「やっと帰ってきたんだね、待ってたよ。おっそい!」
 な、ななななな…。
 言葉にしようと思っているのに口から出る言葉は文章になっていない。エサをほしがる金魚そっくりに、シンジは口をパクパクとさせながら後ずさった。まず間違いなくここは自分の家であって、他人の家に間違って入り込んだということはない。見慣れたダイニングに見慣れたテーブル。しかし、その自分が10年以上住んでいる空間にはじめてみる人物がいた。しかも「今日からお世話になります」という。
 その原因はイスから立ち上がるとコーヒーメーカーの前に立って新しいカップに黒い液体を注ぐ。隣に置いてある砂糖瓶と小さなスプーンをとって卓上においた。
「突っ立ってないで座りなよ。自分のうちでしょ?」
 レイが子供を諭すように言う。
「う、うん」
 そう言ってはみたものの、何故か借りてきた猫のようにシンジは緊張してしまっている。イスに座る動作もぎこちなかった。レイも向かいに腰を下ろして手元のマグカップを口に運んだ。一方、シンジも同じ動作をしたはいいが、混乱していたのか、コーヒーの味もよくわからないでいる。シンジのカップからは湯気が立ち上っているがレイの元からは湯気はおろか、熱気すら感じられなかった。結構な時間をここで待っていたようだ。
 話をしなくてはならないと思ったらしく、レイから口を開いた。
「聞いてなかった?」
「ぜ、全然」
「私はてっきり知ってて学校では知らないふりをしてるんだと思ってた。とはいえ、私もぶつかったときには相手の顔を確認してる余裕なかったし、さすがに気がつかなかったけどネ」
 シンジは未だに形容の一番先頭に美がつく少女が自分の前に座って自分に笑いかけているのが信じられない。その表情から読みとったのか、
「じゃあ、綾波はいつ僕のことを知ったの? いつここに住むってことになったの?」
「わたしがシンちゃんを知ったのはつい最近。名前だけは知ってて、写真も一回だけ見たことがあったんだけどよく覚えてなくて」
 ぺろっと舌を出して照れる。
「で、ここに住むことになったのも同じ時よ」
「…ふーん。……えっ、シンちゃん?」
「あれ? 怒った?」
「ううん、そうじゃない」
「よかった。1つ屋根の下に住むんだから親しみを込めて呼んだ方がいいかなーって。わたしのこともレイって呼んでいいよ」
 シンジは少し冷静になった頭でレイの言葉を反芻した。
 そうだよ、一緒に住むんなら1つ屋根の下だよな、1つ屋根の下。1つ屋根の下…。でもなんで? おまけに突然…何考えてんだろう、父さん母さん。でもやっぱり1つ屋根の下…。1つ屋根の下…。
「なに赤くなってんの? エッチなことでも想像してない?」
 ジト目でにらまれてシンジは慌てて首を左右に振った。上気した頬では説得力に欠けるが。
「でも、そんなとこもかわいいね」
「え、」
「キミのことが気に入った、好きになった、って言ったの。ドーユーアンダースタン?」
「い、イエスイエス」
 どの程度まで本気かわからないレイの口調。シンジもイエスと答えたが、本当はまったくわかっていない。今まで自分に向けられた言葉のリストを探し出しても「貴方が好き」という言葉と、それに類似したものは全くと言っていいほど記憶になかった。その代わりに「バカ」「グズ」「うすのろ」「甲斐性なし」などの罵声ならいくらでもある。もっとも、大半はアスカと自分の実の父親から聞かされたのだが。
「でもねぇー、そう言ってるとアスカに目の敵にされそうでイヤだからねー」
「アスカっ!?」
 今思い出した(現にそうだが)とういうふうにシンジは飛び上がった。「好き」といわれたことまで見事に吹き飛び、きれいさっぱり記憶から跡形もなくなった。それだけシンジにとって見れば「アスカ」というキーワードの持つ強さが伺いしれる。
