MY LITTLE LOVER
(Real Version)
- Latter part -
眠りながら見た夢は、あの時の夢だった。確か、十二月になるかならないかという時期の、朝のホームルームの後での出来事の夢だった。あの日はとても印象的で、目が覚めているときでも目を閉じればその時を思い浮かべることができる。
開口一番、
「また君? 二回目だね、隣りになるの」
と彼女が言った。
あれが最後の席替え、と僕は思っている。思っている、というのは僕らのクラスでは毎月一回席替えを今でも続けているが、彼女が入院する前の最後の席替え、という意味だ。
「二回目って言ったって、私の場合はほとんど来れないだろうけどぉ。ま、一人でガンバッテ」
何をどのように頑張ればいいんだろうか? と思ったが口に出しては言わなかった。あまりにもさっきの質問をストレートに聞き返すは馬鹿らしい。とっさに切り返すつもりでこう聞いてみた。
「またで悪かったな。……ところで、お前、入院でもするの?」
「まあ、このままだと多分そうなるでしょうね。私の体ってあちこち面白いくらいに壊れてるんだから、仕方ないよ」
「にしては、ミョーに垢抜けてんな。お前」
ニヤッと彼女は笑いながらこう言った。
「それが、私の、い・い・と・こ・ろォ〜」
最後にウィンクのおまけまでついていた。
「ハァ〜〜〜……」
僕は彼女に背中を向けながら『ヤレヤレ』といったポーズを取った。あの、英語のジェスチャーでは『 I don't know 』というやつだ。
「あぁ〜! 何よ今のため息は! 私の事チョット頭のオカシイやつとか思ってんじゃないの!?」
「別に。そんなこと全然ないけど」
とか言いながら、僕はしっかり『やってられるか』と体と顔で意思表示をしていた。
「ぐ〜、絶っ対思ってるでしょ! こっち向いて喋りなさいよ、目そらすのはずるいわよ。ねえ、ねえってば! 聞いてるの!?」
彼女が僕の肩をカクカク揺らしながら、そうわめきちらしていた。
「あ、ばか、こ、こら、やめろ。あ、あ、あああ、わ!」
自分で僕をおもちゃにしているくせに、僕の態度がさらに馬鹿にしていると思ったらしい彼女は、
「もー、あったま来た! 首むち打ちの刑じゃ。ホレホレ!」
さらにスピードと力を上げて、僕の頭は本当に前後にカックンカックンと揺れてしまった。
「ヤメロって! よ、酔っちまうだろ! 頭を振ったら!」
「やーだよ。前言撤回まで許してやんないィー」
「ぐ、ぐぅ……こうなったら何遍でも言ってやる! オカシイ、おかしい、可笑しい、お前はオカシイぞっ、と……」
「酷っど〜い! 更にくすぐりの刑追加じゃ。ほれ、コチョコチョコチョコチョ……」
「う、アハハハハハ! や、やめろ……ぐっ……って……ハハハハハハ」
僕が笑い出すと同時にクラス中のみんなが、ドッと笑い出した。みんな僕たちのやり取りを見ていて、吹き出しそうになっていたのだが、無愛想な僕が笑い出したのがきっかけになって堰を切ったように大笑いし始めた。肩を揺らす手を止めて、一瞬何が起こったのかわからず、みんなが笑っていたのをポカ〜ンとしていた表情で見ていた彼女も何故かがわかってくるにつれて、段々と笑いはじめた。いつのまにか、彼女は僕に半ば抱きつくような格好になった。
「クク……アハハハハハハ」
涙を流すほど笑う彼女を、僕もくすぐられてもいないのに笑いながら見ていた。すぐ近くでお互い視線が合うと、一瞬笑いが止まったけど、すぐに彼女がたまらず「プッ」と吹き出すと、それを合図の様にまた笑い出した。最後には何で、何が、どうして可笑しいのか解らなくなっていたけど、その時にはもうそんな事は関係がなかった。
朝のホームルーム後の短い時間。僕はきっとこの時間を忘れないに違いない。彼女が心から笑った初めての日であり、僕がクラスの中で笑顔を始めた日でもあったからだ。僕は、その時までクラスの中で笑った事がないと後に知った。久しぶりに気持ちのよい朝だったなと思う。
そして僕らがお互いを意識しあった、遅すぎる出会いのようなものだった。それはきっと僕らの中での記念日になるだろう。誰しもが笑顔を見せた、幸せすぎた時間だった。
その晩の事だった。家にはいつものように僕一人しかいなかった。オヤジは女のマンション、お袋はちょうどこの頃から実家にいたし、姉貴も姉貴で母親がいないという事態をいまいち正しく認識していないらしく、毎日夜遊びで多忙な時間を過ごしていた。家事一般、特に料理は姉貴しかまともなものを作れないのに、かわいい弟を飢えさせるとは愛情のない姉だ。「これからは男も料理を作る時代」とかよくあちこちで言われてるけど、現在僕はそのスキルがなくてやりたくてもできないのだから、やっぱりできる人に頼るしかないわけで、姉貴がいない晩は必然的に僕は空きっ腹を抱えることになる。
姉貴だが、ここのところ帰って来る時間もオヤジといい勝負だった。先の時もあれば、遥かに親父より遅い事もある。だが、二人に共通していたのは毎晩のように酔っ払って帰って来るということだ。最近、この二人の素面の姿をほとんど見ていない。その酒がヤケ酒かどうかは僕には知るすべもないが。
トルゥルゥ…トルゥルゥ…トルゥルゥ…
テレビの番組も面白いものをやっていたが、それを見るのも面倒になったので、そろそろ風呂に入って勉強でもしようか、と思っていた時間に電話が鳴った。一応受験生である以上、勉強くらいはスレている僕でもする。頭の中に吸収されるかどうかは別問題だが、それに関係なく参考書くらいは開かないといけない。
いつものように親父の変なところで几帳面な電話かと思ったが、良く考えればさっきご飯を食べる前にそのコールはあった。だとしたら、姉貴に遊ぶための勧誘か何かだろう。僕やオヤジにかかってくる事はほとんどないからだ。僕は PHS 、オヤジと姉貴も携帯を持っているが、姉貴はどっちかっていうと携帯を使いたがらないので家に直接かかってくる事が多い。以前番号を悪用されかけて、それがいい薬になっていたから、番号を変更した後やたらと携帯の番号をばらまくことはやめたらしい。
一度、家の電話は常に留守電になっているので放って置こうかとも思ったが、虫の知らせのようなものが頭の中であったので、少々気だるいしぐさで受話器を取って通話ボタンを押した。
「もしもし……」
「あ、ラッキー! 君が一発で出てくれて助かったァ。本人以外の人が出るとちょっと気マズイからさあ」
「お、お前…なんだよ、突然。いきなりラッキーって。僕以外に男兄弟がいるかもしれないだろ?」
電話は彼女からだった。本当にびっくりした僕は思わずそう言った。全然予想していなかったからだ。
「家には自分しかいないって言ってたじゃん。いるの?」
「……いない」
確かに、姉はいるが、両親も姉もこの時間に家にいることは滅多にないと言った覚えがある。僕の負けだった。
「で、どうした?」
気を落ち着かせるために、僕は少しぶっきらぼうに言った。
「あのね、ちょっと一言だけ、どォーしても言いたい事があってさ。……もしかして迷惑だった?」
「え? あ、いや、全然そんなことはないけど……」
「ホ、良かった……」
「で、何? 言いたい事って」
「う〜ん。別にたいした用事じゃないんだけどね。君ってなんだか話しやすいのよ。だからちょっとおしゃべりに付き合って欲しいなァ、って思ったの。昔の学校の友達とは最近飽きてきたし、こっちではあんまり友達いないから」
僕が話しやすい?
