ここはどこだろう? まわりにあるのはなにもない。空気の存在すら感じられない。

 えーんえーん。

 あれ? だれかいるの? こんなところに?

 どこかで小さな男の子が泣いている声がした。

 えーんえーん。

 僕は声のするほうへ向き直った。そこに誰かいる。

 ねえ、どうして泣いているの?

 僕は目の前にかがみ込んで聞いてみた。だが、その幼稚園ほどの子供はこちらの声が聞こえていないようだった。

 ただ、泣き続けた。

 えーんえーん。

 黙って見ているしかないのでその隣に座ってしばらく待ってみた。その子は誰かを待っていて泣いているようだった。

 この子、どこかで見たような気がする。この子が着ている服って見たことがある。この髪型、この靴…。

 …もしかして、これは僕自身? 小さな時の僕?

 えーんえーん。

 でも、僕にはこんな記憶はない。単に忘れているだけなのかもしれない。奥にある深層意識が見えているのかもしれない。だったら、泣いているのが僕なら待っているのはアスカを待ってるのだろうか。いつも、僕はこの年くらいの時はいつもアスカという少女を待っていたことが多かったから。

 その時、泣く僕の後ろから「シンちゃん」と呼ばれて僕らは2人とも振り返った。

 そこには、前髪で表情が隠れている4歳くらいの、小さな僕と同じくらいの女の子が立っていた。アスカじゃなかった。その子の髪は、赤でも黒でもなかった。あれって、何色なんだろう。
 どこかで見たことがあるような、そんな色。毎日のように見ている色。

 その子が言った。

「泣かなくてもいいよ」

 小さな「僕」は泣きやんでその不思議な子をまじまじと見つめた。そして、恐る恐る、

「君は?」と言った。

「私は……」

 僕はよく聞き取れなかった。だけど、小さな「僕」は聞こえていたらしい。

 少し微笑んで「僕はシンジ」と言った。

「うん、知ってる。遊ぼうよ」

「うん」

「バカシンジ!」

 え?

 君は一体…誰…?

























EPISODE:1 Boy meets Angel

























「バカシンジ!」
「え!?」
 シンジが目を開けてまず見たものは、自分の通う中学の制服をきた女の子の顔だった。顔にはしっかりと「不機嫌」の3文字が濃く化粧されて辺りに危険な香りを漂わせている。
「よーやくお目覚めね。バカシンジ」
「ふぅぁ…。なんだ、アスカか…!」
 シンジは欠伸を噛み締めた。彼が見たのは、なんのことはない、いつも見慣れている顔だったのだ。不思議な女の子と夢のことは、既にこの時点で、頭から雲が晴れて晴天が現れるように消えていた。
「なんだとはなによ。それが毎日起こしに来てくれてる幼なじみに捧げる言葉ぁ!?」
「うん、ありがとう」
 返事の内容と口調がまるで正反対だった事がさらにアスカのこめかみの不機嫌マークをより大きくする。そう言って、シンジは体の上の毛布をまたかけ直して横になった。「だからあと5分…」
「なーに甘いこと言ってんの! さっさと」
 アスカは毛布に手を伸ばす。「起きなさいよ!!」
「わっ!」
 アスカはシンジの小さな抗議を聞いてはいなかった。シンジのある一点に視線が注がれたまま、みるみるうちに顔が赤らんでゆく。
「キャーッ!エッチスケベ変態!しんじられない!」
 ばちーん、と軽快な音が部屋の外にまで響き渡った。
 アスカという少女は、まず、口よりも他のもの(手や足)がまず出てくる。シンジはそれを食らった。平手であった。

