抜塞


白石 昇

 オトーサンがニホン人でホントに良かった。

別にサベツするわけじゃないけど、オカーサンがニホン人でオトーサンがタイ人だったら、ボクの人生ゼンゼン変わっちゃってるよね、きっと。赤いパスポートももらえないし。どこへだって行けるんだ、これ持ってるだけで世界中。でもさ、このパスポートってニホンを象徴してるよね、子供のオモチャみたいに薄くって。オカーサンや、昔ボクが使ってたタイのパスポートに比べると、ポール・マッカートニーとポール牧くらいの差があるよ。ボクの個人的な意見としてはポール・マッカートニーよりはポール牧の方が好きなんだけど、そんな事はこの際大した問題じゃない。世間的にはそのくらいの違いがあるってこと。まったく、世界第二位の国のパスポートだとは思えないくらい、薄っぺらで、コレってなんか悲しいよね。

 その有効性の割には悲哀あふれる貧相な赤いパスポートをボクは時々持って外出する。特に夜。暗い中で見るボクの顔はどうしてもニホン人に見えないらしくて職務質問される事があるから。でも、おかしいよね、警官に呼び止められるようになったのって、つい最近からなんだ。やっぱりバブルが崩壊しからかなぁ、勝手だよねまったく。労働者が足りないときは外国人が不法就労してても見てみぬふりしといて、いらなくなったらキビシク強制送還しちゃうんだもん。でも、ボクには、ビザは必要ない。なんたってバリバリのニホン人だからね。このあいだもコンビニでママーのスパゲティと缶入りミートソース買って帰る途中、おまわりさんにいきなり、外国人登録証とパスポートを見せろ、って露骨な命令口調で言われたからちょっといじめてやろうと思って、ハーフだからよく間違われるんですけどボクはれっきとしたニホン人です。おまわりさん、名前を教えて下さい、って言って赤いパスポート見せたら、慌てて敬礼して本官は……、って名前を言った後、失礼しましたぁ、って言って深々と頭を下げてた。いくら公務員が仕事中に名前を聞かれたら答えなきゃなんない義務があるからって、敬礼までさせたのは可哀想だとは思ったけど、彼もボクがウエスタンかブラックとのハーフだったらビビッちゃって間違いなく、外登証とパスポートの提示なんか求めないだろうし、たとえ求めたとしても、もうちょっと等級が高いやさしいニホン語でたずねただろうから、少しくらいイジメてあげたってバチはあたんないでしょ。まあ、おまわりさんが取った態度はニホン社会でとどこおりなく生きていくために潜在的にかかえておかなければならない、ある意味で健全なアジア人に対する、サベツ意識だと思うから、そんなに腹は立ってないけどね。怒ったってしょーがないもん。ホンネとタテマエってやつだからね。



 千策君へ



 千策君からのメール、いつも楽しみにしてます。返事が遅くなってごめんなさい。千策君からの返事が早いので、いつも驚いています。私は最近、勉強と文芸部の締切に追われてて、なかなかネットにアクセスする余裕がありません。部活の原稿をワープロで打った後に国語の勉強なんかしちゃうともう大変です。手書きとタイピングが頭の中でごっちゃになってしまってメール打ってても混乱してしまってなかなかはかどりません。

 かと言って部活の原稿打った後にメール打っちゃったりしても頭の中に前打ってた原稿の余韻が残っているので、メールの文章がなんかぎこちなくなってしまうのです。

 だから、このメールも一度手書きで書いた後にパソコンで打って作ってます。

 本当に、私はなんて不器用なんだろう、って思います。

 だから、返事が遅くなっても怒んないで下さい。

 最近、エミリ・ブロンテの『嵐が丘』を読みました。良かったです。人に対するな感情が一途であればあるほど、それは強い憎しみに変わるし、その憎しみは人を好きになる事と全く同じだ、という事をこの本から学んだような気がします。

 部活で出す雑誌には、私は小説は書きません。他の人たちはみんな、小説を書くんだけど、『嵐が丘』のようないい小説を読んでしまうと、私が人に伝えられるのはごく限られた事だけであって、人の感情の奥まで書き切る事なんか出来ないんじゃないか? とさえ思えて、書く気が失せてしまうからです。

