ま ち ぼ う け


 気だるいを通り越して、体が氷みたいに溶けてしまうような、そんな暑い日だった。
 街ゆく人が恨めしそうに日なたを避けて歩いているのをずっと見ながら、夏の日差しってどうしてあんなに強いのだろう、といつものように不思議に思っていた。
 お姉ちゃんの小さな頃はこんなに酷くはなかったよ、と言った。十年前よりも平均気温が一・五度上がったとテレビのお天気キャスターが言っているのを最近よく耳にする。
「どうして暑くなっちゃったの?」
 私がそう聞いたとき、お姉ちゃんはアイスクリームをくわえ、エアコンの風を胸元にウチワで仰いでいた。
「バカ、あんたテレビあれだけ見てて覚えてないの?」
 どこか投げやりな言い方がカチンときたけど、お姉ちゃんは暑さで脳味噌の回転まで鈍っているみたいだった。炎天下の中をジャンケンに負けて買い出しに行った、その恨み辛みが私に向けられているような気がするが、気にしないことにした。しかしお姉ちゃんを見ていて、いくら近所とはいえ胸元に『洞木』と名字の入った体操服で買い物に出かけてしまう図太い神経がある意味すごいと思った。
「そのくらい覚えてるよ。オゾン層に穴があいたとか、排気ガスで温室化現象だとか。今時、小学校に入ったばっかりの子供でも知ってる」
「なら聞かないでよ」
 大の字になって寝っ転がる姿を見たら、お姉ちゃんのクラスメイトの男子たちは失望するんだろうな、ときれいな姉を見ながら考える。
 歳が離れているのもあるけど、我が姉ながらとてもきれいな人だった。顔の造形はいうに及ばず、スパッツから伸びた足は長いし、体のラインはとても細い。でも適度に焼いた体は健康的な色で、じっと見ていると姉妹の私ですらドキドキしてしまう。
 家にいればただのいい加減でお調子者で、悪童と遊ぶおてんばがそのまま大きくなったような人だけど、外見だけは時の流れにのってどんどん変わっていってる。私もお姉ちゃんと同じ十五歳になったとき、人をドキドキさせるくらいになる自信はまったくない。それはそれでちょっと悔しいけど、それでもきれいなお姉ちゃんは私のささやかな自慢だった。
 そんなお姉ちゃんをずっと待っていた。今日もいつもと同じでうだるような暑さで、コンクリートに当たってはね返る日差しで日焼けしてしまいそう。
 今朝見たニュースで一日中天気がいいと言っていたけど、道路の反対側のビルにくっついている電光掲示板には夕方からにわか雨が降るかもしれない、と書いてあった。
 それをみて空を見上げてみたけど、ビルの隙間から見える空にはあいかわらず雲一つない。まったくもっていい天気じゃない、と思う。
 駅前のロータリーで車とバスとタクシーと人との不協和音が作り出すノイジーな喧騒を聞きながら、私は一時間くらい前からこの木陰に座っていた。植え込みの落葉樹は大きくて、この木の陰もやっぱり大きかった。けど太陽のエネルギーはとても大きくて、私が座っているレンガは日向から伝わってくる熱が生暖かいを越えて、その伝播してくる熱気だけで汗ばむくらいだった。
 思うに、こうなってしまった最大の原因はお姉ちゃんの失敗しかない。
 昨日の土曜日、お姉ちゃんは友達と海に行って携帯電話を海に落としてしまった。おかげで今日の待ち合わせも別々に家を出て、お互いの用事を先に済ませてしまおうと決めて出かけたのも失敗だったと思う。しかも私は携帯電話を持っていないので、待ち合わせ場所にお姉ちゃんが来てくれるまでどこへも動きようがなかった。
 頬にヒンヤリとした風が吹きつけてきた。そっちの方向を見ると、小学校の小プールくらいの噴水が勢いよく水を噴き上げ、飛沫が宝石みたいにキラキラと輝いては消えていく。その水のかけらが風のいたずらでこの木の下まで届いている。
 目を細めて水の妖精たちが遊んでいる光景にしばし見とれて、強めの風が吹くたびに肌で湿った空気を感じていた。
 私がここへ来たときよりも風が強くなっているみたいだった。
