6 : will be good for...


 前略 

 何の前触れもなくあなたの前からいなくなります。
 今これを読んでいるということは、碇君が私の部屋から封筒を見つけてくれたということになるはずだから、書きながら同時に想像もして、少し嬉しいような気分です。
 碇君が読んでいる時点では、ごめんなさい、と謝ることもできない。相当混乱させてしまったはずだし、慌てさせ、とにかく辛い気持ちにさせてしまったはずです。簡単な謝罪の言葉では払拭しきれないほどの大きな罪と心の傷を碇君に残してしまうことになりました。
 でも謝らせてください。自己満足になるかもしれないけど、どうしても残して置かなきゃいけないと思う。
 本当にごめんなさい。

 パチパチと枯れ木が燃える渇いた音が夜の闇の中へと飲み込まれていく。
 今日は何故か炎もユラユラと揺れるように燃えながら、灰色の煙をほとんどまっすぐに立ち上らせていた。風は凪いでしまったのかのようにシンジの肌を撫でもせず、ただ空気だけがたき火の炎と一緒になって空へ向かい流れていくようだった。
 自分の思考がほとんど停止しているのは自覚していた。
 シンジのやや虚ろな瞳は何度も文字を目で追いながら、頭の中へと情報を送り続けているのにも関わらず、彼の白濁しきった神経は理解を拒み続けている。最初の一枚目から二枚目に行く勇気がないのは、どこかで感じているに違いなかった。
 これが最後になると。今、シンジが燃やしているのは彼女の存在を万人が忘れていくための儀式でしかない。
 だが手紙が残されていたことで、自分の中ですべてが終わってしまうような気がした。彼女が最後に会った日に言った言葉に、彼女のたった一つの願いに答えられなくなってしまうような気がして怖くなったのだ。
 どこかで誰かの声がする。聞いたことがあるような、それでいて酷く遠い。

 誰?

 声は言っている。
『このままじゃいけないだろう? それが分かってるから、覚悟を決めて燃やしに来たんだろう? ならそれを読む義務があるはずだ』
 それが自分自身の声だと気がつくのに時間がかかってしまったのは、シンジの頭脳が停止している状態に近いためだ。かろうじて動いている証拠が今の声なのだろう。
 手紙を左手だけで持ち、開いた右手で段ボールの中をまさぐった。あらかた燃やしちゃったな、と思いながら最後に残っていた本を取る。
 もう会えなくなっちゃったよね。この絵本の中身みたいに心の中では会えるけど、僕はそんなのはイヤなんだ。それってワガママなのかな。もう、叶わぬ願いだって分かってるけど、嫌がるのってダメなのかな。もう一度、僕を理解して欲しいと思うだけなのに、それってやっぱりいけないことなのかな……。
 右手が翻り、本はすぐに炎と同化し始める。
 一瞬、火の勢いが強くなり、今日一番シンジを強く照らした。儚さを証明するかのように、火は勢いを急速に失っていく。
 シンジの手は二枚目にかかっていた。
 いつの間にか、目が文字を追い始めていた。

 私は幸せだったのだと思う。
 碇君は私のことを誰よりも理解してくれた。今まで私が欲してやまなかった、たった一つだけと言っていいほどの願いを叶えてくれました。決して私の人生は恵まれていたとは言えないかもしれないけど、恨み言や振り返って後ろ指を指されるような出来事はありません。胸を張って、私はこんな人生を生きてきましたって言えると思います。
 ただ、もし悔いがあるとすれば、碇君に私が生きてきた過去の話だけではなく、今の気持ちや未来のことを話してあげられなかった後ろめたさでしょうか。
 でも言えなかった理由は心の中にありました。私の中で、これがあるためにどうしても碇君には言えなかった、という理由が。自己弁護でしかないことは分かっているけど、今すぐはそうとは思わなくても、いつか碇君の負担になるはずだからと思ったのです。
 幼くて、小さくて柔らかくて、とてもとても弱い感情。叩けば壊れてしまうような感情を大切にしていたかった。そして失いたくなかった。だから何もかも肝心なことは何一つ話せなかったのだと思います。
 言い訳ですね。こんなに弱い私自身が嫌です。碇君に迷惑ばかりをかけてしまったこの弱さがなければ、もっと碇君を楽にしてあげることができたのに、と思います。

