本論~小説に関する思想のようなもの~

1 難しければいいのだろうか?

 最近,純文学の衰退が叫ばれて久しい。
 売れるのはミステリーとかそういうジャンルばっかりで,そういうエンターテインメント性を持っていない作品は売り出してもなかなか買ってもらえず商売になりにくいというのが現状である,と思います。
 例に出すのはいささか気がひけるが,現役京大生にして芥川賞を取った平野啓一郎氏にしても,受賞作品の「日蝕」はかなり売れたはずだが,以降の作品はあまり売れたという話を聞きません(2作目の「一月物語」以降に出したという話も聞いてないけど)。
 私は「京大生」の上に「作家」という,私が求めて手に入らなかった(作家のほうはまだ分からないけど)2大肩書きを手にお入れになられやがったこの1つ年下の巨大な才能に大いなる嫉妬を感じ,本屋さんで受賞作品の「日蝕」を手に取ってページを開いてみました。読んでみようと思ったのであります。
 結果:1ページ目の半分で挫折。
 文章の言い回しとテーマがあまりにも難しすぎてようついて行かんかったのであります。「それはお前がバカなだけだ!!」と言われてしまうと身もふたもないが,私は少なくとも文章理解に関して言えばそれほど一般の人と比べて取り立てておバカであるという訳ではない(と自分では思っている)から,一般の人でもついていくのはしんどかろう,と思ってしまいました。
 そこで思ったこと。
「これほどまでにクソ難しくなければ文学として受け入れられないのだろうか?」
 私はそうは思っていません。
 純文学・小説のお手本のように言われる夏目漱石氏にしたって,小・中学生にも読める形で名作をモノにしています。「坊っちゃん」は小5くらいの時に読めたし,「吾輩は猫である」も長いから読破するのに時間はかかるが文章自体は平易である。「こころ」「三四郎」「それから」といった深いテーマを持つ作品にしても文体こそ明治のそれだから古さを否めないにしても,現代の一般の人の知識レベルで十分に読める。
 たまたま一つの作品を例に挙げてしまったが,この作品に限った話でなく,最近の文学はどうも何と言うか,あたかもブルジョワ階級の如く,一般の読者に対してわざと敷居を高くしているのではないか,と個人的に思ったわけです。無論知的水準において普通レベルを突き抜けた方々が「難解」を志向することに関してはその気持ちは分からないでもないですし,否定する気は勿論ないです。また,私自身はあまり本を読まない人でして,たまたまそういう文章ばかりにぶち当たってきたからそう思うだけかも知れないし,あまりこの種のことに関して口を出す資格があるとも思えないんですが,でもやっぱり,今の文学作品が話題性では売れるけれどもそれが過ぎ去ると売れなくて,昔の文学作品が逆に若い人に読まれている,という印象が拭い去れないのも確か。「何か難しそうだしとっつきにくそう」という印象を持ちながら読んでみた昔の文豪の作品が意外に読めてしまったりして,そういったことをきっかけにして文学に親しむ人だって少なからずいるでしょう。私だってその一人です。
