何事もなく2・3日がすぎた、と言えたなら。
 シンジは一際大きなため息をついた。思い返すだけで頭痛と恥ずかしさがこみ上げてきて、思春期まっただ中の脳味噌が、大音響を響かせて爆発しそうだ。
 まず、真っ先に気になったのがアスカが急によそよそしくなったことだろう。でも、それはシンジにも仕方ないことだとわかっている。自分だって、アスカにどんな顔をして話をすればいいのかわからないのだ。向こうから見れば自分だって大差ないだろう。きっとアスカも同じような状況に違いないと思う。ここ数日は全く顔を合わせないと言うこともなかったし、口を利かなかったわけでもなかったが、絶対に2人きりになることはまずなかった。まだ心の整理がついていないのだ。お互いにその状況にならないように努力していたといってもいい。
 そして、もう一つシンジの頭を悩ませたのが綾波レイという少女の存在だったが、これはシンジの14年間の常識を木っ端微塵に打ち砕いてくれた。
 まず、昨日の夜も彼女はバスタオルを体に巻き付け、タオルで頭を拭きながら、もう片手で胸元を押さえながら脱衣所から出てきた。シンジとゲンドウは、たまたまその時、食事をとっていたが、少年の目にはかなり刺激的だったらしく、白い肌に、いつもより艶っぽく水の滴る顔や髪に驚いて、口の中の含有物をすべて目の前に座る父親の顔めがけて吹き出した。
 せき込むシンジをよそ目に、レイは自分の下着は何段目にしまったのかをユイに確認するとまたアコーディオンのような厚地のカーテンの奥に消えた。まるで男などその場にいないような振る舞いだった。そして、ゲンドウである。彼はゴホゴホと苦しむ息子に冷ややかな視線を一瞥すると、ティッシュで米粒やジャガイモの破片が飛び散った自分の顔を拭いてから、ポツリと息子にこう告げた。

