シンジが転校生に見とれていた、と2時間目が終わってからトウジとケンスケはシンジをからかった。ビデオには、確かに見とれているシンジと小突くレイが完璧なまでに撮影されていたので、シンジにはぐうの音も出ない。いつの間にカメラ回していたんだろう、全然気がつかなかったよ、とシンジが諦めを込めて言うと、
「ま、わからんでもないけどな」
と、トウジは人だかりを見やって言った。彼は行儀悪く教卓に座っていた。その隣でカメラをシンジの顔に向けているケンスケも頷く。
 彼らがそういう理由も、『誰もが振り返るような目を見張る美少女』という言葉はこの中学校の中においてはアスカのためにあった言葉だった。その言葉に『少し謎めいた』を付け加えるような転校生が現れたのだ。
「別にそんなんじゃないよ」
 シンジは怒ったように言う。
「ただ、何となく…」
 そこまででシンジは言い淀んだ。このまま『どこかで見たことがあるような気がする』などと言ったらさらにいいように攻められるのは自明だったからだ。
 廊下には早くも見物客が現れ始めているのをケンスケが指摘すると、トウジが大げさに頷いてから偉そうに付け加える。
「なんや、その続き。惣流から鞍替えか?」
「なんでもないよ」
「ま、どうでもいいことやけど、まだまだ増えるで、ここ2、3日は。あれ」
 トウジがレイの周りを囲う人間を遠目で見ながら言う。
 それについて、シンジもケンスケも異論はなかった。

 『少し謎めいた』という言葉をトウジやケンスケが選んだのはレイがあまり素性を明らかにしないからだった、というのはいささか大げさではあるが、まるっきりウソだというわけでもない。別に特に謎にしていると言うわけではないのだが、肝心なところでかわしていく、と言った感じだろうか。
「どこに住んでるの?」
 とある女子生徒がレイに聞くと、
「今日はホテルから来たんだけど、帰るところは別なの」
と、何処かは言わない。荷物は宅急便で送ることになってて今日直接引っ越す先へ行く、と付け加えた。
 「誕生日は?」とか「星座は?」と言った、聞いてどうするのか解らないような質問はちゃんと答えているのだが、
「じゃあ、前いたところは?」
と、また別の女子生徒が聞くと、
「寒いところよ。後は想像にお任せするわよーん」
 などと、微笑みを浮かべながら答えるのだ。そうすると聞いた方はそれ以上踏み込んで聞けなくなってしまった。同姓でもかわいいと思うタイプというのは確かに存在するものね、と彼女を話をした女子生徒は、たいてい、そう思った。

 そう思わなかったのはアスカである。彼女がイライラしているのは人気を二分されそうだからではない。アスカ自身、自分の容姿を特別誇ったことは一度もなく、ただ周りが騒いでいるだけである。アスカの鬱憤の原因はレイという存在が起爆剤もしくは触媒となって、自分の気持ちが揺れ動いているという事実が気に入らなかったからだ。
 おかげで2時間目の英語の授業は全く頭に入っていない。ひたすら1時間以上考え続けた結果、彼女にとってはありがたくもない結論に達した。
「どうやら自分はシンジが好きらしい」
 というものだ。「らしい」というのがアスカのプライドの現れだろう。いいところよりも、悪いところの方がたくさんいくらでも挙げることができる少年を好きだ、という事実を直接的に認めたくないのだ。彼女自身、そんなことは頭の中で言葉にしなくても感覚的に何となく解っていたし、周りの人間から見れば一目瞭然だった。想いがハッキリしてしまうと、今度は意識して今まで通りに振る舞えなくなるんじゃないか、という恐怖が今までそうやってハッキリとさせることを常に拒んできた。
 しかし、シンジの考えることはおそらくアスカの今まで考えてきたことに近いにしろ、今はアスカはある一線を越えて意識してしまった。
 今のところ、レイに何か文句をいうよりも気持ちの整理の方が最優先だったのである。聡明で名の通った彼女でも、自分の頭の中は整理しきれていなかった。