 文学,というものを余りに大上段に構えすぎて一般の人達との間に溝を作るのは率直に言ってあんまり個人的には好きじゃないのです。確かに今は文学というジャンルはある種権威であるには違いないと思いますが,あんまりそれをかざしても意味がないように思うわけです。一人でも多くの人にメッセージを伝えるのが作家の,そして文学の仕事である訳で,そうしようと思えば文章自体はより平易な方に流れるのが自然ではないか,と。
 そういう訳で,私の小説における究極の目標は,
「小学生でも読める文章で,芥川賞級の深い小説を書くこと!!」であります。
 まあ勿論今の自分の文章がそうであるとは口が裂けても言えません。小むつかしい言い回しを使って喜んでるし,内容的にも決して深いとは言えませんから。あくまで目標ですので,「そうじゃねえじゃねえか!!」とお思いの方がいらっしゃっても,いやまずいらっしゃると思いますが,「こいつはまだ目標から遥か遠いところにおるんじゃのう」ということでご勘弁願いたいと思います。
 恐らく,今の小説の売れ方の傾向は,多くの場合「読みやすさ」ということに大いに左右されていると思います。今「純文学」よりも,ミステリーを中心とする「エンターテインメント」の方が売れているのは,やはりその取っ付き易さ,親しみやすさ,手軽さ,そういったところから来ているのではないかと個人的には考えています。いや,「エンターテインメント」の精神は,「純文学」においても絶対必要なんじゃないか,と思います。人を楽しませる,というサービス精神,それだけの余裕,そういったものがない小説はやはり読んでいて苦痛になってくるのではないかと。「坊っちゃん」なんて私読みながら大笑いしてましたからね,当時。
 平易な文章で誰でも入れ,ユーモアがあって読者を惹き込めて,なおかつ深いテーマを扱っていて読んでいて考えさせられる,そして読後何らかの思い,理解を得ることが出来て爽快な読後感が残る,そういう小説が書けたらいいんだけどなあ,と思っています。
 まあ以上に書いたことは私のユートピア的な理想論に他ならないのかも知れません。ただ,理想だから出来なくてもいい,目指すだけ無駄,ということでは何も成長がないのであって,理想を掲げてその中心までは辿り着けなくとも,そこに少しでも近づいて,甲子園の土だけでも持って帰れればいいなあ,と考えているのです。
 無謀な目標かも知れませんが,私の文学の目標はそんなところです。幸い「読みやすい」という評価は頂いています(それ以外に誉めるところがないだけかも知れないですが)し,「書きたい」と願うテーマもまだまだ尽きたわけではない(はず)ので,エベレストにTシャツとGパンで挑戦するアホな登山家の如く,これからも書いていこう,とは考えております。皆様もそのつもりで読んでいただければ幸いです。