「青いな」

 まだある。シンジが学校から返ってくると、そのままテレビをつけてぼーっとしていたとき、彼は完全に先に帰宅していたはずの新しい同居人の存在を、よそよそしくなったアスカのことを考えていて完璧に忘れていた。扉の向こうから漏れる光を見て、「あ、つけ忘れ」と、電気を消すためにドアを開けてから、ようやくそこが綾波レイの新しい部屋になったのだということを思い出した。その代償として、短くかわいらしい悲鳴と、着替え中だったレイの白い背中と、その直後に飛んできたコードレスホンが眉間に直撃して部屋の外に倒れ込んだ。もちろん、すぐに中からドアは閉められ、「エッチ変態デリカシーがないさいてー」と一気に罵声を浴びたりもした。
 シンジは一度彼女に「羞恥心はあるのか」と聞いてみたいと思ったりもするが、それ以上に「男として意識していない」とか言われそうで怖い、という想いがまず先に立っていた。自分のことを好きであるという女の子が男として意識していないはずはない、とまだ気がつくほどシンジは成長していなかった。はっきりいって不思議である。だが、シンジがそう考えるのも無理はなく、彼女はシンジを好きな異性として意識する素振りは、生活レベルでは見つけることはできなかった。ゲンドウとユイから「遠慮無用」と厳しく言い渡された、と先日彼女の口から聞いたいたが、確かにレイは完全にこの空間にとけ込もうと遠慮はしたりしなかった。遠慮があるところに家族はできない、そうゲンドウが云ったということが、シンジには少し意外で見直したりもしたが、あの風貌のどこからそんな発想が出てくるのかを、不思議に思ったのも確かだ。
 そういうわけで、レイは碇家の食客となったわけであった。
「なんでうちに?」
 とレイに聞いたところ、返ってきた答えは「碇さん(ゲンドウ)に誘われた」というもので、オフレコでお願いと念を押したあと、ユイの顔を見て安心できそうだと思って決めた、とも言っていた。確かに、もみあげが髭でつながっている上に、朴念仁無愛想ときて黒がかったオレンジのサングラスを日常からかけているゲンドウである。「来い」と言われてまず感じるのは、異常者でもない限り「変態ロリ親父」だろう。レイは14歳の女の子なのだ。ユイの微笑みで安心したというレイの気持ちは痛いほど理解できるシンジだった。
 そこでシンジが両親に何故うちで養うことになったかを言う旨を尋ねたところ、ゲンドウは「彼女の親と私は関わりがある。責任もな」と意味深なことをいい、ユイも一口お茶を口に含んで閏わせた後に、微笑みながら「それはあなたがレイちゃんから聞き出してごらんなさい。これもレッスンよ」とますます訳が分からないことを言った。ただ、ゲンドウと違って、シンジがレッスンとはどう言うことか、と聞き返すと、
「恋愛遊戯」
 と一言返ってきた。そこで初めてシンジも気がついた。自分の親がこの状況を楽しんでいるという事実に。さすがにこの状況を作るためだけに、レイを呼び寄せたわけじゃないだろうとは思っているが。
この様な事があって、結局シンジがつかんでいることは、かわいい女の子が自分に好意を寄せているという、人から見れば「何でどうしてそうなってしまうのか」が判らない摩訶不思議な事実と、レイが一体どこからやって来たかもわからない(教えてもらっていない)素性の謎な女の子であるという、全く役に立つとは思えないことばかりだった。
 そんなわけで、すれ違う人が不思議に思う、肩を落としてため息を付きながら坂を下ってゆく少年はますます気が重くなった。アスカととりあえず話をしなくちゃいけない、とはわかっている。このままお互い避け続けることは不可能だし、そんなのはイヤだ。レイとも同じようにゆっくりと時間をたっぷりかけて聞き出すことがたくさんあるだろう。そこにアスカもいても構わないかもしれない。だが、どっちから手を着けても構わなかったのだが、シンジは途方に暮れていた。
 正直、彼は「面倒くさい」というのではなく、事実を聞き出すということが「怖かった」のである。シンジは自分のバイオリズムがいつもより下がっているのを自覚していたし、その原因も、普段シンジの発憤を促すアスカが側にいないからだ、というのも解っていた。そのアスカに、どんな顔をして2人で話をすべきなのか途方に暮れていた。そして何より、あのアスカの本気ではあっても本意ではない告白を聞いたせいで、アスカの口から出てくる言葉で自分たちの仲を否定されるのが一番怖かったのだ。まず絶対に、100%、天地がひっくり返ってもないことだが、「あれは勢い。本当はケンスケのことが好き」などと言われようものならシンジは自殺衝動と戦わなくてなはならくなる可能性だって無いとは言えない。
 アスカは先に学校に行ってしまった。レイはシンジと登校したがっていたが、アスカと一緒にいってしまった。どうも無理矢理レイだけたたき起こして、シンジは起こさなかったようだ。綾波レイという少女もシンジに負けないほど低血圧らしく、目覚めはシンジよりもひどいほどだった、というのは余談である。
 シンジが暗い顔をして学校の門をくぐり、さらに暗い顔をして教室に入ってくるのを友人2人は見ていた。心なしか、彼の表情はほっとしたようである。
「よ、おはよーさん」
 トウジが昨日と同じ声と口調で同じセリフをシンジに放ってきた。
「あ、おはよう」
 シンジは初めて2人がそこにいるのに気がついたように返事をした。
「なんだよ、惣流とケンカでもしたのか。元気がないなぁ」
「なーに、いつもの痴話喧嘩やろ。すぐに元に戻るて。シンジが謝ってな」
 カカカ、とトウジが笑って言ったが、シンジは鞄を机の隣りにかけると、机の上に顔を押しつけた。