 シンジは思った。今日今すぐもう少しでここにやってくるアスカになんと説明すればいいんだろうか。目の前には今日会ったばかりの女の子。しかもかわいいしTシャツの下から伸びる足はスレンダーな体型を惜しげもなく強調している。黒いスポーツメーカーのロゴ入りスパッツがスタイルの良さを、そういうことには疎いシンジにもわかるほど誇張していた。
 今日であったばかりの女の子が自宅でくつろぎおまけに薄着で無防備(のように見える)。こんな場面をアスカに見られようものならと想像すると、赤くなった顔が今度は一気に体温を失って青ざめ始めた。
 大体つき合っているわけではないので慌てる必要も弁解することも必要ないのに、シンジは焦った。アスカはシンジが女の子と仲良く話をするのを快く思っていないらしいという事実を、以前から身をもって経験して知っている。小学校の時や幼稚園の時からずっとそうで、昔のように鉄拳が飛んでこなくなったのはいいが、別の方法でなにか嫌がらせを受けることくらい目に見えたモノはない、というほどなのだ。
「とにかく、もうちょっと何か着てくれないかなぁ…」
 目のやり場に困る、とせいぜい控えめにシンジは言った。彼女が着ているTシャツ薄布一枚の奥に下着の線が見えなかった。胸のところにペンギンの絵柄がプリンティングされていなければ、と思うとますます困る。アスカの反応が怖いので服を着てください、と口に出すほどさすがにシンジは子供ではなかった。
「えー、これが一番動きやすくていいのにー。どうせ荷物開かないといけないし」
 じゃあ、せめて下着くらい、と思うシンジ。それでよく男の前に出てこられるよな、とも思った。煩悩の前に自分の保身を心配している自分が少し滑稽だった。だが、レイはそんなことにはお構いなし、これが一番、とばかりに胸を張る。
「荷物?」
「そう、これ」
 そういってレイが開いた物置のふすまの奥に段ボール箱が5コほど積まれていた。この年頃の女の子にしては荷物は少ないと言える。碇家には客が泊まりに来た場合に使っている客間があるので、マンションではあるが部屋に空きがあった。おそらくその部屋をレイの部屋にするんだろうな、と思ったところでシンジは2つのことに気がついて、ぐぐぐと呻いた。
 まずはレイの部屋が自分の部屋の向かい側になる。何かがまずい、と思った。もう一つはすんなり彼女が家族の一部として生活するということを認めている自分に気がついたからだ。だが、嫌というわけでもないし反対する気もない。むしろこんなにかわいい子が一つ屋根の下、うれしいくらいだった。が、だからこそ、ゲンドウもユイも事後承諾のように、レイのことは今朝何一つ、今も書き置き一つ残してないのだろう、と思う。でもちょっとやりすぎだよ、驚かせようなんて。それにアスカになんて言えばいいんだよ。
「たのむから、お願い、その格好は勘弁してよ」
 ほとほと困った、シンジがそう言って眉をだらしない形にしたのを気の毒に感じたのか、レイは少し笑って立ち上がった。
「じゃあ、上にパーカーでも着てくるよ」
「あ、うん、それと…」
「ん? 何」
 背を向けたレイがまたシンジに向きなおる。
「晩御飯は食べてないよね」
 とシンジがカップを両手に包むように持ったまま言った。
「うん」
「あとアスカもここに来るんだ。多分、いっしょに食べることになると思う」
「ふんふん。で?」
「それで、アスカには僕が説明するからそれまで隠れててくれるかな?」
 それで何かシンジの思うところを理解したらしく、にっこりして「いいよ」と言った。