 

2 経験がなければ書いてはいけないのか?

 私は女性を描くのが頗る苦手です。何故なら,私が女ではないからです。
 何を言ってるんだこのバカは,とお思いかも知れませんが,男はどうあがいても女性にはなれないわけですから(性転換手術すればなれるだろうが,と仰る方もいるかも知れませんが少なくとも私は小説を書くために「取っちゃう」,男を捨てるまでの覚悟は出来ませんし,もし仮にそうしたとして,外見はともかく内面でどこまで「女性」になれると言うのでしょう。),あくまで「男としての自分との関連性」でしか女性を描けないのです。
 しかしそれでも,ある程度多くの女性と交際し,女性の心と身体をある程度体感で知っている男性であるならば,それなりにリアリティのある女性像を描くことが可能でしょう。
 しかし,あんまりここで言いたかあないのだが,私は男女のことはとても苦手なのである。いい年をしてこんなことを言っていると,「コイツは人格に問題があるのではないか」とか,「コイツは女性を愛せない特殊な性的嗜好を持っているのではないか」などと変な噂を立てられてしまいがちであるが,決してそんなことはない。ただ単に,私が女性に求めるものと女性が私に求めるものとの利害が一致しないという単純な原因によるものであり(恋愛とは多くの場合自分と相手がお互い求める物が一致した場合に成立するものである。それを俗にフィーリングだの何だのと都合の良い名称で飾るのである),その経験の有無によってその人の人格までが評価されるものではないのであります。言い訳終わり。
 余計なことを書いてしまったが,私はそういう訳で著しく恋愛経験に乏しいにもかかわらず,小説において男と女が結ばれるシーンを書いたりしている。別に好き好んでそういうシーンを書いているのではなくて,ストーリーの関係上仕方なく書いているのである。何たっていい年こいた大人の男と女が登場する恋愛小説を書いているのであるから,そういうシーンを描くのが避けられないのである。別にそういうシーンを書くのが殊更好きだという訳では決してなくて(もし好きなのだったらさっさと官能小説の方にトラバーユしてしまえば良いのである),そういうシーンがストーリーに関してエポックメーキングなものであったり,それを避けてしまうと不自然になってしまったりする場合はどうしても描かざるを得ない。
 さあ困った。何しろこっちは「苦手な人」である。一応伝聞その他で仕組みだけは知っているが,何せ経験が足りないからリアリティと言う面ではとても世間に太刀打ちできない。しかし避けるわけにもいかないので何とか自分の頭で想像を巡らせ,あとは持ち前の文才(?)で適当にぼかしてそれなりに格好だけはつけてやる。想像力と文章力(誤魔化しの力)で何とかやり過ごしてしまうのが常であります。こういう状況に直面した時,私は自分の人生経験の乏しさを嘆きます。若かりし頃,経験もないくせに何の拠り所もない空想だけで書いている自分が嫌になってしまい,「結局女を抱いたこともないような奴には小説,しかも恋愛小説なんて書く資格はねえのかなあ」と頭を抱えたこともあります。
 しかし,逆に考えて見ると,「経験がないことは書いてはいけない」のか?そう問われると私は首を横に振るでしょう。小説を書く際にむしろ重要なファクターとなるのは「想像力」です。巨大な想像力があれば,それは下手な経験にも勝るのではないか。経験がないことでも読者の想像力に訴えかければ,読者の頭の中に下手な映像よりもリアルにその像を結ぶことが出来るのではないか,という考えもできる。いや,そう思いたい。
 もしも経験がないことを書いてはいけない,という理論をあくまで貫こうとするなら,
「宇宙に行ったことのない奴はSFを書いてはいけない」ということになってしまいます。
 確かに経験と言うのは小説を書く上で大きな財産です。私小説を主に書いている人間は特にそういったものに大きく依存する習性があることも否定はしません。しかし,それを絶対視してそればっかりに頼るようになっちゃあ物書きとして厳しいのではないのですか,と問いたい。経験をそのまんま書くのではそれは「小説」とは言わず「日記」と言うのです。ある程度の経験の裏打ちがあれば心強いでしょうし,経験の裏打ちのない文章がただの妄想に堕してしまいがちなきらいがあるのは否めません。しかし,経験があったとしてもそれが全てではなくて,それにプラスアルファして想像力で膨らませることが必要だと思います。いや,むしろ想像力の部分の方が大きなウェートを占めると言っても言い過ぎではないでしょう。
「経験がないからこの題材は自分には書けない」と言って諦めることはしたくありません。「想像」と「経験」。どっちも重要なファクターですが,私は今のところ,取るに足りない乏しい乏しい「経験」を「想像」で100万馬力に膨らませて書く,そして少しでもリアリティのある描写をしようと挑戦する,そういった修行をしています。自分に全く経験もなければ縁もない,「恋愛」という世界を描くことを通じて。