 でも、私は別に小説を書きたいとは思っているわけじゃないから、出来るだけわかりやすい日本語の文章で、エッセイを書くように心掛けています。

 でも、千策君の手紙って、とてもいい文章だと思います。

 空手道の部活や勉強をちゃんとやりながら、こんなに短い時間で私に返事を出せるなんてスゴイ、といつも思っています。

 また、遅くなるかもしれないけど、返事は必ず書きますのでお返事下さい。それでは。



 P.S 夕食がスキヤキだったのでまだ家の中にその匂いがします。



             かな子より



 ボクはネットにアクセスしたその日のうちに『嵐が丘』を買いに走り、一晩で読み終えた。そしてその感想と返事が遅れても別に気にしてないという事と、春の新人戦で3位になったという事をネタにメールを作り、かな子のメイルボックスに転送しておいた。ボクのリターンは速く、彼女のリターンは遅いが、今のところ、ラリーは確実に続いている。ボクにはスマッシュする気など毛頭ないし、彼女がミスする事はない。見えない相手との電話回線を通してのテニスの様なメイルのやりとりは、ボクの生活の中で、大きな楽しみのひとつだった。

 かな子と僕は、実際に会った事はない。だいたいがきっかけがパソコン通信のネットの中だから、だれに紹介されたってワケでもない。他人に紹介してもらうほど女の子に不自由してるワケじゃないし、自慢するワケでもないけどボクと付き合いたがってる女の子はけっこういる。モテないワケじゃないんだ。でも、そんな子達とつきあったって大抵、外見で性格とか考えてることとかわかっちゃうからね、つまんないもん。会ったことがない子とコミュニケーションをとってつきあい始めるなんてスリリングでなんとなくイイと思わない?

 パソツーを初めてからいろんなフォーラムにアクセスしてたけど、そのうちにつまんなくなっちゃって、なんとなく伝言板に出しちゃったんだ。当方十七歳の男子高校生です。首都圏に住む女性、メール交換しましょうってトラディショナルな文章をね。『ティーンズロード』の文通コーナーには遠くおよばないオーソドックスな求人文句だけどさ、けっこう来たんだよね、けっこうって言っても五通くらいだけど、若いツバメ目的の四十歳とか、コンピュータ・ゲーム好きの小学生とか国技館まで一緒に相撲を見に行ってくれる男を探してる中学生とか高田延彦ファンのプロレスマニアとか、もっとも、こいつは男だったけどね。その中にかな子がいたんだ。ボクは一応、プロレスマニアのホモ野郎は無視して残り四人全員にメールを出したけど、趣味が合わなかったのか、三人とも何回かやりとりするうちに返事が来なくなっちゃったんだ。 かな子とは特に、そう話が合うワケでもなかったけど、メールからにじみ出てる、中庸性ってのかな、どんな話題にもちゃんと自然に好奇心を示して来るから、楽しく今まで交流が続いてる。文芸部だってのも気に入ったしね。なんかホラ、いいじゃん今どき、時代遅れでさ。でも、返事が来なくなった他の三人だけど、なんか、困ったよね。書いて来る事が見事に片寄ってて。ほとんどメールには自分の興味ある事しか書いて来ないんだよね。まあ、ボクもかな子と同じようにナチュラルな好奇心ってのには自信があるから、どろどろしたフラストレーションとシンプルなイマジネーションにまみれた四十女の性的願望や『バーチャファイター2』のリオンの必殺技や、若の花の重く安定した足腰について書かれた手紙を読むのは、それはそれでそれなりに楽しかったけど、彼女たちはただ、ボクに向かって言葉を書きつらねるだけでボクが何をメールに書こうが、そんな事はどうでもいいらしく、まっとうな反応がなかったんだ。いわゆるマニアって言われる人に属するんだろうけど、同じような人、けっこうこの国には多いと思う。