 その数メートル向こうに立っている時計塔の針はとっくに待ち合わせの時間を過ぎて、もうすぐ短針が三十分の位置にまわりこもうとしている。なのに改札から流れてくる人混みのなかに見知った顔は見つけられなかった。もし違う交通機関や歩いてここまできても私の座っているところは見えるはずだし、私の方からも体や首の向きを変えれば通行人の顔や姿はほとんど見えている。ただ、同じ目的の人たちも多いので、小柄な私を見つけるのはちょっと大変かもしれないことだけが気がかりといえば気がかりだった。
 お姉ちゃんは昼過ぎに早々と出かけてしまったので、私がお姉ちゃんのジーンズとオレンジのTシャツにお気に入りのアシックスのスニーカーっていう格好を見つけることはできても、私がどんな服装で来ているのかわからないはずなので、なにか良いアイデアはないものかとあれこれ考えてみたけど、やっぱり良い案は思いつかなかった。
 こんな事になると予想したわけではなかったけど、見つけやすいように昔から気に入っている麦藁帽をかぶってはいる。でも今年は流行りになってしまったので、あちこちに似たような帽子をかぶった女の子がいるから、ここに座っていると役立たずだということに気づかされてしまった。
 ビジネスマン然とした男の人たちがスーツで熱そうに汗を拭っている姿が日曜日でも絶えることはなく、楽しそうにおしゃべりをしながら歩いていく露出の大きめな女の子たちとすれ違う。姿と同じくらい表情も対照的で、男の人たちはスーツケースを片手に、改札を出ると足早にあちこちへ散らばっていった。
 私がこうやって街頭ウォッチングみたいなことをしているのも、もちろんお姉ちゃんを見つけるのが最優先課題だけど、それと同じくらいに「なにか思いつかないかなー」と思ってのこと。
 そんな時だった。
「遅い!」
 背後で怒号みたいな、それでいて押し殺しているから周りに広がらない声がして、ギョッとした近くにいる人たちと一緒に振り返る。その視線に気がつかないのか、苛立ちを体中から吹き出しているその人はじっと真っ正面のオーロラビジョンあたりに目を向けていた。
 気になって私もオーロラビジョンを追うと、そこにも時計の表示が十六時三一分となっていた。
 横顔だけでも私とあまり年齢の違わない少年だと見てとれた。
 一斉に振り返った人たちの痛い視線にようやく気がついたらしい。彼はばつが悪そうに苦笑いを浮かべてペコペコと周りに頭を下げながら、
「お騒がせして、えろうすんません」
 と、普段は聞き慣れない関西弁で言った。そしてそのすぐ後に私と目があった。
 彼にしてみれば「ん?」って感じで見た、その他大勢の中の一人にすぎなかったのかもしれないけど、私からしてみればまるで特別に選ばれた一人みたいで、驚くのと同時にものすごく居心地の悪さを感じてしまう。
 顔に血が上ったのを自覚しながらとっさに目をそらせた。
 気配で彼を見ていた人たちも興味を失ってそれぞれのポジションに戻っていったのを知った。ある人は普通に通り過ぎ、ある人は読書を再開して、ある人は日傘を広げて。
 私も体と首を改札口が見える方向へ戻した。
 やっぱりお姉ちゃんの姿は見えなくて急に心細くなる。うつむいてギュッと手を握って自分でもわからない感情に耐えた。
 すると急に地面をこするような歩き方が近づいてきて、私の前で立ち止まった。
 ハッとして見上げると、さっきの男の子が目の前に立っていて、申し訳なさそうな顔のまま私を見下ろしていた。困ったようなその顔が逆に私を混乱させ、私の困惑がしゅるしゅると音を立ててしぼんでいった。
 いぶかしく思っていると、いきなり腰をカックンと音がするくらいの勢いで曲げて、
「なんかワシが気悪くさせてしもうたみたいで、えろうすんません」
 と大きくはないけど力強い声で言った。
 何のことか一瞬分からず、頭の上にいっぱいクエスチョンマークが浮かぶ。