 

3 スランプに思う―小説を書く資格

 さて,前回は率直に言ってかなりふざけた書き方をしてしまった。論旨は結構真面目なのですが,一部だけを取り上げられると「コイツは本当の馬鹿なんじゃないだろうか!?」と誤解されてしまう危険がある。まあ別に賢いと思われたいわけでもないですが,今回はこういったことその他様々な部分をフォローする意味で,真面目な形で言い訳めいたことを書こうと思います。
 はっきり言って今,スランプ中です。長編はさらっと流せば何とかつなげるのですが,このサイトの中核をなすはずの短編が全く書けていない。今までちょうど30の短編を書いてきて,そろそろネタ切れの気配もなくはないが,実はネタの大元と言うか,発想はいくつか出来てるのです。しかしそれを作品として書けない。途中で何となく飽きると言うか白けてしまって,そこから先を書くことができないでいる。
 これは自分の考えている最も恐ろしい形のスランプです。アイデアが出ないというだけならば,アイデアさえ出ればあとはすらっと書けていたはずなのに,アイデアがある程度出ているにも関わらず自分の中で小説に出来ない,途中で熱情を失ってしまう,と言うのは,さしたるテクニックもなく,熱情だけで小説をやってきた自分にとっては小説生命(大して長寿でもないけど)にとって大きな危機です。
 何故白けるのか,を考えるに,これはやはり自分の中で「駄作を書きたくない,書いたとしてもそんなものを発表したくない」という気持ちがあるからだと思います。多分にテクニカルな問題から自分のアイデアを小説に昇華するのが上手くいかず,そんな中で熱情が失われつつあるのでしょう。
 昔はあまりテクニックなんて考えず,アイデアを思いついた端から小説にしていました。それがかえって良かったのかも知れない。あの時の方が書いていて楽しかった。今は自らに義務として課してしまっているから,書いていてもあまり楽しくはないですね。
 しかし,こちらの方が本当の姿なのかも知れないです。私はこれでもプロになりたい,という無謀な夢を持っている。小説のプロになったら楽しんで書く訳にいかない。締め切りとの格闘の中で無理にでも書いていかなければならないのですから。
 何のために小説を書いているのか。基本に返って考えてみましょう。バック・トゥ・ザ・ベーシックというやつです。ふう。
 昔,小説を書いていて楽しかった頃は,書きたい時に書きたいことを書いていれば良かった。自分が楽しむために書いていたのですね。それはいわゆる,アマチュアの楽しみ方です。趣味で書いている分にはそれで良いのです。
 しかし,「プロになりたい」と思ってしまったその瞬間から,その目的は一変します。それは,「自分が楽しむため」の小説から,「他人を楽しませるため」の小説への転換です。自己満足は通用しない。少なくとも,サイトを立ち上げて不特定多数の読者の方々に見せている訳ですから,もちろんレベルとしてはプロのそれとは大差があっても,少なくとも自分が見て他人に見せるに値すると思えるようなものを最低でも書き続けないといけない。「書く」ことはできました。しかし,「書き続ける」こと,それは容易ではない。かつての自分の作品が壁になる。前よりつまらないものを書いたら,それは後退になってしまいます。それではいけない。前よりいいものを,よりいいものを,と突き詰めねばならない。苦しいのう。しかし,プロを目指すならばやらないといけない。
 プロになろうと思ったら,「人よりちょっとできる」じゃあダメ。人より「抜きん出て」,「突き抜けて」,「ずば抜けて」できないとダメな訳です。新人賞を取ってプロになるだけなら偏差値60でも出来るかも知れません。しかし,その世界でそれだけで飯を食おうと思ったら偏差値70以上取らないといけない。才能と努力と…その他いろいろなものが必要になる。うーん,困った。俺には出来ないかも知れん。
 まあプロうんぬんはともかくとして,人に見せる以上はそれなりのものを作らなきゃいけないことはやはり間違いのないところでして,私めの拙い小説でも楽しみにしている読者の方が一人でもいらっしゃる以上は,その方のために奉仕しなければならないと思っております。そのためにいいものを,と自分なりには考えているのです。
 他人様に奉仕する,そのサービス精神,それだけは人に負けないつもりです。おかげで日常生活,仕事場や飲み会,そういったところでは自ら積極的にバカをやって失笑を買っておりますし,私小説という,ある意味自分の恥やプライバシーを切り売りするような真似もやってしまいます。そういう人間ですから,ちょっと目を離すと前回のようなバカな文章を書いて自分で自分を貶めてしまいがちでありますからして,これからは品性下劣にならない限りでのバカ及びサービスというものに徹する所存であります。はあ。
 言い訳めいたことを書いてしまいました。申し訳ない。とりあえず今回の言い訳編はこの辺で締めまして,もう少し突き詰めて,自分がいかにして小説を書いてきたか,そして今後どのように書いていくべきか,そういうことを次回で考えてみようと思います。

 