 ところでボクのオトーサン、ボクサーだったんだ。ボクシングって言ってもタイのやつね。日本で言えばキックボクシングってやつ。オトーサンが現役バリバリの頃は業界が全盛期の頃で、オトーサンもぜったいに日本チャンピオンくらいになれる力はあったんだけど(別にこれはオトーサンがそう言って自慢してたワケじゃなくて、ボクが昔の資料から調べたんだからまず間違いない。ボクのオトーサンはおとなしい人で、昔の事を自慢したりはしない。ちょっとくらいしてもいいと思うんだけどなぁ)何を思ったか本場のリングで力を試してみたくなったらしくて、ひとりでタイに行っちゃったんだ、そこでオカーサンと知り合ってボクが生まれたってワケ。一応、王室系のスタジアムでランキングに入ったらしいけど腕を骨折するクセがついちゃって引退。それ以来試合はしていない。何か変わってんだよね、ウチのオトーサン。日本にいれば確実にチャンピオンになれただろうに、なにもわざわざレヴェルの高い所に行って安いファイトマネーで殴り合いするこたないじゃん、ってボクは思うし、ボクだったら絶対、そんなコトしないね。当時、キックのチャンピオンの結婚式がテレビでやってるような時代だったからニホンにいてチャンピオンになってれば、ボクんちももうちょっといい暮らしできただろうな。ホントに変わってんだ。ウチのオトーサン。ボクの名前付けたのもオトーサンだし、なんでもこれ、オトーサンがあこがれてた天才ボクサー。センサク・ムアンスリンから取ったんだって、オトーサンはそれ以上説明しないから、ボクが自分で調べたんだけどセンサク・ムアンスリンってホントにスゲェ天才だったらしい。タイ・ボクシングから国際式ボクシングに転向して、三戦目で世界チャンピオンになっちゃうし、大事な試合の前に減量のためとか何とか言いながら女買いに行っちゃても余裕で勝っちゃってたらしいし、ゴーキだよね。ニホンにも来た事があって、今はホラ、スピルバーグ作品にも出てる国際俳優のガッツ石松さんとも試合したらしいけど見事にKO勝ち。ガッツさんだって煙草と女やめないで世界的に層が厚いライト級の頂点に昇りつめたヒトだからニホンではめずらしいくらいの天才だったんだけど、やっぱりセンサクとはケタが違う。だから、ちょっと変かもしんないけど、ボク、この名前案外気に入ってる。話が横にそれちゃったけどウチのオトーサン、今は建設会社で現場監督やってる。いちおー係長だか課長だか役職はついてるみたいだけど、まあいわゆるブルーカラーだね。あんまりしゃべんないひとだから、ボクにだって良くわかんないんだ。オトーサンは仕事もかなりできるらしくって、年賀状なんかスゲェ数が来るほど会社じゃ人望厚いらしんだけど、なんか要領悪いみたい。根っからひとりで戦うのが好きなんだろーね。きっとひとりで部下の仕事までしょいこんじゃってるんじゃないかなあ、帰り遅いし。なんか、密度の濃い時間送ってないと気にくわないタイプの人なんだろーね。酒も煙草もやんないし、しょっちゅう日本全国現場に出張してるし、まあボクのやることには何も口を挟んだりしないし、命令はしないから、いいひとだよ。仕事しかやんないけど、なんか一生懸命にやってるってのはわかるし、なんつっても本場でタイ・ボクシングの王室系ランキングに入るってのは本当に難しいことだからボクとしては、ウソいつわりもなく正直な気持ちで尊敬してるよ。でもボクはせっかくこんなニホンっていー国に住んでるんだから、社会のしくみっていうのかな、それを理解してさえいればオトーサンみたいにエネルギーを使わなくてもいいポジションにつけると思う。ポジションさえキープしとけば後から人やお金はついてくるし、なんとなく形になっていくもんさ。でも全くエネルギーを使わないってわけじゃないよ。ニホンっていう国のしくみを知るためのエネルギーは最大限に使うさ。でも、本当に、オトーサンみたいに目の前に与えられた仕事に濃い密度のエネルギーを費やす必要はないんだ。そうしたからっていいポジションをキープできるわけでもないし、逆にそうする事によってポジションが悪くなってしまう事だってあるからね。もしかしたらそっちの方が多いかもしれないね。ショージキ者は得しないように出来てんだよ、ニホンではきっと。オトーサンのせめて、四分の一だけでいいからいいポジションのキープにエネルギーを注ぐ、それだけで十分だと思うよ。