「そうじゃないよ…」
 いつもの顔を真っ赤にして反論してくるシンジを予想していた2人は、声と態度の両方に驚いて顔を見合わせた。
「ほな、原因はなんや?」
「言えない。こればっかりは言えない」
 シンジの答えは冷めていてにべもない。実は声を出して応えるのも億劫だった。それに、事実、人に言えるような簡単な問題ではないだけに、いいたくても言えないのが現実だった。この2人はレイが同居していることすらまだ知らないのである。追求を無理と悟ったのだろう、ケンスケがトウジのジャージを黙って引っ張って、そのまま教室の外へと出ていった。気を使ったらしく、どうやら1人にしてくれているようだ。感謝はしつつも、今はそれについてアクションを起こす気力の沸かないシンジ。
「はぁ…」
 肺活量をフルに活用してまたシンジはため息をついた。レイも鞄はあるが、席に姿はない。アスカと一緒でどこかにいっているらしい。
 何気なく机の中を手でまさぐると、入れた憶えのない手触りがあった。四つ折りの紙だった。
 広げてみると、どこにでもあるレポート用紙に、知った文字が列んでいた。
『話があるので、今日はまっすぐ家に帰ること!』
 いよいよか、とシンジは思った。何がいよいよなのかは自分でも解らなかったが、何となくそう感じたのである。こんな状況を伸るか反るかっていうのかな。
 このメモ一枚のおかげでシンジの一日はやけに無彩色で過ぎていった。隣の席のレイは制服こそ違え、ミサトから支給された教科書を今朝の一時間目から使っている。今朝いなかったのは教科書の束を抱えて返ってきたのを見ればバカでも解る。アスカは意識的にシンジを避けて、視線を合わせることが一度もなく、休み時間になると真っ先に教室から出ていってシンジを避けていた。6時間目が終わっても、アスカは飛び出すように教室から出ていった。アスカがドアを開けたときに、その普段では聞くことのできないドアと壁の衝突音の大きさに、教室の内外の人間が驚いて振り返ったほどだ。だが、アスカはそれを完璧に無視して、歩く以上走る未満で廊下を歩いていった。
 そして、クラスを飛ぶ妖精が沈黙の粉をばらまいて、数秒後に効力が消え去ると、一気に教室はざわめいた。ここ数日の「碇シンジと惣流アスカの間に何かあった」という噂の「らしい」が消え去って確信めいたものに変わると同時に、「シンジが欲望に任せて、アスカを夜這いしようとして失敗し愛想を尽かされた」とか「シンジが新しい女とデキた。それは綾波レイだ」とか「アスカにアプローチを続けていた3年生の熱意に、遂に彼女がおれて心を開いた」などの、事実無根の噂が羽根を広げて飛び立ち、ダース以上の話題が一気に熱を帯びてきた。放っておけばもっとエスカレートするに違いなかった。
 そして、2−Aの人間は初めて知ることになった。柔和、温厚、人見知りで引っ込み思案、甲斐性なしで平凡の代名詞な中学生と思われていた少年が、一気に怒りを爆発させたのである。
「そんなんじゃない!!」
 ケンスケやトウジが教室のガラスが震えたのでは、と錯覚するような怒号だった。クラスの全員が総毛だってシンジを見返した。シンジは苛立たしげに席を立って、鞄の中身も確かめずに教室から出ていった。アスカが出ていったときの倍の音をさせてドアを閉めて。
 昨晩、デリカシーがない、とレイにいわれたが、シンジにはクラスメートの方がよっぽどデリカシーがなかった。
 アスカはまだいなくなったからよかった。でも、僕がいるところで堂々とそんな不愉快なことを噂するなんて。
 しかも、彼らは声を潜めるわけでもなく、普通の声で話していたのが、耳に入ってくる言葉と同じくらいにシンジを不愉快にさせた。
 呆気にとられていたトウジとケンスケだったが、ほぼ同時に教室内で唯一、驚いた素振りを見せずに、むしろ悲しげな表情をしている人物を同時に視界にとらえる。
「綾波は何か知ってるのか?」
「え、あ、うん。ちょっとね」
 ケンスケに返ってきたのは無理して作ったとわかる笑顔と歯切れの悪い言葉だった。
「どうかしたんか?」
 トウジの心配が、シンジにではなく自分に向いているとレイにはわかっていたが、
「ううん、何でもないよ」
 と答えた。
 シンジが友達としてつき合っている訳が、レイには少しわかった気がした。トウジもケンスケも、自分の友達に「何かがあった」とわかると、すぐに心配してくれているからである。話したところで彼らにできることはない、レイにはわかっている。そして、自分が原因だということも。あの恋人未満であり続けた2人には、私とは違って過ごしてきた時間があるのだ、とも。
 トウジとケンスケの視線の先には、胸を両手で押さえて唇をかむレイがいた。
 レイの胸の疼きは突然惹かれたシンジに対する想いで、それが奔流となって外にあふれるのを必死で押さえつけていたのだ。1秒ごとに膨らんでいく彼の者への想いの全てを、真剣に彼女も告白したわけではないのだ。苦しいと感じているのは、アスカだけではないのである。どうしようもない自分の初めての感情。そして、恋愛感情ではない部分でアスカを好きになってしまっているどうしようもない自分。その二つに板挟みになっていた。
「わたしはシンちゃんが好き、でもわたしが原因であの二人の関係が可笑しいままなんて絶対にイヤなの!」
 誰にも言っていないレイの偽らざる本心。それはシンジの怒りを見たことで、悲痛ですらあった。
 まだ日が高い窓の外を見やる。アスカの影はもうすでになく、シンジが足早に校門から出て行くところが、レイの活発さの消えた瞳に写った。