 半瞬後、さっきのことを思い出した。私があわてて目をそらしたあの態度。あれが見方によっては怒ったように見えたのだと思う。あのときに私は自分でとても困った顔をしていたのはわかっていた。それを彼は怒った顔だと思ったらしく、しきりに頭を下げて謝ってくれる。
「堪忍したってや」
 けど私は怒っているんじゃなく、驚いて困っていただけだった。彼が謝ってくれるおかげでそれは解消されるわけでもなく、そうすると余計に誤解を招くだけなので堂々巡りになる。
 なけなしの勇気を出して口を開いた。これで声が出なくても仕方がない、と思いながら。
「あ、あの」
 自分でもようやく聞き取れるくらいで、彼の声には及びようもなかった。けどそれはちゃんと彼の耳にも届いてくれたようで、おそるおそる顔を上げて私の顔を伺っている。
 どんな顔をすればいいのか迷った。困った顔で誤解されたのだから、どんな表情ならいいのだろう、と考えたときにはもう私は笑っていた。ほんの少し困惑を残した笑い方になっていたのだと思う。だけど私はもう一度、意を決して言った。
「べつに怒ってたわけじゃないです。ただ驚いちゃっただけで」
 私の言葉で、彼の顔はパッと明るくなった。
「ホンマに?」
「うん、ほんまに」
 つられて私も関西弁のイントネーションと言葉遣いになっているのが、自分のことなのに妙におかしく吹き出して笑ってしまった。すると彼も私と一緒に「へへへ」と力無く笑う。
 二人でちょっとのあいだ、笑い合っていた。
 すると近くのスピーカーから大きな合成音のチャイムが流れてきた。二人で思わず、駅の構内の方に目を向ける。
『本日も第3新東京交通をご利用いただきまして、まことにありがとうございます。ただいま隣の水道橋駅との間の信号機故障が午後四時頃発生いたしまして、上下線とも運転を一時見合わせております。復旧するまで今しばらくの間、お待ちいただけますようよろしくお願いいたします』
 車掌さんとはちょっと違う、喋りなれてない感じの声がそう告げていた。
 もしお姉ちゃんが家に一度帰ってたり、家の近くで買い物をしてこっちに向かっているんだとしたら下り線で来るはずだった。
 いつもここへ来るときと人の流れが違うな、と思っていたらそういうことだったらしい。
「なんぎなこっちゃ」
 目の前の男の子がそうつぶやいた。
「君も待ち合わせ?」
「ワイ? ああ、さっきの聞かれてしもうとったな。せや」
 スポーツ刈りの頭を恥ずかしそうにかきながら彼は言った。
「君も、ゆーことは自分も待ちぼうけしとるんか?」
「うん」
 私が頷くと、彼はほんのちょっと目を見張った。
「なんや、同業者かいな」
「君、中学生?」
「壱中や。自分は?」
「えっ、私もよ」
 しばらく互いの顔を見合っていたけど、お互いに相手の顔を思い出せなかった。
「ありゃ、ってことは廊下ですれ違っとるかもしれんのやな」
「そうだね」
 とは言っても顔が思い出せないのだから言っても始まらない。遷都が決まってからの人口流入で、どこの学校も人がどんどん増えているから、学年全部を覚えていたらきりがない。一学期と三学期ではクラスメイトの数が倍近く違うのだから、全学年となるとさらに絶望的だった。
「鈴原や」
「私は洞木」
「うぬー、聞いたことがあるようなないような……。すまんのぅ、実は越してきて一年たってないねん」
 私は驚かなかった。やっぱりね、と思ったくらいで。私の方も小学校の頃からそういう生活だったので、もう転校生をいちいちチェックするのには疲れていたから覚えてないのも仕方がない。
「謝らなくていいよ。私もわからなかったんだし」
「ほうか」
「で、鈴原君は誰を待ってるの?」
「ダチや。ミリタリーバカやから、絶対に迷彩柄の服でくる。それが見つからんのやから来てへんちゅーこっちゃ。さらに電車で来るわけやないだけ言い訳がきかん」
 それは目立つだろうな、と想像しただけで思ってしまう。昔はそういう柄が流行ったこともあるそうだけど、このご時世でそういうのを好む人は本当に一握りなのだから。