4 マイナスの効用―何故小説家は死にたくなるのか

 太宰治や芥川龍之介に川端康成,三島由紀夫もある意味そうでしょうか…今まで自ら人生に幕を下ろした小説家は少なくありません。
 小説家というのはどうもぎりぎりまで自分を追い詰めないと作品が書けないようです。
 かく言う私にしても,訳あって昨年まで精神的に苦しんでいて,でもその時は割と作品が書けていました。
「教祖」なんてあとがきにも書いてますが,かつて悩みすぎて体調を崩した際,ベッドの上で考えたものです。今は精神的に余裕が出来ていますが,そうなると却っていい小説が書けていません。
 どうやら小説というものは,精神的にマイナスのストロークを受けたときの方がいいものができるようです。プラスのこと,いいことがあった時よりも嫌なことがあった時の方が小説を書くモチベーションが上がる。
 人間というものは,プラスの出来事があるとそこで満足してしまう。逆にマイナスの出来事があると,そこから何かを学ぼうとする。そこから考えを広げていこうとする生き物だと思います。それがいわゆる学習であり,そこから成長していくのだと。その過程の中で,そのことを表現したいという欲求が生まれる場合もある。それができるのが表現者であり,その表現方法の一つとして小説があるのだろうと思います。
 また,人間はマイナスのストロークを受けた際,自分の精神の均衡を守るために精神浄化(カタルシス)としての行動を行う場合がある。そのマイナスの出来事を小説に表現することで自分の中で消化する。こういったことを動機とする場合もあります。また,同様に精神の均衡を保つための自己防衛作業として人間は脳の中に脳内麻薬物質(ドーパミン)を出す。そしてその助けを受けて想像力を広げ,あたかもトリップするような形で自分の世界を創造していく。そういう状況もあるでしょう。
 さらに,マイナスの出来事の方が小説のネタになりやすい,という側面もあります。プラスの出来事を書いてもそれは自慢話,自己満足に堕してしまう危険性が高い。逆にマイナスの出来事は読者の同情,共感をより広く得られる余地が大きい。「人の不幸は蜜の味」と言うと嫌な言い方になってしまいますが,人の幸福話を読んでもあんまり面白くないけど,人の不幸話は「あ,この人も俺と同じように悩んでいるのだ」と思ってもらえたり,おちゃらけた書き方をして「こいつバカだなあ,わっはっは!」と笑いを取ったり,まあ不幸というものの方が普遍的に他人を惹き付ける要素が多いのかも知れません。
 誰でもそうですが,笑いっ放しの人生なんてのはあり得ません。人生にはいいこともあれば悪いこともあります。その中でむしろ悪いことの方に人生のエキスが凝縮されているような気がします。いいことばっかりの時は何も考えなくってもいい。だから小説を書く側も書こうなんて思わないし,読む側も読もうなんて思わない。悪いことがあった時に初めて,人間というのは本当に「考える」のかなあ,という気がします。だからこそ小説を書く側は表現をしようと思うし,読む側は小説を読んで何かを得ようとするのではないか,と思うんです。
 そうなると,継続的なマイナスのストローク―コンプレックスというものは,小説を書く者にとってはむしろ才能,武器と言えるものなのかもしれない。体が弱い,気持ちが弱い,貧しい,もてない,等々。多くの小説家はそういった一時の努力ではどうしようもないことをバネにして,時にネタにして小説を書いてきたような気がします。そして表現者である以上,それが不特定多数のシンパシーを得られるよう普遍的な形で表現をしなければならない。それでなければただの愚痴になってしまう。この辺をコントロールできることが表現者の条件なのだろう,と思います。
 もちろん自分をマイナス方向,マイナス方向へと追い込んで行く訳ですから,精神の均衡は失われていくでしょう。ある程度は,先に挙げた脳内麻薬だの何だので人間は自然に精神を自己防衛する術を身につけています。しかし,あまりにも追い詰めすぎると狂気の沼に足を踏み入れてしまう危険がある。小説家はこの沼に落ち込まないようにバランスを取りながら,あたかも綱渡りのように歩いていかなければならない。
 さらに小説家は,自分の作品そのものからも追い詰められなければならない。以前も書いたような気がしますが,一作一作書いていく中で,常により良いものを,よりレベルの高い作品を完成させ続けていかなければならない。小説家に限らず,芸術家というものは常に,自分に満足すること,安住することを許されず,走り続けないといけない。天才と呼ばれる人,名声を得た人,能力のある人ほどそのハードルは高い。自恃の念が強く自尊心が強いほど作品に,そして自分に満足できなくて懊悩することになる。「俺はこの程度の人間なのか」と傷つく。そういう側面もあるのではないでしょうか。
 とりとめもない話になってしまいました。要するに,こういう様々なファクターがあるが故,小説家,特に高名な小説家は日々自分を追い詰めながら作品を搾り出すように作っていくのだろうな,というのが私の思いです。まあそこまでしないと小説家が勤まらないようなら私なぞ絶対無理ですね。本当は気楽に書いていけるのが一番いい。ただ,不幸をただ不幸と受け止めるだけでなく,そこから何かを生み出していく姿勢だけは忘れないようにやっていきたい,ということが言いたかった。マイナスのストロークを食らってもただ落ち込むだけじゃなくて,それを利用する強かさが必要なのだ,ピンチはチャンスなのだくらいに思えなくちゃいけないのだ,と個人的に思っております。別に小説を志す奴は死ぬまで悩め,と言ってる訳じゃないので誤解しないでくださいね。そんなん言い出しっぺの俺かてでけへんもんね。