人からそんなふうに言われたのは初めてだった。今までは人付き合いが悪いとか、近づき難いとか、話をしにくいとか、そんなふうにしか言われた事はなかったし、事実、僕自身がそのように思っていたので彼女の言葉は新鮮で驚いてしまった。
「お前、面白い事言うな。そんなふうに言われたのは初めてだよ。どこの辺りが話しやすいの?」
「どこかを説明しろっていってもね、感覚的なことなんで難しい。なんかさあ、言葉を探さなくてもすらすら気兼ねなく言葉が出てくる、そんな感じ? 私の言ってるニュアンス、わかる?」
「……イマイチ。大体、お前ってみーんなに付き合ってるように僕からは見えるからなあ。だから、お前からそう言われてもピンと来ないし、わかんない」
「ハハ、そうかもね。けど、私の中では君はそういう人になってるよ。何年も前から知り合いだったみたい、っていうのかな。それにさ、今日みたいな顔で笑えるんだから、もっと自信持った方がいいって。ね? 笑うのって気持ちよかったでしょ?」
「んー、そうだね。それでさ、僕になにか聞いて欲しい事とかあるの?」
僕は今日のクラスのことを少し思い出しながら言った。
「……うん。実を言うと、いきなりで悪いんだけど……」
「なんだよ。はっきり言わないなんて、らしくないな」
彼女は、ハハっと力無く笑い、一息分間をおいて言った。
「君が好きになっちゃったんだ。あ、ホントにごめんね、こんなこと突然言って」
え?
今なんて言った?
僕の聞き間違いか?
なにが、どうして、どうなったら、彼女の口からそんな言葉が出てくるようになっているんだ? って、自分で何を考えているのか分からなくなってきた。と、とにかく聞き間違いではない事だけは確かなはず……だ。
「……え? 冗談でコクってる…んじゃない……よね?」
僕は一字一句、言葉を確かめるように聞いた。しかし、言った後でこんな質問はすべきじゃなかったと思った。
「あのねェ……私はこんな性格で疑われても仕方ないけど、嘘だけはついた事ありません。失礼ねェ」
「ご、ごめんごめん。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。その……なんていうか、人から好きって言われた事って初めてだったから、ちょっとびっくりしちゃって……」
「あっ……ん…そうよね。私の方こそごめん。いきなりこんな事言っちゃって…。驚くのもむりない、か。それに、なんかさっきから謝ってばっかだし」
「いや、迷惑っていうんじゃないよ、その、なんて言ったらいいか分からないけど……嬉しい…んだと思う」
僕は心からそう言った。あんなことを訊いてしまったのは彼女には悪いと思うけど、驚いたのもまた事実だったのだ。
しばらく受話器を持ったまま、僕は真っ赤になって黙っていた。多分、受話器の向こうでも彼女が同じように顔を真っ赤にしているんだろう。きっかけがつかめず、僕らはしばらくお互いに黙ったままだった。あまりに気まずいのでとりあえず何でも聞いてしまえ、って気持ちでまたもや考えもなく次の質問をしていた。
「でもさ、どうして? 僕とほとんど接点もなかったのに」
彼女は受話器の向こうで失望にも似た、小さいため息を一つ吐いた後、
「あのね、じゃあ私の方から聞くけど、君は人を好きになるのに理屈が必要だと思う?」
と、煩わしそうに言った。
あ、そうか、と僕は思った。彼女の言葉を聞いて目から鱗が落ちるのを、身を持って体験した気がした。そうだ、人を好きになることなんて当たり前なんだな、と思った。誰かがテレビで言っていたような気がするけど、まさしくその通りだと思う。僕が彼女を好きになったように彼女が何万分の一や何億分の一の確率で僕を好きになっても、別に変じゃない。そういう事がありえない訳じゃないのだ。
「……そうか、そうだよね。自分の気持ちが移り変わったりするのにいちいち理由なんか要らないね」
「ね? そうでしょう」
「まったくだ」
僕もいつの間にか顔がゆるんでいた。自分の間抜けさに、苦笑を浮かべていた。だけど、その苦笑いは不快なものではなかった。
「それでね、突然ついでなんだけど、もう一ついいかな?」
「なに?」
「んーー……まあ、今日はいいや。今度にしとく。今日の明日じゃ、厚かましいと思われちゃうかもしれないから」
「なんだよ、それ。気になる言い方だなあ。何か喋り方にも含みがあるぞ」
「気にしない気にしない。男でしょ? アハハ!」
「アハハじゃないよ、まったく。なんだよ、それ」
人とこんなに気軽に喋れたのはどれくらい前だったっけ? もう自分では思い出せないほど前だ。そうすると、それは小学校の低学年くらいかもしれない。気がついたらそういうふうに喋っていた。僕に言わせれば、彼女の方が僕よりよっぽど話をしやすい人間だ。それも、誰とでも話せる万能型。
「ついでだろ、はっきり言ってくれよ」
「いいの?」
「いいから」
「じゃあ、言うね。明日、ちょっとが暇あるかな?」
「予定はないよ、別に」
「それじゃさ、デートでもしない? ただし、私の入院する病院になっちゃうけどね」
彼女が、この電話の最後の話題をこうやって切り出した。台詞の後半は声が笑っていたから嘘だと分かった。実際にどこかへ出かけるんだったら多分、もっと洒落たところに違いないと思う。
「問診にでもつき合えってこと?」
「そうそう」
そう言って、彼女は笑った。
僕は今まで人に何かを贈るなんてした事はなかったし、これからもないだろうと思っていた。そんな僕が今、あれこれ彼女にプレゼントするための花を、花屋の前で物色しているのだから不思議な話だ。ついこの前までは想像もできなかったことだと思う。でも、こうしているのだって完全に自分の意志でこうしている訳じゃない、という気がしないでもない。彼女が「花くらいくれたっていいじゃない。買ってきてよ」なんて電話の最後で言ったもんだから、今こうやって赤や白や黄色とにらめっこをしているのだ。別に嫌というわけではないが、自発的には起こさなかった行動だろう。
僕は睨み付けるように、いろいろな名前もわからない花々を眺めていた。名前もわからないのだから、花言葉などという洒落たところまで気が回るはずもなかった。
何も、睨んでいるのは花だけとは限らない。
「た、高い……」
そう、値段も信じられないくらいに高いのだ。予想していたよりもゼロが一つ多い。ここだけ異世界にいる気分に襲われてしまいそうだが、温室で育てた花なんてやっぱりこれが妥当なんだろう。だけど、口から出てくるのはため息ばかりだった。
だいたい、いきなり「好きだ」って電話してきた次の日にデートに誘い、それだけならまだ分かるけど、あまつさえ贈り物まで要求するとは……。
長年病気と闘ってきた娘はやっぱり普通じゃないな、と思いながらも花を探した。でも、僕もそんな彼女のほうが彼女らしくて、自然と微笑んでしまう。
「さっきからずっと見てるけど、どう? 決まった?」
笑ってはいるけど、僕が真剣な目で見ているのに気を利かせてくれてだろう、店員のお姉さんが助け舟を出してくれた。
「あ、いえ、まだ……」
「どんな目的で探してるの? 言ってくれたらコッチで何とかしてあげるけど?」
「じゃあ、そうして下さい。僕が見ても全然分からないし」
お姉さんは少し苦笑しながら。
「あ、わかった。女の子ね」と言った。
少しからかわれているみたいで恥ずかしかった。
「ええ、まあそれはそうなんですけど…」
「何も花をあげるのを恥ずかしいことないわよ。私だってもらえる物ならもらってみたいもんね。ロマンチックじゃない? 但し、赤いバラはやりすぎだし、パターンだから駄目だけど」
そうかなァ? 花に限らず、贈り物って恥ずかしいと思うけど、とは思ったが、女心は男にとっては最大の謎だっていうし、イマイチ理解できない僕がそんな事を言っても仕方ないので黙っておいた。
