2.風葬と稲吉角田遺跡出土土器


この風葬儀式がどういうものであったかを分かり易く図解できればそれにこしたことはないのであるが、なにぶんほとんど絶えてしまったと言われる葬儀法であるため説明しにくいところである。ただ「ひょっとするとこれは風葬様式の図ではないか」と密かに考えている遺物が存在している。

稲吉角田遺跡(鳥取県)出土の弥生式土器である。
この土器はちょうどくびれの部分に絵が描かれている。発見当時、弥生時代の風俗を伝えるものとして全国的に有名になったものである。

(1) (2) (3)
(4)

順を追って見ていくと、(1)は「銅鐸」を表したもの、(2)は当時の「舟」を表したもの、(3)の中央部分は「米倉」を表したもの、(4)は「神殿」を表したもの( 平安時代に出雲大社は高さが16丈もあったことから出雲大社の前身ではないであろうかとの類推)というのが通説である。

しかし本当にそうであろうか、というのが私の疑問である。その根拠として(2) の船の図を揚げたい。船に乗っている人の頭のところに長い羽根のようなものがあるのに注目してほしい。古代日本の舟葬問題についての研究で有名な松本信広氏はこう述べている。

「古事記の中に天鳥船という神名が見える。これが事代主のところに使者として降下してくるのであるが、書紀によると三穂之岬に使者稲背脛を乗せていく熊野諸手船のまたの名天鳩船とある。こういう名称それ自身は、すでにたいへん合理化しておるが、最初はおそらく鳥が霊魂を太陽または天に送り届けるという南洋に広く行われている鳥船信仰と関連をもったものであり、古代日本人もかっては鳥と船とを結びつけ、これを天空または太陽へと通うよすがと考える習俗を有していたのではあるまいか」

東南アジアのドンソン文化と呼ばれる青銅器文化の、最も特徴的な遺物である銅鼓の上に鳥装をした人物を乗せた鳥形の舟が描写されている。

松本信広「日本の神話」より

この図は葬儀における情景と、それにともなう霊魂の飛揚をめざす鳥船の図とともに招魂の場面が描写されており、これに参加している鳥装の人物は、この目的をはたすのに必要な呪術者であると言われている。また「葬制の起源」(大林太良著 角川選書92)にも面白い記述がある。

出雲や北九州の北の方向にある南朝鮮の古代にも天鳥船とそれに関連した習俗があった。「魏志」(巻30)には、弁韓では人が死ぬと大きな羽根をもって送る。これは死者の霊魂を飛揚せしめるためであることが記されている。また最近、方善柱氏が紹介した慶北達城県玄風で発見された墳墓から出土したという舟形容器の後部に鳥の仮面をかぶった操舵手の像があり、古代の朝鮮南部にも「天鳥船」の観念があったことは明かである。(P204)

このことから私は(2)の図が鳥装を表す図であり、さらにはこの稲吉角田遺跡出土土器全体が葬儀方法を表したものではないかと推測するのである。そう考えることによって(1)の図が説明しやすくなる。「木にぶら下がった銅鐸」と言われているこの図こそ、一番初期の風葬儀式である「樹木葬」の図なのではないかと私は考えるのである。なぜならこの図は「さんか研究」(田中勝也著 新泉社) に記載されている「死者を網籠に入れて、人目につかない川上の樹木に吊して風化させた」という樹木葬の説明とそっくりであるからである。

次に(3)
の「米倉」を表したものであるが、葬儀方法を描いたものとすれば、この図は「モガリ」だと考えられないだろうか。「モガリ」は古代の文献にたくさん出てきており、古代の葬儀法であったことは確かである。しかしその葬儀法がどのようなものであったかははっきりしていない。一般的に「モガリ」を説明するときには、大国主命や事代主神が中に入って死んだという「青柴垣」や、「日本書紀」でイザナギノミコトが黄泉の国で見た「イザナミの死体安置の場所」を引き合いに出す。この二つから「モガリ」とは樹木葬と同類の風葬の一種ではないのだろうかと私は考えるのである。。古代の「天皇のモガリ」は、一番短いもので2 ヶ月、だいたい5ヶ月から1年半とか3年とか6年であったという。これは風葬の「モガリ」の期間、つまり肉体が朽ちて骨になるまでの期間があるためではないだろうか。

そして最後の(4)は最も有名である。みなさんはおそらくあの社を想像するであろう。そう、出雲大社である。出雲大社が平安時代の「口遊」で「雲太和二京三」と書かれ、当時日本一の高さであったことはよく知られている。しかも、社伝によれば、「上古は32丈(約98メートル)、中古は16丈(約48メートル)」だったという。このことからその出雲大社の前身がこの絵の建物だと言われるに至っている。建物は海に突きでた所に建てられており、舟で行き来していたことが分る。なぜこれほどの高さを必要としたのだろうか?一説には航海の目印としても役立つからだともいわれる。とすると、それは私が主張するところの、彼らが航海民だったからとも考えられる。さらにこの建物が葬儀方法に関係していたとするならば、この建物は「モガリ」の期間を終え、洗骨された遺骨を収めるためのものだったと考えられはしまいか。この時代の神殿跡は全国でもかなり多く発見されている。その神殿が風葬後の遺骨を奉納する場所だったとしたらどうであろう。

戻る