 

5 これから―21世紀に向けて

 「趣味で小説書いてます」と言うと必ずと言っていいほど聞かれるのが,「投稿しないんですか?」という質問です。
 以前ちょっと書きましたけど,率直に言ってまだ投稿するに値する作品が出来ていない,ということを半ば言い訳としてこれまで投稿したことがなかった。しかし,やはり自分の目標としては投稿して,ある程度能力を見極めたいという思いがあります。究極の目標はプロなんですが,それは夢でしかないと笑われるかも知れないが,自分の才能がどの程度のものか確認して,夢に向かって進んでいくか,趣味は趣味として楽しんでやっていく道を選ぶか決めなくてはならないだろうな,という思いがあります。
 ただ,現実的にはそれができていない。ちょぼちょぼとこのサイトに小説を載せていますが,それ以上のことができていない。大学時代と比較すれば,確実にイマジネーションとかそういうことについては今は落ちている。日常の中にいて仕事とかに時間を取っていると,非日常の虚構の世界に身を置くことが難しくなってしまう。
 このサイトにしたところで,元々は将来の投稿に向けての実験であり,訓練としての小説掲載であり,不特定多数の方に見ていただいてその反応を見ることで少しは自分の能力の見極めができ,最終的な投稿という目標のためのステップのつもりで始めたものでした。
 しかし,現在はこのサイトの小説更新さえ滞っている状態であり,投稿のための小説にまで手が回らないという状況に陥っているのでした。これでは本末転倒もいいところ。もっと何つうか,泉の如く湧き出てくるイマジネーションがあることを前提としていたので,これはかなり困った問題。一時の,それこそショートショートもまともに書けないほどのスランプからは脱したように思われますが,もう一枚二枚殻を破らないと,思ったより早く自分の限界,アイデアの枯渇という状況に転落してしまう恐れがある。そういう危機感に苛まれています。 幸い,このサイトの小説に対し,好意的な反応を示してくださる読者の方もいらっしゃる。このことは自分にとっては自信になります。もちろん否定的に見られる方もそのくらい,もしくはそれ以上に多くいらっしゃるでしょうが(そういう方は恐らく反応を示さず,一度読んでそれっきり,ということになるのでしょう),自分の小説の読者が一人でも二人でもいらっしゃるという事実をポジティブに見て,こういった方々のためにも,一日も早く自分の作品を胸を張って世に出したい,という意欲を最近得ることが出来ました。
 可能ならば,このサイトで培った表現能力,技術を早く投稿という形で世間に問うてみたい。そして自分の能力を見極めたい。しかし,それに未だ踏み切れていないのは反省点です。ひょっとしたら,いや,恐らく,自分自身で,「プロになる」ということ,いや,それ以前に,「自分の能力を世に問う」という覚悟を現実の物としてしていないのではないか。