「じゃあ、アネモネなんかは? 花言葉は『あなたを愛してます』だけど」
「と、とんでもないですよ」
慌てて僕は言った。
名前だけは知っているけど、花言葉やどんな色でどんな形なのかは知らない。
「そうかなぁ…。積極的でいいと思うんだけど。君みたいな顔つきがシャープな感じの子だったらそれでもいいと思うよ。じゃあ、この黄色いバラは?」
「もしかして僕をからかってませんか? 黄色いバラって『嫉妬』って意味じゃないですか。僕が何に対して嫉妬しないといけないんです?」
唯一とも言っていい、これだけは僕はテレビの連ドラで知っていた。そう、ちょっと怒ったように僕が言った。
「ゴミンゴミン。そんなに怒らないでよ。簡単な冗談だってば」
とか言いながら僕が意味を知らなければ売っていたかもしれない。この人は多分そういう人だと、直感的に感じた。第一僕をからかっているのだから、そう思われても仕方ないとは思うけど。
「彼女に贈る花、か。じゃあ……」
誰も、彼女だなんていってないんだけどなあ。そう思ったと同時に、やっと真面目な顔つきになってお姉さんが花を探し始めてくれた。僕には見た事もない花や植物ばかりだったけど、その植物に囲まれているときのお姉さんの顔は本当に楽しそうだったし、本当に花が好きなんだろうなと思った。それを受け取ってくれる彼女は、きっと喜んでくれるような気がした。
そう思えばこの二人の女性は何も共通点がないけど、花っていう物を通して見たときだけ似ているような気がした。どこがどうとは言えないが、漠然とそんなふうに感じられる。
「どんな色がいいの?」
「あ、えっと、その少し赤っぽいやつを……」
窓の外側では午後三時の雲がゆっくり流れていた。
「五分の遅刻。言い訳はある?」
抑揚がない口調で彼女が言った。
あの花屋であれこれ二人そろってあーでもないこーでもないと悩んでいる内に、すっかり時間という概念が飛んでしまっていた。僕は思いっきり遅刻してしまいそうになった。礼儀として男は一五分くらい前には待ちあわせ場所の前にいるっていうものだと思ったので、それを見越して家を出たはずなのに余計な事で長引いてしまった。五分の誤差だけど、遅れてしまったことにかわりはない。
「ないよ。でも、はい、これ。約束の花」
僕はそういってブーケくらいの束を彼女に差し出した。
「ふーん。センスいいじゃない。ねえ、これって何の花だか知ってる?」
パッと表情を変えて、すごく嬉しそうな顔で彼女が僕の手から受け取った。
「いや、わからない。悩んでいるうちに時間が迫ってきちゃったから、一番キレイだと思ったのを選んできた。それが何の花だか知ってるの?」
「もち。これ、アネモネよ」
「え、えぇぇぇ〜〜〜!?」
しまった、やられた。そうか、そういう事か。僕がこの花を選んでからさっきのお姉さんがニヤニヤしていた訳はこれだったのか。
「いきなり大胆ね。『あなたを愛する』だなんて。意っ外ぃ〜〜。もしかして結婚でも迫ってるつもりィ〜?」
「い、いや、あの、これはそんなに深い意味があってじゃなくて、その、あ、え〜っと、僕はアネモネって花を良く知らなかった訳で、あ、だから、花言葉の意味は知ってたんだけど、その、花の形とか匂いとかはかいだ事もないし、見た事もなかったし、じゃなくて、だから、ええっと……」
自分で何を言っているのか分からなくなってきた。オーバーヒートしそうなくらい頭が熱を持ちだして、僕の脳の中を許容量以上の言葉が秩序なく走り回った。まさしくこれをパニックと言わずに、なんと言えばいいのか。僕の頭は思考を止めてしまい、意識だけは流れる言葉の羅列を何とか制御しようとしていたが、全部無駄に終わってしまった。
「プッ、アハハハハ! わかってるってばぁ。多分そんな事だと思った」
彼女は腹がよじれるのではないか、というくらい大笑いする。しかし、ヒーヒーと息が苦しくなるくらい笑うというのも失礼だと思うが、反論できる立場ではないし、そのときの僕は呆気にとられて彼女を見続けることしかできなかった。
しどろもどろになりながら弁解しようとする僕は顔を真っ赤に染めていた。それを彼女はいいようにあしらう。どうしてもこの子には勝てないな、そういった優しい感情が僕を包んでいたけど、それもなんだか少し心地よかった。駅前の花壇の横に座って待っていた時の彼女は、捨てられた子猫のようにとても不安そうな顔だった。僕がきてくれないんじゃないか、電話の告白が一方的すぎたんじゃないのか、そんな後悔とも失望にも取れる表情を浮かべて座っていた。今笑っている彼女はやっぱりいつもの姿で、その時の彼女とは別人のようだったから。僕が少し遅れてきた分だけ、その顔は愁いていた。信号を渡って最初に彼女を見つけたとき、僕は犯罪でも犯したように後ろめたくなった。良く考えたらそんなに悪い事はしていないのに。
いま、僕を見上げている彼女はとてもかわいかったし、本当に幸せそうだと思った。
「ま、まあ、今回だけだからな。花なんて」
少し顔を明後日の方に向けて照れ隠しで僕は言った。
「うん、わかってるよ。今回だけしか貰えないって……」
「え?」
顔を見たとき、彼女はブーケに顔を埋めるようにして匂いをかいでいた。
「……いい香い……」
また僕は何も言えずぽりぽりと鼻の頭を掻いた。自分でも、なんて恥ずかしい事をしているんだろうと思うと、彼女がいなければ穴に入りたい気分になった。
僕の恥ずかしさはさておき、目の前の彼女は絵になった。カメラがあればその場面を切り取ってしまって、ずっと大切に持っておきたい。だけど持ってない。だから、カメラのかわりに網膜に焼き付けておきたいと思った。そう思うと僕はそこを一歩も動けなかったのだ。
「ホントにありがと」
満面の笑顔で喜んでくれる彼女。
「ん……いいよ、喜んでもらえるんなら」
彼女はしばらく花に顔を埋めるようにして香りをかいでいた。
「じゃあ、そろそろいこっか。海」
彼女が顔を上げて微笑んだ。僕は相変わらず、見とれてしまうことしかできなかった。
世界が白ばみはじめるかなり前の頃に、僕はひとりでに目が覚めた。何か、胸騒ぎがしたからだ。
この胸騒ぎが良くない方向なのか、それともいい方向に向いてなのかは分からない。だが、少なくとも、僕にはそんなに嫌な予感はしなかった。僕は、オプティミストと言う訳ではない。かといって悲観論者でもない。
病院の廊下は薄暗いままだったが、南向きの窓からは光が漏れているのが見える。斜めの窓の、遠くの山の向こうが少しだけほのかに明るい。手術室のランプはまだ消えていなかった。まだ、みんな中で頑張っている。特に彼女は。先生達は交代する事は出来るが、クランケである彼女はたった一人だ。
もう手術が開始されてから七時間近くが経とうとしている。あれだけ衰弱していたのに、彼女の体は持つのだろうか? と思った。移植手術とかで、十六時間とかいう移植手術もニュースで聞いた事はあるが、そこまででないにしても、こうやって待つ事はとてつもなく長く感じる。その時、オペを受けていたのは六歳くらいの小さな女の子だった。その女の子も、その時は決して万全ではない体調だったように報道されていたと思うが、それでもその子はニュースで訃報を聞かない限りでは、きっと今でも元気に生活しているのだろう。だから、別にそんなにある事すべてに神経を尖らせなくてもいいのかもしれない。だけど楽観もできないから、そう思えればどれだけ楽だろうかと、何度考えたことだろう。
変な体勢で寝たせいで、体の所々がギシギシと痛んだ。まあ、首が寝違えて回らないという事態でないだけ、まだましかもしれない。
ムクッと体を起こして、伸びをした。
そのとき、隣のおじさんに軽くぶつかってしまった。
「ぅっ、う〜ん……」
隣で寝ていたおじさんが目を覚ましてしまったようだ。
「あれ? あ、寝てしまってたのか……」
