5.風葬と青銅器(2)


>この疑問を考えていくうちに、その発想自体が間違っているのではないかと思うようになった。つまり製作者は「型持ち穴を埋め忘れた」のではなく「意図的に残す必要があった」のではないかということである。

前回の終わりに「銅鐸の型持ち穴は意図的に残したものではないか」と述べた。今回はその理由を提示し、さらには青銅器の使用方法について考察する。

それは一冊の本との出会いから始まった。
「神々のメッセージ-古代祭祀線への挑戦-」(堀田総八郎著・中央アート出版社)がその本である。以下にそのきっかけとなった文章を紹介する。

太陽崇拝族と銅鐸で知る冬至祭祀
この世界には昔も今も太陽を崇拝する民族が各地に存在し、日本でもかって太陽崇拝を行っていた痕跡がさまざまな形で残っています。
弥生時代に入っての稲の栽培では夏至が重要な農業暦の一日となり、古代のシャーマン(巫術師)たちは、この日を人々に告げ、田植えの督促をした。また、冬至の日は一年中で太陽が一番弱くなると見られていて、この日を境にして太陽が再生し、復活すると考えられていました。そこで、これを人間の生命のよみがえりに重ね合せて、生命の復活を願う祭を行ったといわれています。
この夏至や冬至の太陽の日の出線を示す有名な史跡にイギリスのソールズベリにあるストーンヘンジがあります。紀元前1900年頃に形成されたとされるこのストーン・サークルの北東方向には夏至の太陽の日の出線方位が開き太陽観測の要石があり太陽祭祀が行われたのではと推測されています。
南米のインカ文明でも、夏至に太陽神をあがめる大祝典があり、貴族や高官がその首都クスコに集まりました。
日本各地の2至2分(夏至・冬至・春分・秋分)の日の出入り方位を国立天文台編の「理科年表」で見ると下表となり、緯度が高くなるにつれて南北への方位角が大きくなることがわかります。
日の出入り方位
北 緯 夏 至 立 夏
立 秋
春 分
秋 分
立 春
立 冬
冬 至
20°
25
30
32
34
36
38
40
45
50
+25.4°
26.5
27.9
28.6
29.3
30.2
31.1
32.1
35.3
+39.5
+17.7°
18.5
19.5
19.9
20.5
21.0
21.6
22.3
24.4
+27.1
+0.3°
0.4
0.5
0.5
0.6
0.6
0.7
0.7
0.9
+1.0
-17.1°
17.7
18.4
18.8
19.2
19.7
20.2
20.8
22.5
-24.8
-24.7°
25.6
26.8
27.4
28.0
28.8
29.6
30.5
33.2
-37.0
表.各地の日の出入り方位(「理科年表」1990版より)

古代日本にだけ出土する遺物として有名な銅鐸について、型持ち穴が二至の太陽の日の出線の向きを示しているのではと指摘した方もあったようです。もし、この型持ち穴が二至の太陽の日の出線ならば、緯度によって日の出の方位角が変るため、大和地方(北緯34度30分前後)と九州北部(北緯33度30分前後)とでは、その方位角に一度近くの差があり、同じ銅鐸で大和と九州北部の日の出線を測るとすれば、あくまでも簡易観測器の域しか出ず、地域ごとに型持ち穴の位置を変えた鋳型を作り替えねばなりません。

(「神々のメッセージ-古代祭祀線への挑戦-P25−26.堀田総八郎著・中央アート出版社)とある。
ここで注目してもらいたいのは
「弥生時代に入っての稲の栽培では夏至が重要な農業暦の一日となり、古代のシャーマン(巫術師)たちは、この日を人々に告げ、田植えの督促をした。また、冬至の日は一年中で太陽が一番弱くなると見られていて、この日を境にして太陽が再生し、復活すると考えられていました」の部分と「古代日本にだけ出土する遺物として有名な銅鐸について、型持ち穴が二至の太陽の日の出線の向きを示しているのではと指摘した方もあったようです」の部分である。確かに銅鐸の型持ち穴を以下のように覗いた場合、視点の交差する角度はほぼ60°となる。これは出雲の位置である北緯35〜36°での「夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ直線」と「冬至の日の出と夏至の日の入りを結ぶ直線」の交差する角度と等しい。