「私はお姉ちゃんなんだけど、もう一時間遅れ。たぶん電車のせいだと思うんだけど」
「こっちもや。これはあとでキッチリ落とし前はつけてもらわなあかんなぁ、ケンスケ。ククククク」
 怪しく笑う鈴原君から少し身を引いてしまった。その瞬間だけ目が座って口が引きつった悪魔の笑いみたいで、なにか違う迫力の怖さがにじみ出ていた。なんというか、関西人のノリっぽい感じの、お笑い芸人が漫才とかでよくやるような笑い方だった。
「そ、そう」
 ふと、私の目は彼の右手に注がれた。そこにはこの晴天に相応しくない傘が握られていた。その青い傘に目が吸い込まれていると、鈴原君もそれに気がついたのか、
「膝の古傷がズキズキ痛い日は雨が降んねん」
 と誇らしげに胸を張った。
「空、見てみなよ。雲一つないんだよ」
「あ、信じとらんな」
「そんなの信じれないわよ。この天気で。予報でも降水確率は一〇パーセントなのに」
 彼はムッとしたらしく、口をとがらせた。
「よーし、そこまで言われたらこっちも引けん。これもっとき」
「え?」
 鈴原君はその傘を私の方へつきだした。その勢いで思わず受け取ってしまったけど、すぐに私は帰そうと逆につきだした。
「えーからもっとたってくれ。雨が降ったらワシの勝ちや。降らんかったらそっちの勝ち。シンプルやろ? 傘は学校で返してくれればええ。見つけられるやろ」
「雨が降らなかったら私が恥ずかしいじゃない。そんなの不公平よ」
 確かに学校が一緒だと分かればどうとでもなるけど、晴天の日に傘を持ってぶらぶら歩くような趣味を私は持っていない。
「このワシの長年の勘を信じんのんや、それくらいでちょうどええやろ」
 なにか釈然としないけど、それはそれでいいのかな、という気がしないでもない。
「それで私が負けたらどうなるの? 鈴原君は雨に打たれるんでしょ」
「そのときは学校で傘を返してもらったときに、一食、昼飯にコロッケパン奢ってくれればええ」
「それって釣り合わないんじゃないかな。濡れるのとくらべたら」
「えーって、ここまできたら男の意地やねん。つきあったってくれ。たのむ、この通り」
 鈴原君が拝みながら頭を下げる。これ以上、何かを言って彼の気分を害したくもなかった。そう熱心に言われたらさすがに傘を返せなくなっていた。
「わかったから頭あげて。恥ずかしいから」
「ああ、せやな」
 それから私は今から映画にいうのだと言うことを話すと、彼は友達と明日発売のゲームの列に並ぶのだという。中学生がそんなことしちゃダメじゃない、と言うと彼は笑って、
「ワシらだけちゃうねん。近所の高校生やらも一緒や。一晩中その輪の中におればわからへんて」
 そんなものなのだろうか。
 レジで気がつかれてしまいそうな気もするが、前にもやったことがあるというので大丈夫なのだろう、と思うことにした。
 しばらくちょっとした雑談で数分が経ったときだった。
 何かに気がついた彼が目を細めて一点を凝視した。
「お、ワイの連れが来たみたいや」
 そう言って彼が向いた方角に私も目をやると、噂に違わない出で立ちの少年が顔を真っ赤にして自転車をこいでくるところだった。でもかなりの距離がある。あの距離で見つけるほうも見つけるほうだけど、見つかる側もそれはそれだな、と思う。
「ほなな」
「うん、じゃあね。でもほんとに傘はいいの?」
「かまへんって。まあ見ときや。絶対、雨は降る」
「えー」
 まだ疑わしげな私の手元には、さっき渡された青い傘。持ち主と同じくらい無骨だけど嫌じゃない素っ気さが、ナイロンを通じて手のひらに伝わってくるみたいだった。
「それじゃ、学校で」
「映画、楽しんできいや」
 それだけを言い残して、あとは振り返りもせずに歩いていく彼の後ろ姿を見ていると、なんだか訳が分からないうちにおもしろくなって笑っている自分がいた。自然と笑みがこぼれている自分がもっと愉快で、鈴原君が歩いていった先で、
