4 : An omnipresence is destructive


 新年が万人のもとに等しくやってきていた。シンジはレイを誘い、ゲンドウの運転する車で初詣に出かけたり、ギリギリまで冬休みの宿題を溜め、最終日には栄養ドリンクを片手に格闘したりして過ごしていた。程なくして学校が始まった頃には、レイの姿はたびたび教室から消えた。
「来なくなったな」
「そうだね」
 シンジは相田ケンスケというクラスメイトに話しかけられ、そう答えた。二人が見つめていたのは空席になっているレイの居るべき場所だった。頬杖をついて窓を眺める姿を想像して、シンジは急に息苦しさを感じた。なんとなく寂しい、と思った。
「碇が一番仲良かったじゃないか。何か知らないのか?」
「うん」
 半分は嘘だった。ケンスケの声には単なる興味しか含まれていない。だから深く答える気にもならなかったし、それ以上、この話題を続ける気もなかった。
 シンジが知っているのはレイがここ最近、体の体調が優れないということだけ。リツコに聞いても返ってくる答えは「療養しているんでしょう。無理しないようにとは言ってあるから」という返事だけなので、それを信じて待つしかなかった。最近は電話しても繋がらず、所在のつかめないときの方が多いが、別に慌てたり不安になったりはしなかった。
 家を訪ねても半分くらいは居ないようなので、本人の話からもどこかの病院に通院しているのだろうと目星はつけているからだ。
 曇り空の隙間から差す日の光が、幻想的な景色を街の上に作り出していた。刻々と変わる姿をレイは毎日見つめていたのだろうか。シンジはレイがするように頬杖をついて窓の外を眺める。
 寒空の中で鳥たちが羽ばたいて東へと飛んでいく。
 学校の坂道の下をマフラーを巻いてコートを着込んだサラリーマンが縮こまって歩いていた。かと思えばすぐ隣をランニングシャツと短パン姿という痩せぎすの老人が軽快に走り、追い抜いていった。
 隣でケンスケが趣味のビデオカメラでシンジの視線の先を追っていた。
「お?」
 あれ、と言って彼が指さした先には、坂道を上ってくる空色の髪の少女。
「うん」
 そう答えて、シンジは何故かホッとしている自分に気がついていた。

「体は大丈夫?」
 最近、学校を休みがちのレイにシンジはプリントを届けに来た、と言った。
「ええ、心配かけてごめんなさい」
「少しやせた?」
「かもしれない」
「無理しちゃダメだよ」
 レイは頷き、風邪が長引いているだけだから、と言ってそのまま目をまっすぐ壁に向けた。
 シンジはすることがないので、ベッドの隣に腰を下ろす。長居をする気はないが、もうしばらくは居たい気分だったし、それなりに理由もあるからだ。ただレイが少しでも嫌そうな顔をすれば用件だけを済ませて帰るつもりでいた。
 いつにしようかな、と思ったシンジの視線が宙を泳ぎかけたときだった。
 ねえ碇君、とレイは言った。
 シンジはいつもとは違う雰囲気を言葉に感じたが、どこに違和感があるのかは分からなかった。彼はレイの横顔を見つめ返し、次の言葉を待った。
「本当にありがとう。こんな言葉では言い表せないほど感謝しているわ」
 片膝を立てて、レイは窓の外に浮かぶ青い月を見上げていた。雲も同系の色に染められて、涼しげな風とともに空を流れていく。
 シンジもつられて空を見上げたが、そこに何かを見いだすことはできなかった。
「どうしたの?」
「ただ、なんとなく言いたかったの。感謝の言葉が」
 淡々と言葉を紡ぎ出すように喋るレイの姿はいつもと変わらない。やっぱりどこかが違う、とシンジは思った。一言一言、彼の耳に届くたびに違和感は膨れ上がってゆく。
「いいよ別に。僕が何かをしてあげられたわけじゃないんだから」
 レイは目を閉じ、首を左右に振りながら、僅かに微笑んだ。それはシンジに向けられたものではなく、レイ自身の何かに微笑みかけられているようだった。彼女はシンジの方を向いて、
「碇君は十分、私に対してしてくれたもの。碇君の存在があるから、私は絶望を捨てることができた」
