3.風葬と神殿

近年、弥生時代の環壕集落の遺跡が次々と発見されている。
巨大なものでは佐賀県吉野ヶ里遺跡、奈良県唐古・鍵遺跡、大阪府池上曽根遺跡などが有名である。
環濠集落は弥生時代の中期、紀元前2世紀頃に増加し、多くの場合、紀元前後の中期末には衰退する。

環壕集落内には首長の住居、神殿、工房地区があったと言われている。その工房地区からは青銅器やガラス製品の鋳型や金属滓等が発見されている。このことから環濠内に様々な職業集団を抱えていたことを示している。3世紀にあたる弥生時代の終期末から古墳時代初期には、首長の居住区だけを壕や柵列で囲み防御施設を持つ居館が登場することから、一般には環壕集落はまだ都市の機能を持っていない初期の集落と考えられている。しかし私はここで見解を異にする。


上図は環壕集落の簡易図である。環壕内で手工業や交易が行われていたことや、石を積み上げた船着き場が存在していたこと(長崎県辻遺跡)から、この環壕集落は「航海民の流通センター機能を備えた都市」ではなかろうかと私は考えている。
環壕中央に存在する首長の居住区は神殿であるとも考えられている。このことから「2.風葬と稲吉角田遺跡出土土器」で見てきたように、私はこの神殿に「モガリ」後の首長の骨を収めたのではないかと考える。

民俗学者の柳田国男は著書「葬制の改革」にて、日本の墓地には2つの種類が存在するということを発表した。これが有名な「両墓制」、つまり追葬儀式の研究である。柳田氏はこの「両墓制」の一方を「葬地」、もう一方を「祭地」とした。なぜこのように「葬地」と「祭地」が別れているかについて、柳田氏は深い言及を避けている。柳田氏は「両墓制」の起源が沖縄、奄美大島の風葬に求められると控えめに述べているにとどめているが、特に結びの文は興味深いので以下に掲載する。

即ち後々は祭祀の力を以って、亡魂のよって石に憑ることを、信じ得るようになったけれども、最初は現実に骨を移し且つこれを管理しなければ、子孫は祖先と交通することが出来ず、したがって家の名を継承する資格がないものと考えていたのではあるまいか。姓をカバネといい、カバネが骨という語と関係があるらしいから、私は密かにそう想像する。但しこの推定が今後集まってくる新資料に照らして、幾度となく鑑査せらるべきは勿論である。(定本柳田国男集15巻「葬制の改革」P520)

以上のことどもも、風葬を神山にて行い、数年して骨だけとなったものを神殿に祭る、と考えると様々な疑問に答えることができる。これに関連した2つの事例を以下に示す。


「姓」の由来について
実際のところ「姓」の由来ははっきりしていない。色々な説があるが、一般には古代の貴族の階級である「カバネ」は「骨」を意味し、新羅の「骨品制度」と関係していると言われている。新羅の「骨品制度」も今では由来がはっきりしていない。礼を重んじる朝鮮では、その制度はあまりにも生々しく、なおさら「骨」を階級に用いていたと解釈したくないところであろう。
ではなぜ古代の貴族の階級は「骨」で表していたのか?柳田氏も著書で述べているように、これに答えることができるのは風葬儀式しかないように思える。もしそうだとすると日本の「風葬文化」は相当奥深いものであり、当時の最先端の文化であったことを示していることになる。


「鳥居」の由来について
みなさんが何気なく素通りしている神社の「鳥居」もはっきりとした由来が分かっていない。これも諸説入り乱れているのであるが、一般には、古来、鳥は死者を運ぶ霊鳥であると考えられており、その鳥の宿り木として「鳥居」が存在する、ということになっている。しかし私はここでも説を異にする。
私はこの「鳥居」の構造に関心がある。これまで述べてきた風葬儀式と神殿の関係から、この「鳥居」は「モガリ」を表現しているのではないかと私は考えるのである(「鳥居」と稲吉角田遺跡出土土器の(3)の写真(前ページ参照)を比べて見てほしい)。ここからは私の想像になるが、「鳥居」とは、身につけていた肉など諸々のものを取り除くという意の「取居(衣)」であったのではなかろうか。

神殿が骨の安置所だったとすれば、現在に至る神社の原型は神となった航海民の首長の納骨場所だったということになる。神社は神の御屋代、又は依り代と言われる。まさにその名の通り、社は神の墓だったと可能性が考えられる。ここに日本中に八百万神を誕生させ、小泉八雲を感動せしめた神話の原点があるのではなかろうか。

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