  千策君へ



 もう『嵐が丘』読んじゃったんですね、すごいなぁ。

 私は読み終えるまで一週間くらいかかりました。やっぱり勉強とか部活の原稿があるから、通常の時とか、夕食が終わってボケッとしてる時とかに少しずつ読むんで、とぎれとぎれになっちゃうんだけど千策君みたいに一気に読めたら感じ方も違うだろうな、って思います。

 それから、新人戦で三位になったそうですね、おめでとう。

 私は空手道の試合を見た事がないし、まわりにやっている人もいないので、どういったものかわかりませんが、一度、見てみたいと思います。きっと千策君、すごい強いんでしょうね、私の学校は女子校で頼もしい男の子がいない(頼もしい女の子? は何人かいますが)ので友達にそんな男の子がいることがうれしいです。

 学校にはカソリック系だからなのか、空手道部なんかないし、日本の武道といったものを体育の時間にやったりすることもありません。おかしいなあ、武道は文部省の指導要領でやるように定められているのに、って私は思うんですが、他の女の子は何も疑問に思っていないみたいです。

 きっとやりたかったら、学校に関わらないところで、自分で勝手にやれって事なんでしょう。

 でも、自分で主体的にそういうところを探してやるだけのエネルギーはありません。きっと、それだけの情熱がない、って事なんでしょうけど。

 ところで私は今、レゲエに夢中です。レゲエっていっても最近流行ってるラップが混じったものやヒップ・ホップ系のものではなくて、もっぱら、ボブ・マーリィだけを聞いています。彼の、政治的なメッセージを含んだ曲もたしかに心に訴えるものがあっていいんですが私は、『イズ・ジス・ラブ』や『カヤ』、『ワン・ドロップ』など、純粋なラブ・ソングや音楽や自然に対する彼の感性が反映されたものが好きで、毎日、家に帰ると流しっぱなしにしてます。もともと、お母さんのコレクションの中に『アップライジング』っていう彼のアルバムがあって、それを聴き始めたのがきっかけなんだけど、いろんな曲があって今、一生懸命CDを集めてます。お母さんと二人で夕食を摂りながらボブ・マーリィーを聴いて肩をゆするのでお父さんは何だかさびしそうでしたが最近、仲間ハズレにならないように通勤途中にウォークマンでテープに録ったやつを聴いているみたいです。

 ウチのお父さん、負けずぎらいで面白いでしょ。きっと私やお母さんと一緒に夕食を摂りながら肩をゆすりたいんだと思います。

 それでは、また返事下さい。部活がんばってね。



 P.S 今日はお母さんお得意のインディアンカリーでした。お母さんの友達が貿易やってて、マサラ(スパイス)もインドから取り寄せた本格的なものなんですよ。



            かな子



 かな子からの手紙を読み終えてボクはまず最初にクラブDJのバイトをやっている隣のクラスのやつに電話した。彼にはカジュアル・セックスをこなしてくれそうな女の子を紹介してくれるように頼まれたことがあって、二人ほど紹介したことがあって話がしやすかったからだ。一回の貸しは必ずって言うか何らかの形で返してもらっても別に人間関係にヒビが入る訳でもない。彼は不在で留守録がインナー・サークルの『スウェット』をバックにその事を告げてたんでボクは、ボブ・マリィーについて聞きたい事があるんだけど、ってだけ入れておいたら三十分後にポケベルが鳴って、ポケベルに表示された番号に電話して彼の名前を言うと彼が出て、今日、ボブ・マーリィの命日なんで、クラブでボブ。・マーリィだけ流すんだよ、ちょうどいいタイミングだから来ない? こないだのお礼もしたいしさ、店の人に言ってタダで入れるようにしたげるよ、って言った。ボクはカレンダーを見て五月十三日がボブ・マーリィの命日だと言う事を認識してから、行くよ、と電話のむこうの彼に向かって答えた。

