本当に碇シンジがハンサムであったり、恐ろしく勉強ができたり、全国大会で優勝してしまうようなスポーツマンであったら、まだ、納得できたかもしれない。そして、惣流アスカと綾波レイが二人“だけ”で歩いていたならそんなことも起こらなかっただろう。3人で歩いていたシンジたちが学校の多数の生徒に見られたこの日から、加速度をつけて、本人たちの知らないところで事態は急変していった。
 そして、第3新東京市立第壱中学校、通称「一中」もしくは「第一中学」と略される学校の男子生徒、それこそかわいい異性にあこがれを抱く一年生から、本気で恋心を抱いていた三年生までが、驚愕と失意のどん底にたたき起こされる事件が起こった。
 そして、それは細胞分裂のように増殖を始めると、瞬く間に感染するがごとく学校中に広まっていったという。今まで、嵐の海の中に見えた名も知らぬ灯台の輝きにも等しいほどの、ごく微量な希望。それを、アスカ本人が木っ端みじんにうち砕いた。ある一切れのメモによって。それ以来、彼女の下駄箱から紙のゴミがあふれかえることはなくなった。

 事の顛末はごく簡単なことであった。
 綾波レイが転校してくる以前のシンジとアスカの関係は、二人が否定しつつも他人の目には友人以上、恋人にかすかに手が届かない関係に映っていた。しかし、そんな彼らをみていてもあきらめの悪い人間は後を絶たない。当たり前ではあるが、なぜあの二人がくっついているのだという疑問を抱かない人間はまずいないだろう。幼なじみだとはしても、というフレーズもおまけで付く。
「『へいぼん』ていう字はどう書くんだったっけ?」
「ああ、『碇シンジ』ってかいとけ」
 とは、まことしやかにささやかれたことのある噂ではあるが、全くの事実無根というわけではなかった。実際、身長は平均に届かず155センチほどしかなかったし、長中距離を走ることは低血圧症候群のおかげで優秀な部類ではあるが、勉強は優秀には小指の先だけで崖にぶら下がっている程度で転落寸前、顔は男っぽさよりも「女装させたらこのクラスで一番にあう」と言われるようなきれいな顔立ちではあるが、女性にもてるハンサムとは違う。ただし、一部では母性本能をくすぐるような、という評価もある。たとえば綾波レイなどに言わせれば。そして、基本的に球技がだめの運動音痴に属する少年だった。絵に描いたように、「学校一つに絶対一人はいるタイプ」の中でも埋もれて目立たないよ、といわれる人間だろう。
 しかし、シンジの人生を後ろから蹴り飛ばしながら、自分自身前へ前へと進んできた少女は明らかに違った。きっと違法改造チップでも積んでるぞ、と言われたのは昨年の初めての中間テストで全教科98点以上をとってしまったからである。しかし、彼女本人に言わせるなら「とってしまった」ではなく「しかとれなかった」ということになる。それ以来、アスカという名前の人間の形をしたコンピューターは一度も首位から転げ落ちることなく、それどころかテストの度、学年が進むにつれてますます二位以下を大きく引き離しにかかっていた。おまけに父親がドイツ系アメリカ人、母親が日本人であるクウォーター。その遺伝をいいところだけかいつまんで生まれてきた彼女は、同姓から嫉妬よりも羨望を浴びるほど「かわいらしい」と言われてきた。夕日を浴びれば金色に輝く紅茶色の髪、艶と柔らかそうな感触が見た目にも解る健康そうな白い肌、身長は平均、座高は平均より5センチ以上低いという体型であるため、だいたいの洋服を着ても似合うそのスタイル。男にすれば高嶺の花ではあるが、消して摘み取れない花ではないように写った。
 そして、いつ頃からか、アスカの下駄箱のロッカーには白い便せんとハートマークのついた封筒には困らなくなった。アスカはそれをあえて無視していたが、終いにはシューズも仕舞えなくなったときにようやく封筒たちを手に取った。そして、近くにあったゴミ箱の中にバラバラと落下させたのだ。最初は「せめて読んでであげれば?」といっていたシンジだったが、なぜ彼女がラブレターの山を無下に捨てるのかまでは考えようとしなかったし、シンジもその量をみて辟易したのも確かだった。

