6.風葬と青銅器(3)




前回は2つの山(大黒山と高瀬山)から荒神谷遺跡)までが等距離にあるということを話した。これは2つの山の頂点と遺跡の位置が二等辺三角形の関係にあることを示している。つまり彼らは既にピタゴラスの定理を経験値的に知っていたということになる。

ここに一冊の本がある。
「日本地図から歴史を読む方法」(武光 誠著・河出書房新社)である。この中の面白い文章を紹介したい。

日本人は国土をどのように把握してきたのか
現在の私たちは、地図帳などによって日本列島の正確な形をつかんでいる。しかし、それは近代つまり明治時代になってはじめて明かになったものである。

現在、三角測量の方法によって2点間の距離や面積を正確につかめるようになった。たとえば100mあいだをあけたA点とB点からC点をみた角度をつかみ、三角形の縮図を作ると、AB間でC点にもっとも近いD点の位置とそこからC点までの距離hがわかる。hに100をかけて2で割ると、三角形ABCの面積が出る。現在の日本地図は地図に△のマークのある目標を用いて無数の三角形に分解されてつくられている。1つの地点の緯度は北極星の高さの観測、経度はクロノメーター(太陽が南中して影が真北になったときの時間をはかりその時差から経度を知るための正確な時計)で測る。

この作業をくり返し行って地図をつくる。ところが、三角測量が日本に入るのは明治時代である。

といっても、古代人も地図づくりを試みている。彼らは目印のついた縄で距離を測った。そして、一定の長さの棒を立てて日の出と日没のその影の先をつなぐと正確な東西の線をつかめる。それに直交する線が、南北の線になる。

(P16-17)


この文章では古代人が素朴な方法で地図づくりを行ったと記しているが、弥生の昔からピタゴラスの定理を知っていたならば既に三角測量の下地は出来上がっていたということになる。

「魏志倭人伝」には既に方位と距離が記載されている。簡易的ではあるが当時から測量が行われていたと考えてよいだろう。「神々のメッセージ」(堀田総八郎・中央アート出版社)では、縄文時代から古墳時代に至るまで綿密な測量が行われていたことを様々な例を挙げて説明している。この本の中では「弥生時代に入っての稲の栽培では夏至が重要な農業暦の一日となり、古代のシャーマン(巫術師)たちは、この日を人々に告げ、田植えの督促をした。また、冬至の日は一年中で太陽が一番弱くなると見られていて、この日を境にして太陽が再生し、復活すると考えられていました。そこで、これを人間の生命のよみがえりに重ね合せて、生命の復活を願う祭を行ったといわれています(P25)」と理由が記載されている。しかし私はもっと他に直接、測量を必要とする職業を主としていたためにこのような測量技術が発展したと考えている。それは航海である。

当時、航海には様々な技術が必要とされていた。その中でも天候、海流、地形などの自然条件を克服することは大切な技術の一つであったと考えられる。航海人達は測量をしながら当時の地形を調べ、船着き場に適した潟湖を探していったのではないか。その測量法が正確に求められ、発展していく過程で青銅器(特に銅鐸)が発明されたと私は考える。

その測量方法は今となっては正確には分らない。もっとも「山当て(又は遺跡の様な目印)」と銅鐸の三角測量、そして方位と船の速度との関係を用いれば簡易的な測量は可能である。「神々のメッセージ」(堀田総八郎・中央アート出版社)ではその測量法として、彼らが既に図解測量法の一つである交会測量法を行なっていたと説明している。

古代人は図解測量法の交会測量法も知っていた
(A)後方交会測量法
国土地理院九州地方測量部では、さらにヨット上で現在位置を知る地文航法( 測量)について、「この航法は、自分の位置(測量ポイント)が測量基点となる目標物より手前に見る測量法で被測量点に頂角がくる後方公会測量と呼ばれる測量法と同じ原理である」とご教示いただきました。
後方公会測量法とは、平板測量で用いる図解測量法のうちで、交会測量法と呼ばれる測量法の一つです。この測量法の特徴は、測量によって生じる誤差をその場で点検できる利点があるのですが、隠蔽地や磁針の偏りに変位をきたす所では難があります。海上から地上物を目標として視認し自分の位置を割り出す測量法と全く同じやり方で、海人族が多用する測量法ともいえます。

(B)前方公会測量法
後方公会測量法に対して、自分がいる位置の前方に測量ポイントがある場合を前方公会法と呼び、測量基点を頂点としています。
求めようとする測量点付近が隠蔽されていたり、磁針に偏差がある時に有利な測量法です。秋田県鹿角市の大湯環状列石(紀元前2000年)の万座遺跡が、この測量法のみの二等辺三角形測量を用いています。現地で磁気偏差を調べていたわけではないので、なぜこの遺跡を築いた古代人がこの測量法しか使わなかったのかわかっていません。

(C)側方公会測量法
この測量法は、測量ポイントを変えて二ヶ所からちょうくし反視でき、測量器具の誤差を消すことができるので、磁針の偏りが激しいところに用いると有利な反面(前方公会法となる)、隠蔽されたところには不利な(後方公会法となる)測量法です。
この測量法は公会角(この場合は二等辺三角形の頂角)が90度の時に、公会点の測量誤差が最小となります。
これまでの検証例では、紀元前後の王墓がこの側方公会法のみで測量されていたり、神社の勧請や、弥盛地の移動・関連を示す時に用いられていることがわかっています。(P63-64)


以上のような測量法を複合的に使い、航海による精密な測量を行ったと私は考える。そしてその航海の目印とするために、風葬儀式を行い神殿を建てるようになったと考えられないだろうか。


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