 彼が教えた通りに原チャリを走らせると目

指すクラブは駅前のビルの二階にあった。彼は入口で受付をしててボクが行くと受付を彼の弟子(?)らしい中学生くらいの男の子にまかせてボクと一緒に店の中に入った。いやぁ、こないだ紹介してもらった女の子、良かったよぉぜんぜんフツーの子でさぁ、なんか、ベッドの上では別人なんだけど、スレてないんだよねぇ、さすが千策君だよ、あんないい子、自分の彼女にすればいいのに、と彼がそんなような事を言ったのでボクはきわめてニホン的に中庸な微笑を彼に向かって投げかけ、今日、かかってる曲は全部、ボブ・マーリィなの? と聞いた。そうだよ、今日は彼の命日だからDJもジャマイカンや、アフリカンのブラックが全部やる事になってるからボクみたいにヒップ・ホップ中心のDJは出番がないんだと、言う彼の言葉に耳を傾けながらボクは流れる音楽に聴覚を集中した。たまに声を掛けてくる女の子達と他愛もない話をしながら流れてくる曲を聴き、耳が慣れてくると、ジャマイカ訛りの英語がしだいに頭に入って来るようになった。ボクは曲に会わせてサビの歌詞を歌えるようになり、五時になって閉店する頃にはもう、DJの友達より、ボブ・マーリィの歌詞に詳しくなっていた。彼は、千策君ってやっぱ英語の成績いつもトップクラスだけあるよ、とても今日、ボブ・マーリィ聴くの始めてだとは思えないよ、とほめてくれたが、実はボクの人並み外れた語学力にはちょっとしたワケがあった。

 ウチの家、言語環境、ちょっと複雑なんだ。それはオカーサンがタイ人でオトーサンがニホン人だって言うような事だけじゃなくて、もうちょっと複雑。どういう事かって言うとある時期までオカーサンはタイ人なのにボクに対してはニホン語しか話さないし、オトーサンはニホン人なのにボクに対してタイ語しか。話さなかったんだ。ボクもそれがあたりまえのように育ってきたんで深くは考えた事はなかったけど、オトーサンはボクの将来の事(?)を思って、バイリンガルで育てようとしたらしいんだな、どうも。面と向かって二人に聞いたわけじゃないから本当のところはわかんないけど、オカーサンはそのころボクを生んでまだ何年も経ってない時期にニホンに来たんで必死に日本語覚えてニホンに馴染もうとしてたから、そんなふうになっちゃったんだと思う。そのおかげで出来上がったのは、カタコトのニホン語とカタコトのタイ語をあやつる世にもめずらしい幼稚園児ってワケ。でも、あの年頃のガキってたいていマトモなニホン語なんかあやつれないワケだから向学心旺盛なオカーサンのおかげでかなり豊富で不自然なニホン語のなヴォキャブラリィがあったから、なんとかそれでカバーできて、なんとか小学校に入る頃にはマトモなニホン語になったけどね。それでも小ちゃかったボクに、じゃあ、センセーおたっしゃで、ごきげんよう、って手を振りながらあいさつされた保母さんは、さすがにビビッたらしいけど。オカーサンはニホン語が上手くなると、ボクがオトーサンから吸収したタイ語で話しかけてもタイ語で返事してくれるようになったから、オトーサンの喋るちょっとピントのズレたタイ語よりはるかに高いレヴェルのネイティヴ・スピークも身につくようになったし、中学校に入ってからはほぼ二カ国語、カンペキな状態になったんだ。そうしちゃったら英語なんか勉強し初めてもホラ。パターンってものがわかってるからさ、イミを考えて言葉だけを入れてけばいいんだから、簡単じゃない? おかげで英語は得意なんだ。でもさ、時々自分の頭の中に文字がない、って思う事があるんだ。学校で友達とかと話してるとさ、なんか言葉の組立てかたが自分だけ違うな、って思うときがある。文章を頭の中で組み立てられないんだよね、きっと、イミとかイメージとかが頭の中にあるだけでその言葉自体は何語なのかわからないし、口に出るまでわからないんだ。自分でも。