 ある日、三年生の男子生徒が朝早く登校した。この学校で早く来てやることと行ったらもはや不文律になっていると言っても過言ではない。学校では素知らぬ顔に見せかけ、実は仲のいい男女が会う、いわゆる「早朝デート」といわれる行為か、もしくはその男子生徒のようにアタックするためにラブレターを意中の人の机やロッカーに忍び込ませるかのどちらかしかない。
 彼はもちろん、アスカが「ラブレターは相手にしない」ということをちゃんと知っていた。しかし、正面にたって告白できるほど、彼は自分に自信を持っていなかったのだ。よって、自分のことは自信がないけど、せめて感情くらいは伝えたいということでこの行動にでていた。
 彼は2−Aと書かれたアクリル版が張ってあるロッカー群に近づいた。そうっと周りと見渡し、人影がいないことを確認すると、見知った小さな扉に手をかけた。彼がここを開けるのは3回目であり、返事がないのでそれを確かめるためにこの近くで張っていたこともある。そして、それがどういう運命をたどったのか、も。しかし、彼はくじけない。前向きに考えた。「木を隠すには森の中って言うじゃないか。だから目立たなくなっちゃう、読まれなくなっちゃうんだ。だったら、ラブレターをラブレターの山の中に紛れ込ますようなアホなことはやめよう」それで二回目は失敗している。「だから、彼女がラブレターを一掃してすぐに入れれば一通だけ残る。それなら読んでもらえるかもしれない」
 彼の考えたことは決して愚考ではないだろう。そして、希望を抱かせていたのは「アスカが誰かを好きだとはっきり言っていない」という一点につきた。
 彼がロッカーを開ける。そしてため息をついた。その扉の裏に、一通のメモが張り付けてあったのである。
「先客がいたか…」
 しかし、恋文にしては様子がおかしいと、彼は眼鏡のズレをなおしてもう一度よくその張り付けてあるメモを読む。そして驚いた。そして嘆いた。そして、
「どちくしょー! 海も山も嫌いだー! インドへ悟りを開きに行ってやるぅー!!」
 ワケの分からない言葉を叫びながら廊下を疾走していく上級生を、一年生の女子二人組に見られた。
 彼の心を粉々にうち砕いたもの。
 その真っ新な紙には、このようにペンで殴り書きがしてあった。

『私こと、惣流は相思相愛の人がいます。諦めてください』

 もちろんハッタリである。半分は正しいが、「相思」ではあるかもしれないのだが「相愛」ではない。
 しかし、そのメモは思わぬ効果を上げた。その日一日中、シンジもレイもアスカの様子が普段と変わりない(レイが転校してくる前と一緒)だったので気がつかなかったが、彼女のロッカーに白い封筒がおかれることはついになかった。

 その代償として、噂が広まった。それが「アスカとシンジはくっついた。まあ、めでたい」
 最後の「まあ、めでたい」という保留付き好意的言語はいささか奇妙だが、まあ、そのわけは転校してきた少女のせいだった。
 容姿の分野でも他以下を堂々引き離して輝きを放っていたアスカ。下手なアイドル顔負けである、という男子一部の評価は正当なものだろう。その彼女には入学してきたときから、なぜか腰巾着なのか小判鮫なのか、碇シンジという男の影がつきまとい、結局アスカはその影をどうも自ら無理矢理まとわりつかせているようで、他人の好き込む余地は元々ほとんどなかった。
 そこに明るい未来、輝ける希望が登場した、というわけである。
 ヘアマニュキアを施してあると思われる青髪、きれいな白磁の肌とが彼女をいっそう魅惑的に引き立て、瞳から鼻唇続いて顎まで届く顔の造りとラインは見るものにため息をつかせる。胸の膨らみは胸の大きさよりも形を重視しているように思われたし、上から下まで彼女の全身を見たときに、外観を崩さないよう、女性であることの証明のようでもあった。
 外見だけでは想像もつかないような、あふれ出る元気の良さ、明るさ、人当たりの良さで好感度が高く、クルクルとよく動く薄い茶色の瞳で見つめられた男子は、ほぼ胸をときめかせ、動悸が早まるのを感じていた。
 アスカが美しい、レイがかわいいと評価が分かれた。そして、美しい方を「平凡を絵に描いたような甲斐性なし」にとられてしまったので、それまでアスカにときめかなかった希少族、それにアスカに一度二度三度四度フラれて傷の深い男子はすっぱり諦め、赤から青へと華麗なる転身を果たしていった。アスカを諦めきれないものもたくさんいたが、それ以上にレイの無邪気さに惹かれた男子は多かった。
 あるクラスメイトで、アスカに「惣流さん、おはよう」と声をかけた男子生徒もいた。無論アスカはそれまでほとんど面識がないので言い寄ってくる男と瞬時に判断処理し、はじき出された結論をそのまま実行に移した。要は、彼の前を無言で通り過ぎ、つまり無視したのである。同じ彼がレイに「あ、おはようございます」と挨拶したところ、同じクラスの生徒であることを覚えていたのか、「あ、おっはよーっす」と元気に笑顔付きで返事が返ってきたとき、彼の心は激しく燃えたぎるコロナと化した。顔を赤らめる彼を、一度不思議そうな表情をして一瞬見つめた後、レイは呼ばれてアスカの席の方へ戻っていったが、その場に残された少年は自分より少し背の低いあの女の子から目が離せなくなった。
 彼のような例は希なケースだが、アスカの場合は絶無だったために一層輝いて写ったのだろう。それと前後してあっという間に人気が高まった。