最初、毛布を不思議そうな顔で見ていたおじさんは、僕が先に起きているのに気がつくとばつが悪そうにそう言った。昨晩、おじさんは徹夜をする覚悟だといっていたのだ。だが、最近ろくに眠ってなかったのだろう。目の下のくまが痛々しかったのを僕は覚えている。
そんなおじさんも、昨晩は彼女についていたくても側にいることができない状態では、張りつめていた神経が多少ゆるんでいたのも致し方がない。どうやら彼は熟睡してしまっていたらしい。
「悪いね。昨日は散々カッコイイこと言っておきながらこのざまだ……。この年になるとさすがにつらいようだ。若いころは三日完徹でも平気だったんだが。ハハ、なんだか言い分けがましいな」
苦笑いを浮かべながら、独り言とも取れるような声でおじさんはそう言った。メガネを取って目元をこする、髭がうっすらと見える今のおじさんは、普段僕の前では、いや、他人には絶対に見せない一面を、今まさに見せているのだ。おじさんはどっちかって言えば、物腰の柔らかいインテリみたいなタイプの人間で、とても「人のいいおじさん」という感じの人だ。まだ若く、四十になるかならないかの年だし、この人に限っては、髭の剃り残しのようなものは見たことがない。頭髪も清潔感があり、学生時代の「さわやか君」がそのまま大人になったような人だ。多分、小さいときから人に好かれ、不自由なく、汚い人間というものを見ずに育ったような人だろう。挫折というものが生まれて此の方なかったに違いない。
だが、自分の娘が彼のツイていなかった部分をすべてもって産まれてきたのだろう。僕でなくとも、誰もがそんなふうに邪推してしまう。それが、おじさんにとって初めての、そして唯一の誤算なのだろう。本当におじさんは純粋でいい人だ。それが僕には痛いほどよく分かったし、それだからこそ、なおさらおじさんのやつれている顔を見るのは辛かった。絶対数は少ないだろうけど、でも、おじさんのようないい人もこの世にはいる。そして、突然味わう苦しみは人一倍なのだ。きっと、僕の知らない誰もいないところで泣いているのだろう。生まれついてからだの弱い彼女の体を思ってか、それとも別の何かを思ってかは分からないけれども、きっと彼は泣いている。人には弱さを見せず、気丈に振る舞っている。
「おじさん。疲れているんでしょう? だったらそれこそですよ、しっかり寝ておかないと。心配なのはわかりますけど、今おじさんやおばさんが倒れちゃ何にもなりませんよ。だから、そんなふうに言わないでもいいです」
しばらくおじさんは黙っていたが、
「……ありがとう」
と、小さな声でそう言った。
だけど、僕は知っていた。見るに見かねた先生が、昨晩おじさんのコーヒーに睡眠薬を少し混ぜていた事。今は誰もが疲れている。休めるときに休んでおかないと、後に待ちかまえる大きな出来事に潰されてしまうに違いない。
ふと見上げると、その時『手術中』の文字の赤が消え、スッとほとんど音もなく扉が開いた。中に立っている先生の顔がよく見えない。それ以上に、僕には緑色の服にべったりとついた黒ずんだ血液のほうが強烈に目に飛び込んできたのだ。僕が彼女を殺すという悪夢を連想させるようで、一瞬気が遠くなりかけた。
「好きだから……君が好きだから……だから、僕が君を殺してあげるよ」
そう言って彼女の首を絞めた夢。
愛しいほど想いは募るんだと思う。でも、僕はそんなことを考えたくなかった。自分がそんなふうに考えないと、耐えきれないような弱い人間だと思いたくないから。そうしないと、僕は彼女の言葉に嘘をついてしまう事になる。
「つよいね、君って」
彼女のあの言葉があるから僕はここで冷静に座っていられる。
それが例え虚勢であっても、彼女が生きている限り僕は努めて冷静でなければならないのだ。
夏ですら僕は海へあまり行かない。泳ぎに行くなんて面倒くさくて行かないし、友達に誘われてもずっと断っていた。だから、彼女が行きたいといったときもそんなに乗り気じゃなかった。
生まれてから病院と自宅にいる時間が半々だった彼女は、もちろん泳ぎに行った事もないし、自分の目で見た事もないそうだ。小学校のプールも二、三回しか入った事がないという。だからといって別に、九月も終わって秋真っ盛りになろうかというこの時期に、わざわざ寒い思いをしてまで泳ぎに行こうといった訳じゃない。ただ、見たい。見てみたい。見ておきたい。それが彼女の言い分だった。
「この辺ってね、海がとってもキレイなんだって。一度、それを自分で見てみたいの。沖縄じゃなくたって、タヒチでもグアムでなくたってもいい。近くでいいからキレイな海って見てみたい」
僕らが乗った電車はローカルの単線で、二両編成だからのんびりとしたもんだった。客もほとんどいない。まあ、もっと正確に言えば僕らを含めてこの電車に八人。後部車両に至っては僕らを含めて三人だった。このままほうっておけば十年しないうちに廃線確実って感じの電車だ。
彼女は、というと僕の隣で眠っていた。
そう言えばダイヤモンドのCMでこういうのってあったよな、と思った。彼女が寝てるまに、とナレーションが告げると、男はとりだしたダイヤモンドをそっと彼女の指にはめてあげる。そして目が覚めた女性は、自分の指にしてあるダイヤの指輪に気がつく。そんな女性の姿を見て頷く青年。電車が夕暮れの中を走っていて、最後に「婚約指輪は給料三ヶ月分のものを」と続くおなじみのやつだ。
今、日が暮れるということはないけれど、帰りに乗っていたらそういった雰囲気の車内なんだろうな。彼女は僕があげたアネモネを大事そうに膝の上に載せている。その花言葉が僕をそう考えさせた。
僕には指輪がどんな意味があって、それが女性にとってどんな意味があるのかはよく分からない。ただ、大切な物だとしか。でも、僕の隣で微笑むような顔をしている少女は、将来誰からも指輪なんてもらう事なんてないんだろう。少し高い貴金属とか、ブランドものの化粧とかも、プレゼントして貰えることはないのだ。でも、そんなのをつけなくてもいいと思う。彼女がそれらを欲しいって言うんなら、僕は多分こう言うと思う。ちょっとキザだけど「僕は何もつけないままのお前の方がいい」って。
このまま眠り続けて昏睡状態になるかもしれないと、冗談で彼女が言っていた事があった。そのせいで、彼女の言葉を思い出すたびにドキッとしてしまう事もある。だけど、今はそんなことは起こらないと思う。いや、絶対におこらない。こんなに幸せそうにしている僕らなのに、突然邪魔をするなんてことがあるなら神様はすごく残酷な存在だ。
僕にとっても幸せだと思うこの時間は長くは続かないし、終わりもある。だけど、二人にとってはいままで生きてきた短い時間の中で、紛れもなく一番大切で、輝いていた時間だった。二人で海を見たり、はしゃいだりする時間よりもよっぽど大切な、彼女を好きなのだと実感できる空間だった。
「ぅん〜…。着いたァ?」
「まだ。でも次の駅だよ」
「そっ……」
目をごしごしとこすりながら、目を覚ました彼女が言った。
車窓の外には、もう海が目の前に広がるように洋々と横たわっていた。それを無表情に彼女は見つめていた。初めて見たからといっても、テレビなどの媒体を通してどんなものかは知っているから、感動が薄いのかもしれないし、海に来たという実感がわかないだけなのかもしれなかった。海の上に浮かぶ島々を見ていたのか、それとも船舶を見ていたのかわからない。東に沈んでいく、反射した紅い太陽の光を見つめていたように見えた。水平線にまで続くその光を、彼女の視線は追っていたような気がした。彼女の顔にも太陽は光りを届け、オレンジ色に染まった車内でも、彼女だけは特に色鮮やかに照らされている様だった。
「どうしたの? 何か顔についてる?」
ふっと気がついたように、彼女が僕の顔をいつのまにか覗き込むようなふうにして見ていた。ボーッとしていたのは僕の方だった。
