出雲から日本を見る |
出雲の思想は全てを受け入れることにある。そして「志」を持つことがどれほど大切かということを出雲人は知っていた。その「志」が自分に何が必要かを教えてくれ、どう行動すべきかを知らしめてくれた。このことは現在の日本を考える上でも示唆に富んでいる。
出雲が日本に残したものは日本の「肯定性」である。出雲人は「志」を持つ限り全ての思想を受け入れることができるとした。そしてその「志」は永遠に大地に留まるものとして扱われた。 全ては流れ流れてもとに戻るという輪廻転生の思想はインドで生まれた。その思想は日本にも入ってきて、全ては河の流れのように留まることはないという非常に日本的な美をもつに至った。しかし出雲人は「志」を持って人生を創り上げることでこの地上に永遠に留まることができると考えたのである(よって不慮の事故死や病死の場合は水葬によって再び生まれ変わってこれるという相反する思想も生れることになった)。それが風葬からきた山岳信仰、そして八百万神や「お隠れになる」といった文化を生むことになった。この「志」を抱いて生きる限り、全ては「肯定」されるという思想こそ出雲の魅力なのである。
この電脳空間は国境を越えることは勿論、文化・文明さえ侵食しかねない。それでいいように見えるが、ことはそう簡単ではない。「文明」というものは誰もが参加できるものであり、普遍性の強いものである。それに対して「文化」はそれを共有することができる者のみ居心地がよく、排他性の強いものである。電脳空間が広がることによって排他性の強い「文化」は薄められ、骨抜きにされていく。「文明」のほうは関係がないように思えるが、そうとはいえない難しさがここにある。なぜなら「文明」とは「文化」が高濃度に高められていく過程においてのみ形成されるものであるからである。よってそれぞれの「文化」が骨抜きにされてしまえば「文明」を形成する基盤はいつまでもできないということになる。 一昔前のように世界は一つに統合されると思っている人はいったい今この世に何人いるのだろう。結局、世界は一つという幻想は強者の論理によって成り立っている。簡単に弱者の主張は握り潰されてしてしまい、権力者のいいなりになる。これは歴史が始まって以来繰り返されてきたことである。しかしこの歴史の中にあって出雲の思想は特異な位置を占めていることに気づかされる。 世界は常に統合を目標に分散を繰り返してきた。しかし出雲の思想は統合を目指しはしない。「志」を持つことによって、全てをありのままに受け止め、「志」を遂げるために必要なものを吸収するのが出雲の思想である。これは「志」ある限り、生きるための基本的合意を踏まえているならば全ては認められ、思想統制を行わないということにもなる。言うなれば出雲は分散を目指すことによって統合を為そうとするのである。これは電脳空間の中でも最も重要な思想である。具体的には「それぞれの文化を尊重し、自分の文化に向き合え」というテーゼである。これは現在の日本にも当てはまる。日本はそろそろ自分と向かい合う時かもしれない。その中にしか答えはない。 そして全てはこの場所から始まっていく。そのため各々が「志」をしっかりと持ち、集いあう場所が必要なのである。かって出雲がそうであったように。 |