神在祭の起源

青銅器と神在祭の関係

正確な暦の作成は権力の集中によってのみ可能と成り得る。さらに、暦の修正が行われたとすれば、それは国家事業なみであったと考えられる。つまりこの荒神谷遺跡の青銅器群は共同祭祀の象徴としてだけでなく、権力集中の象徴としても考えることができる。しかし「記紀」、「風土記」等の文献からこの青銅器文化を知ることはほとんどできない。これほどの技術が忽然として歴史の舞台から消え去ってしまうようなことが現実に起こりえるのだろうか。この事業が例え秘事に属するものであったとしても、これほどの文化ならば少なくとも出雲に何らかの伝承が残るはずである。ところが文献には見られないが、今尚残っている民俗行事で、もっともよくこの暦の作成及び修正を表しているものが存在する。それが「神在祭」である。


陰暦の10月を古来神無月というが、出雲では神在月といわれている。出雲の神社では今でも出雲大社、佐太神社をはじめ、数社で神在月神事が行われている。千家尊祐氏の言葉を引用したい。

「旧10月10日の夜は聖地稲佐の浜で全国の八百万の神々をお迎えする神迎神事が行われ、11日より17日までの7日間は、神々が出雲大社に神集いになられますので、この間は本社及び上宮(摂社・稲佐の浜)において神在祭が執行されます。また境内両19社(末社)は参集された諸神の御旅社であります。この祭事の期間中は、毎年風烈しく波荒い日が続きます。この時錦紋小蛇が稲佐の浜辺に浮かび寄ることが多くありますが、一般に竜蛇と呼びます。竜神の使として来臨されたものと伝えられ、曲げ物に盛って神殿に納めるのが古例となっています。出雲大社の神在祭が終わると、引き続き八束郡の佐太神社において神在祭が執行され、最後に神々は簸川郡斐川町万九千社より国々にお帰りになられます」

神々が出雲に集う理由の多くは縁結びの相談のためということになっている。他には酒作りや、交易をしにくる神もある。しかし現在でも行事の起源には定説がない。もし出雲で「暦の修正」が行われていたとすれば、それは数年に一度必ず行わねばならない事業だったはずである。このことから神在祭は、共通の青銅器文化を持った人々が「暦の修正」のために出雲に集ったという史実に基づいた祭である可能性が考えられる。このことは上記の荒神谷遺跡の銅剣が2列目の一番手前を夏至から数えて10月20日とした場合、3列目以降が使用されていることからも少なからず推測出来る。

筑紫申真は「神々のふるさと」(秀英出版)にて、竜神が「神の使いと思われたのは後世の感覚で、昔は神の姿そのものと信じられていた」と述べている。その肝心の竜神として神在祭に用いられるのがセグロウミヘビであり、その脇腹が金色であるのは実に興味深い。ご存知のように青銅器は製造時点では黄金色である。このことから青銅器の色に合わせてセグロウミヘビが選ばれた可能性も考えられる。


さらに、傍証として三輪山に鎮座する大物主命のことを挙げておきたい。「古事記」には大物主命は大国主命の国造りを助けた神として紹介されている。伝承では御諸の山の神は蛇の化身ともいわれ、さらにその子孫に三輪氏、鴨(加茂)氏の名がある。加茂氏は加茂岩倉遺跡の発見された加茂郷に居を構えていたとも伝えられている。これらのことからも神在祭と青銅器に何らかの関係があることを推測出来る。

もし「神在祭」で示されているように出雲だけで暦の修正が行われていたのならば、暦を修正できる人々がいなくなると各地で青銅器を使用する必要はなくなる。ここに青銅器文化が滅びてしまった直接の原因があるように思える。実はこのようなことは歴史上無数に存在している。あのローマ帝国でも無数の学者が暦の作成に携わっていた。そしてかなり正確に暦を作成していたことが解っている。しかし帝国の崩壊により、時は完全に止まってしまった。その後、何世紀にもわたってローマは不確かな時間の中での生活を余儀なくされた(参照)。世界の優れた古代文明の様々な暦も、少なからず同様の憂き目にあっている。このように考えると御伽噺のような印象で語られることの多かった「記紀」の出雲神話の国造りや国譲りの部分の重要性も見えてくるだろう。

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