 文字通り頭を抱えるアスカに声をかけたものがいる。
「どうしたの? アスカ」
 突っ伏したアスカが顔を上げるとヒカリの心配そうな顔があった。
「んー、べつにー。ただねー」
「ただ、なに? 碇君のこと?」
「そーかも。なんだかもう、どーでもよくなってきちゃって」
 ヒカリは「何でそこでシンジの名前が出るのよ!」という返事を期待していたが、意外な素直さに驚いた。何かあったのだろうか。驚いた顔のヒカリをよそ目にアスカは独り言のように言う。
「深く考えないようがいいのかな、って思った………って、ヒカリ! 何言わせんのよ!」
 けだるさを引きずったまましゃべっていたので、アスカはいらないことまで言っていた。
 ヒカリは苦笑しながらも、
「案外そうなのかもよ。モヤモヤをどこかに追いやって、頭をまっさらにしてからまた見つめ直すと何か再発見があるかもって思わない?」
「ロマンチストねェ」
 今度はアスカが苦笑する番だった。しかし、ヒカリの言うことも一理あるんだろうな、とアスカは思っている。考えすぎるのはシンジの得意技であって、アスカの必殺技ではない。
「ま、試してみようかなぁ」
「それでいいと思うよ。私の場合はちょっと違うから…」
 ヒカリが俯いてしまった理由をアスカはよくわかっている。彼女の場合、想いははっきりしていてもそれを相手に伝えるだけの“勇気”がないのだということが。なけなしの貯金をはたいても、ヒカリの場合は負債が残ってしまうだろう。
「…ーん、ほら、クヨクヨしないの。帰りにクレープでも食べて帰らない? 私、最近少し痩せたから」
 甘いものは少々食べてもスタイルは維持できる、と暗にアスカは言う。
「えー、いいなぁ。私なんてちっとも変わらないのに。増えてるかも」
 恋愛話をうち明けられる親友はいいものね、とアスカは思う。ヒカリの顔にも笑みが戻った。アスカは笑い返しながらちらっと横目で黒板の方を見る。クウォーターである蒼い目の持ち主には、彼女たちの心を悩ませる原因がはしゃいでいるのが見えた。トウジがシンジの耳を引っ張っている。視線を窓の外に向けてからアスカはため息と共にこうつぶやいた。
「…バカ」
 それは、半分自分に向けた言葉でもあった。








「ねえ、惣流さん」とレイが話しかけてくるとはアスカは予想していなかった。だから面食らってしまったが、すぐに思い直して聞き返した。
「何?」
「この学校に食堂か売店ってあるかなぁ?」
「どうして私に聞くのよ」
 いぶかしげに聞き返してすぐに身構える。これこそ今のアスカの心情そのままだった。どういうつもりなんだろう? という以上に不信感が先に立って、言葉にもその棘が含まれていた。
「理由その1、今朝からかったこと謝りたかったから。理由その2、お昼を買ってくるのを忘れたので何とかしなくちゃいけなかったから。理由その3、あなたに嫌われたくないから。どう? まだ何か理由がいる?」
 言葉だけを聞くとずいぶん人を食った言い方をしているようだが、アスカには逆に肩すかしのような気分だった。しれっと「謝りたいから」などとストレートに笑顔で言われると、何も言えなくなってしまったのだ。
「ふう」とため息をついて肩の力を抜く。「まいった、降参よ」
「よかった」
 本当に心からよかった、というようにアスカには思えた。この子は言葉と表情と仕草が並の人間が及ばないほど自然であって、人を惹きつける何かがあるのだ、と感じだ。だからこんなにすぐに気がゆるむのだ、とも。
「とりあえず今朝のことはゴメンなさい。カチンときちゃってついつい」
「いーのよ、別に。バカシンジと対に見られるのは癪だっただけ」
「そのバカシンジ君だけど、どこにいったのかなァ」
「…あんた、今朝からパンツノゾキ魔だとかバカだとか、シンジのこと言いたい放題ね」
