5 : Closing World


 心電図がパルス音を響かせるのを中止した。
 ピーッと一定の電子音が部屋に響き、待機していた看護婦がすぐスイッチを切る。
 白くか細い手首から脈を取っていた医師が静かに手を離した。もう随分と前から手首からは脈がはかれないほど血圧が落ちていたが、最終決定はやはり人間が下さねばならない。彼には診断書を書かねばならないという義務があるからだ。
「午後一時三分。御臨終です」
 冷めた声で言う医師の声に感情は感じられない。慣れたような、それでいて酷く疲れたような響きだった。
 ゲンドウとユイは深々と頭を下げた。お世話になりました、とゲンドウは言った。
 部屋の中には死者を除いて四人しかいない。個室であることが、さらに部屋の空気の温度を下げているようだった。
 白い布で死者の顔が覆われる。
「先生、一つお聞きしてもかまいませんか?」
 ゲンドウは廊下に出ていこうとする医師を呼び止めた。
「ええ」
 半身でドアに手をかけ、医師は中指で眼鏡のズレを直す。
「なぜ私たちはここに呼ばれたのですか? 本来ならば、赤木リツコという方がこの場所にいても良いはず」
「彼女の希望だったからです」
 医師はベッドの上を注視し、すぐに目を外しながら言った。
「綾波君の?」
「ええ。どうしてかは私たちも存じませんが……。どうしてもあなた達お二人に立ち会って欲しいとの事でしたので、ご連絡させていただいたのです」
「そうですか」
 呟くように答えて、彼は妻を見た。ハンカチで目元を押さえたユイに、なんと声をかけていいのかわからなかった。
 彼は嗚咽を漏らすユイの姿を初めて見たのだ。
 肩を抱いてイスに座るように促しながら、ベッドに横たわる少女の姿の向こうに自分の息子を見た気がした。
 少女が事実を伝える役目を彼に託したことは分かっていた。それを受け入れることは、五十年近く生きてきた彼にとっても楽なことではなかった。本当の十字架を背負うのは彼の息子であり、彼は伝達者でしかない。
 看護婦は部屋を後にするとき、顔を上げたままのゲンドウが気になった。彼の眼光と表情は一層鋭いものになっていた。彼の視線の先には、棚の上の一通の書き置きと白いハンカチに注がれていた。

「綾波君が、先ほど亡くなったそうだ」
 日が暮れて数時間経ってから帰ってきたゲンドウがいきなり言った。
 電気の消えたままの部屋で、シンジは音楽を聴きながら寝転がっていた。今日一日中感じ続けていた違和感が何なのかを考えていたら、いつの間にか太陽が沈んでしまっていただけなのだが、ゲンドウは部屋の暗さを見て言葉にできない嫌悪を感じた。部屋の空気が、まるで深海の底のように静かだったのだ。
「え、なに?」
 ヘッドホンを外しながら、シンジがオウム返しに聞く。
「病院から電話があった。亡くなったそうだ」
 不意に深海の時間が止まったように、シンジには思われた。
「……なんだって?」
 それは聞き返すというより、なんでそんなつまらない冗談を言ってるんだ、というふうにゲンドウには聞こえた。
「これを預かってきた。どうしてもお前に返して欲しい、とのことだ」
 ゲンドウはポケットから包まれたハンカチを取り出した。シンジは酷く動揺する。その白い無地のハンカチに見覚えがあったからだ。動悸がさらに早くなる。いや、まさか、ありえない。否定する気持ちが自分の記憶力にうち勝とうとして、包みの中身に完膚無きまでにうち砕かれた。
 中からは二つのシルバーが現れたのだ。細長い棒状のデザイン。傷も汚れもなく、彼女の誕生日以来、今まで見なかったイヤリングが父親の手の上にある。
 どうしてこれを、と口が勝手に動くが答えは分かり切っていた。先のゲンドウの発言がすべて真実であることを、このアクセサリーがすべて物語っている。レイがいたずら好きだったらあっさり否定できたかもしれない。だが、彼女の性格はその対局にいた。そんな気の利いた悪巧みをできるような人間だったかどうかは、シンジ自身が一番、誰よりもよく知っていた。
「手を出せ」
 ゲンドウは身じろぎ一つしない息子に向かってあきれたような口調で言う。あまりにも酷な仕打ちのようで、実はそれが一番息子を傷つけない方法であることを知っていたからだ。
 瞬きはおろか、呼吸することすら忘れてしまったような息子を目の前にして、ゲンドウは重々しく口を開いた。
「数日は見逃しておくが、ずっとそのままだったら家から出ていってもらうぞ。生きる気力のない人間を家の中においておくほど甘くないからな」
 それを聞いてもシンジは手の中のハンカチをじっと見つめたまま。
 ゲンドウはそのまま出ていこうと体を半身にして、思いだしたように言った。
「人は忘れることで生きていける。だが、忘れてはならないこともある。全ては心の中だ。今はそれでいい」
 ゆっくり休め、と言い残して父親は部屋から出ていった。
 綾波が……。
 口に出すことも、心の中でも、イメージですらもそこから先に進めなかった。そこから先はタブーなのだ。だが、現実はすでに突きつけられた。
 死んだ……。
 綾波が、死んだ……。
 ――綾波君が、先ほど亡くなったそうだ。
 父親の声がリフレインする。
 レイの顔が、鮮やかすぎるほどに思い出されてゆく。まるで走馬燈のように。まるですべてが夢の中へと追いやられて行くかのように。
「……嘘だ。そんなの、嘘だ」
 手元を見つめていたことにようやく気がつく。シンジの手の中にイヤリングがあった。
「嘘に決まってる」
 レイは言っていた。私のこと、覚えていて、と。
「嘘だ」
 たとえ私が先に死ぬようなことがあっても、
「うそだ」
 碇君が死ぬときまで、
「うそ……だ……」
 ずっと。
「うそだぁー! 嘘だ、嘘だぁっ!!」

 ――それが私と碇君との、絆になると思うから。




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