 綾波レイがシンジに対して、ここ数日アプローチを控えていたのは、アスカがシンジに対する想いをまだごちゃごちゃと心に溜めていることを知っていたからである。
 控えめに見ても、ハンサムの部類には分類不可能なシンジに、何故突然惹かれるものがあったのかは彼女自身理解していなかった。理解していたら、それは人類が未だに解けないでいる恋愛のメカニズムを把握したのも同義であって、男と女の心の一部分を解き明かした功績は長く人類史に残ってしまうだろう。そもそも何故人を好きになったのか、などということを聞く方がナンセンスなのだ。
 転校してきてからレイはずっと感じていたことがある。それは「シンジの言った言葉は正しかったのかもしれない」いうことだ。あの昼休み、シンジとアスカの心臓が三角飛びをした時から、実はレイもある確信を抱くまでに、ある自分の感覚が育っていることを知っていた。
「会ったことがあったのかもしれない」
 というものだ。彼女も頭の隅で、デジャ・ヴがあったのだ。ただし「意識しなくては気がつかないくらいの小さなもの」ではあったが。
 しかし、それでシンジが好きになったというのでは、あまりにも自分がバカで軽薄すぎて、そんな理由な訳がない、と思っている。一応はあの顔や性格がわたしの、今までぼんやりと感じていた理想に、ピッタリとパズルピースのように符合したのだとして片づけているが、それが果たして本心かと聞かれると、口をつぐんで何も答えられないだろう。
 でも、そんなモヤモヤを横に押しやって、レイは決心していた。彼女なりに数日考えていたのだ。
 自分の特長はおそらく元気で活発なこと。明るい性格で、ウジウジせずに思ったことをはっきりと言えて、人に表裏を持たないこと。ならば、そこをシンジに全面的に押しだそうとレイは思った。身体的な魅力はこの際度外視して。アスカと正面切って、顔や胸で戦おうなどとは露にも思っていない。それがシンジの好みではなくても、彼女にはそうする以外道がなかったのだ。それでフラれたとしても仕方がないと諦めがつくが、偽った自分をつくってシンジに接しても嫌悪感と罪悪感と、なにより後悔が胸に残るであろうことは幼い恋愛感情でも予想はついた。
 ただし、それはアスカとシンジの仲が元に戻ってからだ。そのためにまず自分は修復のために尽力せねばならないと無意識に知っていた。
 彼女は、アスカから今朝聞かされた言葉を反芻した。
「今日、返ったらシンジに改めて告白する」
 だから今日はヒカリのところで時間を潰してきて、頼んでおくから、と言われたときには鬼気迫るものを感じたほどだった。それこそ、本当の悲痛を実体化したものがそこにあったのである。
 レイは祈った。祈る神は彼女にはない。しかし、誰かに祈らなくてはいけないような気がしていた。運命の神があるのならば、わたしとシンちゃんを引き合わせてくれたのも信じる。だから、アスカとシンちゃんのギクシャクをなおしてあげてください。お願いします。

