4.風葬と青銅器(1)


青銅器には謎が多い。
私は謎解きというものにさほど関心がない。しかし古代出雲を調べているとどうしても青銅器文化の問題に突き当たる。それほど古代出雲と青銅器文化は切っても切り離せない関係にあるといえる。近年、出雲を有名にしたのも「荒神谷遺跡」の銅剣・銅鐸・銅矛と「加茂岩倉遺跡」の銅鐸であった。そのため古代出雲を語ろうとすれば、その中で青銅器文化をきっちりと位置付けしなければならない。そこで私は独自の見解で、出雲における青銅器文化の位置づけを試みた。調べてみるうちに興味深い文化考察にまでなった。以下にそれを紹介したい。


青銅器は古墳文化が始まる前にほとんど使用されなくなる。
これまでの私の自説を読んでいただいた方々には次の展開がよめるであろう。そう、私は
青銅器文化も航海民の風葬儀式に関係していると考えている。

去年発売された
「銅鐸「祖霊祭器説」-古代の謎発見の旅-」(井上香都羅著.彩流社)では「青銅器は神山を祭るものである」という説が提唱されていた。この著書は風葬儀式について触れていないが、神山と青銅器の関係を事細かに調査してあり一読の価値はある。
私はその「青銅器は神山を祭るもの」という論点を更に進めて、
「神山のモガリ期間である(荒魂)を鎮め、神殿に納骨して(和魂)となる儀式に使用するもの」と考えたい。

そこで参考にしたいのが「隋書東夷伝」の記述である。一般には(馬韓)の項の「銅鼓」の文が有名であるが、私はこの著書の見過ごされてきた一文を紹介したい。それは(高麗)の項である。


「死者は屋内に殯し、3年を経て、吉日を択びて葬る。父母及び夫の葬に居るには、服は皆3年、兄弟は3月。始めと終わりには哭泣し、葬するときは則ち鼓舞し楽を作して以って之を送る」

「(訳)人が死んだ時は、死体を建物の中に安置し、3年経ってから吉日を択んで正式に葬る。父母と夫の喪に服するには、3年間喪服を着る。兄弟の場合は3ヶ月である。葬儀の始めと終わりには声をあげて泣き、葬る時には、鼓を打って舞い、音楽を演奏して使者をおくる」

(「中国の古典17|倭国伝-隋書東夷伝-」高麗参照 藤堂明保・竹田晃・影山輝国訳 学研)より


この文は「風葬儀式」を表している可能性がある。この「葬る時」に用いた「鼓」が銅鐸だったのではないか?

特に「銅鐸」についてはこれまで色々な意見が出されてきたが、はっきりした使用方法は未だ提示されていない。一度失われた文化は容易に再現し難い。これは古代に失われた文化を再現することに止まらず、現代も失われていく文化の保存とも関係し、考えさせられることの多い問題でもある。

このような失われた文化を再現しようとする場合、最も素朴な疑問から始めた方がいい場合がある。私は今回、完全な再現は不可能ながらも、青銅器の使用方法について小さな疑問から少しずつその再現を考察し、青銅器文化の核心に近づいていくことを試みた。これはその試みの途中報告である。

はじめ私が疑問に思ったことは些細なことであった。それは色々検討を重ねていくうちに、段々と大きな疑問になっていった。そしてしだいにその疑問が青銅器の謎を解く重要な鍵となるのではないかと思うようにまでになった。

それは青銅器文化最大の謎といわれる「銅鐸」に関する疑問である。
専門家の方々からすれば笑うような疑問であるかもしれない。それは
「なぜ銅鐸の型持ち穴を埋めずに残しておいたのだろう?」ということである。以下の銅鐸簡易図を見てほしい。
このように「型持ち穴」は銅鐸を作るときの「型の支え」となる部分である。この見解について異論はない。ただ製作者の視点から見れば奇妙な点に気づくはずである。

「銅鐸」は青銅器時代の貴重品である。現代でもこの制作技術は賞賛に値すると言われるほどのものである。細部の絵や幾何学模様は当時の輝きを失った今でも美しい。それほどのものなのである。なのに何故?何故、製作者はこの「型持ち穴」を埋めようとしなかったのか。

本来それほどの完成度を誇る青銅器ならば、制作者は「型持ち穴」など残すような不手際は犯さないはずである。


実際、銅剣の場合はその「型持ち穴」を奇麗に埋めているのである。近年、ペンダントにもできそうな小型の銅鐸が見つかったが、その小型の銅鐸にさえ「型持ち穴」は残されていた。

この疑問を考えていくうちに、その発想自体が間違っているのではないかと思うようになった。つまり製作者は「型持ち穴を埋め忘れた」のではなく「意図的に残す必要があった」のではないかということである。

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