 レイが転校して10日がたった頃、初めて彼女に告白しよう二年生の男子が現れた。彼はシンジなんかよりはよっぽど背も高いし、勉強もでき、お世辞抜きでも「かっこいい男子コンテスト」をやれば学校全体でも10位にはなれたであろうその容姿を引き下げて、堂々綾波レイに交際を申し込んだのである。彼自身、うまくいくとは思っていなかったが、完全に脈がたたれるとも思っていなかった。これから少しづつでも仲良くなりたい。ささやかな願いである。
 自分より頭半分、つまりシンジよりも高い目線の男子から「つきあってください。お願いします」と真摯に頼まれたレイだったが、悲しそうな顔をした。その二年生はいやな顔をすることなく、むしろ自省気味にいったものだ。
「あ、やっぱりだめですか。突然すぎましたね、すいません」
「あ、いや、その…」
 さすがのレイも、このときばかりは歯切れが悪かった。
「転校してきて環境にも、とまどいの残る人にいうセリフじゃなかった。本当にすいません」
 このとき彼は、転校前に誰かレイには好きな人間でもいたのではないかと、発想を飛躍させた。その彼と別れでから傷が癒えてないのではないかな、とも。
「だから、僕の言ったこと覚えておいてくれればいいです。時間がたったら返事を聞かせてください」
「…ごめんなさい」
「いいぇ、いいんですよ。じゃ」
 あくまでさわやかな少年であったが、少しナルシストだった。自分に酔っていて、レイの「ごめんなさい」の意味をしっかり把握できなかった。レイが「つきあえません、ごめんなさい」と言ったのを「また後で回答するけど、この場ではなにもいえません、ごめんなさい」とお門違いなことを考えていた。立ち去ろうとするその少年に、レイは呼びかけた。
 期待に胸躍らせて、その少年は振り返った。「もしかして…」これはラッキーなことが起きようとしてるんじゃないのか!?
 しかし、レイの口からこぼれ出た言葉は彼の予想を遙かに超越し、ショックのあまり彼は一日中口が利けなくなったほどだ。
「わたし、好きな人がいるんです」
 ここまでは予想範囲内である。まだ許せた。時間がたてば解らない。確かにそうだろう。どうなるかはわからない。
 控えめなつもりで彼は聞いてみた。
「前の学校の人ですか?」
 レイはぷるぷると首を左右に振った。
「ここの学校です」
 これは予想を少し超えていたが、まだ彼の精神的再建は瞬時で可能だった。ま、自分が10日で彼女にアタックしたのだから、彼女が誰か好きになっておかしくはない。
「…誰だか聞いてもいいですか?」
 アスカのこともあるし、いつかは大っぴらになるんだろうと思っていたレイは、少し照れながらもその名前を口にした。
「同じクラスの子。碇シンジ君…」
 これは彼の予想を遙かに飛び越し、茫然自失に陥る。レイの目の前で、一つ真っ白に燃え尽きた灰の人形ができあがった。