 どうか、アスカの思いがシンジ君に伝わりますように。
 どうか、シンジ君がアスカに優しくしてあげれますように。
 どうか、私の想いも彼に伝わりますように……







Neon Genesis EVANGELION
Please,Never ending dream

EPISODE:2 "Fresh !"







 シンジの心には怒りと少しの後悔と、そしてなにより煮え切らない自分に対する激しい自己嫌悪が渦巻いていた。何故とっさに自分があんなことを口走ってしまったのか。
 それはアスカと自分が侮辱されたように感じたからだとわかっている。わかっているからこそ、感情を抑えきれなかった自分がイヤだった。
 不機嫌の粒子を体中に纏いながら、シンジは帰り道を急いだ。これだけ速く歩いているのにアスカに出会わない、追いつかないのは彼女は走って返ったに違いない。なんだか悲壮な覚悟のようで、シンジは背筋が凍る気がした。
 そこまで胸にためてるものって何なんだよ。僕に言えないこともあったんだとは思うけど、辛いんならいってくれればよかったじゃないか。だって、僕らは家族みたいなものだろう。
 そうシンジは吐き捨てたい気分だった。
 しかし、それは無理なことだ。アスカが強烈にシンジを意識し始めてからおかしくなり始めた2人の関係。それはつい先日の出来事なのだから。
 しかし、シンジにも薄々何となくそんな感情が自分たちの心のどこかにあって、ムキに否定すればするほどはっきりと輪郭を表す存在を、微量ながら認めていた。しかし、それは2人ともそんなに大きくなかったし、シンジはあえて無視し、アスカはみんなからバカにされるほど取り柄のないシンジに心がぐらついているなど、そして2人の関係において主導権にとり続けてきたアスカだ、彼女の高いプライドが傷つくことを恐れて、年齢と共に育つ自分の感情を押さえつけてきたに違いない。もう少し時間がたっても今までのままであったら、14歳の少女はプライドと自分の感情に引き裂かれる可能性だってあったことを思えば、ちょうどいいタイミングだったのかもしれない。
 シンジが帰宅して鍵を開ける。人の気配はなかった。
 何故かホッとしてしてしまった自分が情けないと思った。
 さて、どうしようか。アスカのところに僕から出向かないといけないかな…。
 鞄を自分の部屋に投げ込んで、カッターシャツだけ脱いだ。下に着ていたTシャツをズボンから引っ張り出して垂らすと、ソファーに倒れ込む。
 これからアスカがここに来るか、僕が行くかしないといけない。でもその前に、僕は……どうなんだろう。アスカのこと好きなのか?
 それが彼にも一番わからなかった。嫌いなわけはない。嫌いであったらとっくに縁を切ってしまっている。ただ、好きと言って片づけられるものでもない気がして、それが混乱に拍車をかけていたのである。
 僕は…僕には……人のことを好きになって愛するってことがわからないよ……。
 この結論を出したとき、途方に暮れたくなると同時に情けないやら悲しいやらで、はたしてこれでいいのか悶々としていた。が、本当のことなので他にどうしようもない。
 どうしようもないんだ。…でも、そんな答えしか導き出せない自分が悔しい。
 シンジは涙が出そうになった。
 こんな時に相談できる人がいたらなぁ…。
 そう考えたときにトウジとケンスケが浮かんだ。
 だめだ、やっぱり友達でもこればっかりはあいつらでも話せない。意外とケンスケはクールに答えてくれるとは思うけど…、ダメなんだ、こればっかりは。
 次に浮かんだのはゲンドウの顔だったが、慌てて考えを消し飛ばしたシンジだった。あの顔でユイと恋愛を成就させたらしいゲンドウだけど、そのノウハウは役に立ちそうもない気がした。その次はユイ。しかし、彼女もやんわりと回答を否定するに違いない。自分のことは自分で決めなさいと常々シンジに言って聞かせているからである。
 自分の家の天井をたっぷり30秒は眺めた後、シンジは無表情になって立ち上がった。
 なるようにしかならないんだ、もう後戻りはできない。賽はもう投げられている。それなら、リラックスした方がいい。アスカに変な緊張を与えない方がいい…。
 静かに靴を履き、外に出るとすぐに右折して10秒歩く。立ち止まって目の前の扉を眺めた。
『惣流』
 表札が目に飛び込んでくる。アスカと同じで、何かあったときのためにシンジもこの家の予備のカードキーを持っているが、使ったことは一度もなかった。いつもと同じように、一回だけインターホンを鳴らす。中からすぐに音は聞こえてこなかったが、しばらくすると中からゴソゴソという物音がして、シンジは一歩下がった。すぐに扉が開いて、俯いて目元が見えない栗色の髪が目の前に立った。だが、すぐに彼女はエレベーターの方に向かって歩き出し、慌てシンジも後を追った。
 小ホールでエレベーターを待っているときに、右前に立つ少女になんといえばいいのか相変わらずわからないシンジ。いよいよ情けなかった。
「アスカ…」
 シンジにできたのは、彼女の名前を呼ぶことだけだ。そして、アスカの見えないところで右手を開いたり閉じたりした。彼の考えるとき、緊張したりしたときの癖だった。
「どこへ行くの?」
 そうシンジは聞かなかった。何となく、漠然とだが予感はあったからだ。
 お互い視線を合わせずに5分ほど歩くと、シンジはその予感が外れてないのを確信した。向かっている場所に心当たりがあったのだ。坂道をほとんど上ったとことでアスカの足が止まった。
「懐かしいね…」
 初めてアスカが口を開く。声にいつもの張りがないな、と思った。
「そうだね。何年ぶりかな」
 そういったシンジ自身が、そんな言葉に意味はないことはわかっていた。最後に来たのは小学校2年の時だが、彼らに印象深いのはそんなことではない。ここは10年前、彼らが初めて出会った場所なのだ。








