出雲から日本を見る


出雲の思想とは?

出雲の思想は全てを受け入れることにある。そして「志」を持つことがどれほど大切かということを出雲人は知っていた。その「志」が自分に何が必要かを教えてくれ、どう行動すべきかを知らしめてくれた。このことは現在の日本を考える上でも示唆に富んでいる。

現在の日本の状況はあまり楽観視できたものではない。戦後の高度経済成長が終わって停滞期を迎え、そのため社会全体が倦怠感に包まれている。追いつけ追い越せの経済成長神話をひたすら信じて邁進してきたこの50年間、たどり着いた場所は落着かない荒涼としたところであった。

既存の価値観は崩壊し、目指すところもなく、全てに退屈しているかのような今の日本。しかし日本の歴史をよく眺めてほしい。けして一時期の変遷に左右されないものが見えてくるはずである。それが「志」である。どんなに打撃を被ろうとも、歴史上必ずといっていいほど狂騒にも似た行動で困難を乗り切ってきた日本の原動力は、いつの時代も忘れられることのなかった「志」であった。

それでは「志」とは何か?
人生のテーマということである。それは自分のためではなく(たとえそれが結局自分に利することであったとしても)、何かのために生きるということである。窮屈なように見えるが本当はこれが最も大切なことである。この「志」を失わない限り、どんな状況に置かれても役々と自分を処すことができる。反対に「志」がないと情報の溢れた今日の社会では行き先を見失い何をしているのかわからない人生になる。

遥か昔に出雲人は知っていたのかもしれない、ただ漠然と生きることの空しさを。人間はどの時代でも何故生きるのかという意味を問い続けてきた。出雲人も例外ではない。航海の事故により、昨日生きていた人が今日は帰らぬ人になることも日常茶飯事の時代。そんな死が隣り合わせだった時代に彼らも生きることの意味を当然考えたはずである。

出雲は「志」を基に全てを受け入れることのできる思想を完成させた。それによって八百万神の統合を可能にし、神在月信仰にいったたのである。このことは日本の原点をも意味している。


出雲が日本に残したもの
日本は思想のない国といわれてきた。これまで我々日本人はそれを恥じていた風がある。日本をよく言う人はそれを日本器(うつわ)論で防戦した。つまり日本は一つの器であり、いろいろな思想が入ることもでき、そしてそれは日本風にアレンジし直されるということである。しかしそれは全て借り物ではないかと反論されると誰もがそれ以上声高に主張できなかった。それは「志」を基盤にした思想が見過ごされていたからである。

出雲が日本に残したものは日本の「肯定性」である。出雲人は「志」を持つ限り全ての思想を受け入れることができるとした。そしてその「志」は永遠に大地に留まるものとして扱われた。

全ては流れ流れてもとに戻るという輪廻転生の思想はインドで生まれた。その思想は日本にも入ってきて、全ては河の流れのように留まることはないという非常に日本的な美をもつに至った。しかし出雲人は「志」を持って人生を創り上げることでこの地上に永遠に留まることができると考えたのである(よって不慮の事故死や病死の場合は水葬によって再び生まれ変わってこれるという相反する思想も生れることになった)。それが風葬からきた山岳信仰、そして八百万神や「お隠れになる」といった文化を生むことになった。この「志」を抱いて生きる限り、全ては「肯定」されるという思想こそ出雲の魅力なのである。

これからの日本
これから日本はどうなっていくのだろうか。先行き不透明な時代、情報の氾濫の中で日本人は新しい道標を求めている。日本人だけではない。世界中の人々が冷戦の終結後の宗教問題、民族問題、アジアの経済停滞など新秩序を模索している段階である。その中でこのインターネットを通して広がる電脳空間こそ今、最も新秩序の鍵を握っているといえる。

この電脳空間は国境を越えることは勿論、文化・文明さえ侵食しかねない。それでいいように見えるが、ことはそう簡単ではない。「文明」というものは誰もが参加できるものであり、普遍性の強いものである。それに対して「文化」はそれを共有することができる者のみ居心地がよく、排他性の強いものである。電脳空間が広がることによって排他性の強い「文化」は薄められ、骨抜きにされていく。「文明」のほうは関係がないように思えるが、そうとはいえない難しさがここにある。なぜなら「文明」とは「文化」が高濃度に高められていく過程においてのみ形成されるものであるからである。よってそれぞれの「文化」が骨抜きにされてしまえば「文明」を形成する基盤はいつまでもできないということになる。

一昔前のように世界は一つに統合されると思っている人はいったい今この世に何人いるのだろう。結局、世界は一つという幻想は強者の論理によって成り立っている。簡単に弱者の主張は握り潰されてしてしまい、権力者のいいなりになる。これは歴史が始まって以来繰り返されてきたことである。しかしこの歴史の中にあって出雲の思想は特異な位置を占めていることに気づかされる。

世界は常に統合を目標に分散を繰り返してきた。しかし出雲の思想は統合を目指しはしない。「志」を持つことによって、全てをありのままに受け止め、「志」を遂げるために必要なものを吸収するのが出雲の思想である。これは「志」ある限り、生きるための基本的合意を踏まえているならば全ては認められ、思想統制を行わないということにもなる。言うなれば出雲は分散を目指すことによって統合を為そうとするのである。これは電脳空間の中でも最も重要な思想である。具体的には「それぞれの文化を尊重し、自分の文化に向き合え」というテーゼである。これは現在の日本にも当てはまる。日本はそろそろ自分と向かい合う時かもしれない。その中にしか答えはない。

そして全てはこの場所から始まっていく。そのため各々が「志」をしっかりと持ち、集いあう場所が必要なのである。かって出雲がそうであったように。

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