 ボクはそう言ったわけで次の日、ボブ・マーリィの『アップライジング』のCDを買って聴き、かな子にメールを送った。



  千策君



 千策君の好きな、『カミング・イン・フロム・ザ・コールド』、ウチのお母さんの一番好きな曲です。

 奇遇ですね。私ももう一度、歌詞カードを見ながら聴いてみましたけど、こんなに深い意味がある曲だとは思ってませんでした。リズムが明るいんで、以外でした。

 ところで私は今、部活の原稿も終わって、一息ついています。テストもしばらくはないので千策君みたいに一気に本を読もうかとも思うんですが、なんとなくボブ・マーリィ聴きながらボケっとしてます。何かが終わったらその分他のものを集中して出来そうなものですが、私の場合なかなかそうはいきません。開放感でついついナマけてしまいます。

 そういった訳でもないのですが、あまり今、手紙を書くエネルギーが湧いて来ませんので、これで失礼します。気を悪くしないで下さいね。



 P.S 今日の夕食はお母さんの得意なモツ煮でした。お母さんは味噌もおしょう油も使わずにスパイスだけで味つけするんですよ。 会いませんか、という千策君のお誘い。もう少し考えさせて下さい。私も千策君に会ってみたいのはやまやまですが、心の整理がつきません。



            かな子



 チョーシに乗って会おう、なんて提案したのはマズかったかな、とボクは思ったけど、まあ、しょうがない。出しちゃった手紙は戻ってこない。書いた時の自分の気持ちに責任を取るしかなかった。ボクは少しだけ後悔したが、しだいにその後悔が自責の念にかられてバッドになりそうだったので、クラブで電話番号を教えてくれた女の子に電話した。駅前のダンキン・ドーナッツで待ち合わせて、フレンチ・クルーラー食べながら三十分ほど話すとボクと彼女はホテルに入った。彼女は別段、ボクと感情的なものを必要とする関係になりたいとは思ってはなく、少しだけニホン人離れしたルックスと話のセンスに同調してボクの誘いに乗っただけだった。もしかして本当に誘われたのは、ボクの方かもしれないケド、そんなのはどっちだっていい。ボクと同じように、彼女とってもセックスというのは単にカジュアルなものでしかないんだろう。

 終わった後、彼女から身体を離して背中を向けるとボクは自分が彼女たちがこぞって手に入れたがるシャネルやセリーヌみたいなブランド品と同等のような気がした。彼女の態度を見てたら、彼女にとってハーフのボクと寝ることは、何らかのステータスのような気がしたからだ。隣にいる彼女は何かしゃべりながらゴソゴソとボクの背中に乳首をこすりつけていたが、ボクは極力、無関心を装いながら、かな子に書く手紙の内容を考え続けていた。

 彼女の誘いをはぐらかすように、ふと開いてみたホテルのらくがき帳に、何人か違う筆跡でタイ文字が書いてあった。なに見てんのよ、なにこれ? って彼女は覗き込んで言ったがボクは無視した。ボクは喋るコトは出来てもタイ文字を読むことは出来ない。オカーサンは特に教えてくれなかったし、オトーサンだって読むことは出来ないらしいから、ボクのタイ語の能力は会話だけの中途半端なままで止まってしまっている。ボクは、ニホンへ来て、おそらくはビジネスとしてニホンの男とホテルに入る彼女たちが一体何を思って、どのような言葉をらくがき帳に書き込んでいるのだろうか? と思ったが、考えるのが面倒くさくなったから、すぐらくがき帳を閉じて少しだけむくれた顔をしてる彼女の髪をなでた。



 二日間、部活を休んで調整したから身体は動くハズだった。この一ヶ月間、夜遊びを一切やらず朝起きて六キロ走り、動物性のたんぱく質を一切断った食事を摂り、オトーサンに教わったとおりにトレーニングした。試合前の二日間、練習を休む事について、部活の師範は激怒しそうになったけど、なんとかなだめすかして、万全のコンディションを作り上げた。ボクは試合で演武する“抜塞”の型を分解し、自分の演武をビデオに撮って技のひとつひとつを繰り返し稽古した。