 少し坂道を上ってきたので、自分の住む大きな建築物がそそり立つようにして眼下にあった。後ろは後少し行けば山がある。二人は自分たちの家が見える芝生の上に寝ころんでいた。頭の上にはうっすらと色化粧し始めているレイの髪と同じ色の空と、綿飴のような雲が申し訳程度に浮かんでいた。
「ねえ、アスカ。これだけは約束してくれないかな?」
「…何?」
「僕ら、今までは幼なじみだったよね」
「…だから?」
「だから…だから、これからもずっと……」
「あたりまえよ。わかってるわ。今回は私が悪いのよ、つっけんどんだった私が。私たちはいつまでも碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーのままよ」
 シンジは黙った。黙るしかなかった。アスカの声が、微かに震えていたからである。一息、ふっと吐きだして、
「私ね…シンジが好き」
 言葉を切ったときアスカは心持ち緊張したようだった。しかし、それ以上に半ば覚悟していたシンジの方が息をのんだ。喉を鳴らす音がアスカの耳にも聞こえた。だが、それを聞き流す。
「いつからか判らないけど、レイが来てからはっきり判ったの。何年も前から感じていたこと、それがはっきりと見えた気がした。私はどうしようもない、情けない、勉強もできない、スポーツもダメ、鈍い、……だけど、そんなシンジが好きなんだって」
 シンジは笑った。今度は笑うしかなかった。酷く自分を評価されているのか、喜ぶべきなのか全くわからずに、ただ笑った。そんなシンジに構わずにアスカは淡々と続けた。時には声を大きく、時には弱々しくしながら。
「どーしてなんだろうね。時間かなぁ、やっぱり。もっといい男が、私は選り取りみどりのはずなのにね、けど、他の男はダメなのよね、なんていうか、そりが合わないっていうか、気に入らないっていうか。バカでスケベな奴ばっかり。でも、シンジの場合だとバカでも許せちゃうからますます訳わからないのよ。なんで……なんで見てるとイライラしちゃうほどのろまな奴に、ってあれからずいぶん考えたけど、理屈じゃないのよ。そういうのは。もちろん容姿とかじゃないの、多少は関わって来るんでしょうね、他の人ならね、でも私はそうじゃない」
「…アスカ」
 彼女の名を呼ぶシンジの声は、まだ安心と不安が入り交じっている。
「うーん、なんかすっきりしたなぁ。言いたい事言うと。人間、やっぱり一人で抱え込むのはダメなのね」
「…聞かないの?」
 今度はアスカが息を呑んだ。シンジの言うところを正確に察したのだ。
「聞いてくれないの?」
 もう一度、シンジは聞いた。
「聞きたくない、といったら卑怯よね。じゃあ、約束して」
「え、」
「私たちは何がっても私達のままでありつづけること。友達以上……私たちは家族だって」
 アスカは彼女らしくなく逃げた。幼なじみとも言えず、恋人とも言えずに。
「もちろん、約束する」
「いいわ、聞かせて」
 安心したようにアスカは言った。
 シンジもアスカと同じように淡々と話した。自分がここ数日考えてきたこと、そしてまだ人を好きになるということが判らないでいると。
「だから…ゴメン、まだ……」
「いいわよ、謝らなくて。期待してないから」
 シンジは苦笑した。文句無しに「ははは」と乾いた笑いを口から響かせながら、情けなさで胸がいっぱいだった。
 まだまだ子供なんだ、僕は。
 それがやけに胸の中でこだました。自分の隣の少女が突然大人になったような気がしたからなのだろうか。そう思ったのは。
「待ってあげる。私に振り向いて、ほかの女に見向きできなくなるまで。でも、容赦はしないわよ」
「う、うん」
「それに、レイもいるのよ、忘れちゃダメよ。あの子の一目ぼれっていうやつも、マジよ。目がヒカリと同じだもの」
「委員長と?」
 あ、っとアスカは一声あげてシンジのほうを向いた。そこでシンジと視線があって、慌ててそらした。まだ目をまっすぐには見れなかったのだ。恥ずかしさはどうしても残っている。
「あー…、ま、この際だから言うけど、あの子も恋する乙女なのよ、前々から。私なんかとはよっぽどね」
「ふーん。誰に?」
「あんたのよく知ってるやつよ。いい? このことは誰にも言ったらダメ。言ったら殺すわよ!」
「ははは」
 アスカらしくなった、とシンジは思った。そうだよ、アスカはそうやって高飛車じゃないとアスカらしくない。俯いてるより僕を睨みつけたほうが、よっぽど良い…。
「とにかく、シンジ、こんなにかわいい子が好きって言ってるんだから、恥じかかせるんじゃないわよ!」
 落ち着いたことで、アスカらしさが戻ってきた、彼女自身もそう思った。一方的に言っておいてすっと立ち上がった。シンジは逆光で、まぶしそうにアスカを見上げた。髪の毛が金色に輝いているようで、何度も見たはずなのに、この時はその見事さに見とれて言葉が出てこなかった。
「さ、帰ろう。レイも帰ってくるわ」
 アスカは言わなかった。言わなくてよかったことを知っていたのだ。レイとアスカは一人の男を巡って同じスタートラインになった。自分のほうが少し有利な条件の道を走れるけど、競争していかなくてはならないのはいっしょなのだ。それをわざわざシンジに言わなくても、彼自身いつか気がつき、なやみ、決断していかねばならないのだと、言葉でなく、直感でアスカは悟っていた。
 私たちの今までを思えば、つきあってくれって言うほうが可笑しい。恋人になってくれって言ったら卑怯者になってしまう。レイに負い目をおいたくない。だから、シンジにまかせよう。わたしにできることは今まで通りであり続けて、シンジを好きだと素直になって、彼の成長を見守ることなのだ。
「さあ」
「うん」
 アスカがシンジに手を差し伸べる。それをシンジが握り返して、アスカが引き上げた。
 二人は初めて笑顔を見せあった。アスカの笑顔をかわいいと思った。そういった感情の積み重ねが恋愛感情なのか、それはシンジにはわからなかった。
「色恋沙汰は考えるのではなく、心で感じるもの」
 それに彼らが気がつくまで時間がかかるかもしれない。
 シンジとアスカ。それは見慣れた風景の一コマである。
 そうなったのは雰囲気のせいだったのだろうか。この夕焼けの時間がいけなかったのだろうか。握った手を離さず、握りなおして指と指を絡ませて坂を下っていった。2人とも照れもせずに。照れること、そんなことを忘れているようだった。
 影が伸び、もうすぐ世界全てが影で染まろうとしている。
「少しだけアドバンテージをもらったかな?」
「え?」
「何でもないわよ!」
 シンジからまた顔をそらして、心配そうなシンジをよそ目にアスカは笑いをこらえていた。手をつないでいるだけで浮かれている自分を信じられず、「バカね、私」と心でつぶやくと、それがますますおかしくて、少し目尻に光るものができていた事に気がつく。それをシンジに気がつかれないように人差し指でぬぐうと、左手の感触を確かめなおして、握る力を少し強めた。アスカが握った手は、とても暖かった。