 アスカが改めて辺りを見渡すと、シンジたち3バカトリオの姿は教室の中にはなかった。だから私に話しかけてきたのか、と改めて納得するアスカ。だが、もう腹は立たなかった。
「わたしの事、名前で呼んでいいよ。そっちの方が、気が楽だから」
「レイ…だったけ? そうするわ。私もアスカでいい」
すっとアスカが席から立ち上がるとレイは不思議そうな顔をして彼女を見上げた。
「シンジでしょ? あいつは大抵お昼は屋上で食べてるわ。気になるなら行ってみる? 多分相変わらずバカやってるに決まってるんだけど」
「うん」とレイは答えた。「で、お昼どこかで買えないかな?」







Neon Genesis EVANGELION
Please,Never ending dream

EPISODE:1 "Boy meets Angel"







 時々行き交う鳥たちを見てシンジは一つあくびをした。寝ころんで自分のお弁当を胸の上に置いているシンジ。トウジたちがパンや弁当をいつものように買いに行っているあいだにこうやって1人で待っているのがいつもは退屈なのだが、今日は考えることがあって暇ではなかった。
 先ほどからずっとあのデジャ・ヴを考えていた。アスカにそのことを尋ねると、見る見るうちに不機嫌になって「知らないわよ」と一蹴されたのは3時間目と4時間目のあいだのことだ。だから、シンジがこうやってぼーっと考え事をしているうちに、アスカとレイが少し仲がよくなった、などと言うことは夢にも思っていなかった。
 なんなんだ、いったい。
 青い空と白い雲のコントラストを眺めているうちに忘れかけていた今朝見た夢を思い出した。
 そうすると僕は夢で見たものにデジャ・ヴを感じたって言うのか。あの蒼い髪に。まさか。
「おまたせ」
 とん。シンジは額に何かが置かれたのを感じた。
「ミルクココアでよかったよな?」
 ケンスケがシンジの上に置いたのは紙パック入り200ccのジュースだった。シンジは体を起こして、
「ありがとう」と言いながら早速ストローの封を開けていた。
 トウジの場合は一つ目のパンをかじりながらこちらに近づいてくるのが見える。
「さて」
 ケンスケが買ってきた弁当のふたを取る。シンジも遅れて弁当箱の包みを解いていった。
 いただきます、と几帳面に言うのはシンジで、いつもそこから3人そろっての昼食が始まる。そんないつもと同じ風景に違和感をシンジは感じた。「あれ? 少ない?」
 シンジが少ないと感じたのはトウジのパンだった。いつもなら4つ5つは簡単に食べてしまうトウジが、今日はどうしたことか1つしか買ってきていないのだ。シンジがそう尋ねるとトウジは鼻の頭をかきながら答えた。
「実は今日、委員長があまりもんで弁当作ってやるゆーとったんや。せやから待ってるあいだにこうやって1つ食べて腹ごなししとくねん」
「腹ごなしってね…」
 シンジは弁当も食べてよくパンも食べれるな、と言いたげだった。
「へえ、知らなかった。でも、だったらどうして教室で受け取ってこなかったんだ? まあ、委員長は俺たちがここにいること知ってるだろうけどさ」
 ケンスケの至極まっとうな疑問にトウジはこう答えた。
「阿呆。そんな夫婦みたいな恥ずかしいことできるかいな。シンジならいざ知らず」
「悪かったわね、恥ずかしくて」
 言うが早いか、トウジの頭にゲンコツが降り注いだ。
「そ、惣流!」
 トウジが驚いて振り返った先には、アスカが腰に手を当てて仁王立ちしていた。
「ワレ、いきなりなにすんねん!」
「罰よ、罰。私たちは親が忙しいから取り決めしてるだけよ」
「んなことは知っとるわ!」
と、涼しい顔のアスカにトウジはかみつく。
 トウジやアスカが言ったのは、たまにシンジたちが家から持ってきた弁当をもう1人に渡しているという事だ。アスカの母親が忙しいときはユイが2人分のお弁当をシンジに持たせたりしているし、逆の場合もある。