 あと,自分自身で今ひとつ踏み切ることが出来ない点,それは,もう一つ別の種類の「覚悟」ができていない,ということになるのではないかと思います。
 私は常々,小説を書く者,いや,全ての創作をする者は,「悪魔」でなければならない,という信念を持ってやって来ました。作品のためならば,人に嫌われることも厭わず,人を利用することさえも抵抗せずに決行することができる人間でなければならない,と。
 作品を書く場合,ある種偽悪的な表現,人に眉を顰められるような表現,そして身近な人間を創作の中で利用する―単純な例で言えば,身近な人間をモデルにしてキャラクターを作ったり彼らのエピソードを小説に利用したり…それは小説を書く者としては,利用できるもの,書くに値すると思うものは貪欲に何でも取り入れていかなくてはならないという姿勢―そういったものが最終的には必要となるのではないだろうか。人に嫌われることを恐れて自分の中で制限をつけていては小説が書けなくなってしまうのではないだろうか。そう思うからこそ,創作者たる者はこれすなわち悪魔のようにタブーを否定し,大胆に,貪欲に求めていかなくてはならないのだと思っているのです。「悪魔のように大胆に,天使のように繊細に。」大学時代にグリークラブの先輩が使ったキャッチフレーズです。小説と合唱とは違うのですが,精神は同じだと思います。タブーを恐れない大胆さと,人々を惹き付けるに十分な繊細な技術。この両輪が揃ってこそ,小説は圧倒的な存在感と説得力を以って読者の前に迫って来るのだ,と考えています。
 しかし,現状の自分はどうかというと,やはり「悪魔」にはなり切れていない。やはり人から嫌われること,否定的な反応を受けることを心の中で恐れていて,そういったことを受けた時には,酒を飲んでやり過ごさなければ危険なほどにへこんでしまう。かつて「ゴーマニズム宣言」の中で小林よしのり先生が,「わし,嫌われるのなんて全然怖くないもんね」と語っておられたのを読んだ記憶があるが,そのレベルまで精神的にタフになるのがどれほど困難なことか。実は最近まで,私自身も,「俺は悪魔になれる。人に嫌われるのなんて怖くも何ともないのだ」と信じていたのですが,ごく最近私生活上で,私の失策から複数の友人から信を失い,厳しい言葉とともに人間関係を悪化させたことで,私の精神は少なからず打撃を受けました。自業自得と己を責める気持とともに,自分自身が嫌われることをいかに恐れ,皆から受け入れられることに渇望していたかを知りました。小説を世に出すことになれば,親類縁者知人はもちろん,不特定多数の目の中に自らを晒すことになる訳で,そのプレッシャーを想起するだに戦慄を禁じ得ない。
 かつて,「サザエさん」の中で,架空の蕎麦屋の電話番号を適当に書いたばっかりに,たまたまその番号を使っていた一般市民の家に電話が殺到したり,サザエさんが「ねんねこ」を何枚も持っていることを「贅沢だ」と読者に指摘されたりしてそのたびに著者の長谷川町子先生が心を痛め,胃を壊すほど神経を使ったという話を聞いたことがあるし,ついこないだもアニメの「サザエさん」の中で,クリスマスにマスオさんがサンタさんに扮してタラちゃんの枕もとにプレゼントを置いた話を放送しただけで「子供の夢を壊す」と抗議の電話が来たという。仮にこういう目に晒された時に,私の神経は果たして持ち堪えられるのだろうか。嫌われること,叱られること,否定的に扱われること,他者の悪意を受けることに人一倍敏感で,人一倍恐れているこの私が。
 もちろん,人一倍悪意に敏感でなおかつ傷つきやすく,人の心の機微を感じやすい自分のパーソナリティが小説を書くことにおいて大きな武器になっていることは事実です。この武器がなければ私は小説を書けないでしょう。しかし,ろくに考えもしないで表現だけを大胆にして勢いだけで突っ走っておいて,その結果に対して責任を取ることを極端に恐れている今の自分の状況ではプロフェッショナルとして小説を世に出す資格が果たしてあるのだろうか,という疑問が今も頭から消えません。
 21世紀,いや,2001年今現在の切羽詰った目標として,「自分の実力を世間に問い,肯定されたにせよ否定されたにせよそれを受け入れて精進する覚悟」と,「作品創作のためならば全てを犠牲にしても後悔しない,たとえ理解されず独りになったとしても自分の道を貫く覚悟」の二つを固めるだけの精神的なタフさを持つこと,そして,自分が今潜在意識化に恐らくは持っていて,しかし作品化するに至っていない何か―それは恐らく自分が本当に書きたいと願っているテーマに他ならないはずです―の正体を一日も早く日々の生活を通して見つけ出し,全力を投入してそれを原稿の上に表現すること。この二つを掲げておこうと思います。あるいはその「何か」を見つけ出し自分の殻を破った時には,このサイトに費やす時間が相対的に減ることはあり得るかも知れません。その時は恐らく,「こいつは何かを見つけたのだな」と思ってください。そしてその後私がすばらしい作品を物して世に出したときはぜひ読んで感想や批判を寄せてください。もし何もなかったとしたら,「こいつは失敗したのだな」と笑い飛ばしてください。
 「もう俺には時間が無い」それが今の私の実感です。

 

小説論インデックスへ

ホームへ