「遅いわダァホ!」
 と友達に怒鳴っていたのも、頭を軽くはたかれてその友達のメガネが斜めにずれたのも、見るもの全てがなぜかおもしろかった。
 二言三言、言葉を交わしていたけど、やがて二人は西の方へ歩いていった。そのときに鈴原君が友達の見えないところでこっちをちょっとだけ振り向き、片手で私に手を振ってくれた。
 私も手を振り返すと、彼の手は空を指さして『見てみ』と言ってるみたいだった。
 なんだろう、と思って空を見上げると、彼が言ったとおりの分厚い灰色の雲が気づかないうちに張り出してくるところだった。
 私はぽかんとした顔で上を向いていた。それがどんなにみっともない仕草か気がついて、あわてて水平に視線を戻したとき、鈴原君たちはもう米粒大の大きさになって、信号の人波に飲み込まれていくところだった。
 でも私には分かった。彼は友達の隣で嬉しそうに勝ち誇った顔をしてるって確信が私にはあった。
 心なしか、さっきよりも街ゆく人たちの影が薄くなったような気がした。太陽が見えないくらいの穏やかさで傾き、入れ替わるように夜と雨雲が近づいてきているみたいだった。
 気のせいじゃなく、雨雲は近づいてきていた。彼と話をしていたせいか、私はもう既定事実みたいに『雨は降るんだ』と思いこんでいて、目の前で話をしていた女子高生風の女の子たちが眉をひそめながら西空を見ている姿は、私にとって不思議と心地いい。ギュッと傘を握りしめた。
 はやく、早く、雨よ、降って。
 一日千秋にも似た想いで胸がいっぱいになる。
 また一人になってどれだけの時間がたったのだろう。ビルの隙間の小さな空を見上げながら、雲や太陽が動いていくのをずっと眺めていた。あの雲はビーチボール、あの雲はテディベア、あの雲はペットボトル、そんな想像を働かせながら空を眺めるのは、当たり前の日常の横に転がっている道草みたいでとても楽しかった。
 お姉ちゃんを待つって目的もすっかり忘れかけていた。
 すると構内の方から、またさっきみたいな大きなチャイムがした。
『本日も第3新東京交通をご利用いただきまして、まことにありがとうございます。信号故障のため一時見合わせておりました区間の運転をただ今より再開いたしましたので、二分後に最初の下り列車が到着いたします。ご迷惑をおかけしております』
 放送の間からもうすでに、急にあわただしくなった。どんよりと漂っていた生暖かな空気が流動し始めたみたいに、凍り付いていたざわめきが戻ってきていた。
 それにつられたみたいに空が泣き出した。
 それからは赤ちゃんみたいだった。急に泣き声があがったかと思うと、一秒ごとに火の勢いが増すみたいに雨が強くなっていく。緩やかに吹いていた風も顔を入れ替えたみたいに、ゴウゴウとうなり声をあげて歩行者に襲いかかっていた。
「きゃっ」
 小さな悲鳴がすぐ目の前で聞こえた。見ると、紅茶色の髪の女の子がスカートを押さえて恨めしげに風の吹き去った後を睨みつけていた。と思うと、すぐ後ろを歩いていた男の子に向かって「見たでしょ!?」「え、なに?」「見えたかって言ってるのよ!」「もしかして」「見えたのね?」「あ、いや、その」というやりとりをあっという間に交わした直後に、その女の子の手のひらがきれいに男の子の顔へ吸い込まれていった。
 ぱちーん、と乾いた音が広場に響いて、私は思わず顔をしかめた。とても痛そうな音だなぁ、と思っていたら案の定、男の子は痛そうに左頬を押さえていた。
「ふん」
 と憤りを全身で表して、みんなの注目を一瞬で集めているのも無視してその子は歩き出した。男の子は泣き出しそうなくらい情けない顔で、周りの同情じみた視線を居心地悪そうに身を縮めて、従者みたいに女の子の後ろを歩いていった。
 あっけにとられているあいだに放送にでてきた列車が到着したみたいだった。ガヤガヤと急に声が大きくなった背後には改札がある。