 まだくってかかろうとするトウジの前に、アスカの脇からヒカリがすっと進み出て、弁当箱をまるで導火線に火がついた爆弾でも扱うように突き出した。持つ手がよく見れば小刻みに上下している。
「こ、これ…」
 とりあえずそれだけ言って固まってしまう。
「あ、お、おう。おおきに」
 あわてて受け取ったトウジも同じように固まってしまった。トウジの場合は恥ずかしいというより、こんな時どう振る舞えばいいのからなかったのだ。
 シンジは隣に腰を下ろしたアスカにどうして2人とも固まっているのか、と聞いてみた。アスカはしげしげとシンジの顔を観察した後、それがボケているのではないということをはっきりと悟ると、改めて「なんでかな?」と尋ねるシンジの頭をグーで殴りつけた。
 痛がって抗議するシンジにアスカはそっぽを向く。
 そんな光景をどうすればいいのか、レイはあっけにとられて見ているほかなかった。というより、私のことを忘れているのでは…? という想いが沸々と胸にわいてきたとき、
「ねえ、綾波さん」
「え?」
「あいつらを見てどう思う?」
とケンスケが聞いてきた。レイはケンスケの名前はまだ解らず、顔をクラスで見た、という程度のものだったが真面目に答える。
「…おもしろいね」
「同ー感。見てて飽きないだろう?」
 見慣れて自分は飽きたけどね、と言いたげなケンスケの言葉に、レイはただただ苦笑して首を縦に振るしかなかった。こんな時を「どうしようもない状況」というのか、と妙に納得してしまうレイだった。








 まぶしくて瞳を焼く姿から、赤く燃えるような姿へ自らを塗り替えた太陽。窓から見やるシンジの目にビルや山の影が映る。長く伸びた黒い線が辺りに闇の時間の訪れをしっとりと教えて回っているようだった。
 シンジの耳に今日最後の学校のチャイムが廊下で少し反響する音が響く。ふっ、と1つ小さなため息をついて堅い黒表紙の日誌を開いた。週番がつけるはずの日誌。今日の当番は本来なら鈴原トウジのはずだった。事実、今朝委員長にどやされてしぶしぶ花瓶の水を換えていた彼だ。
 その立場が変わったのは5時間目の時のことだ。その時のことをシンジは脳裏に浮かべると、先ほどよりも大きなため息をついた。
「ついてないなぁ…」
 アスカが聞けば「自業自得よ」と切って捨てるだろう。なぜなら、彼はクラスでただ1人、宿題を忘れていたという不名誉を買ったのだから。
 そもそも寝る前にアスカから何度も「やってから寝なさいよ」と指摘されたにもかかわらず忘れていた自分が悪いといえば悪いのだ。5時間目の授業は担任の葛城ミサトの受け持つ国語の授業だったのだが、そこで前日出されていた漢文を書き下す宿題を忘れていたのをやっと思い出す始末だった。しかも、量が1ページ分しかないということから、やって来なかった一般生徒も昼休みなどで済ませてしまっていたから余計に悪い。
 身を1人恐縮して縮み込ませるシンジに、教科担当はにこやかな笑みすら浮かべつつ彼に告げた。
「じゃあ、罰として今日だけ今から週番の仕事を交代してやってくれる?」
 もちろんシンジはイエスというしかなかった。しかし、シンジもアスカもレイも気がつかなかったし、前列でもごくごく僅かの生徒だけがミサトの口元に浮かぶ悪戯っぽいゆがみを見つけることができた。つまりミサトは何かを仕組むときや悪戯を思いついたときにこんな顔をすると言うことに、シンジやアスカは気がつかなかったということだ。もちろんレイも気がついていない。ただし“このときは”と一言、付きはするが。レイが気がついたのは下校時だった。
 その時シンジは黒板を消していた。6時間目の授業が終わると開放感にあふれ満ち満ちる生徒があわただしく動き出す。アスカはヒカリと共に早々と引き上げていったが、もちろん教室を出ていくときにシンジに嫌みを一言残していった。
「じゃ、わたしはおいし〜いクレープでも食べてかえろー」