「先生」
「何? 碇君」
「彼女が残していったものって、幻じゃありませんよね?」
「当たり前じゃない。どうしたの、突然」
「いえ、何となく思ったんです」
「でも私も何となく、あなたの言いたいことは分かるわよ。科学者としては認めたくないことかもしれないけど、人間はロジックじゃないから」
「先生はどんなふうに思ったんですか?」
「そうね……。幻とは思わないけど、本当にいたのかな、と疑うことはある気がするの。まるで毎夜の夢の中に出てくる友達みたいな感じで、リアルなのにちっともリアルじゃないの」
「けど、ここにいたんですよね」
「……」
「みんなは忘れていくだけだと思う。先生や僕ですら、いつかは薄れていくものの中に彼女は組み込まれちゃいましたけど、少なくとも僕だけはいつまでも彼女のことを忘れたくないです」
「彼女は幸せだったのかもしれないわね」
「え、どうして?」
「確かに彼女は境遇的に考えれば不幸といえる範疇だったのかもしれないわ。でもそれはあくまで他人の視点から見た場合なのよ。激動の中に身を置くものにとってはそれが日常としか感じられなくなってしまう。そういうことってよくあるの。だからあの子は平然としていられたの」
「それって心が麻痺してたってことじゃありませんか?」
「あなたはそう思う?」
「そんな気がします」
「おそらく正解よ。凍りついていたのね。でも……碇君。その氷を溶かしたのはあなたなのよ」
「……そう、だったんですよね……」
「あの子は何か言ってなかった?」
「私のことをずっと覚えていて、って。そう言ってました」
「私がこんなこというのも変な気分だけど、どうかあの子のこと、覚えておいてあげてね。私も忘れないけど、予定では私の方が碇君より一五年以上は早く死んじゃうから。私が死んでも、みんなが居なくなっても、私も近寄れなかったあの子の側にいたあなたが、誰よりも忘れないであげてね」
「はい」
「なんだか今となっては妙なものだと思うわ。前なら居ても居なくても似たようなものだと思ってたのに、隣にいるって実感が消えたらすぐ分かっちゃうものなのよね」
「僕たち、もしかすると寂しがっているのかもしれませんね。綾波と一緒で」
「そう、ね。そうかもしれない」
「不器用だけど、誰か隣にいて欲しいと思ってるのかもしれない。素直に言葉にはできないだけで、俯いて、困った顔をして。けど、とっても透き通ってる」
「……」
「最後に彼女に会った日、最後の最後に心から笑ってくれたとき、僕は本当に嬉しかったです」
「……碇君」
「そろそろ失礼します。なんだか気分が、少しだけど軽くなりました」
「あ、もうそんな時間か。あと少し待っておかない? 私の仕事ももうすぐ終わるから、車で家まで送っていってあげるわよ」
「ありがとうございます。でも今から寄らなきゃ行けないところがあるから」
「あそこへ?」
「たぶん、先生の予想通りの所です」
「そう」
「じゃ、失礼します」
「気をつけて帰るのよ」
「はい」
「それと」
「?」
「お互い、元気出しなきゃあの子に怒られるわよ」
「はは、そうですね。それじゃ」

 短い人生だったけど、最後の最後で心を解き放ってくれる人に出会えた幸運を感謝しています。私にとって碇君のことが大切な人でした。ありがとう。ほんとうなら、こんな手紙じゃなく、自分の口で言えればよかった。勇気が、あと少しだけ足りませんでした。
 私の何倍もの幸せを掴んでください。碇君にはそうするだけの権利があるはずだし、私はそうして欲しいのです。私に与えてくれた幸せを、碇君が受け取る日はいつか必ず来るはずですから。

 それでは、お体に気をつけて。

 部屋の中は月明かりだけが差し込んでいた。それでも筆跡をたどるには十分な明るさだった。
 シンジは何度目かの読み終わった手紙を折り畳み封筒に入れた。
 目を閉じて目に映る世界を排除してから、大きく深いため息をつく。そして意を決したように立ち上がると本棚の中段の辺りに置いてあった写真立てを手に取った。
 最後に残しておいた残像がシンジの目に映る。あの日から何度この写真立てを握りしめ、腕を振り上げたかわからない。しかしいつもそこから先はできなかった。できるわけがなかった。
 最初で最後の照れ笑いをレンズに向けながら、レイは嬉しそうにこちらを見つめ返している。
 だが今は違った。
 シンジは写真立ての裏側を外し、写真の支えになっている板の裏に封筒を押しつけて、やや強引に支えの板で封じてしまった。
 シンジはまたため息をつく。先ほどとは違った、どこか安堵に似た、少し疲れてしまったような雰囲気を漂わせながら写真立てを元の場所に戻した。
 彼女は二人の繋がりのことを絆と呼んだ。
「だとしたら、この写真だけが僕と綾波に残された、最後の絆なんだよね? ほかには何もいらないよね? これでよかったんだよね……?」
 シンジは俯き、ぐっと歯を噛みしめた。
 写真が目に入らないように反対を向いて顔を上げ、ゆっくりと歩き出す。振り返りたい衝動と戦いながら引き戸を開けた。
 今から始まるんだ、と思った。
 たった今から綾波を喪った、僕だけの……いや、本当の意味で僕たちの生き方が。

 もう俯いたりしないよ。それじゃね。

 シンジは最後の一歩を踏み出し、後ろ手でドアに手をかける。
 カタンと扉が閉まる音が響き、暗い部屋に吸い込まれて消えていった。




 To be continued "Lovesong"




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