僕は照れ隠しで、とっさに、
「跡。よだれ垂らして寝てたから、その跡が残ってる」
「え? 嘘っ。どこどこ?」
口元をごしごしやりながら、窓を鏡代わりにして彼女が言った。
「嘘に決まってるだろ。何もついちゃいないよ」
「もぉ〜〜、イジワル! 根性ひん曲がってない?」
「お返しだよ。これで昨日からのお前の強引な誘いの借りはナシって事にしとくから」
ぶ〜、っと頬を膨らませていかにも不満気だったけど、僕にそう言われると彼女は何も言えなかったらしい。
その時、ちょうど降りる駅のホームが見えてきた。
「憶えてなさいよ。私をからかった事、絶っっっっ対後悔させてやるんだから!」
「はいはい。ほら、かばんと花、置き忘れるなよ」
実際、僕は後悔させられる事となるのだが、僕はその時深く考えていなかった。
その駅は人口五千人くらいの街の駅なので、まあまあの大きさだった。一般的には、小さい部類に入る。夏には海水浴場として繁栄を極めたに違いないのだが、今ではとっくにシーズンも終わってしまい、ちらほらと釣り客がテトラポットの上にすわって、釣り糸を垂れているのが見える程度しか人がいない。
駅前の商店街もほとんど夏の家みたいな作りなのだった。閉店しているところがほとんどで、まともに開店している店は生活に必要な物を売るごく少数の店だけだった。そんな店の中の一つ、八百屋兼果物屋みたいな店に、リンゴが売ってあった。
目を輝かせた彼女がその店に駆け寄っていったのを、僕は訳が分からないまま見ていたが、店番のおばちゃんと二言三言喋り、お金を払って帰ってくるのをみて、初めて彼女が何をしているのか分かった。
「えへへぇ。私、リンゴ大好物でね、目がないのよねェー。はいこれ奢り」
そう言って二つ持っていたうちの一つを僕に差し出した。
「サンキュ。ふ〜ん、リンゴか。そんなに好きなの?」
「うん。なんか、この赤が好きなの。輸入物みたいに毒々しい赤って言うんじゃなく、それでいて青リンゴでもなく。このとっても自然な感じのするキレイな赤が」
僕にはそう言われても、どういうリンゴがキレイな赤なのか良く分からない。それでも、彼女にもらったリンゴを見ていると、なんとなく彼女の言いたい事は分かる気がした。
かぶりつきながら歩くという行儀の悪いマネは、いくらこんな往来の少ない田舎町でもできようもない。僕らは海沿いの堤防の上まで歩いていって、そこに座った。
僕はそこでリンゴにかぶりついたのだが、彼女は両手で大事そうにリンゴを持ったまま、暗くなりつつある海の水平線を見つめていた。
「食べないの?」
「うん、今はね。こんなにキレイなリンゴ、久しぶりに見たからもったいなくて」
「ふ〜ん」
それから、彼女はぽつぽつと言葉を捜しながら喋り始めた。僕に聞いて欲しかったのか、それとも独り言のつもりで言っていたのかは判断はつかなかった。
「私、今までこんな体に生まれてきた事を恨んだことはなかったの。でも、今は少し恨めしい気がする。お父さん達には別に不満はないけどね。ただ、すごく残念なの。どうしてだか解る?」
少し僕の方に顔を向けて言った。僕は、顔を左右に振って「わからない」と答えた。
彼女は少し微笑みさえ浮かべながら、遠くを見て口を開いた。
「それはね、いままで考えてきたことだったし覚悟もしていたことだった。でも、実際起こってみるまで分からなかったのよ。それに、そういった事になるなんて、今までの私では考えられないことだったから半分あきらめてた」
「……………」
彼女が何を言わんとしているか、手に取るように分かってしまった。僕は胸が苦しくなった。
「こんな私だから、誰かを好きになってしまうなんてこと。誰かを好きになって、そうしたら自分の体の不自由さが絶対に悔しくなっちゃう、普通の女の子と同じように振る舞えなくなる、そう想像するだけで私、苦しかったんだよ。この気持ち、君にはわかんないだろうけどね。あ、でも、今の言葉は皮肉じゃないの。他人には解らないことだけど、私はわかってるんだから、自分でけじめをつけなきゃいけない問題だって分かってる」
もうすっかり日が暮れようとしていた。街路沿いの電灯は蛍光燈が切れてしまっているようで、全然灯る気配がなかった。おかげで、僕らは雲が太陽をさえぎると、お互いの表情までは良く分からなくなってしまったほど、まわりは薄暗かった。
「さっきも言ったけど、全然恨んでない。こんな体からこそ、東京からここへ来れた訳だし、君にも会えたんだから。だから、悔しいの。そういった想いが芽生えるなんて想像もしなかったでしょ? だからね、悔しいの……。せっかく、こんなに、一緒にいてくれると、それだけでどんどん好きになっていく感じがするのに……」
彼女は心の気持ちが切れてしまって泣いていたんじゃないかと思う。でも、僕は彼女の顔を見ない様にして、ずっと海の方を向いていた。だから、彼女がどんな顔をしていたのかは分からなかった。それにこういう場合、どうしたらいいかが分からなかった。
それはきっと経験が教えてくれる事だと思う。だけど、僕にはまだその経験がない。だから、卑怯かもしれないけど、普段元気さを見せている彼女には、下手に優しくしないで黙って聞いてあげる方がいいと、僕は思った。だから、僕は何も言わずにずっと黙ったままだった。
「いままでズット病院に入りっぱなし。いいことなんてほとんどなかったけどね。でも、今まで生きてきて良かったことと良くなかったことを比率にすると三:七くらいかな? でもね、こっちにきてから逆転して九:一くらいになった気がするよ」
僕はガリッとリンゴを噛んだ。僕はどうすればいいんだろうか。何といえば彼女を傷つけずにすむんだろう。答えが見つからなかった。
「……黙ってるのって、こう言う場合は卑怯なんだよ、普通」
「……………」
「でも君の場合、なんかそっちの方がらしくていいよ。ありがと、黙っててくれて。もし君が途中で何か言ったら、私取り乱してたかもしれない……。君を思いっきりひっぱたいて泣き叫んでたかもしれない……」
彼女はずずっと鼻をすすった。目尻に溜まった涙もぬぐった。
「こんな話、じっと聞ける人ってなかなかいないよ」
僕は初めて彼女の顔を見た。彼女は僕を照れくさそうに見ながら、エヘヘと笑った。
「つよいね、君って」
僕は泣くことが弱いことだとは思わないし、泣かないことが強い証だとは思えない。
彼女の言うように、僕は精神がワイヤーロープでできているかもしれない。けど、それが僕の本質だとしても、僕にはそう考えたことがない。
しかし、それでも彼女を傷つけずにいられるんならいくらでも「強さ」の仮面をいつまでもかぶっていようと思う。それが本当の僕だとは思えなくても。
「リンゴ。甘くて美味しかった。今度は僕が買っていくよ、入院したら」
「うん」
もうすぐ彼女が、僕らと一緒に授業を受けれなくなることは知っていた。彼女の体は、もうこれ以上日常生活に耐えられなくなりつつあった。
僕らが座っている堤防の下まで波が押し寄せてきた。満潮まではまだ時間はあるんだなと思った。コンクリートにぶつかる音と海水が退いてく音が、僕らの間の、お互いが黙ったまま音のない空間を埋めてくれた気がする。それは優しいリズムと音だった。
「あのさ、もしも、の話だけど。今まで人前で泣いたことがないんじゃないか、お前って。だったらさ、今は泣いてもいいと思うよ。好きなだけ。僕は気がすむまでずっとこのままでいるから。泣けるときに泣いとくもんだろ? 人間って」
ずいぶん馬鹿で、つけすぎるくらいにカッコイイことを言っているんだろうか、と思った。だけど、それでもいいと思う。僕らの世代は大人じゃないし、子供でもない。そんな世代だから、好きなだけ自分を飾っても許されるはずだ。別に僕自身は自分を飾っているつもりはない。心からそう言っているつもりだった。