 シンジがムッとして振り返るときにはすでに身を翻してシンジの視界から消えてしまっていた。その重力を操っていると時に錯覚させるような身の軽さも、アスカの魅力の1つに違いない。シンジはそれに気がついていないに違いない、とクラス中の人間が思っている。そして、トロい彼が隣に並ぶと一層引き立つといういう噂も。
 そこまで思い返して、シンジは我に返ったように日誌の白い紙の上にペンを走らせた。シャープペンシルの硬い感触と共に黒い文字が日付の欄に並ぶ。隣の天気に晴れ、と書いてすぐに消した。一度「う〜ん」と唸って顔をしかめ、さらさらと「快晴」と書き直し、隣に花丸もつけ、○の快晴の記号まで書いた。すぐに続いて今日の出来事と言う欄に「1人の転校生がきた」と書いて、改めて綾波レイのことを思い出した。
 あの昼休みの後すぐにシンジは1人教室に先に戻った。トウジはケンスケと図書室に行くと言って消え、女子3人は授業が始まるギリギリまで屋上にいたようだ。教室に美少女という噂を聞きつけた生徒が「屋上にいる」とか言っているのが耳に入ったし、現にそんな生徒は教室を覗いてすぐにどこかへ行ってしまった。それを遠い目で見ていて、シンジはふっと懐古の念が浮かんだ。
 どうして何がって聞かれるとシンジは返事に窮するだろう。それを実はシンジは昼休みの残り時間に考えていたのだ。が、シンジは何も解らなかった。何がなつかしいと思うのだろう。そればかりが頭をぐるぐると回る。それにいつか、何か既視感めいたモノが混じって一層混乱に輪をかけた。

 なんだよ、この懐かしさって。見たことがあるような感じって。

 実は、シンジは皆が弁当の中身を片づけてしまう少し前に、この感情を綾波レイにサーブを打ってみた。しかし、帰ってきたのは打ちやすいロブだった。
「ねえ、綾波さん」
「ん?」
 自然シンジのほうを向く。あのくりくりとよく動く瞳で聞き返した。
「前に一度、どこかで僕らって会ったことないかな?」
 シンジの声でアスカが少し緊張したようだった。しかし、アスカ自身しかそれに気がついていないようだった。彼女も、軽い嫉妬からか同じ疑問が心にないとも言えなかったからかの理由の判定はしかねた。即座に嫉妬って何よ、と慌てて否定はしたが。
 そんなアスカの思いをよそに、レイは質問者の想像を超えるくらい意外な熟考してから答えた。
「………さあ、どうだろう。『また会えたね』って思った?」

 ドクン。

 『また会えたね』と言う言葉を聞いたとたん、シンジの心臓がドクンと飛び跳ねた。別に特別意識する言葉でもないのに、と自分に言い聞かせて必死に手綱を取る。しかし、その声と言葉で胸の中の古いスイッチをONにされたようにざわめきが心の中を走っているのだ。不思議に思ったのだろう、黙ったままのシンジにレイは心配そうな顔を向けた。
「………」
「何か変なこと言った?」
「あっ、そうじゃないよ」
 手振りをつけて首も一緒に左右に振るシンジ。
「ふーん…。じゃあ、それってもしかしてナンパァ〜?」
「ちがうちがう」
 シンジはさらに慌てて首を振る。
「……まぁ、実のところわたしも少しはそんな感じがしたことはしたよ」
 えっ、っという顔をシンジはレイに向けた。同じ顔でアスカが無意識にレイの方を向いたのもヒカリが目撃している。
「でも」
「でも?」
「偽物かもしれないよ。はっきりは解らないケド。誰か有名人に目元だけ似てたりしたらそんな風に感じるかもしれないでしょう?」
 なるほど、とシンジは思った。テレビや雑誌のグラビアなどで見かけるアイドルなどと似ているところは確かに探せばあるだろう。しかし、シンジの心のざわめきを完全にかき消す答えじゃないことは確かだった。やはりどこかにモヤがかかっているような感じはしていた。ただ、ごく僅かではある。彼女の言うとおり、偽物かもしれないとシンジはこのとき思った。
 あれから時間をおいてシンジはまた同じ事を考えてみた。
 偶然かな、それともあの娘の言うとおり違う人なのかな?
