MY LITTLE LOVER
(Real Version)


- Ending -







 一度だけ彼女は目を覚ました。だが、残念な事に僕はその場に居合わせていなかった。その事を知らせる電話が姉貴がでたあの PHS だったから、僕がその事を知ったのは病院に入って病室を開けたときだ。
 今では限られた人にしか面会は許されていなかったが、それでも集中治療室から一般病棟に移ってきていてくれたのはなんとなく嬉しかった。それに、そっちのほうが病院へ来るのに心構えをしなくてもすむ。
 僕が病室内へ入ると、関係者がすべて勢揃いしたという感じでベッドを囲んでいた。彼女の家族を始め、先生、看護婦達が僕を見ている。集まる視線を一心に浴びているので信じられないほど居心地が悪い。だが、それの理由も何と無く分かった。先生が黙って僕に二つ折りにされた一枚の紙をすっと差し出したからだ。
『嘘からでた真になっちゃいましたね。でも、楽しかったです。さよならはナシにしておきますね。メリー・クリスマス! また、私に笑顔を見せて下さい』
 よれよれの汚い字でそれだけが書かれていた。力を振り絞った彼女の字だった。
「バカ、何がメリー・クリスマスだよ。そんなことより自分を心配しろよ……」
 僕はうつむきながらそう呟いた。
「最後にそれをって彼女が。あと、もう一つ君宛ての伝言があるんだ」
 相変わらずみんなが僕をじっと見ている。それらに気がつかない振りをして、先生の言葉をじっと待った。
「なんですか?」
 自分でも少し声が震えているのが分かった。しかし、心は落ち着いたままだ。無心に近く、今は何を言われても感じない気がした。
「『私の命はあの人に預けてください』だそうだ。医師として結論を言おう。彼女はもう目を覚ます事はない。今はいろいろな装置で無理矢理『生かされている』だけだ。生きているんじゃなく。だから、家族の意思で装置を停止させる事ができる。それは自然死として認められるからね。わかるね? 言っている意味が」
 僕は黙ってコクっとうなずいた。
「よろしい。今すぐに決めろというのも無理だろう。親御さん達も君の判断に任せるそうだ。しばらく時間をあげるからゆっくり考えなさい。最終的に判断を下すのは私だが君の意見が聞きたい」
「あの……先生、お願いがあるんですがいいですか?」
「うん?」
「少しの間、僕だけにしてくれませんか?」
 少し考えたふうだったが、先生は「わかった」と短く言い、おじさん達も僕と目を合わせない様に出ていった。他人に娘の生死を預ける親の気持ちなんて考えたくもない。だけど、そんなにつらい判断を他人に責任ごと負わせたくなるのも少しわかる気がする。十五年間、ずっと二人は娘に振り回された形で今日という日を迎えたんだから。辛い日々は僕の想像を絶するはずだ。
 足音が消え、ドアが閉まる音がした。僕はベッドの隣の丸椅子に座って、物言わぬ姿に変わり果てた彼女に語りかけた。
「今日もリンゴ買ってきたよ。ほら、いい香いだろ? 食べられないから棚の上に飾っておくよ。それなら香いだけでもかげるだろうから。それにさ、今日はイブだったんだな。あっという間に今日がきたような気分がするよ。それに今は雪も降ってるんだ。めずらしいだろ? ホワイトクリスマスって。ここ数年そういうのなかったし」
 ブラインドをすっと開けると、曇り空と、しんしんと降る雪が見えた。
「ほらね。あ、見えないか」
 彼女はいろいろなパイプや管に雁字搦めになっているようで、さらにいろいろな装置が彼女を被っていて彼女自身は身動きがとれないのだ。そもそも、意識が戻っていない。だけど、僕は彼女に普段通りに接しようと決めていた。そうしないとある衝動に耐えられそうになかったのだ。
 いつもなら「イジワル!」とか言いながら枕を投げられていてもおかしくない。だけど今は、小さな胸を上下させながら息をしているだけだ。