少しすると、嗚咽が聞こえた。その声はあっという間に大きくなって、泣き声に変わった。
僕が彼女の顔を横目で見ると、スーっと静かに最初の一適が頬を伝ったと思うと、次々に大粒の涙が流れていった。そして、突然僕に強く抱きついてきたかと思うと堰を切ったように大声で泣き出した。
僕の方からは、手を差し伸べることができないでいた。抱きしめてあげることも、手を握ってあげることも。ただ、僕は彼女が僕にすがって泣くのを黙って聞いていることしかできなかった。一度持て余してる左手を彼女の頭に伸ばそうとして止めた。触れてしまうと壊れてしまいそうに、目の前の彼女は脆いような気がしたのだ。
ザザー……
さっきまであんなに優しく聞こえた波の音が、今はとても耳に痛く聞こえる気がした。
「人前で泣くのって弱いことじゃないと思う。だから、別に誰の前でも泣いても構わないんじゃないかな。それが嫌だったらさ、また、ここにくればいいよ」
「グスッ……じゃあ、またここに来よう…。私がまた元気でいられるうちに」
その時、僕は彼女が電車の中で言った言葉を思い出した。
『私をからかった事、絶っっっっ対後悔させてやるんだから!』
それは確かに当たっていたかもしれない。でも、後悔はしてなかった。
だから、僕はそれ以上に彼女を好きになってよかったと思った。辛い話でも、人を好きになれたから泣かずに聞いていられたんだ。僕は、彼女が生きている間、絶対に泣くまいと心に決めた。
こんな時にでも、僕は心から思った。
彼女を好きになって本当によかった、と。
でも次の月曜日から、彼女はまた入院した。
――もう『次』という言葉はありえない最後の入院なのか――
それを暗示するかのように、すぐに緊急手術が決まった。そして、海に行った三日後、彼女は歩けなくなった。
暫定的に診断された病名は悪性腫瘍だった。
足にそれができるという話はほとんど聞いた事がない。だけど、現実に彼女の足にはそれが転移していた。結局右足が腿の半分から下が切断されたのだ。だけど、そんなことよりも大切なのは、もう、自分の足で立って、歩いて、走って、海を見に行けない事だ。あの日、最後に交わした言葉がダメになってしまった。「病気が治ったらまたここに来ようよ」と言った彼女が、もう約束を果たせなくなってしまった。
僕はそれについて責めたりはしない。でも、本当に残念だった。自分が行けないから哀しいというんじゃなく、言い出した彼女自身が辛いんだろうなと考え、それが痛いほど分かるから、思えば思うほど僕は辛かった。
僕は彼女の目が覚めているときに病室に入る勇気がなかった。眠ったのを看護婦さんに教えてもらって、それからやっと入る決心がついたくらいだった。意気地がないと言われても、僕にはどうしても彼女と言葉を交わすことができないでいた。
看護婦さんの話だと彼女は泣かなかったらしい。かといって呆然としていた訳でもない。普段どおり、今までと何ら変わりはなかったそうだ。
僕は思う。彼女は心の中で泣くなんて器用な真似はできない。だから、僕が会いに行ったら、その時に絶対泣いてしまうだろう。人前で喜怒哀楽の「哀」だけは見せた事がない彼女だから、僕には二人きりの時にしか彼女とは会えなかった。
だったら、僕はしばらく行かない方がいい。時間が経てば泣くような辛さはきっと無くなる。
一人で彼女を思って耐えた数日は、身も心もズタボロに切り裂かれた布切れになったようだった。
だけど、僕らはお互いにその時間を一人で耐えないといけなかった。それが、あの海で交わした約束の重みだった。
五度目の手術は成功だった。彼女の体の中はあちこち切り取って空っぽだという。実際はそんな事はないのだが、ドナーはいつもそう感じるらしいよ、と先生が言った。当然、僕は集中治療室に入った彼女とは顔を合わせる事ができなかった。大体家族もまだ中には入れないというのに、他人である僕が入っていけないのはもっともな話だった。ベッドに乗せられて点滴といっしょに運ばれていくとき、少しだけ彼女の顔を見る事ができたが、麻酔で眠っていたのでこれと言って感慨がわいたわけではなかった。ただ、そのほんの少しだけでも顔を見ることができた事が、昨日からのドタバタ劇で参りかけていた僕を少しだけ元気付けてくれた。彼女が運ばれて行ってホッとしたとき、自分の体が信じられないほど疲れていることに気がついた。こんなに体がだるいと思ったのは半年ぶりくらいだった。
だが、彼女はまだ意識不明で目を覚ましていない。手術前からの昏睡状態はまだ続いていた。
危篤だと言われるのは毎度のことで、その度におばさんは泣き崩れていたし、おじさんもおばさんを慰めるので精一杯という事の繰り返し。それが後何日続くというのだろうか。
その日、僕は結局午前中には家に帰されることとなった。まあ、当たり前といえば当たり前で、不満そうな態度を一応はとったが、僕も心の中でなんとなく納得していた。普通の人は頑としてでも病院に残ると言い張る人間が多いと思う。でも、僕は釈然としないものをどこかでは感じながらも、おとなしく帰宅の途についた。そうした方がいいと、僕自身が思っただけで、誰かに無理矢理そうしろといわれてやったわけじゃない。
なぜか自然と、そういうふうにその時思ったからだ。そう感じる僕の心は、一般的に『冷たい』と言うのだろうか? 少なくとも僕自身ではそうは思わない。それに、僕が側にいても何もできることなんてない。できることとできないことの見分けがつかないほど、僕は子供ではなかった。
自分が思った事、正しいと感じた事を実行に移しているだけに過ぎない。だから僕は馴れ合いのような薄っぺらい友達付き合いはしてない。
そういうのは好きじゃないし、何より『群れる』と言うのが嫌いだ。群れる事で必ず落ちこぼれが出てくる。そうじゃないにしても、落ちこぼれを無理矢理作る。大多数に入ったやつらは安心し、弾かれたやつは潰れて、また新しい標的が作られる、というしくみだ。
僕は小学生の中学年のときに同じような経験があったのを思い出した。班の中でいいようにからかわれ、仲間はずれにされた。その時僕はいじけたのでもなければ媚びを売ったわけでもなかった。純粋に悔しかったし、何でこんな目に遭わなきゃならないのかと心底思ったものだ。もちろん、そのころはいじめた奴等を恨みもしたが、今ではなんとも思っていない。大抵、いじけたやつは他人のご機嫌をとろうとしてしまう。だが、その状況を打開するには発想を逆転させてしまえばいい。
自分が人から恐がられる存在になってしまえばいいのだ。
そうすれば誰も関わってくるやつがいなくなる。そのためにあのころは殴り合いのケンカもしたし、人と口論になっても常に勝ちたかった。そうすることで僕はいじめの対象から外れていった。
そうやって、僕は知らず知らずのうちに人を傷つける人間になっていったんだと思う。そう考えれば、僕が人を遠ざけて冷たい目で見ていたのもわかる気がする。人を傷つける事を僕はなんとも思わない。僕の方から手を出すことは絶対にないから、相手が傷ついたとして、それは自業自得だからだと思っている。彼女に出会って、それで僕の心が多少はそのギスギスした雰囲気は緩和されたかもしれないけど、根本は何も変わってない。だって、トラウマとしてそれが残っているのに、跡形もなく消す事はできないからだ。
でも、それでも僕は大人になるにつれ、人との付き合い方を覚えていくと思う。そして、僕が人並みに優しくなったときには、彼女はきっとこの世にいないだろう。僕も、今回のことで覚悟を決めていた。昨晩の出来事は僕の甘い考えを打ち砕くには十分すぎるパワーがあった。