 しかし、『また会えたね』と言う言葉の前と後では感触が明らかに違った。前では霞を手でつかむような感じだったのに、いまは水槽の水をつかむような感じで心を埋めようとしていた。父さんや母さんなら判るかもしれないなぁ、と、割とシンジにしては建設的な意見を思い浮かべて、思い出したように(現に思い出したが)日誌の続きを書き足した。欠席者遅刻者ともにゼロ。一言感想「葛城先生へ。雑用は他の人にも」
 確かに、シンジが一言書きたくなったのも解らなくもない。
 そもそもシンジがこの時間まで居残っているのは週番の仕事プラスアルファの細々とした雑用をミサトに押しつけられたからだ。
「あ、ゴミを捨て終わったら職員室に来てくれる? 日誌は後でいいから」
 そこでシンジを待っていたのはプリントのコピー、印刷、さらに修学旅行のしおりの仕分け、製本などなど、別にシンジ1人に押しつけなくてもいいような事までミサトはシンジにやらせた。ミサト自身手伝ってはいたが、本来こんな事が嫌いなことで有名なめんどくさがり屋が笑みすら浮かべながら仕事をこなしているのはシンジにとって気味が悪くもあり、不穏な空気を感じさせるものでもあった。ミサトの意図を理解できたのは帰宅後のことである。
 シンジは頭を振って、思い出したくもない、というふうに回想を頭から追い出した。
 イヤなことは忘れてしまうに限ると言わんばかりに、慌てて鞄を持って教室から出た。
 そういえば、とシンジは扉を閉めながら思い出した。あの転校生、僕の肩をたたきながら最後に「おっ先に〜」って出ていったな…。いつも聞き慣れている挨拶ではなかったのでシンジが振り返ると、レイはウィンクしながら「すぐにわかるよ」と言葉を残して廊下に消えた。
 シンジはふと思い出し、ふっと忘れた。それよりも、シンジには帰りにユイから頼まれた牛乳を買って帰る方が大切だったからだ。
 誰もいなくなった廊下を、1人歩いていく。








 あんなに赤かった空がその大半を青と黒と紺色で支配される頃には、坂を下りて綾波レイと衝突してしまった角もすぎていた。スーパーマーケットに寄るために、シンジはいつもの通学路とは別の道に入ってモールを目指した。複合ショッピングセンターの中核としてスーパーがあり、他にも簡単な雑貨や衣類などはだいたいここで事足りるようになっていた。
 シンジが住むマンションも郊外にある。歩けば15分ほどで着く距離にあった。
 シンジは迷うことなく駐車場のとなりを通って入り口まで向かった。入るときに時計塔が見えた。
 6時半か。ずいぶん遅くなっちゃったな。
 シンジは急いで1リットルのパック牛乳とテレビを見ながら食べるつもりで板チョコを、それぞれ手にとってレジ待ちの最後尾に並んだ。そこで、あれ? っと思った。すぐ目の前に2人列んでいたが、1人減って前の人だけになった。そのレジのすぐ向こう側はガラスがあって、さらに向こう側には歩道、車とバスの車道、歩道、ときてベンチが続く。そこのベンチに見知った、しかも見間違えることのない人物が、いや、特徴のある髪が見えた。よく目を凝らすと、足を組んでその上に肘をつき、手の甲で顎を支えながら退屈そうに車道の方に目を向けていた。
 精算を済ませて、急いでシンジはその元へと走り寄った。
 紅茶色の髪は、闇の中を照らすライトでより一層金色に近づいていた。生まれつきの切れ長の眉が退屈そうな形から、ぴくんと吊り上がった。走ってくるシンジを見つけたようだ。
「なにしてるんだよ、アスカ」
