さよならを待ってる
I wait to say good-bye
彼女の声はかぼそかった。
とっさに『ぼくはひきょうものだ』ってフレーズが頭をよぎる。
それがきっかけになって頭はパニックになった。
漂白されたみたいに思考がすすまなくなる。
どうして?
どこで始まったんだ?
答えなんて見つかるあてがない。
今、ぼくが置かれている状況を説明するための理由があるとしたら、それはいいわけという名前に置き換えたほうがいい。それを作ったのはぼくだし、誰にも責任はなすりつけたりできやしないんだから。
「ごめん」
ぼくは精一杯の声を出した。心の中の重圧でそれ以上の声がだせないでいる。
情けない、と頭の中でぼくと同じ声の誰かがなじっていた。
「ごめん」
それでも電話ごしの声はさっきからずっと同じメロディーを流し続けていて、いっこうに哀しい旋律を奏でるのをやめようとしない。
きっと、ぼくにはそれをとめることも、そうする権利すらもないのだという気がしてきて、少なからず暗かったぼくの心を、鳴りやまない音楽が鉄のかたまりと同じくらいの重さにしてしまった。
「もういいの」
ふとこぼれるように落ちたその言葉で、ぼくは時計のハリが永遠に戻らないことをしった。
嗚咽はいきおいをよわめても止まらずに続いている。
耳をすませば回線のノイズをこえて涙がこぼれおちる音が今にも聞こえてきそうだった。
それはぼくが犯した罪のひびき。心の闇はあやまちの大きさ。涙はぼくがしぼりとった純心の結晶。
なくしてようやく気づくことの大切さを、ぼくは遅まきながらにかみしめた。
どこから始まっていたのかもう思いだせないでいる。
本当は「ごめん」なんて一言じゃあとても収まりきらないくらい、ぼくは彼女を大切にしてこなかったんだ。それと同じくらい傷つけていたんだ。
「もうそれ以上あやまらないで」
鼻をすすりながら、きじょうに彼女が言う。だけどそれは鼻声で、すごく息苦しそう。
ぼくも呼吸が苦しくなる。胸がつまって肺がちぢんだみたいに。
なんてありきたりなんだろう。だけど自分がその立場に放り込まれて、それがこんなに苦しいなんてしらなかった。そんなふうに彼女に言えたらどれほど救われるだろうのだろうか。
だけどぼくの一部がそれを許さない。言ったとたん、ぼくは自分自身に人でなしの烙印を一生背負わせなくちゃいけなくなる。自分を弁護しても誰もすくわれず、彼女をさらに傷つけ、みずからも傷を深くする。
彼女はぼくをせめない。私が悪かったと繰り返してばかりで、誰にも責任と一緒につらさを押しつけようともしないでいる。それは本当なら誉められることなはずだけど、彼女をここまでぼくが追い込まなければ、彼女は今も昔とおなじ笑顔をうかべていられたのだから。
ぼくは言葉をうしなった。地球上ではじめて気持ちを伝えるのに言葉をつかえるようになったのが人間で、ぼくはその端くれとして生きている。なのに今は一言もしゃべれないでいる。なにかを言わなければなにも解決しないのに、のどの奥からは空気しかもれ聞こえてこない。情けなかった。
悔恨の念をいくらつづったところで紙と鉛筆はたりやしない。何万時間とテープに録音したって、ぼくの残り一生分じゃたりるわけがない。
まぶたを閉じれば、色あざやかにうつしだされる彼女の笑顔。とっておいた写真をひっくり返したみたいに思いだされる、いたずらに怒った顔、道がわからなくなって困った顔、息があがって苦しそうな顔、プレゼントに嬉しそうな顔、そして今も電話の向こうで浮かべているはずの泣いた顔。
いつも彼女は泣くたびに顔をぐちゃぐちゃにしながらぼくの手をにぎってきた。にぎり返すこともあれば、邪険に払いのけたこともある。それがどんなにひどい仕打ちなのかを考えもしなかった。
あまりの心苦しさに吐き気をおぼえ、これからずっとぼくは自分自身とも向き合い続けなくちゃいけないということに気がついた。
めまいがした。
ふりむいて欲しい人をほかに作ってしまった。
仕事の忙しさにいらだっていた。
彼女のことだからしばらく放っておいても大丈夫だとかってに思いこんでいた。
沈黙はどれほど続いたのだろう。
三分、いや、五分?