 後で2人の関係、詳しく聞きたいな、と意味ありげに付け加えた。おそらく交換条件というところだろう。貸し借りなしということで。
 ピンポーンと呼び鈴が鳴ったあとすぐにドアの開く音がした。アスカはこの家のキーを持っているからすぐに入ってこれるが、一応まず来宅を知らせるために電子音をさせてから碇家に上がってくる。昔からの習慣だった。
 トタトタという足音が聞こえると、シンジは慌ててレイをダンボールのある部屋に押し込めた。扉を閉じるのとアスカがリビングに入ってくるのはほぼ同時で、シンジが向き直ったころには、アスカが手持ちの荷物をテーブルに置くところだった。
「誰かいるの?」
「あ、うん、ちょっと知り合いが…」
 言葉を濁すシンジの額にうっすらと汗が浮かぶ。しかし、アスカはそれには気がつかなかったようで、テーブルの上の空になったカップ二つを流し台において水を入れる。一緒に手も洗う。
「で、そのお客さんて?」
「アスカも知ってる人だよ」
「ふーん。じゃ、一緒に?」
「うん、母さんはここに来る事知ってたみたいだから用意してあると思うよ、3人分。今着替えてる」
 シンジがあたふたとアスカの目が届かないところで弁解じみているときに、彼女は赤い髪の毛を小刻みに揺らしながら台所に立ったまま細々と作業している。味噌汁を火にかけたり、食器を棚から取り出したり、冷蔵庫から必要なドレッシングやしょうゆを取り出したり。シンジはうっかり「着替えてる」といったが、アスカは聞き流してくれたらしい。人の家に上がり込んで着替えるような友人は、雨でも浴びていない限り、普通まずいないだろう。
「もー、このくらいやっておいてよね。ほんとトロいんだから」
 アスカがぼやいたのは食事の用意である。
「あ、ごめん」
「洗うのはあんたよ」
「うん」
 シンジが用意すると食後の食器洗いはアスカ、アスカが食事の用意すればその逆である。昔からの約束で、本当なら今更確認する必要もないことだろう。今日のアスカはちょっといつもより雰囲気が違うな、シンジは学校の帰りからそう思っている。なんだか、ちょっとかわいくなった気がする、と。今のセリフもその延長のようで、仕草の一つ一つになにか違うものがあるような気がした。
「シンジ、結局来てる人って誰?」
 来たか、と思った。最終的には避けて通れない道だ、もう弁解がましく言っちゃっていることだし、どうせならとことん、とも思った。
「誤解される前に言っておきたいんだけどね、僕も帰ってくるまでその人が来てるって知らなかったんだ」
「何? その調子だと女なの?」
 アスカの声の温度が2度ほど下がる。誰か来ているとシンジが言ったときから実は「ご機嫌→普通の気分」に変化していたのだが、さらに悪くなった。
 アスカの鋭さにたじろぐシンジ。
「ま、まあそうなんだけど…なんて言うか」
「何よ、はっきりと言いなさいよ」
 シンジの喉がゴクンと音を立てる。そこまで覚悟のいることか、ゲンドウがどこかに隠れて覗いていればそう言ったに違いない。
「一緒に住むことになっているらしいんだ。今日から、その…女の子」
 今度はアスカが緊張してシンジを振り返る番だった。
「直接会った方がいいよね…。いいよ、出てきても」
 シンジの言葉の後半は別の、ドアに向かって言った。ほとんど音を立てずに木製の扉がスライドする。電気の消えた部屋に青白いバレーボール大の何かが見えたと思うと、すぐにぬっと体が続いてアスカの目の前に立った。
 少し申し訳なさそうな顔をした蒼い髪の少女。
「…あ、綾波……レイ…」
 アスカの口から漏れたのは、呻きに近いものだった。























EPISODE:2 Fresh!