その夜、僕は布団の中で眠れない時間をそんな事を思い出したり、考えたりしながらすごしていた。たまたま次の日は日曜日だったから夜遅くまで起きていた。もちろん朝は惰眠と寝言を繰り返し、起きたのは昼前だった。それでも、カーテンの隙間から太陽の光がもれて入ってくる時間になっていたために不承不承起きただけで、そうでなかったら僕は夕方まで寝る羽目になってしまっていたかもしれない。
そうなったら僕は 100% 間違いなく、日本にいながらにして時差ぼけに苦しんだ事だろう。
長く薄い眠りを続けていたのでいまいち頭がはっきりせず、フラフラとした足取りで僕は階下へ降りていった。頭の中に重たい固まりが芯のように残っているような気分。顔でも洗えばすっきりするだろうと思って、僕は洗面所ではなく台所に行った。ついでに朝ご飯も食べるつもりだったので、都合がいいからだ。時計を見れば、とても朝ご飯といえるような時間ではなくて、僕は苦笑した。案の定、誰もこの家の中にはいないらしく、昼前なのに換気扇が回った跡も、コンロに火が入った後もない。
もはや、家庭崩壊と言うのもおこがましい。他人が同じ屋根の下でいっしょに馴れ合って暮らしているだけのような感じだ。僕も高校生になったら、どこかでアパートでも借りて一人暮らしでも始めるだろうと、漠然と考えていたりもする。そういう事になると、こんな感じでキッチンに立つという事がいつかは役に立つわけだ。
ぼんやりとしながら冷蔵庫を開けると見事なほどに何もない。あらら、と思いつつよく探すとサンドウィッチ用に買ってあったハムと卵、その他、インスタントなものばかり。まさかハムにマヨネーズを付けて、それだけです、というわけにもいかないと思ったので、牛乳とハムとを取り出した。今度は冷凍庫のほうを見た。が、こっちも何もないに等しかった。せめてトースターで焼く冷凍ピザくらいはあってほしかったが、希望は脆くも凍り付いた後に粉砕された跡のようだった。
「ん?」
ハムを咥えながら新聞でも読もうかと思ってテーブルの上を見ると、新聞のほかに僕宛ての手紙も姉貴のファッション雑誌に埋もれているのが見えた。名前の部分しか見えなかったが、どうせいつもの毎日のように来る塾関係の勧誘だと思ったので新聞に先に目を通した。
一面はアメリカでの地震の続報と、総理が中東に公式訪問したとか何とか。テレビ欄のほうも今は面白いのは何もやっていないようだ。仕方ないのでテレビをつけて新聞に番組が載っていないケーブルテレビのチャンネルにしてみたが、ウリである多チャンネルにもかかわらずろくな番組がない。仕方なく録画中継のメジャーリーグ中継にしておいて、今度は三面記事をちらほら読んで、最後にスポーツ欄を読んで、と、いつものお決まりのパターンを繰り返し、読み終わるころにはハムのほかに持ってきたパンも口の中に収まっていた。
しばらくやる事がないので、目では画面を追いながらぽけ〜っとしていたら、ガチャっと玄関が開く音が聞こえた。廊下を歩く足音の主が誰かはすぐに分かった。
「姉貴? 出てたの」
「あれ、やっと起きた? 朝からずっと起こしてたのに起きてくれないから買い物に行ってたとこ。今日安売りの日だったの思いだして慌てて買ってきちゃった」
そう言いながらビニールの買い物袋をポンポンとたたいて見せた。
「なんでそんな風にいちいち説明すんの?」
姉貴はビニール袋をテーブルの上に置いて一息ついた。
「あんたってば、私がいつも朝帰りしてるとか思い込んでるみたいだし。そうじゃないってとこ教えとかないと顔合わせるたびに何かいわれそうじゃん?」
言われそうも何も、ここの所そんなんばかりじゃなかったっけ、と思ったが、口に出すとまともなブランチにありつけそうにないので黙っておいた。家庭の台所を預かるものに逆らうべきではないのだ。やはり。
姉貴は近くのスーパーで買ってきたと思われる野菜類なんかの生物を冷蔵庫につめながら、思い出したように言った。
「そういえば、あんたに郵便きてたわよ。見た?」
「あ? ああ、あれね。どこの塾から?」
テレビの画面で、名も知らぬ腰回りがやたらと立派な黒人バッターが二階席まで飛ぶ大きなホームランをかっ飛ばしたので、それに目を取られながら言った。
「なに言ってんのよ。塾じゃないって。それにさ、あんたってば幼なじみいなかったよね? 特に女の子」
「ん〜、いなかったね。それがどうかした?」
「その封筒、女の子の字よ。あんたに手紙くれるような友達いるの? それとも彼女とか?」
「そんなんじゃないよ」
とか言いながら、実はそんなものなんじゃないかな? と心の中では思っていた。姉貴に話すと、僕の顔がトマトのレベルまで赤くなっても、まだしつこくからかい続けるのがオチだ。下ネタだろうがなんだろうが、関係なくつっこみを入れてくる。
それに『女の子の文字』というのがちょっと気になったので、僕はその封筒を手にとって見た。僕の名前や住所は紛れもなく、彼女の字だった。確信がイマイチ持てなかった僕は裏返してみたが、人目をはばかった様に誰とも名前を書いていない。慌てて表に返してみるとわざわざ親展だった。消印をよく見てみると、昨日。無性に何か嫌な予感がした。いや、むしろ、嫌と言うよりは何かがピィーンと来たっていう感じだった。すぐに僕はいても立ってもいられず、
「姉貴、僕、昼はいいから。ちょっと出てくる!」
と言った。彼女の字を見ていると、何もできなくとも、やっぱり彼女の側にいるべきなんだという気がしてきたのだ。
「ちょっと! 何!? 今、コンロに火いれたばっかりなのよ」
僕は慌てて二階へ駆け上がり、すぐに身支度をするとコートをつかんで、姉貴が止めるまもなく家から飛び出した。僕宛ての郵便の封を切りながら。
「馬鹿! ピッチ鳴ってるわよ! もう……」
姉貴は玄関の前で叫んでいたが、走る僕の耳には聞こえてなかった。
Pipipi…pipipi…pipipi……
「ん〜。仕方ない、アタシがでるか」
姉貴は主のかわりに電話の受信を押した。
「はい、もしもし……いえ、私はあのバカの姉で。はい…はい…今アイツは出かけてまして……はい…わかりました。帰ってきたらすぐに病院に電話させます。はい…はい…。目が覚めた? そう伝えればいいんですね? はい、分かりました。では、失礼します」
僕はタクシーを捕まえて大急ぎで病院へ向かってもらった。運転手さんも僕の剣幕に驚いたみたいだったけど、なんとなく雰囲気でわかってくれたらしく「よーし!」と言って、今は車を飛ばすように走らせてくれている。
封を切った封筒の中はもう一サイズ小さいきれいで紙も薄めの封筒だった。最初に届いたやつはどちらかというと、中身がわざと透けない様に厚い茶色の紙でできたのを選んだみたいだった。なぜなら、中に入っていた真っ白な封筒には、ペンで丁寧に『遺書』と書かれていたからだ。
それを見た瞬間、僕は凍り付いたようになってしまった。でも、それも一瞬の事だったが、暖房の効いた車内でも僕の背中や脇の下はじっとりと汗ばんでいるのがわかる。
恐る恐る震えた手で封を切って中身を見ると、三枚の便箋が収まっている。それもちゃんとしたまっさらの正式なもので、間違ってもキャラクターの入ったような安物ではなかった。
中身はこんな風に始まった。
「 前略
このような形で筆をとったのは、私が気持ちの整理をつけておきたかった事、そして何よりあなただけには何か特別なものを残しておきたかったからです。私は今すぐ容体が急変したりする事はないと思っています。けど、それもいつくるかわからないので元気なうちに書いて置こうと思いました。誤解しないでほしいのは、これは私と二度と顔を会わせられなくなったときに読んでほしいのではありません。生きているうちに、顔を合わせられるうちに読んでほしかったんです。だから、遺書と銘打っていても本当はそんな内容を書いていないと思います。堅苦しい内容はここまでにしますね。