「あのラブレターの答え、ちょっと遅いけど言うよ。僕は自分の事はそんなに好きじゃない。むしろ嫌いかもしれない。間に合わないかもしれない。でも、これからは好きになれるようにがんばってみるよ。君みたいに完璧に自分を好きにはなれないかもしれないけど、努力する。約束するから……」
 そっと、手を握ってみた。温かかった。これこそが生きている証だ、と思った。血が通ってるじゃないか。こんなにも彼女の暖かさは生々しいじゃないか。これが生命を燃え尽きさせようとしている人間の手な訳がないじゃないか。
「僕は生きている間、ずっと忘れる事ができないと思う。時間が経っても、別の誰かを好きになってもずっと。だけど、そういうのってズルイよな。先に逝っちゃうのって。残された人の事考えろよ。そう思えば今まで生きてきた物が無駄になってないって分かるだろ? 少なくとも、おじさんやおばさん、それに僕の心の中には、薄れていったとしても消えることなくいつまでも残るんだから。サイコーだよ、お前って。性格も、生き方も、僕を好きになった事も、何もかも。最後の最後まであれだもんな。メリークリスマスだって? ハハハ、まったくもって最高だ」
 ほんの僅かにぎゅっと手を握り締めた。僕ではなく、彼女が僕の手を、だ。握られた手は力が込められていないのに痛い。彼女の手はまだ温かいのに。
「僕も言わないつもりだったけど、僕は言うよ。辛くても前を向いてないといけないって思うから」
 反対の手が痛かった。握りすぎて、爪が手のひらに食い込んでいた。でも、血の暖かさよりも、手のぬくもりのほうが優しかった。
「さよなら……」
 全部を言わせまいとしてか、僕の手を握る彼女の力が少し強くなったような気がした。
 僕は言葉に詰まった。そこで耐えていたものが限界を超えてしまった。あふれ出てくる感情が、僕の体を震わせ始めている。
 気がつけば、僕は名残を全部振り払うように病室を飛び出していた。
 病室を出ると、先生だけが一人扉の前で待っていた。
「もういいのかい?」
「ええ、もう最初から決まっていましたから」
 僕は顔を見せないようにこたえた。
「そうか……。ではどうする? こう聞くのは大人として卑怯だと思うよ。君に人の命を背負わせているんだからね。その気になれば私の独断で生かし続ける事も今すぐ殺す事もできるが、やっぱり私も判断する事ができないんだ。こんな時、常々医者という生き物は因果なものだと思うよ」
「僕は彼女がしたい様にしてほしい。それだけです。死にたくない、彼女はそう思ってたはずですけど、ずっと『他人に迷惑かけるならさっさといっちゃった方がマシ』って言ってましたしね。僕としてはずっと側にいてあげたいけど、それは喜ばないでしょうから」
「それじゃ、いいんだね?」
「……よくはないですけど、僕は決めたんです。おじさんやおばさん達がやっぱり最後に決めてください、って伝えてください。僕はこういうふうに言ってましたって」
「君は特別に立ち会う事もできるが、どうしたい?」
「卑怯だけど、僕は人が泣く姿を見たくない。そういう所に居たくないんです。すべてが終わったらまた呼んでください。待ってますから」
「わかったよ。何度も言うようだけど、すまなかった」
「いいんです。これでよかったんだと思います。彼女がやりたかったこと、全部僕が聞いてあげれましたから。満足はしてないかもしれないけど、彼女に心残りはないと思います」
 実を言えば……
 そう言いかけて僕はやめた。
 僕もあんな姿の彼女は見たくない。
 先生とは逆方向に僕は歩き出した。
 長椅子においてあったコートを取って非常階段に向かった。あそこなら、小高い丘の上のこの病院だから街もよく見えるだろう。太陽もどんよりとした薄暗い雲のせいで光を地面に届けていないし。冬至に近いのも手伝って、もうあちこちでは電気を灯しているだろう。
 ガラス張りの扉を開けると、風がビュォっと僕にあたってきた。階段の手すりの前でコートを羽織って街を見下ろした。時計は確か、もう、五時を回っていた。日はすっかり落ちて夜景が目に染みるようだった。