 何でそんなに気合いを入れてダサイくらいにストイックな生活を送ってきたかというと、一ヶ月前、かな子に県大会の試合を見に来るよう、手紙を出したからだった。県大会で優勝すれば、かな子はボクに会ってくれる事になったのだ。この提案はもちろん、ボクの方から切り出したんだけど、正直言ってキツかった。だいたいが、新人戦に入賞したくらいで、県大会で優勝しようなんてマグロがクジラに噛みつくようなもんで、身のほど知らずもはなはだしいんだけど、それでもそう決まってから、まじめに稽古したから、ボクの演武のレヴェルは著しく向上した。一度、まじめにやり始めてから一週間くらいして、どうしても技のキレが良くならなかったんで、オトーサンに相談してみたんだ、ダメモトで。段違い平行棒とウェイトリフティングくらい違うけど、同じキレを必要とするスポーツだからね。そしたらオトーサン、食事からイメージ・トレーニングのやり方、メンタルな部分でのトレーニング、試合前の調整まで、事細かに指示してくれた。ボクはオトーサンがそんな論理的な考え方が出来る人だなんて、生まれてから十七年間、思ってもみなかったし、あまりにも確信に満ちた笑顔で理論的に話しながらトレーニング・メニューまで作ってくれたんでびっくりした。せめて試合まで三ヶ月あれば完璧に仕上がったのになあ、とオトーサンは残念そうに言う。。ボクは今まで見た事がない話し方のオトーサンに驚きながら、オトーサンの作ったメニュー通りに試合までの日々を送る事にした。



 ボクは“抜塞”の形が好きだ。ボクが師範から教わる全空連指定型の中でもっともニホン的だと思うから。直線的なだけではなく様々な姿勢から技を出し、まわりから迫る複数の敵に対する冷静な対応。暗闇で手をさぐりながら戦うって状況もいいしね。なんだか、あれもこれも押さえておきたい欲張りの為の型、って感じがして、好きなんだ。ひとつところにとどまらず、押しては引き引いては押す。駆け引きの妙、って感じがするからね。



 自分の番が近づくとボクは、オトーサンから言われた通りに前の選手の演武なんか見ずに、頭の中で必死に美しい演武をする自分の姿をイメージした。試合前に人のやってんのを見るのは、オトーサンが言うには、疲れちゃうからやめた方がいいらしい。名前が呼ばれてボクの番が来ると、ボクは立ち上って試合場の中央までゆっくりと歩き、かまえた。パッサイ、と自分が演武する型の名前を大声で叫ぶと会場の中でボクに向けられている多くの視線が感じられなくなり、目の前にイメージ通りの敵が現れた。ニホン的に、ユーガに、ボクは攻撃して来る敵を捌き、技を出す。道衣が空気を切るズバッという音が耳のそばで鳴る。目の前が暗闇になりボクは猫足立ちで運足し、手さぐりで敵との距離をはかり、足刀を出した。この体育館の中でかな子が見ているはずだった。ユーガで、ニホン的に。ボクは見えないものとの距離をはかりながらいいポジションをキープしてウマく乗り切っていくんだ。

 型を終えたボクに軟らかな拍手の波が押し寄せた。最高の演武が出来たという確信があった。採点が出て、これまでの最高点だった。 後に優勝候補最右翼の選手が控えてたけど、あろうことかその選手、演武中に転んでしまい、ボクの優勝が決まった。ラッキー! 本当にもうけもんの優勝だったけど、勝ちは勝ちだ。

 ボクは家に戻るとすぐに会う日時と場所を指定したメイルを、かな子のボックスに転送した。



 千策君へ



 優勝おめでとう。私が会場についた時にはちょうど終わった時で、体育館の壁に貼られている紙を見て、千策君の優勝を知りました。閉会式が始まる直前みたいだったので千策君の顔を見るのが怖くて、すぐ帰って来ました。 まったく、何のために見に行ったんだろうって自分でも思います。バカですね、私。

 空手道の試合会場って初めて見たけど、思ったより人が多いんですね。私は人が多い場所は苦手です。なんか、まわりにいる人がみんな同じタイプの人間なのに自分だけ人と違うんだって気持ちになって、怖くなるからです。

 もう少し慣れてきて、もう一度チャンスがあれば次は必ず、千策君の型、ちゃんと見たいです。

 でも、ホントに優勝してたんで感動しました。約束の日にはちゃんと行きますので、よろしくお願いします。お店の中で黄色いカチューシャをして文庫本を読んでるのが私です。たぶん、空いてればすみっこの席に座っていると思います。三十分たっても来なければ帰りますので、ものすごく遅れる時や、来れなくなった時は家に電話するかメイルを送るかして下さい。家を出る前にアクセスしてみます。