「別に。クレープ食べてただけよ」
 そういって、シンジが何度も何度も見てきた髪を掻き上げて惣流アスカは胸を張った。アスカが指さした方にシンジが顔を向けると、確かに何件かハンバーガーやドーナツなどの店と並んで、クレープの店が入ったテナントが見えた。
「今まで食べてたの?」
 そんなはずはないことくらいシンジにもわかっている。今までヒカリがいた気配もなかった。しかも、ここれはレジから見つかりやすいような場所でもあったからだ。
 怒った様子もなく、ただアスカは何も言わずに鞄をとって立ち上がる。そのまま何も言わずに歩き出した。まるで、シンジについてこいと言わんばかりに。
 シンジも何も言わずに早足でアスカに並んで歩き出した。頬がゆるむのを必死でシンジは押さえた。
 待っててくれたのか…。
 何も言わなくても2人にはちゃんとわかっていた。朝、シンジがご飯を大急ぎでかき込む間に、ユイが「牛乳お願い」と言ったことをちゃんと聞いていたし、買い物をするならこの場所しかないことも、クレープ屋があるような場所はここしかないと言うことも。
 しかし、シンジにすればアスカがここによって帰ることくらいは予想していたが、まさか今まで待っているとは夢にも思わなかった。終業のチャイムを聞いてすぐに出ていったようなアスカだ、今の今までさぞ待ったことだろうと思うと、シンジは何やら申し訳ない気がしてしまう。別に待っていてくれと頼んだワケでもないのに、である。
 2人は同じ歩調で4車線沿いの歩道を歩いて登った。その間に一言も会話を交わしていない。だが、気まずさを感じることもお互いになかった。普段ならわからないが、今この時は街頭に照らされながら歩いていると、何故かそんな雰囲気になってくるのだ。街頭の無機質な光さえ幻惑的に映っている今、これまでとは違う空気が二人の間にあるような気さえする。
 アスカが何かいいたいことを胸に抱えているようで、話すタイミングを探しているようにも見えるシンジだった。プライドの高い彼女のことだ。「待っていたの?」とか「なんで?」とか言われるのは我慢ならなかったに違いない。シンジの、一見間の抜けた「今まで食べていたの?」という言葉はうまくアスカのプライドを刺激するのを避けたらしかった。
 信号待ちで横断歩道の前に立って列んだときに、シンジはさっき買った板チョコを袋から取り出しアスカの前に差し出して尋ねた。
「食べる?」
 アスカが頷いたのでシンジはチョコレートを半分に折ってアスカに渡し、自分の分の包み紙をはがし始めた。一切れ口に入れる。夕御飯の前にまずかったかな? という考えがシンジの頭をよぎったときに、それを遮るようにしてアスカが言った。
「シンジ…」
 独り言のようにも聞こえたが、そうではないようだ。
「うん?」
「転校生のことどう思う?」
 えっ、とシンジは聞き返した。意味をつかみかねたのだ。アスカも察したらしく、
「昼前にいったでしょ? あの娘とあったことがなかったっけ、って」
 シンジが頷いたときに信号機が青に変わった。アスカが歩き出して、シンジも半歩遅れてアスファルトの上のゼブラを横切りだした。
「あのあと私もちょっと思い出してみたんだけど」
 アスカもチョコレートを一口食べて間を取る。
「そんな気がしないワケでもない気がする」
 少しややこしく言った辺りにアスカの心情のモヤがあるような気がした。シンジもそれが未だにかかっているだけに感じ取りやすかった。