 解けた雪でぬれた手すりに体重をかけながら僕はぼおーっと遠くを見ていた。きっと、今ごろ先生が彼女の死を宣告して、おばさんが泣き崩れておじさんがそれを慰め、それにつられるように今まで世話をしてきた看護婦達もすすり泣いているんだろう。
 そう思っても僕は何も感じなかった。また、心が冷めたんだろうか? 彼女に出会う前の僕に戻ったかのように。それとも、違う何かがそうさせているんだろうか? 今はわからない。けど、何時かは分かるだろう。街を見下ろした。電車が、車が、バスが、渋滞でのろのろとしか進めていないので、さぞかしみんないらいらしているだろう。僕を乗せてきた運転手さんは違う事を思っているかもしれない。
 僕はもう一つ買っておいたリンゴをコートから引っ張り出した。一緒に彼女からの手紙も出て、少し積もった雪の上に落ちた。僕はそれを拾い上げて、またポケットの中にしまった。リンゴは運転手さんにも三つ買ったうちの一つを分けてあげたから、これが最後の一つがこれだ。輸入物みたいに毒々しい赤ではなく、それでいて桃みたいに淡い桃色でもない。緑が残っているところもないきれいなリンゴだった。彼女が一番好きな色の蜜リンゴ。
 少し空にかざすと白い雪をバックによく映えた。色のない世界に一つの色。明るさのない部屋に一つの場違いのような赤。誰とも知らないまったく他人の中にある思いの色。
 雪の世界に一つ。人の命が消えたところに一つ。いろいろな人が乗るタクシーの中に一つ。乗った人はその鮮やかさに驚くんだろう。それをあの運転手は何故か「してやったり」の表情で笑顔を振りまくんだと思う。「いいでしょう、これ」とか言いながら。病室のおじさん達は香ってくるものに励まされるかもしれない。
 そして僕は。
 好きという色は、ホントは赤なのかもしれないと思いながら、僕はそのリンゴにかぶりついた。どんな味がしたのか、よく分からなかった。しょっぱかったのかもしれない。よく分からない。なぜなら、僕は手すりにすがりながら声を殺して泣いていたからだった。立っていられなかった。膝をついて、もたれかかりながら泣いた。泣きたいのを我慢するのがこんなにも辛いことだったのだと初めて知った。海ではあんなに甘かったリンゴなのに。知らず知らずのうちに彼女の手紙を握ってグシャグシャにしてしまっていた。指が寒さや冷たさに関係なくカタカタと震えていた。そんな指で便せんを時間をかけてまっすぐに伸ばした。
 溢れんばかりの文字が僕の目に飛び込んでくる。
 僕はこの一行を見たとき、一段とやるせない思いがこみ上げてきた。後悔ばかりが先に立って、もうそれ以上手紙も外の世界も見ていられなかった。目を閉じ、すべてを拒絶したかった。

“私は自分の事が大好き。じゃあ、あなたは自分の事、好き?”

 白く、優しく降り積もってゆく雪。
 無彩色の世界が僕をそっと包んでいった。まるで、彼女が僕を抱きしめているように。どこかへ行ってしまう前の名残を惜しむかのように。
 優しかったんだな。あいつは。こんな僕にも優しくしてくれるんだ。
 そう思うとまた涙が止まらなくなる。僕は我慢しなかった。彼女が「我慢しなくていいよ」って言っているように思った。
 彼女の言葉に応えてあげられなかった。それが悔しくて哀しくて情けなくて、全部の感情がごちゃ混ぜになってしまっていた。あふれてくる申し訳なさと、自分のふがいなさに胸が張り裂けそうだった。

「ごめん」

 言えなかった。
 大切な一言が、「好きだった」って、その一言が言ってあげられなかった。
 ごめん、僕は強くないんだよ。
 そう何度も何度も呟きながら、たった一言を言えなかった後悔を胸に、僕はうずくまって泣きじゃくることしかできなかった。

 雪は僕を包みながら、とめどなく降り積もる。
 それはふがいない僕にも暖かく、世界を優しさで白く染め続けていった。












FIN





















// Postscript //