 P・S 今、『レデンプション・ソング』を聴きながら夜食のヤキソバを食べています。



       かな子



 このメイルを読んだ時、ボクも偶然『レデンプション・ソング』を聴いてた。『アップライジング』の一番最後に入ってる曲だ。一曲目の『カミング・イン・フロム・ザ・コールド』を聴きたくてリピートしてるとたいてい、最後まで行っちゃうんだ、『カミング・イン・フロム・ザ・コールド』から『レデンプション・ソング』まで。

 とにかくこれで、かな子と会う段取りはついた。彼女がたとえどんなルックスしてたってボクはかまわない。あれだけユーガでニホン的なつつましやかさを持った文章が書けて、秀れた芸術にはまっとうに感動する感性を持った女の子だったら、たとえスタイルや顔が悪くたってなんとかなるさ、ダイエットや、全く違う顔に自然なまま変えてしまうナチュラルメイクをもってすればたいていの女の子はきれいになれる。マインドがポジティヴならね。形だけの美しさも自然に身につけば彼女そのものになるはずさ。

 でも、問題は、ボクの方だった。まあ、指定した喫茶店はかなり明るいから、ボクがタイとのハーフだってことは、まずわからないとは思うけど、まあ、念には念を入れて少しだけ、ニホン人的なメイクをして行くことにした。



 店の中に入って窓際の席に座った黄色いカチューシャを見つけるとボクの身体は凍りついた。入口近くにたたずむボクを見てかな子は立ち上がるとボクに向かって会釈した。彼女はおびえたように肩を小さくして立っていた。

 ボクと彼女との間に少しの間、気まずい空気が流れた。ボクは予想もしなかった事態に、正直言ってどうしていいかわからなかった。まだ間に合う、今ならまだ、全部チャラに出来る。ボクは立ち尽くしたまま少しの間、そんなことを考えていた。ニホン的に、ユーガな女の子なら、これから先いくらでも見つかるさ。

 かな子がその場の空気に耐え切れなくなったといった感じで動き出そうとした瞬間、ボクの足はかな子の方に向かって自然に歩きはじめた。よせよこの女はお前が求めていたニホン人的にユーガな女とは決定的に違うじゃないか! ボクの心の中で誰かが叫ぶ、確かにそうだった。眼の前で今にも逃げだしそうになっているかな子は、明らかにボクの求めていた決定的なものを持ち合わせていない。いつもの、身体だけのセックスの相手をあしらうような適度にやさしい軽い態度で会話を交わしてこの場をやり過して別れるか、もしくはこのまま黙って立っていれば、かな子は重苦しい空気に耐えきれなくなって逃げだすだろう、それで終わり。それが一番ベターだ。ボクの足は、そう考えるボクの意思とはうらはらに動きを止めず、かな子の前で止まった。ボクの頭の中では今までニホン的な流れの中に迎合しようとしながら、フツーのニホン人以上に、フツーのニホン人になろうとしてきた自分のけなげなまでの努力が戦前生まれのジジィの回想シーンのようによみがえってきた。

 ごめんね、びっくりしたでしょ、初対面の挨拶もなしにかな子が言い、その悲しそうな表情を見ているボクの眼からは、涙があふれはじめた。せっかく塗ってきたファウンデーションが落ちる、と一瞬だけ思ったが、もう、今となっては、ニホン的な顔立ちのメイクなんてどうでも良かった。かな子が口を開き、ごめんなさい、隠すつもりはなかったんだけど私、ハーフなの、ナイジェリア・カナディアンと日本人の……、と言った。泣き出したボクの顔を不思議そうに覗き込みながら、かな子は何か言おうとしたが、彼女の言葉を遮るようにボクは、両手を伸ばし、彼女の身体を抱きしめた。彼女の、ストレートパーマをかけてムリに引き延ばした長い髪がボクの耳にかぶさる。ボクは抱き返してくるかな子の力を感じながら、目の前に存在する彼女の黒いうなじを見ていた。        

(了)


この作品は第12回日大文芸賞受賞作品の転載です


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