やっぱり私はあなたの事が好きです。「出会えてよかった」とドラマの台詞で言ってたのをちょっと馬鹿にしていたけど、自分がそういう立場だとすごく素敵な事のように思えます。初めて会って半年、側にいてくれるようになってから三ヶ月も経っていないのにね。ちょっと不思議です。
そう考えると私たちは本当に幼い恋人でしたね。いえ、恋人と言うのもおこがましいほどでした。けど、私の心をここまで開いたのはあなただけです。私の目には初めて会ったときからずっとあなたはどこか寂し気でした。ですが、とってもまっすぐな生き方をしてましたね。不器用とも言えちゃいますが。
今まで私に接してくれた人達はいつも遠慮があったけど、あなただけはそうではありませんでした。今となってはずいぶん前の事だけど、叱ってくれたときもあったし、いっしょに笑ってくれたときもありました。けど、私と違って絶対に泣かない強い人でした。私の両親と比べても『この人のほうがよっぽど大人なんだ』と思っていました。あなたが泣かないのは心がさめているからじゃない、強いからです。私には分かります。あなたがいくら「違う」と言っても。だから、自虐的になるのは止めてくださいね。これは私からのお願い。君が自分を責める姿を見ていると、私もつらいんです。
そして、病院のベッドで寝るのが恐くなくなったとき、私は嬉しかったです。今でも。今まではずっと死ぬのが恐かった。私が生きてきた証を誰も残してくれないかもしれないと思うと、怖くて怖くて、何度布団の中で震えたか分かりません。お父さんやお母さんだって、私は今一人っ子でも、今からでも二人は生きていけるし、子供だって産めます。そうすると、私は病院で死んだ短命の少女としてしか今まで生きてきた証が残りません。でも、今はあなたが覚えていてくれると、根拠もないのにそう思えるのです。先の父達と同じようにあなたも私の死後、新しい女の子を好きになってしまうとそれまでだと思います。でも、不思議とあなたは私の事をいつまでも想っていてくれるような気がするんです。これはただの妄想少女の戯言かもしれませんが、そのおかげで私は今、生きていて恐くない、楽しい、嬉しいと思えます。
きれいな格好でデートしたいとか、お化粧した私を誉めてくれるとか、そういった事は望んでませんでした。それは今でも思っています。病室にあなたがいてくれるだけで私は心強かったです。もしも、迷惑でなかったらずーーーーぅっと私の側にいてくださいね。
ただ、一つ残念なのはあなたの口から私の事を『好きだ』と言ってもらえなかったのが残念です。催促ではありませんが、それだけがチョットだけ心残りです。こう書けば言ってくれる? 自分を好きになれないと人を好きになれない。何かの本でそう書いてあったのを見た事があります。いい言葉ですね。私もそう思う。私は自分の事が大好き。
じゃあ、あなたは自分の事、好き?
なんだか遺書っていうような内容じゃなくなっちゃいましたが、これが私なりのやり方なんです。今までありがとう。
これからもよろしくね。
これを読んで病室にきたあなたが『なんだよこれ』って怒りながら入ってくる姿が目に浮かぶようです。なんか、こうやっていると生前葬みたいね。あ、書きながら思ったけど、これはそういうのものにしておきます。
最初で最後のラブレターをあなたに。
でも、また書けるなら、それは私が生きている証だからもう一度書きたいです。
今度は遺書なんて書かず、キチンとハートマークをつけてね。
バイバイ。それじゃね。
あなたの MY LITTLE LOVER より 」
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『 MY LITTLE LOVER 』
これは僕が一度だけ以前に彼女の前で使った言葉だ。
何気なく「僕たちって MY LITTLE LOVER かな?」と言った事がある。その日の前の晩にラジオでマイラバの曲を聞いていたのでフッと思いついて言った。それは彼女が少し眠たくて、ウトウトしていたときに言った言葉だ。それを彼女は覚えていてくれた。
だが、僕はそれ以上にもっと大切な事をしていなかった。彼女に僕から気持ちを伝えていない。彼女の手紙のとおり。意気地がなかったともいえるし、なあなあとしたまま時間だけが経ってしまったというのもある。だから、彼女が生きているうちに。どうか、もう一度目を覚ましてほしい。僕は彼女が好き。それを言葉で僕の口から伝えないといけない。だから、どうか、もう一度だけでいいから……。
『先生、彼女は目を覚ましますか?』
『すまない。私にもそればかりは分からない。……彼女は今植物人間状態なんだ。CTスキャンなどで見ると頭部まで腫瘍ができていたから手術が長引いたんだよ』
『まさか、体は生きてても精神は死んじゃってるって事ですか!?』
『いや、そうじゃない。彼女は生きてるよ。これは間違いない。だが、意識が戻るのは明日か、それとも今すぐに目を覚ましているかもしれない。それと同じように十年後、いや、一生目を覚まさないかもしれないんだ』
『そう、そうですか……。じゃあ、病気のほうは完治したんですか?』
『今のところはね。将来的に再発するかもしれないが、現在は大丈夫だよ。さ、これくらいにして早く帰ってゆっくり寝るといい。何かあったら私から連絡するから』
『わかりました。あ、これ僕の PHS の番号です。なるべくこっちにお願いします』
『わかったよ。じゃあ』
病院の前で先生はこう言って僕を見送ってくれた。そう、彼女は死んでいない。ただ、口をきけないし目を開けれないだけだ。ちゃんと生きてるんなら僕の声だって聞こえるはずだ。病室に行ったらすぐに言おう。おばさんやおじさんがいても関係ない。今くらいはいつも着けている仮面を取り払って素直になってもいいはずだ。なぜなら今日は…。
「あ、雪ですねぇ」
運転手さんがそう言った。僕も窓の外を見ると高速道路の高架橋の向こうに白い虫みたいなものがひらひらと舞っていた。北海道では雪が降る前に白い虫が飛ぶというが、その虫はこんな感じで空を飛ぶのだろう。ひらひらと風に流されて、まるで踊っているように見えた。
「今日はイブですからねー。風情があっていいですよ。あとは風がなきゃいいんだが」
独り言のように言ったので僕もあいまいに相づちを打っておいた。
「そうか、イブか。今日は」
僕も誰に言うとでもなく、流れる街を横目に呟いた。
いつのまにか焦りが消え、不思議と心が晴れていた。身近な人の死に恐れを抱く事もなく、焦りを感じる事もない。残った時間が貴重なように思えるし、今はそれを無駄にしたくないといった感情でいっぱいだった。
今日はちゃんと彼女に面と向かって言おう。意識の有無は関係ない。喋れなくとも、目を開く事はなくても、それでも彼女は今生きている。それなら僕の声が聞こえるはずだから。焦る事はないんだ。
「あの、すみません。ちょっと寄ってもらいたい所があるんですけど、いいですか?」
「あん? 兄ちゃん、急いでんじゃないの? さっき、すごい剣幕だったじゃないか」
「まあ、ホントは急いでたけど、その必要もなくなりました」
ちらっと運転手さんは僕と、手にしていた手紙のほうを見た。
「ふ〜ん。まあ、そういうなら俺はいいけどね。いいよ、で、どこ?」
「おいしいリンゴを売っているお店に」
「了解。それとさ、話は変わるけどよ、兄ちゃん。あんた、今いい顔してるぜ。乗ってきたときと比べると大違いだ」
斜め後ろからでも運転手さんがニヤッと笑ったのが見えた。
僕もつられて笑顔を浮かべた。
うん、それもいいかもしれない。こういった雰囲気の会話も。こんな手紙も。僕の今の気持ちも。あと、残っている全ての時も。彼女の存在すべても。
車窓から見上げれば、一面を真っ白な雪が覆っていた。
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Ending //