「あらあら。毎朝シンジも懲りないわね。アスカちゃんが起こしに来てくれてるっていうのに」
 シンジが頬を押さえて痛みに耐えている頃、その両親は既に朝食を終えてそれぞれいつも決まってやることをしていた。母のユイは皿洗い、父のゲンドウは新聞の紙面から視線をはずさない。シンジの部屋から景気のいい音がした後でも、眉の1つ動かさずにゲンドウは応えた。
「ああ」
「それはいいんですけどね、あなたも早く支度してしまってください。遅れて冬月先生に小言をいわれるのはわたしなんですから」
 後ろの部屋ではドタバタという音とシンジとアスカの声が交互に聞こえてきているのだが、ユイもいつものこと、と思っているのか、皿を洗う手は普段通り止まることはない。
「ああ、わかってるよ、ユイ」
 ゲンドウもユイの言葉に頷きながらも新聞から視線を外すことはなかった。それを横目で見ながらユイは内心ため息をつきながら思った。今日も遅れるわね、と。
「いちいちうるさいなー。もう。アスカは」
「何ですってぇ!」
 その時、今日2回目のビンタの音が碇家に木霊した。








 ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ…
 碇シンジが幼なじみから有り難くもない贈り物を頬に2回ほどもらっている頃、3個目の目覚まし時計のアラームでようやく目を覚ませた女の子がいた。どちらかというと、目覚ましの音で、と言うよりはカーテンの隙間からこぼれてくる朝日が、彼女の顔を照らしたのがまぶしくて目が覚めたという感じである。
「……っ…ぅー……ん…」
 言葉にならないかわいらしい声を上げながら体を伸ばした。半身を起こして、両手を頭の上に上げてグッと背筋をまた伸ばす。昨日の晩、枕が変わると眠れないタイプではないのだが、夜遅くまで眠れずにいた割に、目が覚めたときはすっきりしている、と彼女は思った。すがすがしい朝だ。今日という日にふさわしいとも思った。
 まだ鳴っている目覚まし時計のスイッチにチョップをたたき込んで静かにさせた後、彼女はベッドから起き出した。身体にかけていた毛布がはらりと床に落ちる。寝る際に来ていたTシャツとハーフパンツというごく普通の姿でさえ、彼女のスレンダーさが普通の人間なら目に飛び込んでくるに違いない。
 腰から伸びた足は転校前の友人達が羨んだほど長くて美しかった。「あと15センチ身長があればスーパーモデルなのにねー」と、事あるごとにからかわれていたというのも万人が一瞬で理解するに違いなかった。
「あー…えーっと……そうそう、がっこー行かなきゃ…」
 今何時だっけ? という思考は言葉にせずに、カーテンを開けるために窓に近づいた。と、その時に何かにつまづいてこけそうになる。壁に手をついて足下を見ると、少しのばしすぎ気味の足爪の先には先ほどチョップをたたき込んだのとは違う目覚まし時計が転がっていた。足の爪を帰ってきたら切らなきゃ、と思ったのは時計の裏の電池カバーが外れていることに気がつくまでだった。
「あれ?」
 しかも、電池が外れていて時計は6時半を指したまま止まっている。これは一個目だから、この時間に自分が寝ぼけてけ飛ばしてしまったんだろう、というのはわかる。そこまで考えて青くなった。2個目までならいくら寝ぼすけのじぶんでもいい加減起きるだろうとセットしたのは7時半である。しかし、さっきチョップしたのは2個目ではない。3個目だ。3個目は8時にセットしていたはず…。
「ち、ちちちこくだー! 1日目からーっ!!」
 彼女が改めて壁掛けの時計を見直してその先にあったのは、短針が8を、長針が1の数字を指しているときだった。
 慌て洗面所へ駆け込もうとして、自分が寝ぼけて殴り飛ばした2個目の目覚ましに復讐されていた。気がつかずに、つまづいて顔をしたたかに床に強打したのである。
「もー、いやー!」