 日没をすぎてレイが帰宅してから、少ししてシンジが外から帰ってきた。彼の表情が穏やかなのを見て、万事上手くいったようね、とほっとした。つくづく自分も人がいいもんねぇ、他人の恋を応援してるんだから、しかも自分の争う人の、とレイは苦笑した。シンジにはその苦みは見せず、
「おっかえりー」
 と持ち前の元気の良さで挨拶のサーブを打つ。
「あ、…ただいま」
 リターンは張りにかけたが、きっちりとレイの元へと帰ってきた。
「んー…、どうしたの、その歯切れの悪さ」
「あ、うん。久しぶりだなーと思って」
「何が?」
「ただいま、って誰かに言ったの」
「あ、そっか。おかえりってゲンドウさんたちに言ったことはあったんだね」
「うん」
 うーん、とレイは考えて、パッと表情をはじけさせた。
「じゃあ、これからは私たち、早く帰ってきたほうが言おうね、おかえりーって」
「うん、家族だもんね」
 さっきのよりも、声は明るかった。
「とりあえず、シンちゃん」
「何?」
「アスカと仲直りできた?」
「うん」
「そう、よかった」
 どうして、という顔をしたシンジを見て心底呆れてしまった。本当に頭の回転、特にこの件に関しては鈍いんだなぁと思うと、なんだか可笑しくて仕方がなかった。さっきのアスカといっしょで、そんな彼の鈍さも愛らしく思えてしまうレイ自身がバカっぽくておもしろくて仕方がなかったのだ。
 可笑しさをこらえきれず、思わすシンジに抱きついた。慌てる暇もなく、なにが起こったかを理解できないシンジを無視して、
「何はともあれ、これからも末永くおねがいします…」
 照れて、すこし顔を赤らめてレイはいった。
「アスカもいいけど、私もシンちゃんが好きっていうのは本気だよ。忘れないでね」
 シンジを一度きつく抱きしめるとすぐに力を緩めて、顔をそっと右に向ける。

 ちゅ。

 その一瞬が過ぎ去ると、レイは俯いて部屋に駆け込んだ。
 シンジが右の頬に手を当てた。そこには確かに彼女の触れた唇の、まだリアルで暖かい感触が残っていた。それが、夢でも見たかのようなシンジの中で、唯一の現実の証明だった。








