神在祭の起源

国土把握の可能性

さて、これまで荒神谷遺跡を中心に話を進めてきたが、加茂岩倉遺跡の銅鐸からも面白い考察ができることを前回の1998年度版の補強の形でざっと触れておきたい。

青銅器を使用して方位と暦を知り得た可能性についてこれまで述べてきたが、方位を測定することから別の可能性を考察することもできる。二等辺三角形の法則については前に述べた。現在でも地図の作成には二等辺三角形の法則が用いられている。青銅器を埋納した人々が二等辺三角形の法則をよく知っており、現在行われるのと同じように三角測量を行えたのならば、そこからもう一つの可能性が考えられる。「地形把握」の可能性である。
日本は典型的な島国である。各国と比べても山多く、平野は少ない。もしそのような土地で仮に「地形把握」のために測量しようと思えば、全景が見えるように山の高みに登ることから始めなければならない。そして平地を見るに適した山裾の部分に起点を作る。起点が決まれば次のポイントを平野部分に設けることができる。後は二等辺三角形の法則を用いて次々三角測量していけばよい。このように測量を続けた場合、必然的に起点が重要になるのでその場所は常に顧みられることになる。青銅器はほとんど山間や山の中腹に埋納されている。これは、起点の確認、または測量終了時の青銅器埋納のために山間や山の中腹を選んだ結果であるように思える。
「地形把握」を必要とするものの一つには交易が挙げられる。特に遠距離の交易の場合には必須である。古来から日本では交易が盛んであった。既に縄文時代から交易の痕跡が見られる。そのためどの方位に、どれだけ進めば、どの地があるのかを的確に把握する必要があったはずである。ただ日本全土の把握となると話は別である。これは他国を想定した「国のかたち」が存在しなければ到底為し得ない大事業である。上記で青銅器時代における国家形成の可能性について触れたが、仮にこの時代に国土を把握していたとすれば「国家形成」の有力な手がかりとなる。そこで「銅鐸を用いて国土把握を行った可能性」について考えてみたい。

緯度のずれで生じる誤差につて
銅鐸を用いて方位を測定するという説はこれまで何度か浮上した。その中の問題点として、日本の地形は沖縄から北海道まで緯度でおよそ20度のずれがあるので銅鐸を用いた測量は不可能であることが挙げられている。これまで銅鐸測量の可能性は理論的に無理があるために専門家もそれ以上追求しなかったが、もし「その間違いに気付かずに測量を行った」場合どうなるかについてここではあえて考えてみたい。

この測量を行った場合、同緯度上にはポイントとなるものを配置出来るはずである。
日本各地には「一の宮」、「一宮」等の地名の町や集落が多く見られる。そこにはもともと、その国の土地、集落の最も主要な神社があった。「延喜式」に言うところの一宮は時代による変更分を含むと全国に約80社近くあるが、このうちの約1割の一宮が富士山と出雲を結ぶ北緯32度21分線上近辺にほぼ東西に並んでいる。
谷川健一氏は「青銅の神の足跡」の中で、諸国一宮の成立を平安末、あるいは鎌倉期としながらも、一宮の所在地と銅鐸などの出土地が重なり合うことから、一宮の所在地に対する地域住民の尊崇がはるか弥生時代にまで、たどり得る可能性を説いている。
このことから同緯度上での測量の痕跡を窺い知ることができる。

それではそれ以外の緯度上での測量はどうやって証明出来るのか。
そこで登場するのが邪馬台国論で採り上げられる「魏志倭人伝」の方位の記述である。
「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。始めて一海を渡る千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離という。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。(中略)また一海を渡る千余里、末盧国に至る。四千余戸あり。山海に浜うて居る。( 中略)東南陸行五百里にして、伊都国に到る。(中略)千余戸あり。(中略)東南奴国に至る百里。(中略)二万戸あり。(中略)東行不弥国に至る百里。(中略)千余家あり。(中略)南、投馬国に至る水行二十日。(中略)五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る。女王の都する所、水行十日陸行一月。(中略)七万余戸ばかり。(中略)その道里を計るに、当に会稽の東冶(今の浙江省から江蘇省のあたり)の東にあるべし」
この記述から方位、距離を計算していくと、日本は実際の位置をはみ出して南の海まで続いていることになる。このことから古代人は日本の位置を誤認していたのではないかと考えられてきた。その証拠として15世紀初めに李氏朝鮮で作られた地図「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」が引き合いに出される。この地図では日本列島が東を南に向けて描かれている。


さて、ここで重要なのはどうやって日本の位置を誤認したかということである。それでは同規格の銅鐸を用いて測量を行う場合について考察してみよう。


仮に出雲を起点として測量を行うとする。出雲より緯度が高い場合、測量するほどに方位誤差は反時計回りに拡大されることになる。例えば富山や新潟などは出雲より緯度が高いので、出雲とほぼ近い緯度にある敦賀あたりから地形がせりあがってき、韓国や北朝鮮は出雲と近い緯度の釜山あたりを軸に出雲から遠ざかる。その逆に緯度が出雲より低ければ、測量するほどに方位誤差は時計回りに拡大されることになる。例えば下関、熊本、鹿児島と、出雲から距離と緯度が離れるにしたがってより時計回りに方位の誤差は拡大されていくので、九州は南北を基準にすると実際より横向きに位置する(もし沖縄まで測量していたとしたらとても見当違いの場所に沖縄は描かれることになる)。これは理論であるが実際の測量では青銅器の精度とその方法によってさらに誤差は拡大されるはずである。


このように青銅器を用いて国土把握を試みたときに日本は南に傾くことになる。正確な地図に馴れきった現代人は南に傾いた地図を見て「そんな間違いを犯すはずがないだろう」と思うかもしれない。しかし実際我々はいかほどの地形把握力を持っているのだろう?学校で習った知識やTV、上空からの確認をしなければ、日本の地形を把握することは困難である。例えその国土把握が誤りであったとしても飛行機、人工衛星のなかった古代では確認の仕様もなかったし、それでよかったのだろう(そしてその後何百年もの間、国土を測量し直されなかった可能性が考えられる)。
以上のことから青銅器を用いた国土把握の可能性を導き出せる。

繰り返すことになるが、国土把握は国家事業としてのみ成立する。この場合、かなり短期間で行ったとしても数年かかる大事業となる。もし荒神谷遺跡の青銅器群が発見されなければ、銅鐸を用いて国土把握を行ったと説いても、出雲を中心として行った事業だとは言い切れなかったであろう。しかし荒神谷遺跡の青銅器群が「暦の修正」に使われた可能性が既に明らかになった今、加茂岩倉遺跡の銅鐸39個は国家事業として「国土把握」に使用された可能性が十分考えられる。逆説的ではあるが、意図して短期間のうち(短期間といっても2、3年ではないことは確かであるが・・)に国家事業規模の「国土把握」を試みたために、各地で緯度差を計算されずに、同規格の銅鐸のみで測量を終えてしまうような結果を招いてしまったのではなかろうか。よって一度、加茂岩倉遺跡の全銅鐸の型持ち孔の角度を調査する必要があると私は考えている。

次に進む

前に戻る