 少し濃いめのブルーのフード付きパーカー。相変わらずの黒いスパッツからのぞく色白の美しい肌は同姓のアスカから見ても十分美しいと感じるものだろう。ボサボサにも見える髪は、彼女が掻き上げる度に流れるように元の場所に戻ってゆく。空色の毛は耳の横から顔に少しかかるように飛び跳ねているが、それはどうも癖のようだ。
 しかし、惣流アスカがイライラしている理由はそんなことではなかった。もちろん碇シンジである。
 レイとシンジが列んで座り、テーブルを挟んでその向かいの真ん中にアスカが座っている。いつもなら2人が向き合っているのだが、ゲンドウの席にレイが今日は座っているだけなのに、彼女の中にはひどい違和感があった。
 アスカが時折シンジを見ると、食事が始まる前からずーっと落ち着かない態度そのままにまだそこにいる。ほのかに顔が紅潮しているのが、アスカの逆鱗をごく微かにかすっていた。3人とも話す内容がさしたわりのない会話ばかりでアッという間に話すネタがつきてしまい、今は黙々と口にご飯を運んでいた。
 レイは自分から何か言うのが今はまずいと感じているのか、それともただ純粋に食べることが好きなのかは判断つきかねたが、シンジやアスカの放つ異様な気配をするりと受け流して、無心に目の前の食事を片づけることに腐心していた。これだけおいしそうにご飯を食べる姿をユイが見ればさぞかし喜ぶことだろう、シンジはまともに隣を見れないままそう思った。
 3人が気まずい思いをして食事をしているということを裏返せば、各々が十分に考える時間ができた、ということでもある。アスカはこのとき自宅にいったん戻って着替えてきていたので普段着だったが、今日はこの格好をして来るんじゃなかったと後悔していた。彼女の考えるラフな動きやすい普段着とはタンクトップシャツに小学生の男子がはくようなショートパンツであって、肌の露出度は学校の体操服よりよっぽど広いし、レイの姿と比べるとよっぽど無防備であった。これまで男とシンジを意識してこなかったが、突然それは変わってしまうらしく、シンジに自分を見られることを異様に恥ずかしいと思っていた。
 羞恥心と怒りの二つの感情が化学反応を起こした結果、アスカの血圧はいつもよりも20%ほど高く、網膜の奥がたまに熱くなることを感じることがあった。
 あとでしっかり両方と話をしなくてはならない、そう確信した頃にはシンジは食べ終わって食器を流し台に運んでいてアスカが食べ終わっているのを待っていた。レイはとっくに済ませて今はトイレに立っている。これはチャンスだ、とアスカは感じた。
 急いで皿の上のキャベツを頬張ると、麦茶と一緒にのどの奥へ流し込んで喉に詰まらせかけた。呼吸が落ち着くと、
「シンジ」
「え、」
「ジュースとアイス、買ってきて」
 唐突にカードをシンジの胸に突き出すようにして睨むように言う。シンジが反論しようと口を開く前に、
「代わりに私が洗っておいてあげる。行ってきて」
 とシンジに打算を働かせるように仕向けた。
 確かに皿洗いの面倒を考えたらマンションから歩いて5分のコンビニに行く方がよっぽど楽ではあった。シンジはなんで突然そんなことを言うのかな、という顔はしたが素直に頷くとカードをアスカに返してから外へ出ていった。手持ちのカードで十分ということだろう。だが鈍いかな、女の子二人を残して外出すると言うことが、普通ならば、まさにアホの極みであるということにまったく気がついていなかった。どうせこれから同じようなこともあるだろうし、といった軽いノリである。
 空気圧の音でシンジがドアの外へ出たのを待ってから、アスカはレイの段ボールのある部屋に向かって言った。トイレの後、部屋に直行したのをアスカは横目で確認していたのだ。
「いいわよ、もう」
「あらら、やっぱりバレてる?」
レイがリビングに入ってくる。
「あたりまえよ。私はあのバカと違って、」