「じゃあ、おばさま、行ってきまーす」
「…行ってきます」
 これほど対照的に見える2人も珍しい、と我が子の事とは思えないようなことをシンジの母、碇ユイは思った。「いってらっしゃい」と返事を返しながら、シンジの冴えない顔とアスカのきびきびとした態度と行動が毎日のことながら面白かったのである。シンジの父、ゲンドウにそのことを以前話したら、
「まったくもってその通り」
 と、シンジが聞いたら怒るか拗ねるか、というようなことをさらりと言ってのけた。ただし、シンジの目の前でも同じことを言ったに違いないが。碇ゲンドウという男はそういう人間なのである。
 そのゲンドウにユイが言ったのは、
「ほら、もうあなた! いつまで読んでるんですか!」
「ああ。わかってるよ、ユイ」
 シンジは扉が閉まるのをアスカの肩越しに見ながら、新聞の畳まれる音と、母の「今日は忙しい」とゲンドウに言った声が耳に残った。

 郊外から都心部へと延々と続く車の列を横目に見ながら、シンジとアスカは広めに区画された歩道の上を走っていた。軽快でリズミカルな音が晴れた青空に飲み込まれていくようだった。シンジたちの学校は少し郊外、というより緑の多い地域の小高い山の中腹にある。そこまでいくのに坂をいったん下った後にまた上らなければならないが、その登りが始まるところまで走らなければ朝のホームルームに間に合いそうになかった。
「…そういえば」
「え、なに?」
 息ひとつ2人は切らすことなく走っていた。これもひとえにシンジの毎朝の寝坊のおかげである、とアスカは信じて疑わない。運動音痴の部類に堂々と入れるシンジが、走ることにかけては優秀な成績だという紛れもない事実があるからだ。
「今日も転校生がくるんだってね」
 アスカは別段驚くことも不思議がることもなく、
「まぁね。ここも来年は遷都されて新しい首都になるんですもの。どんどん人は増えていくわよ」
 と言った。昔からこの街に住んでいる2人にとって、幼い頃から見てきたこの街の急激な発展は当然のものとして映った。第3新東京市は第二次遷都計画に基づく新しい街であり、その遷都が決まった頃に彼らはこの街に移り住んできたのだ。だから、小さな頃の思い出といえば、空き地ばかりの区画された土地で遊んだことなのである。
 もっとも、シンジにとってはそんな事はどうでもいいことだった。関心があるのは別のことである。
「そうだね、どんな娘かな?」
 シンジの頭の中には先日、担任の教師の「新しい転校生は女の子」というフレーズが右から左へと流れていた。
「かわいい娘だったらいいな」
「もォ……」
 ムッとしながらアスカは走っていた。だが、すぐになぜ自分が腹を立てる必要があるのかと思うと、あわてて表情を戻す。このとき、まだアスカにとってシンジという対象はどう言い表せばいいのかわからない、不明瞭な存在だったのである。その思いが言葉にできるようになったのはもう少し先だった。


 起きてすぐに鼻を床にしたたかに打ち付けた彼女はどうしていたのか、というと、これまた偶然にもアスファルトの上を走っていたのだ。ただし、口にパンをくわえて。
 こちらは少し息を弾ませながら走っていた。
「あ〜ん、チコクチコクゥ! 初日から遅刻じゃかなりヤバイって感じだよねぇー!」
 誰に聞かせるわけでもないが、彼女はそうぼやいた。人が見ればものを口にくわえてよくそれだけしゃべれるなと思うに違いない。ある意味、器用だった。
 そして、その自分の声と右手にあるコンクリートの壁が、近づいてくる二つの足音を聞き取るのをじゃました。おかげで、道路の交わるところでイヤな予感を一瞬感じたとたんに、飛び出してきた人影と自分の影が交差するのを少女は見た。
「アアっ!!」
 ゴスンともドスともいえない、鈍い音が次の瞬間辺りに響きわたった。その音に驚いたのか、すぐ上にある電線や電柱から鳥が一斉にどこかへ羽ばたいていった。