 一週間に数回、宿題をやったり特に暇があったりすると、アスカは夕食の後にやってくることもある。ユイたちが遅くなったりして、2人がいっしょに晩御飯を食べたりすることを含めると、アスカは夜をシンジの家で過ごしているといっても過言ではない。いままで碇家に彼女の部屋がなかったのが不思議なくらいである。この夜も、アスカは碇家にやってきた。ここ数日絶えていたことなので、シンジは心底ほっとした。ユイはまだ帰っておらず、ゲンドウはいたが、子供たちのことは無関心といわんばかりに空気を決め込んで、なるべくシンジたちのそばに近寄ろうとしなかった。
 時間だけが過ぎ、アスカは何をするわけでもなく、ただテレビを見たりファッション誌を面白くなさそうに眺めたりしていた。シンジはパソコンに向かって宿題をしていたし、レイはポテトチップスを食べながら腹ごなしをかねてストレッチをしていた。
 ゲンドウが、3人が好きなことをしてすごしているリビングの前をとおって自室に消えるときに、一言シンジにこう言い残していった。
「シンジ」
「え、」
「…鬼畜厳禁だ」
「なっ!」
 絶句するシンジを見ようともせずに、ゲンドウは部屋に消えていった。
 その後に残ったもの。それは、顔を赤らめた初々しい少年少女たちだった。それからレイとシンジ、アスカとシンジの距離が30センチ以上広がったのは、仕方がないことだったのだろうか。








 夜の静けさが耳に痛いような気がする。レイは暗い天井見上げて思った。明日になったらベッドが届くことになっているので、今日が天井とこの距離で向き合う最後の夜になるだろう。そして、今晩は一人で寝ているわけではなかった。レイが頼んで、隣で寝てもらっている。天井を見上げるレイの側で、その娘の声がした。
「…まだ起きてる?」
「うん、おきてるよ。眠れないの?」
「あんたも?」
 アスカがフッと息をもらした。
「無理もないわね、私があそこまでバカだったなんて初めて知った」
「なーに? 後悔してるの? シンちゃんに告白したこと」
 そうレイは言ったが、自分もバカだったな、と少し思っている。浮かれてフライングしてしまったことを恥ずかしく思った。
 先ほど、シンジが欠伸をしながら自分の部屋に入っていった後に、レイはぽつぽつとしゃべるアスカからほとんどを聞いていた。アスカが言わなかったのは手をつないだことと、幼なじみで家族であるということを再確認したことである。
「……後悔…してるかもね。ちょっと悔しかったのかなぁ…。本当はシンジから告白させたいところだったんだけど」
「アスカの方が我慢できずに先に折れちゃった、と」
「そ。だからちょっと癪なのよ。もう!」
 口振りから察するに、案外本気で腹を立てているのかもしれなかった。
「ははは。いいんだよ、それで」
「なにが?」
「男が鈍いと大変だけど、その方が女の子はその分、かわいらしくなるわ。アスカもいま、とってもかわいい。羨ましいくらい」
 ふん、とアスカは鼻で笑った。
「当たり前じゃない。私がかわいいのは当たり前よ」
 アスカは自分の美貌は誇らない。しかし、そういった容姿以外は謙遜の「け」の字もなかった。
「あー、人がせっかく心配してあげてるのにー! わたしだって自分じゃちょっとは『かわいいかなー』って思ってるもんね!」
「ぷっ」
「は、」
「あははははははは!」
「ハハハハハハハハ!」
 同時に二人は笑った。そして、同時にお互いが得難い友達になれたんじゃないかということにも気がついた。
 いいじゃないか、回り道したってお互いあのどうしようもない少年に惹かれているのだ、彼がどっちを選ぼうと恨みっこなしだ、それまで楽しまなくちゃいけない。なにもかもを。後悔だけは残らないようにしなきゃ。
「はぁ…ね、アスカ」
「あー…、くるしー…、ふぅ……で、なに?」
「夢じゃないといいね」
「え、」
「わたしがここにいること。わたしとアスカがここで寝てること。今ある現実すべてが。気がついたら夢でした、っていうのはイヤだもん」
「…そ、ね。夢オチでした、なんて最低よね」
 うん、とレイは答えた後、呟くように言った。
「夢の木に果物が生ってる。それを食べて、まずいいことがあって、でもどこか酸っぱくて、イヤなことがあって、でもまたいいことがあって……。そのまま目が覚めても、夢の実の味が現実へ続いているといいなぁ…」
 アスカは、隣の女の子が本当にかわいいと思えて仕方なかった。
「レイ、幸せ感じてる?」
「うん」
 私もこんな風にかわいいといいなぁ、とも思った。
「…そっか」
「アスカもでしょう?」
「フフ、悔しいけどそうよ」
 恋をしたら女の子はかわいくなる。その言葉、信じてみよう。
「もう遅いし、寝よっか、そろそろ」
 レイはアスカが布団をかぶりなおした音を聞いた。気持ちのいい夜だ、明日の朝も清々しかったら、きっと嬉しいだろう。
「ん、おやすみ」
 レイも毛布をかけ直した。
「うん。おやすみ、アスカ」

 ありがとう。
 それは照れくさくて、アスカもレイも、相手に伝えることができないでいた。
「いつか言えるときが来るよ、きっと」
 そう独白して、レイはまどろみに身をゆだねていった。




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