「それは僕だって似たようなものだって。それは確かに、僕は綾波みたいに苦労してきたわけじゃないから、それについては何も言えないけど、綾波がいてくれるから僕は落ち着いていられる。何があっても慌てないでいられる」
「……それは私のセリフよ」
 ため息をつくように、レイは言った。
 シンとした空気が部屋の中に溜まっていた。居心地の悪さを感じさせるものではなかったが、お互い動けないような雰囲気を作り出す静けさだった。
「そうそう、忘れるところだった」
 シンジはわざと明るめの声で重ための空気を振り払うように言って、鞄の中に腕をつっこんだ。
「今日って何の日かわかる?」
 シンジは捜索が難航しているらしく、背中でレイに話しかける。
「わからない」
「やっぱりね……あ、あった」
 シンジが引っぱり出したのは筆箱くらいの大きさの、丁寧にリボンで包装された箱だった。包装紙にしわや破れたところがないのを確認して胸をなで下ろしたシンジ。ベッドの傍らに立つと、レイにその包みを差し出した。
 え? という顔をしたレイにシンジは笑いかける。
「三月三十日。綾波の誕生日だろ?」
「あ、」
「お誕生日、おめでとうございます」
 屈託のないシンジの笑みに、レイは戸惑いでしか答えることができなかった。
「……ありがとう」
 受け取りながら、それをどうしていいのかわからずにやや呆然とする。シンジはベッドの横に座り込み、レイの反応を見ていた。初めてなのかもな、という思いがシンジを忍耐強くした。少女はすこし惚けたような顔で手元に乗せられた包みを見つめている。じっと見つめたまま、次に何をしていいのか分からない様子だった。
 ふとシンジは顔を上げ、彼女の奥にある窓の外を見た。
 あくまで風は穏やかに流れている。本当の居心地の良さは、居心地が良いと感じないところにあるのかもしれない、と突然思った。
「碇君」
「うん?」
 レイは視線をシンジに向けていた。しかしそこからの言葉が出てこない。どうして良いのか見当もつかず、途方に暮れているように見えて苦笑してしまう。
「開けてみたら?」
 レイが息を飲むのがわかった。すぐに小さな息を吐き、頷く。
 紙を留めてあるセロテープを剥がそうとしていたが、緊張しているのか指が微かに震えて上手くいかない。カリカリと爪で何とかきれいに剥がそうとしているのだが、爪が立ちすぎて紙を傷つけてしまった。
「あ、」
「破ってもいいんだよ。どうせ包み紙なんだから」
 シンジはまた苦笑しながら優しく言った。
 少しの逡巡の後、レイは素直に従った。びりびりと破る手つきは先ほどよりも落ち着いていたが、やはり彼女らしく静かに紙が千切れていった。
 中から出てきたライトグリーンの箱を目に映したとき、レイの手は微かに戸惑いを見せた。改めてシンジに顔を向けると、彼は微笑んで頷く。
 白い指が白いリボンを解く。
 箱の中から現れたのはシルバーのイヤリングだった。
「これ……」
 それ以上は言葉にならないらしく、大きく目を見開いて息を飲む。
「一応、本物なんだ。お年玉をそのまま残しておいたから何とか買えたよ」
 頭をかきながら誤魔化すようにシンジは笑う。予想通りの反応とはいえ、さすがにシンジも恥ずかしかった。そして思い出したように、また鞄に手を入れてガサゴソと音を立てる。
「あ、これこれ」
 そう言ってシンジが取り出したのは古い型の一眼レフのカメラだった。使い込んであるのがレイの目にも一目瞭然だったが、特別古ぼけたという感じは受けなかった。所有者がきちんと大切に保存しているのがよくわかった。
「父さんが使ってたのを借りてきたんだ。デジタルよりも、こういうのはネガと印画紙の方が暖かみがあるんだぞ、って。僕もそう思うしね」
 ねえ、着けてみてよ。シンジの声にレイは我を取り戻したのか、体を一瞬強ばらせると慌てて頷いた。
「棚の鏡、とってもらえる?」
「うん」
 ファインダーから顔を上げ、シンジは自分の後ろの本棚に向き直った。上から二段目、薬箱の隣に手のひらくらいの大きさの、長方形の鏡が置いてある。指紋を付けないように気をつけながらレイに渡した。