「つつつつ……」
 シンジは文字通り呻いた。火がついたように痛みを額から感じる。顔を上げることすらままならぬほどであった。
「あたた……」
 と、シンジが何があったのかを確認しようとした瞬間に、また「あ!」という小さな悲鳴が上がる。その声に驚いてシンジが顔を上げると、ぶつかったと思われる相手のスカートが少しだけ翻って、目に鮮やかな白が残像のように残った。
 あれ?
 っとシンジが思ったときにはぶつかった女の子はもう走り出していた。事態を把握する前に、走りながらその女の子の、
「ごっめんね! マジで急いでたんだァ! ほんとごめんね」
 という遠ざかっていく元気な声が聞こえた。あ、そうか、僕は誰かとぶつかったのか、と気がついたのはそのときだった。道路の影に印象的な髪の色が消えるまで、シンジはぼうっと後ろ姿を見とれていた。なんとなく、あの色を見たことがあるような気がしたのだ。
 そういえば今日の夢の中でみた子供の髪の色ってあんな色じゃなかったっけ? とシンジが思いながら立ち上がったとき、今日3回目の火花が目の前を飛び交った。スカートの中を見たことで鼻を伸ばした、とある意味勘違いしたアスカのビンタがシンジの頬を直撃したからである。








「ぬワニィー! で、みたんか、その女のパンツ!」
 その声がしたとき、クラス委員長の洞木ヒカリは顔をしかめた。何とも下品な言い方が潔癖主義的な彼女の神経を逆撫でしたのだ。声のした方を向くと、やっぱり、と彼女が思ったとお、り声の主はジャージの少年だった。
 そのジャージ少年に好奇の目を向けられて、シンジは親指と人差し指で少し、というジュスチャーと一緒に言った。
「別に見たってわけじゃ……チラッとだけ」
 話の内容と裏腹に、シンジの顔は確信犯じみてるように見えた。
 カァ〜〜〜!っと呻きながらジャージの少年は自分の顔を派手に押さえつけた。
「朝っぱらから運のエエやっちゃなあ」
 と、言い終わるかどうかというときに彼の耳をつまみ上げたものがいる。先ほどのクラス委員長だった。その隣にいた、シンジたちと3人あわせて3バカトリオと呼ばれる最後の一人、相田ケンスケは“ぎゅ”っという音を聞いた気がした。
「いてててて! いきなり何すんのや!? イインチョ!」
「鈴原こそ朝っぱらから何バカなこと言ってんのよ」
 目でその鈴原トウジは抗議しようとしたが、それよりも早くヒカリが言葉を継いだ。
「ホラ、さっさと花瓶のお水かえてきて! 週番でしょ!」
 その通り週番だったのでトウジは諦めたようだった。が、席を立つ前にいらない一言を言った。
「ホンマうるさいやっちゃなあ」
「なんですってェ!」
 そんな場面もいつものことだ、とばかりにシンジもケンスケもアスカもたいして驚かずにその喜劇を見ていた。
 目を丸くしてそれを見ていたシンジがつぶやいた。
「尻にしかれるタイプだな、トウジって」
「あんたもでしょ」
 シンジの言葉は2人しか聞いていなかったが、そのうちの1人がそういった。アスカだった。彼女は面白くないことを言われたので、それを切り返す言葉もつまらない、というような顔で、頬杖をついてシンジを冷ややかに見る。
