神在祭の起源

作り出された数値

久野邦雄氏遺稿集「銅鐸の復元研究」の「銅鐸の型持たせ孔の考察」にて、氏は銅鐸の孔が「型持たせ」ではないのではないかという制作上の疑問を提示している。その型持ち孔と太陽との関係について研究したのが天文学者の関口直甫元東京大学教授である。氏は日本科学史学会編集の「科学史研究」で、春分の日の前後に太陽光線が銅鐸の最上部の孔と中間部の孔を貫くことに着目し、「弥生人が春分、秋分の日の頃の太陽の位置を考え、孔の位置を決めたと考えられる」という研究を発表している。さらに古代祭祀線に関する「神々のメッセージ」の著者堀田総八郎氏は、銅鐸の型持ち孔が二至の日の出入線の方位を示しているという説から「銅鐸を測量に用いていた可能性」について言及している。私はこれら諸氏の研究から、銅鐸が「太陽を観測するために用いられた道具」である可能性を考慮に入れたい。

荒神谷の銅鐸6個は型持ち孔の破損(風化?)が激しく、残念ながらはじめの孔の形を止めていない。しかし型持ち孔が二至の日の出入り線を表しているとすれば、孔と孔を結ぶ直線は鰭部分と平行でなければならないから、孔の位置はある程度限定される。島根県教育委員会が発行している「出雲神庭荒神谷遺跡」の銅鐸実測図で調べたところ、以下のような値となった。

最 大 値 最 小 値
1 号 銅 鐸 80° 71°
2 号 銅 鐸 85° 60°
3 号 銅 鐸 64° 40°
4 号 銅 鐸 60° 48°
5 号 銅 鐸 86° 69°
6 号 銅 鐸 57° 45°

出雲(北緯35.25)で二至の作り出す角度は約58.3°(夏至約29.8°、冬至約28.5°)である。型持ち孔の内角がその角度と一致する可能性のあるのは3、4号銅鐸、それに準ずるものとして2、6号銅鐸がある。その中でも3号銅鐸は伝徳島県脇町出土銅鐸(東京国立博物館蔵)と同じ鋳型で作られたものであるから、元は一緒に使用されていた可能性も考えられる。(最古の銅鐸である5号銅鐸、そして銅鐸研究の権威、佐原真氏に「この銅鐸が骨董屋に並んでいたら私は間違いなく偽物と言うだろう」と言わしめた1号銅鐸は二至の作り出す角度に当てはまらない。これらの銅鐸は2つの角度が近い値を示していることから、この2個は対である可能性があり、他の銅鐸と区別された何らかの意味が込められているように思える。5号銅鐸は他と比べて内側にある突帯が擦り減っていることから、ひょっとすると1号、5号銅鐸は「鳴らすことを最優先に作られた」のかもしれない。)
以前から古代人は太陽を観測する方法を考え出していた。影の長さを利用する「グノモン」、または「表」と呼ばれる太陽観測棒は世界各地で用いられた形跡がある。代表的なものにイギリスのストーン・ヘンヂがある。これにより古代人は1年の長さを知り、四季の変化を数で表したと言われている。銅鐸も太陽を観測するために用いられたのならば、太陽観測棒と同様に1年の長さを測る道具である可能性が考えられる。

そのように考えるとAの決定の可能性も見えてくる。それでは銅鐸孔で二至の軌道を表すことができるとすれば、上記の測量方法に用いる場合の荒神谷の銅剣358本はいったい何に当たるのかということを次に考えてみたい。
韓国の金元龍氏は荒神谷の銅剣が、当時の暦による春夏秋冬の日数を表したものであるという見解を述べている。氏は「銅剣の本数がほぼ一年と一致する」に止めている。がしかし、私はこの銅剣数が正確な数字を示したものであると考える。それでは上記の測量方法に荒神谷の全銅剣を用いる場合を考えてみよう。銅鐸1個につき半分の銅剣179本を銅鐸孔が作り出す内角の円周上に設置するとする(下図)。

銅鐸孔が太陽の年軌道を表したものならば、その内角の往復分で1年間の太陽の動きを表しているから、そのことを考慮に入れて目盛を数えてみると銅剣179本は興味深い数字をはじき出す。銅剣が作り出すその目盛数は月の満ち欠けによる一年周期、つまり太陰暦354日と一致するのである。

解説
358本(銅剣の本数)/2=179本(銅鐸一個分に使用されたと考えた場合の銅剣数)
179ー1=178(銅剣で目盛を作ったときの数)
この数が銅鐸孔が作り出す内角の目盛であるとするなら、往復分は2(178ー2)+2=354
(両端は1回、他は往復するので2回である)
これは純太陰暦で一年を数えた場合の年周期数
(ただし実際は354.36706といった端数がある)である。


これらの条件から意外な青銅器の使用方法が導き出される。荒神谷遺跡の銅剣、銅鐸を用いて測量する場合、青銅器は「太陰太陽暦」を作成するのに用いられた可能性が考えられることになるのである。

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