時計が時をきざむたびに大きくなっていくのは、まちがいなく彼女との距離だった。時間がたてばたつほどに取り返しがつかないことはわかっていたけど、ぼくにはそれをくいとめる手だてなんて一つも残ってなんかない。
彼女はぼくをゆるそうと言う。だけどそれ以上は言わない。言ってくれるとも思えない。
口のなかが苦みで満たされていた。奥歯をかみしめすぎて、歯ぐきから血がもれていた。血の味だとわかったとたんに鈍痛がぼくをおそう。だけどそれはむしろ心地のよい痛みだった。ぼくが罰をうけている、当然のむくいをうけている証拠なのだから。だからといって、そんなちっぽけなことで彼女のこぼれた涙はほおにもどらない。
いつのまにか遠くなっている。手にある受話器の重み、額にうかんだあせの気持ち悪さ、体をゆらしていた震え、目に見える闇のなかの街、そしてぼくがしっている彼女のすべて。
もう戻らない。
ぼくがほかの女に狂っていた日々。
彼女の左目、左手のくすりゆび、両ひざから下のうごき。
しらぬまに生まれていた小さな息吹。
彼女は泣きだす前に言った。
「ごめんなさい」
この一言がぼくを絶望的なまでにたたきのめした。ぼくがはらいのけた手はあたたかかった。もうもどらない。
くずれ落ちる瞬間の、あの彼女の瞳が目に焼きついてはなれない。
気持ち悪かった。
まるまる二日も食べ物は口にしていないのに、胃はやっきになってひっくり返ろうとしているのだ。すべて吐きだし、胃液すらでなくなったのにまだ逆らおうとしている。なにもなくなってしまったらもう一つしか道はない。もうすぐ穴を空けるのだろう。それでもいい。その方がいい。
ぼくは彼女よりも心と体の両方で傷つかなくちゃいけない。
つぐないなんてその後からじゃないとしちゃいけない。
「赤ちゃんは死んじゃったけど、誰のせいでもないよ。あそこで私がかけよったりしなかったら」
違う。ぼくがはらいのけたりしなければ……。
「もうやめましょう。おたがいが自分を傷つけるだけだもんね」
鼻をすするる音が聞こえる。その通りだった。自傷行為をくり返すばかり。どこまで行っても、ぼくはぼくを、彼女は彼女をせめ続けていく。たがいの声を聞いていればそれは深まるばかりだ。
ぼくは怖かった。
彼女がいつそれを言うか、大丈夫だと思いながらも気が気でなかった。
それでも暴走は止まらなかった。
だがピリオドはまちがいなく今だと思った。言われても仕方がないと思った。
ぼくからいうことはできなかった。
「私たち、もう会わない方がいいんだよ、きっと」
肯定も否定もない。もうどちらがいいのかもわからない。ただ、彼女の言葉がくだす判断だけがゆいいつの正しいことだとわかる。
「さよなら、だね」
「……」
「こんなになっちゃったけど、私は一つも恨んでないからね。むしろ感謝してるくらいなんだから」
また彼女の声が泣き声にかわる。
「あなたに会えてハッピーだったよ。今まで、今、これからも」
続きは嗚咽だった。
しばらくぼくは受話器を握りしめて聞いていた。さっきのメロディーとは違っていて、今は浄化のためのレクイエムみたいにひびきわたる。心に突きささるような、それでいて小鳥のなき声とおなじくらいにすみわたっている。
「ありがとう」
ぼくがやっとの思いでつぶやく。
うん、と返事がした。
ガチャ、ツー、ツー、ツー。
ぼくは耳におしあてたまま動けなかった。
なにも考えられない。
しばらくしてふと目をおとす。
しろい紙のなかにぼくらの名前が書かれていた。
紙のいちばん上には小さな文字で「婚姻届」と印刷してあった。
受話器を置いて、その紙をもう一度見つめる。
大きく息をすう。
手にとると、ためらわずに一気にたてに引きさいた。
もうもどらない。なにもかもをうしなった。
彼女の優しさだけが残っていた。
それをすら抱きしめることができなくなったのだと気がついた瞬間、ぼくはところはばからず泣きさけんだ。
ぼくがくずれ落ちるのと同時に、なにかが指のすきまからこぼれおちていったような気がした。
それがいったいなんだったのか、もうぼくには二度とわからない。
大切だったはずのなにかは永遠にもどってこなかった。
- fin -
著作
ばーやん(M.Oobayashi)
参考
DREAMS COME TRUE『さよならを待ってる』
(「WONDER3」「BEST OF DREAMS COME TRUE」収録)
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