「なんで僕が尻にしかれるタイプなんだよ!」
「なによ! 本当のこと言ったまでじゃないの……」
「どーしてだよっ」
「見たまんまじゃないの!」
「アスカがいつもそうやってポンポンポンポン」
「なによ! うるさいわねバカシンジ!」
 トウジをつっこんだときのシンジや、そのシンジにつっこみを入れたアスカのような表情でケンスケは仲違いをしているように見える二組を見やった。言葉には出さなかったが、顔が「あー…、またやってるよ」と言いたがっているのは誰が見ても明らかだった。彼が言ったのは、自分の身辺は、という言葉に続くのか、このような雰囲気なのか、ということは付け加えずに、
「いや〜、平和だねぇ」
 と言った。窓枠に背中をもたらせながら外を見る。視界の半分に青と白が飛び込んでくる。それも先のセリフに当てはまるかもしれない。
 ヴオオオオオ…
 ん?
 ケンスケは耳へ飛び込んでくる爆音の方を振り返った。
 ちょうどその爆音を響かせながら、赤いアルピーヌ・ルノーがスライドターンで駐車場の白線内に、芸術的な駐車を決めたところだった。ターンできしむタイヤ音に惹かれるようにシンジとトウジが窓から体をつきだし、ケンスケはあわててビデオカメラを窓の外に構えた。この相田ケンスケという男は、なぜかいつもビデオカメラを持ち歩いているという少し風変わりな少年である。
 エンジンが切られてからきっちり一秒半してから、まるで誇示するかのように、開かれたドアから長い足が突き出された。それに続いて現れた女性は俳優も真っ青の仕草で顔のサングラスを脱いで一息をつく。
「おおお!」
 彼女は、黒のタイトスカートに胸を強調したかのようなシャツの上に、丈の短い黄色のジャケットを羽織っていた。
 PTAの親たちが眉をひそめる人間と鼻の下を伸ばす人間が別れるような出で立ちである。無論、前者は女性で後者は男性、と真っ二つではあるが。
「やっぱええなぁ。ミサトセンセは」
 女の濃さを感じたようにトウジがうっとりと言う。それに関してはシンジもケンスケもこの中学の男子のほとんどが反対しないだろう。
 ケンスケの撮っているビデオの中で、彼らの担任、葛城ミサトが上に気が付き見上げてVサインをする。
3バカトリオも、前後してVサインで応えた。ミサトも笑顔で頷いて職員室の方へと歩いていった。だが、彼女は知らない。この学校で、彼女の服装センスに否定的な意見を持つ男性職員である教頭が目くじらを立てていることに。
「何よ、3バカトリオが!」
 トウジに渡そうとしていた日誌を、渡しそびれたヒカリが冷ややかな目をして3人を見ていた。
 アスカの場合はそれに怒りを15%ほど混ぜたように、
「バッカみたい!」
と、特に1人に向かって吐き出した。その1人は白い歯を見せてVサインをまだ続けている。
 新学期になって朝から機嫌のいい日はないんじゃないかな、とアスカはふと思い返した。案外それは外れていないようにも思えた。