 レイも続きは聞かなくてもわかった。シンジとは違って、レイが何をしたかったのかを察していたということなのだろう。
「私に話があったんでしょ?」
「うん、まあ。これは儀式みたいなものだと思うから」
「儀式?」
「そう。だって、幼なじみのあなた達の間にくさびを打ち込んでるのと同じ事だもん。これから私がここで生活していこうと思ったら、アスカと仲が悪いなんて嫌」
 はっきり嫌、といわれても…とアスカは思った。正真正銘、困惑していた。この目の前の女の子としゃべっていると自分のペースがつかみにくい。
「とにかく。私の方もシンジ抜きで話をしなきゃ、って思ってたし」
「じゃあ、改めてご挨拶。わたくし綾波レイ、本日より碇家の扶養家族となります。つきましては隣人かつ碇家長男の親友でありながら恋人でもある惣流アスカさんに、その許可をいただきたく思います」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! なんで私があいつと恋人なのよっ!」
 狼狽の度合いがいつもよりも大きいことにアスカ本人はわかった。しかし、レイにはそれはただの慌てぶりとしか映らなかったので冷静につっこむ。
「学校でもそうやって否定してたケド、慌てるっていうことは脈はあるっていうことでしょう?」
 ジト目でアスカの顔を見上げるようにレイは言った。グッとアスカは詰まる。それを今日一日中考えていたのだから当たり前だろう。
「察するところ、相当我慢してきたんじゃないの? シンちゃん、相当鈍そうだし。……でも、それが魅力なのかもねぇー…」
「…言いたいこと言うのね」
 呆れてアスカは言った。
「そうよ。わたし、思ったことは我慢しないで言うの。そうすることは自分だけじゃなくて他人にもいいことだと思ってるから。胸に何か溜めてるよりすっきりした方が気持ちいいでしょう? ま、座ろうよ」
 突っ立ったまま話すのに軽い抵抗があったレイがそう言った。
「立ってるより、座ったほうが冷静に話できるんだよ。寝ころんでるのが一番だけどネ」
 レイがウィンクする。
「で、私のこと、まだイヤな奴って思ってる?」
 アスカは小さく笑いながら首を左右に振った。
「どうしてもあんた個人で考えると嫌いになれないのよ。頭に来る人ってゆうのは大抵嫌いになるんだけど、なんていうか、あんたの場合、本当にムカツクーって思うんだけど、思い切れないってゆーか……」
「ありがと。それだけで十分」
「ま、そういうこと」
 レイもアスカも握手するような趣味は持ち合わせていなかったので、それだけで友誼の成立と見なした。事実、それだけで十分だった。ただし、レイが次の一言を言うまでは。
「これで心おきなくわたしもアプローチできるわ」
「は?」
 ひどく間の抜けた声のアスカが目を丸くした。
「誰に?」
「決まってるじゃんかー。いやー、そんなこと聞かないでよー、恋する乙女にー」
 紅潮させた顔に手を当ててふりふりと左右に振る。
「ま、まさか…」
 今度はアスカは青ざめた。まず固有名詞の前に顔が浮かんだ。さっきまでここにいた少年。しかも、自分と彼の恋愛の話題がのぼるたびにそう言った顔をする、不思議そうな顔をして振り向く姿の彼が。
「どう言えばいいんだろう、うーん、一目惚れって感じ? でも、なんか違うなぁ、どこかデジャ・ブっぽいものがあったような、なかったような、まあ、他の男の子と違って、シンちゃんとわたしの間に違う空気が流れてたっていような…」
「ちょっと! ずかずかと割り込む気!?」
「あらら、ずいぶんと大胆ね。『割り込む気!?』なーんて」
「そんなのこの際関係ないわ!」
「おおアリよ。だって、まだ交際をシンちゃんに正式に申し込んでるわけじゃないでしょう」
「うっ」
「ほら、何も言えない。だったら、スタートラインは2人とも一緒のところでいいはずよ。それに、アスカの方が有利なんだから」