「でね、昼休みの時にあの子が『また会えたね』って思ったか、っていったでしょ?」
 そういってシンジの方を見やったアスカ。そんな事覚えてないよ、といわれると思っていたのに、シンジが意外そうな顔をしているのを彼女は不思議に思った。そこでなにかピーンときたらしい。
「もしかして、ドキッとしたの? あんたも?」
「うん」
 お互いに同じような現象が起こっていたと言うことを初めて2人は知った。そこからは2人の会話は早かった。話を煮詰めていくと、どうやら同じような感じがしているらしい、ということがわかってきた。懐かしさよりも、あのとき言葉でのデジャ・ヴが心を震わせて印象が強く残っているという事が。
「でも不思議だね」
と、シンジが言ったときにはもうマンションの6階の、シンジの家の前に着いていた。アスカの家はすぐ隣り、とはいえこのマンションは内装がやたらと大きく、ラビットハウスと呼ばれた昔の頃とはドアとドアの間隔が2倍以上離れている。が、新世紀生まれでここ以外のマンションをほとんど知らない彼らにとってみれば関係のないことだ。
「キョウコおばさん、今日も詰めてるの?」
「そ、だからお願いね」
「うん。用意しておく」
 2人ならではの会話だろう、内容がずいぶん端折ってあるが、要はシンジの家でアスカがご飯を食べるということである。惣流家は片親で母子家庭だった。碇家の親とアスカの母親は勤めが先が一緒と言うこともあって、昔からアスカは隣の碇家で晩御飯を食べることが多かった。
 シンジはカードキーをスリットに通すと、プシュッとエアの音がして扉がスライドする。そこをくぐるとまたプシュッという音のあとに扉の閉まる音がした。すぐに足下に見慣れないスニーカーがおいてあるのがわかった。靴を脱ぐときに蹴飛ばしたのである。
 あわてて揃えてあった元の位置に戻して自分の靴も揃える。
 玄関から続く廊下の半分まで行ってやっと「ところで誰の靴だ?」と思い当たって、慌てて玄関まで戻ってくるところが彼らしいといえば彼らしい。
 シンジの靴と比べても大差がない。とはいえ、1センチ程度小さいようで、どうも女の人の靴のようだと思った。何となくだが。
 だれのだろ、と思って頭を捻った。ユイの新しい靴なら汚れていることはないだろうし…。
 そこでシンジはハッとする。
 (まさか泥棒じゃ…)
 泥棒が靴を脱いであがるのか、と誰かがいたらつっこんだかもしれない。今更なのに抜き足差し足で廊下を歩いて、食堂に通じる角まできて止まる。そして、中を覗こうとして思いとどまった。どうせならと思い直し、一気に角から飛び出して部屋の中を見回した。
 あっ、と一声挙げて、シンジはそのまま生ける彫刻と化した。タイトルは“驚愕”だろうか。
「おーっす、おっかえりー」
 シンジの茶色い瞳に蒼が映っている。紛れもなく、あの、彼女だった。
「な、なななんで…」
 その白磁とも言えそうな白い肌、茶色の瞳、そして空色の髪の毛。テーブルに腰掛け、Tシャツにスパッツというラフな格好でシンジに手を振っているその少女こそ…。
「ま、とりあえず、ご挨拶。今日からお世話になります。よろしく」
「ぇえーっ!?」
 頭の整理がつかずにいるシンジ。そこに追い討ちをかけるように言葉の形をした爆弾を放りこんだ。イノセントな笑顔で目を細める綾波レイに、シンジはただ目を丸くしてその場に立ちつくす事しかできなかった。




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