 振り返ると走ってくるお姉ちゃんの姿が見えた。改札をドタバタと慌てながら通り抜けているところだった。
 安堵するのと同時に、あれ? と思ったのは、そのすぐ隣に今日は家で留守番しているはずの、もう一人の姉がいたからだった。
「ごっめーん! 第二環状線がとまっちゃってた」
「ごめんね、ノゾミ」
 二人が同じタイミングと角度で腰を曲げたものだからそれが妙におかしくて、怒っていたさっきまでの私はどこかに飛んでいってしまった。
「なんでヒカリちゃんがいるの?」
「ご飯の買い物して帰ってきたらお姉ちゃんが急にこいって」
 ヒカリちゃんは苦笑いしながら、それでもどことなく嬉しそうだった。
「どうせなら姉妹水入らずってことで、一度戻って呼びに行ってたのよ。残してきちゃかわいそうでしょ? お父さんもどうせいないんだし」
 私ももう一人の姉――年子なのでヒカリちゃんと私は呼んでる――のことは気になっていた。留守番してるから二人で行って来なよ、というヒカリちゃんの言葉に甘えながらも、心にはわだかまりが残っていた。
「予定がないなら出不精の妹を連れ出そうと、姉妹想いの姉としては考えたわけです。でもこの子ってば、買い物に行っちゃって電話しても出ないし、まあ時間ギリギリまで家で休憩がてらに待ってればいいや、って思って帰ったらこの電車ストップでしょ?」
 いいわけじみた言い方に聞こえないのが、お姉ちゃんの良いところなのかもしれない。あっけらかんとした良い方は嫌みを感じさせないからだ。ヒカリちゃんは出不精なんじゃなくて、お母さんがいないから私たちのかわりにご飯を作ってくれるから外出が少ないだけなんだけど、今日はそういう家事から解放してあげる、とお姉ちゃんは目で言ってるみたいだった。
「まだ間に合う?」
 私たちに合流することになったヒカリちゃんはいつものお下げじゃなくて、髪の毛はストレートにおろしていた。時計を気にしながら、そのヒカリちゃんが訊く。
 私は頷いた。
「でも、もうすぐ映画、始まっちゃうよ。急ご」
「うん。あれ?」
 私の右手に握られている傘にヒカリちゃんが気づいた。
「そんな傘を持ってたっけ?」
「ううん、さっき貸してもらった」
「誰に?」
 今度はお姉ちゃんが振り返った。
「ほんのちょっと前まで一緒にここで待ち合わせしてた男子。断ったのにむりやり押しつけられちゃってさ」
「ふーん。お、もしかして口説かれてたの?」
 私とヒカリちゃんの一歩前を歩くお姉ちゃんがそういいながら自分の傘を開いた。あわてて買ったようなコンビニ傘だった。しっかり者のヒカリちゃんは薄いブルーのマイ・アンブレラを持ってきていた。
「違うよ〜。ヒカリちゃんと私の同じ中学校の人だったみたい」
「へえ、それじゃ、あと詳しくその話は聞かせてね」
「うん。探して返すの、ヒカリちゃんも手伝ってね。学年とか聞かなかったの」
 そう言って空を見上げてみる。
 すっかり薄暗くなった空に灰色の雲がどんよりと漂っている。そこから零れたみたいに降ってくる雨もやみそうにない。
 だけど私の心はちょっとウキウキしていた。
 もうちょっとだけ雨が降っていて欲しい。隣を歩くヒカリちゃんを少しだけ見上げながらそう思った。
 街灯の光で線状の雨がくっきりと浮かび上がっていて、その向こうの電光掲示板に映し出されている文字はさっきよりも曇って見えた。
『夕方からにわか雨になりますが、夜には晴天にもどりきれいな星が今日も見えるでしょう』
 夜をまだ少しだけ遠くに聞きながら、私たちは彼らの向かったのとは反対の方向へ歩き出した。
 最後にしようと見上げた空にネオンが躍りだしている。
 そのすきまを埋めるように、糸を引きながら雨が静かに降っていた。



(了)



 初出:2001.08.16
 同人誌「Evangelion Complex.02」




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