このことから、銅鐸は「太陽を基準にして方位を測る道具」として用いられていたのではなかろうかと私は考える。ではさらにこの銅鐸を用いて、実際どのように方位を測ることが出来るのかについて考察していきたい。

島根県斐川町が毎年募集している「荒神谷遺跡の謎ブックレット−8」論文・アイデア優秀作品の一つである松本司氏の「「神の宮処」の風水計画」の中で面白い考察が述べられており、これが銅鐸の使用法の鍵を握っていると私は考える。下の図を見ていただきたい。

このように2つの遺跡を結ぶ直線は「夏至の日没方位と冬至の日の出方位を結ぶ直線」と一致している。
そしてさらに、この論文では「大黒山と高瀬山から荒神谷遺跡までの距離がそれぞれ等しい」ことが述べられている。これは一体何を意味しているのであろうか?

私はここに青銅器、特に銅鐸が使用された痕跡があると考える。

2つの遺跡を結ぶ直線が「夏至の日没方位と冬至の日の出方位を結ぶ直線」と一致していることから、古代人は夏至と冬至を知っていたということが分る。更に言えばこのことは彼らが一年周期を記録していたということになる(夏至と冬至を知っていれば、当然太陽が昇って沈むのを一日とし、夏至から冬至までの日数を数えることができたと推測できるからである)。つまりこの当時から暦らしきものが存在していたと考えることができる。

それではいったいどうして上図のように「夏至の日没方位と冬至の日の出方位を結ぶ直線」上に2つの遺跡を残すことができたのであろう?
ここからは我々が推測するしかないが、前回提示したように銅鐸が「太陽を基準にして方位を測る道具」であったとすると、この銅鐸を使って場所を決めることができるのである。

はじめに日の出と日の入りを基準にして東西南北を決定しなければならない。このことは2つの神名火山(仏教山と大船山)がほぼ南北を指すことから意識的に南北に対峙している2つの山を神名火山に定めたと考えることができ、当然東西南北は知っていたと考えられる。

次に銅鐸を大黒山、高瀬山の両山に持ってあがる。
その銅鐸の「ひれ」の部分を東西に合わせる。このとき下図のように「型持ち穴」を覗いたところが夏至冬至の日の出入り場所ということになる。
そして下図のように、お互いの山を型持ち穴から覗けるようにすると、もう一方の型持ち穴から見える場所の重なるところは両山から等間隔の場所である。そして場所が重なったときに銅鐸を合図として鳴らしたのではあるまいか。このことにより場所を定めるのには少なくとも3人以上の人数を要するということが言える。

これを反対方向でも行えば2つの場所を結ぶ直線は「夏至の日没方位と冬至の日の出方位を結ぶ直線」と一致する。
これで2つの遺跡が山の斜面に置かれたのは両山から見える場所である必要があったためということが推測できる。しかしいつもいい場所があるというわけではない。そのためきっかり銅鐸の角度だけで場所を決定することは困難であるような気がする。それを決定するためにはさらにもう一つの道具が必要である。それは分度器のようなものである。つまり角度に目盛り(日付)を刻むことができれば、自由に場所を、等間隔に決定できるのである。実際にそのようなものが当時存在したのだろうか?現在に至るまでそれらしき遺物は発見されていない。ただ存在していたと仮定すれば、銅鐸が方位を測る道具として用いられるようになった理由が肯ける。

ここからは空想の域を出ないが、もし仮に目盛りを刻むとすれば、中心点から離れるほど目盛りは大きくなり測度計として扱いやすくなる。そのために空間と視点を利用した銅鐸の「型持ち穴」が発明されたのではあるまいか。


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