 非個性的な録音された鐘の音、よくいえばいつの時代になっても変わらず同じ音のチャイムが第三東京市立第壱中学校に一日の始まりを告げる。窓に反射する太陽の光や雲が地面に影や色を投げかけて、今日も暑くなるような予感をみんなに与えながら通り過ぎていった。この街、というより、2015年現在は日本はほとんどが常夏なのである。これもすべてセカンドインパクトのためであった。
「起立! 礼、着席」
 ヒカリの声で2−Aも一日がスタートした。
 ミサトは悪戯を仕組んだような悪童の笑みを口元に浮かべ、つかつかと教卓の前に立った。その後ろに控える転校生とおぼしき人物は、ほとんどミサトの後ろに隠れるようにして皆に顔を見せようとしない。窓際や廊下側の一番前の席の生徒からは、自分たちとは違った制服が見えるくらいである。
 クラスの軽いざわめきを満足そうに見やってから、ミサトはいつもの20%ほど声を大きくして朗々と宣言した。
「よろこべ男子ーー! 今日は噂の転校生を紹介するーっ」
 そのままミサトが窓側へスライドすると、女生徒が不安の微粒子を微塵も感じさせることなく、笑顔を浮かべているのがシンジの目に飛び込んできた。
 あれ?っと思ったのはその時だった。
「綾波レイです。よろしく」
「アアーッ!」
 シンジが驚くのが自己紹介の後にずれ込んだのはただ嫌がらせをしたいわけではなくて、思考が鈍くて驚愕と記憶の直結回路が接続されるのが遅かっただけだ。思わず口からついてでた声と一緒に、シンジは腰を浮かせた。だが、そうとは思えなかったのはシンジの天然的なトロさを知らない転校生だけのようだった。イヤな事をされた、という表情でシンジの方を見やると、彼女も回路がつながったようだ。ただし、シンジの100倍は早く。
「アア!!」
と、シンジのさらに2倍は大きな声で一声あげた後、体を乗り出しながら爆弾をクラス中にばらまいた。
「あんた今朝のパンツノゾキ魔」
 クラス中が一気にささやきの巣窟と化した。声は大きくないが、シンジの耳にはしっかり隣近所で自分の評価が誤解を含んでどんどん大きくなるのがしっかり飛び込んでくる。まずい、何か反論しないと、と思ったときにはすでに援護射撃が自分の斜め後ろからでていた。
「ちょっと言いがかりはやめてよ! あんたがシンジに勝手に見せたんじゃない!」
 アスカは両手を腰に当てて胸を反らしながらそう主張した。だが、それはやっては行けない行動でもあった。好戦的な気分になっている人間に油を注ぐ行為も等しいからである。その場に居合わせた人間は、証言は客観的ではなくてはならないのに、アスカは見事にシンジの弁護をしてしまった。
 好戦的な人間はさらにカチンときたようだ。眉を眉間に寄せて、
「あんたこそ何? すぐにその子かばっちゃってサ。何? デキてるワケ? ふたり」
 と、一気にまくし立てた。話があらぬ方向に流れようとしているのになにやら一抹の不安を感じたシンジ。それは当たらずとも遠からず、と言ったところだろうか。
「た、た、ただの幼なじみよ」
 強がって見せたが、「うっさいわねぇ!」と言う頃には体が後ろに引けていた。竜頭蛇尾の生きた見本にこのときのアスカはなってしまっていた。迫力の欠けること、甚だしい。
「ちょっと授業中よ! 静かにしてください!」
 おいおい、こんないいところで。皆からのそういった視線を浴びたのは他でもない委員長こと洞木ヒカリだった。彼女自身、思わず立ち上がって委員長ぶってみたのはいいが、その行為が友人であるアスカに助け船を出すためなのか、それともただ単に自分が使命感からそうしたのかはやや不明瞭だった。しかし、少しざわめきが収まった教室の中で、もっともこの手の経験が多く、もっとも余裕のある人間はヒカリの思惑とは逆にこう言ってのけたのだ。
「はあ〜〜〜〜あら、楽しそうじゃなァい。私も興味あるわー」
 止めるべきはずのミサトだった。軽くにらむような表情でミサトを見るヒカリ。そんな彼女に軽くウィンクであしらいながらさらに決定的な一言を教室に投げかけた。「続けてちょうだい」
 この朝一番の喝采が2−Aで爆発した。笑い声や悪意のないヤジなどが、立ちすくすアスカやおろおろするシンジに飛ぶ。
「ほら、先生もこう言ってるわ。で、どうなワケ? 2人って。そいえば今朝も一緒にいたような気がするけど」
「だからただの幼なじみだって言ってるでしょ!」
「ほんと〜?」
「何よ、その疑いのまなざしは!」
「だって、焦ってるじゃない」
「う…」
 真っ赤になって何も言えなくなるアスカ。それを見てレイは「ぷ」っと吹き出すと、屈託のない笑い声をあげた。
「はははは、ムキにならなくてもいいじゃないの。ちょっとからかっただけなんだから。く、くるしー」
 ははは、とさらに笑いながら目に涙を浮かべて腹を抱えて笑う転校生につられたように、クラス中の大半も同じように笑っていた。
 顔を真っ赤にしたままのアスカと、相変わらずどうしていいのか解らないシンジに収拾のつかなくなったクラスを憮然と見つめるヒカリ以外、次のチャイムが鳴るまで笑い声が絶えることはなかった。