「ま、まあね…」
 一瞬、走馬燈のようにシンジと過ごしたときが脳裏を横切った。
「でも、わたしだって負けるつもりはないわよ。負け戦はしない主義だから」
 レイの軽い挑発で、アスカの中で何かがはじけた。報われなかった想いを感じ取って理解してくれる人間が、たとえ今日知り合った人間であってもいてくれるだけで嬉しかったのかもしれない。気分が高揚して楽しかった。争うことになっても、アスカは負ける要素がないと思っているし、事実そうだろう。
「いいわ、受けて立つ。私だって負けない。あの鈍いバカの心、きっと私だけに向かせて他の女に見向きもできなくしてやるんだから!」
「じゃあ、いいのね? シンちゃんが目の前にいても同じこといえる? 私は言えるわ。シンちゃんがすきよーって。私はシンちゃんに言ったよ、さっき」
 アスカのこめかみに青筋が浮かび上がる。さらにアスカは立ち上がって胸を張った。勢いがあったのでイスの背もたれが床と不本意なキスをさせられた。しかし、そのささやかな復讐として、プシュッという音を二倍の大きさのガタッという音がかき消した。
「私だって言えるわ。もう吹っ切れた」
「何が?」
その声はレイのものではなかった。アスカの後ろから聞こえたが、彼女は気がつかなかった。
「私はシンジが好き! って」
 一瞬の時間の空白ができた。
 アスカがレイを見下ろすと、彼女はニヤついていた。左手で頬杖を付きながら、右の人差し指がアスカの背後を見ろと指さしていた。アスカが向き直る。
 そこには顔を赤くした少年がいた。両手でビニール袋を支え持ち、耳まで赤くなりながら俯いて。
「あ、あの、買って…来たんだけど……アイスとコーラ……」
それを見た瞬間アスカの頭脳はスパークを起こして、白い肌を全身朱色に染め上げた。








 ほぼ時を同じくして、無責任な碇家の当主、もとい碇ゲンドウは暗闇の中に座っていた。目の前の机に両肘を付き、顔の前で指を絡ませた手を置いている。彼が家では見せないある一つの貌でもある。
 漆黒という言葉以外はないのではないかと思われるような闇にゲンドウの座るデスクだけが淡い光を帯びて浮かんでいたが、目の前に長方形の形に近い三本の光の八角形が現れると、前後して人間の上半身が光を帯びて現れた。
「報告書は目を通させてもらった。碇」
 ゲンドウを含め、六人の人影の中で正面に座る議長風の男が厳かな口調で告げた。聞く者を震え上がらせる事のできる冷徹な声の持ち主という点で、ゲンドウとその男は一致していた。
「…………」
 ゲンドウの沈黙を数人が舌打ちをしたそうな顔でみていたが、その声の持ち主だけは顔の筋肉を動かすこともなく凝視している。沈黙を了解として彼はとった。
「30年来のE計画がこの結果とはお粗末すぎやしないかね?」
 一見、フランス風の男が嫌みを込めた表情で言った。というのも、全自動翻訳でゲンドウには日本語に聞こえているが、彼が実際何語を話しているのはわからず、唇の動きで読みとるしか術はない。そんなことには構わず、ゲンドウは事実と要点しか話さなかった。
「それは私の責任だとおっしゃるのならば心外です。あの事件はシナリオ通り起こったモノのはずです。サンプルの回収は現在も世界中で続行中です。それに、まだE計画は継続中です」
「サンプルが生きていれば、の話だがな」
 それはおまえたちの責任だ、とはゲンドウは言わずに続けた。
「報告の通り、成長したサンプルのエネルギー含有計測値は予測データを遙かに凌駕していると言えます。ただし」
 ニヤリと口をゆがめる。しかし、それは他の者にはわからない。
「それは、誰かがこの前、結果を急いだために偶然計測された物ですが」
「言葉を慎みたまえ」
「は。申し訳ありません」
 そして、元の沈黙に返った。
「その件はいったん置く事にする。発掘は2%の遅れとあるが、これは」
 チラリとゲンドウを見てまた手元のフォロビジョン(空中に文字の浮かぶパネル)に目を落とす。