「ちょっと待って」
 鏡を窓のサッシに置いて、レイは純銀のアクセサリーと格闘を始めた。どうも慣れていないようで、勝手が分からないらしい。
 ――お母さんのものに興味を持って、勝手に持ち出して着けるなんて考えたこともないんだろうな。もしかしたら初めてなのかもしれない……。
 四苦八苦しているレイの姿をファインダー越しに見て、彼女の家庭環境と自分の母親が外出するときにピアスを着ける姿を思い出しながら、シンジはふとそんなことを思った。
 フォーカスを確かめていると、レイの手が膝の上に降りた。小さな鏡とじっと向き合い、頭の位置をずらして耳に光るイヤリングを確かめるように見つめていた。
「これでいい?」
 半身だけ向き、シンジに尋ねる。
「うん。いいんじゃないかな?」
「本当にありがとう」
「いいんだって。喜んでもらえるなら」
 シンジにはレイの顔が戸惑っているように見える。それが何よりも驚いて、嬉しいと思っている証拠だということが誰よりもよく分かっていた。
「ねえ、笑って。写真に撮るから」
 彼女は上手く笑えないのをもどかしそうに、はにかみながら笑っていた。本当の意味でシンジが見た、初めての笑顔だった。それがとてつもなく嬉しかった。
 不意に、意味も分からないうちに目頭の奥が熱くなってしまっていた。
 それを遮るかのように、パシャ、っとシャッターが切られる。
「ごめんなさい。上手く笑えなくて……」
「ちょっと表情が堅いけど、その方が綾波らしいよ」
 シンジは苦笑して、もう一枚、と言った。もう先ほどの衝動は消えていた。もう一度シャッターが切られる。
「さっきの方が自然ぽかったなあ。やっぱり作り笑いだとおかしくなっちゃうね。あ、いや、謝らなくていいからね」
 シンジに先を越されて言われてしまったので、レイは口を閉じるしかなかった。
「僕は綾波が本当に嬉しいと思ってくれてるのがわかるから。いいんだ、何も言わなくても」
 レイはシンジの優しさに唇を噛んだ。こんなときに上手く感情を表現できないもどかしさが、お礼やうれしさを伝えたくても何も言えない悔しさが彼女にそうさせた。
 一時の沈黙が舞い降りる。
 しばらくするとシンジは思いだしたようにカメラをしまい始めた。
 シンジがレイに後ろを見せた。これを逃したらもう言う機会がない、とレイは思った。
「碇君」
「え、なに?」
 シンジはカメラをしまうのに集中してレイを見なかった。
「もしお礼ができなかったらごめんなさい」
「そんなのいいよ。僕のときはおめでとうとか言ってくれるだけで」
「……」
「どうしたの?」
「……なんでもないわ」
 シンジはやっとレイの顔を見たが、月の逆光で表情は暗くて見えなかった。首を一度傾げてから、シンジはもう一度鞄に集中する。
「一つだけお願いがあるの」
 遠慮がちなレイの声。
「いいよ。僕ができることなら」
「私のこと、覚えておいて欲しいの。たとえ私が先に死ぬようなことがあっても、碇君が死ぬときまでずっと」
「いいよ。じゃあ、僕が先に死んじゃったら、綾波も僕のこと、死ぬまで覚えていてね」
「ええ。約束してくれる?」
「もちろん。でも、ほんとにどうしたの? なんだか変だよ」
 レイは首を左右に振って、口元に笑みを浮かべた。シンジは鞄を隣に置いて、元の位置に座っていた。
「大丈夫。プレゼントに動揺しているだけ」
「そっか」
 恥ずかしそうにシンジは慌ててレイの顔から視線を逸らした。だから彼は、レイの恐ろしく生真面目な目元を見逃した。彼女の赤い双眸は、凍れるほどに無表情で、何かを張りつめているよう。なのに不思議な暖かさと笑みがあるのだ。
 レイはなるべく優しくなるように気をつけながら言った。
 彼は今までの中で一番の笑顔を見た気がした。
「それが私と碇君との、絆になると思うから」
 静かさの中に彼女の声が溶け込んでいった。




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