 これほどまでに露骨に。
 惣流アスカは、今日ほど葛城ミサトという女には、あのタイトスカートの下に先っぽが三角の黒いしっぽが生えてるに違いない、と思ったことはなかった。なんと、あの転校生はアスカの目の前に席が決まってしまったのである。ミサトが「席はパンツノゾキ魔君、じゃなかった、碇シンジ君の隣ね。空いてるし」と言ったときにアスカもレイも、反対する明確な理由が見つからなかったのだ。
 おかげでレイは先ほどから指すような視線を背中に感じていた。
 と言うワケの一つは、シンジと席が隣同士である、ということもあるだろう。アスカのイライラをよそに、この2人は1時間目が始まる頃には関係が「あまりよくない」から「よい」に変わっていたからである。少し鼻を伸ばしているようなシンジの表情が、さらにアスカの不機嫌の感覚を刺激した。
「あ、さっきはゴメン。覗くつもりはなかったんだよ」
「ははは、いいよいいよ。からかってみただけだから。気にしてないって。ノゾキ魔君」
「…だから、誤解されるからノゾキ魔君はやめてくれない?」
 そんなやりとりの後はもう仲のいい友達のようだった。
「碇君、ちょっと教科書見せてくれる?」
 今日はまだ届いてないのよ、とレイがいうと、
「うん、いいよ」
 と、シンジは応じる。教科書をくっつけた机の真ん中に置き、あとはレイが一方的にしゃべったり聞き出したりするのをシンジが応えるだけだった。別にレイに悪意があったわけではないが、アスカの目にはそう映った。
 授業も半ばに差し掛かったころ、
「ところで碇君」
 無論、アスカは板書をノートに写すふりをしながら前の2人の会話に聞き耳を立てている。というより、彼女の場合は無意識に耳に入ってくる、と信じていた。
「なに?」
 レイは声をひそめて、
「本当にキミたち、デキてないの?」
 冗談とも真面目とも、シンジには判断しかねる口調で言った。レイは何となく後ろでアスカが身を固くしたのを感じた。別に振り返ったわけではないが、自分のカーキ色のサマーベストに穴が空きそうなほど視線をより強く感じるレイ。
「……さあ、僕はそういうのあんまり意識したことないから…」
「ふーん。じゃ、今の一言で意識するかもね、お互い」
 アスカは肩を落とした。シンジの言葉があまりにも予想と違わなかったからだ。そして、次に落胆している自分にアスカは驚いた。なぜがっかりしなくちゃいけなかったのかを明確に理解したからである。
 授業が終わったら文句の一つでも言ってやろう、とアスカは思った。
 しかし、時たまシンジの方を向きながらしゃべったり教科書をのぞき込んだりしているレイの横顔を見ると、そんな気分が薄れてきてしまった。あまりにも屈託がなく、悪意のかけらも見られないきれいな横顔だったからだ。そして、アスカには何か少し心の中でざわめくものがあった。胸騒ぎではなく、頭に何か引っかかっている、そういった感じなのだが、それが何か大切なことのような気がしたのだ。
 アスカは知らなかったが、レイの隣で少し緊張気味のシンジも、レイの顔やその特徴的な髪の色に軽いデジャ・ヴを感じていた。

『どこかであったことがあるのかな』

 シンジは後でアスカに聞いてみよう、と思った。シンジが出会ってきた人物は全部アスカも出会っているからだ。自分たちに関わった人たちのほとんどを、記憶力の優れているアスカは覚えているのである。アスカが知らないんなら、初めて会ったんだろうな。そう思った。
 そうして何分そうしていたのか、レイにシャーペンで額を小突かれるまで、シンジは自分が彼女の蒼い髪の毛に見とれていることに気がつかなかった。




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