「誤差の範囲内だな。だが、遅延は認められんぞ」
「わかっております」とゲンドウ。「アフリカと太平洋には調査団を派遣いたしました。あと一月で次の報告が出来るでしょう」
 一番頭のはげ上がった男が言った。顔で判断するとイギリス系のようだ。
「期待しよう。ジオフロントから何か見つかったかね?」
「いえ、ただし、役に立たない物は見つけました」
「それは?」
 欲望の固まりめ、と侮蔑を込めてゲンドウは言った。
「芸術品ですよ。彼らの。あなた方には全く役に立たない」
「いい加減にしたまえ。キミの言には礼を欠いたものが多いぞ」
「は、申し訳ありません」
 同じ答えを返して、またゲンドウは口元をゆがませた。
 議長風のサンバイーザーをかけた男がそこで口を開いた。あるいは、そのサンバイーザーのようなものは義眼として、代わりに光コンピュータを視神経として埋め込んでいるのかもしれない。ときどき、そのサングラスのような色のガラスの裏で、生白い光が見えるからだ。
「第8世代型の追加予算は一考しよう。碇」
 確かめるように、サンバイザーの初老の男はゲンドウを見る。
「…………」
「裏切るなよ」
 その言葉を残して、彼のいた場所は黒塗りの空間へと元に戻った。後を追うように残りの4人も姿を同時に消す。ゲンドウ1人が最初と同じポーズのままそこにいた。
 世界同時中継のフォログラフ会議か。委員会など作らなくてもよかろう、モノリスという技術があるのに…。
 ゲンドウは机の引き出しに内蔵された赤い受話器を取る。直通の電話で、部下に今日の業務が終わったことを告げて、彼もその闇の中から姿を消した。








 一台のビートルが地下に滑り込むように入っていった。まだ埋まりきっていない駐車場の中で、一番奥に近い場所に、その淡い緑をしたビートルは止まった。エンジンの音が消えると前後して、黒い影が中から降り立った。長身の男とは対照的に、隣の運転席から降りた女性は柔らかい雰囲気を放ってる。碇ユイとゲンドウだった。そのままエレベーターで自宅のある階まで上る。二人はその間終始無言だった。
 彼らが自宅の扉をくぐったのは既に夜半を回ろうかという時間だった。ユイがリビングをのぞくと、闇の中で栗色の髪がソファーに横たわっているのが見えた。毛布をかぶったアスカだ。
 起こさないように、そうっと横を通ってシンジの部屋をのぞいてみる。枕元に見えるのは息子の黒髪ではなく、空色の髪。布団にくるまって気持ちよさそうに寝息を立てている。レイちゃんは無事にきたのね、とホッとしたユイの脳裏に別の言葉が浮かんだ。シンジはどこへ行ったのかしら、とゲンドウに尋ねようとリビングの方を向くと、ゲンドウが手招きしているのが見えた。風呂場をのぞけ、とジェスチャーが言っていた。
 ユイが湯船をのぞいて、安心したようにほほえんだ。
 彼らの息子は湯を抜いた風呂の中で、足を折り畳んで窮屈そうに寝ていたのだ。うーんうーんとうなされて、毛布をかぶって、足を伸ばせないことを苦しそうにもがきながらも、何とか眠っていると言った感じだった。
「バカめ、私たちの部屋で眠っていればよかろう」
「あなた。かわいそうですよ、そんなこと言ったら」
 この子なりに考えての行動でしょう、とユイが言う。
 ふん、と鼻で笑ってからゲンドウは自分たちの寝室へと消えていった。シャワーを使いたかったが、息子が占拠しているところを無理にたたき起こして追い出すこともないだろう、そうユイは思った。ゲンドウが考えていることが、である。
 確かに、起こしたらかわいそうね。
 ユイは音を立てないよう、抜き足差し足でその場から離れて脱衣所から出ていった。
 綾波レイの転校初日はこうしてすべてが終わった。いろいろあったが。




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