていい」
 険しい顔のゲンドウに、苦笑いと疲労を半分ずつ混ぜたような表情のユイに、レイは初めて心の底から深々と頭を下げた。

 心の中では落胆しつつも、雪が降らなかったことに心底ガッカリしているわけではなかった。口に出して「メリークリスマス!」と言い、ホワイトになればよかったのにね、と付け加えたくらなもので、空を見上げて澄んだ空気の中で光る星々の輝きをその目に映し込んでいる。
 レイはそんなシンジの横顔と、吐き出される白い息を横目で追った。
 十二月の終わりともなれば、午後六時を回るとすでに陽は落ちきって、濃い闇が空を覆う。寒空の冴えた空気の下を少年と少女が歩いて緩やかな坂を上ってゆく。所々ですれ違う人々の顔は浮かれたものだったり浮かれていたり表情が様々だったが、皆一様に早足で家路を急いでいた。
 今日はそんな浮かれた人たちの一部なんだろうな、とシンジは自分たちを見て思う。
 碇家の中ではユイが一番浮かれているはずだった。今頃、シンジの帰宅とレイの来訪を待ちわびて、夕食のために料理の腕を惜しみなく注ぎ込んでいることだろう。好物が並ぶのは分かっていたので楽しみではあったが、明日の今頃は胸焼けしてるかもなあ、とも思った。
「メインはガーリックパスタにするって言ってたから、心配ないよ」
 ベジタリアンのレイを気遣ってか、シンジはそんなふうに声をかけた。
 レイは正面を向いたまま頷く。肌が白い分、頬に赤みが差しているのがとても顕著だった。
 話題もなくコンクリートの上で足を運び続けるのに退屈を感じ始めた頃、シンジは訊こうと思っていた忘れていたことを思い出した。タイミングが悪かったり、彼女に気を使ったり、理由は様々だったが、今なら訊ける気がした。
「あの、さ。一つ、前から訊こうと思ってたんだけど」
 レイはチラリとシンジを見た。
「赤木先生と綾波って知り合いだって言ってたよね? いや、どこで知り合ったのかな〜って」
 レイは目線を前に戻し、何かを探っているような顔になった。思い出しているのだろうが、その表情を見てなぜか訊いたことに罪悪感を感じ始める。シンジは自分たちの回りの温度が少し下がった気がした。
 レイの顔からはますます表情が消えた。彼女が過去を話すときの癖だった。
「私の養母の話を覚えてるでしょう? その人が、赤木先生の実母だったの」
 なるほどね、とは言えなかった。以前、レイ本人が言っていた。『普通の人だったわ。私を憎み、当たり前すぎるくらいに疎んでいたの』と。それを思い出し、胸が苦しくなる。
「赤木先生が子離れしてから研究職に没頭していたあの人は、徐々に母親としての生き方に憧れるようになったの。けど、その時赤木先生はすでに大学生になっていたから、養子を貰うことになったのよ。それが私だった」
 その頃から歯車は狂い始めていたという。
「あの人は赤木先生を生んですぐ離婚していたから、ずっと独身だったけど男の人はいたわ。その人との別れ話から、彼女はお酒に逃げ込むようになった。その頃ね、私が疎まれ始めたのは」
 シンジは頷きもせずに耳を傾けていた。それしかできないのだ。
「それから三年後、彼女は睡眠薬を飲む量を間違えたのよ。その男の人を振り返らせるための狂言だったはずなのに、本当に彼女は死んでしまったんだから」
 赤木先生はね、とレイはいいながらシンジの目を見つめる。だがシンジは気がつかずに前を向いたまま、遠い街の灯を眺めていた。彼女は視線を戻した。
「自分は就職して稼ぎがあるからお金の心配はいらない。だからあなたが母さんの遺産は持っていて。その資格があるから、って。赤木先生はあの人の残した研究資料をすべて引き取って、残りのものはすべて私に譲ってくれたわ。そうでなかったら施設に戻らなきゃならなかったでしょうね」
「そっか……。赤木先生に感謝しなくちゃいけないんだね。僕らがこうやって出会えたのって、あの人のおかげでもあるんだし」
 冗談のつもりで言ったのだが、レイが真面目に頷くので返答に窮した。
「私はいろんな人のおかげで生きていられる。迷惑ばかりかけている。なのに何も人にはしてあげられない。……でも、それもあと少しで終わると思う」
 うん、と頷いたシンジは、レイがどのような思いでそれを言ったのか気がつかない。
 彼女は煩わしそうに髪を掻き上げながら、春先よりも軽くなった体重と足取りを気取られまいと、ゆっくり踏みしめて歩き続けていた。




// 4 : An omnipresence is destructive //