 その彼が言いふらすようなことはなかった。もちろん、自分の傷が深すぎてとても他人に「レイには好きな人がいます」とも、さらに自分を傷つける「しかもそれは、あの碇シンジだ」という言葉は言えなかった。
 しかし、不思議なことに次の日には学校中の噂で「綾波レイに意中の人物がこの学校にいるらしいぞ」という、一部事実を隠蔽された報道がどこからともなくなされた。これにほくそ笑んだ人物は葛城ミサトという、レイのクラスの担任であったが、彼女がこの話を流布させたという根拠はどこにも存在せず、証拠もなかった。しかし、ケンスケのプライベートEメールに上の文章だけが書かれたメッセージが届いたのは事実だし、同じような方法で噂に命を懸けているような生徒たち数人の元に届けられたのも事実だ。そのときの告白が2階にある理科準備室の真下であったこと、その理科準備室の主である赤木リツコがミサトと10年来の友人であるということ、そして、その時間はミサトは理科準備室でコーヒーを飲んでいたことは偶然の一致であるとは考えにくいが、あくまで想像の域をでない。
 とりあえず、俄然男子生徒諸君は期待と不安に胸躍らせた。
「自分かも」
 という発想は、自分の容姿と成績と運動神経とを過大評価している人物ほど多く見られた現象で、自分に自信がもてなくなる度合いがますにつれて、ますますその数も「もしかしたら」を頭にくっつけて、増えていった。
 その淡く甘い、まさしくアスカの言うとおりで「ぜんざいの小豆よりも蜂蜜よりも甘い」という、どこで蜂蜜とぜんざいの小豆の発想が出てきたのか不思議な言葉も、まったくもって正しかったという事態はすぐに起こった。
 実はレイの元にもラブレターは舞い込み始めており、それがエスカレートしないうちにとレイも先手を打ったのだ。アスカと同じ方法であったが、それはより過激だった。ロッカーの外側にメモを張り付けたのだ。
『ラブレターはお断り』
 それだけなら間違いなく女子から、「なによあの子、ちょっとかわいいからって自惚れちゃって」と非難を浴びるほどに受けただろうが、その下にきっちりと、
『私は碇シンジ君という意中の人がいます。ごめんなさい』
 と書かれていたので納得した。好きなひとがいるんなら、そりゃ迷惑だね、と。おまけに、彼女はこの日までの10日あまりの間で、彼女に対する評価を最高のところまで引き上げていたために、むしろ同性から妬みよりも同情を買った。残った反感のくすぶりも、アスカという同じ行動の先例が吹き飛ばしてしまったので、レイが女子からいじめられることはもちろんなかった。
 しかし、問題はそう書かれてしまった男子生徒たちであった。もちろん怒り狂った。
「両手に花だと!? ふざけるな!」
 誰だってそう思うだろう、ましてや「あの」碇シンジである。男子も女子も、「あの碇シンジ」と呼ぶときには、まず間違いなく「あの」に力を込めた。その響きはいささか異なるが、根底は一緒である。男子には羨望と怒りが過分に含まれていたし、女子には「呆れた」という響きと同じものがあったのだ。そして、共通していたのは影が薄そうなあの男のどこに魅力があるのか、という、男子にとってみれば事実を見せつけられて必死に考えなくてはならない事態と、女子には少しかわいらしい彼のどこに惹かれるんだろうかと興味がわいた。そして、見向きもしなかった女子に、その騒ぎが発端となって「碇君は見てるとかわいい」という評判が広がることになる。元々顔は女の子っぽいところがあると思われていたが、改めてみると魅力的かもしれないと錯覚する女子がじわじわと増殖することとなった。
 当の碇シンジ本人がいないところで、このような土壌が形成されてさらに成熟させられていったのである。そして、男女3人に、全校生徒の注目が浴びせられることとなった。それこそ、一挙手一投足にまで。










 その碇シンジであったが、他人の目から見る限り、ごくふつうの学校生活を送っている。ように見えた。
 確かにその通り、普段通り授業中に頬杖で居眠りしてみたり、体育のソフトボールでデッドボールをぶつけられてみたり、指名されたはいいがしどろもどろで答えられなかったり、と何ら変わったところはなかった。
 むしろ、変わっていたのは彼の周りであった、と言うべきだろう。
 一番の変化はやはりアスカである。例えば彼女がシンジとケンカしたとき、周りからよく野次られていた言葉が「夫婦喧嘩はよそでやれ」であったが、前はムキになって否定していたのに、今では平然と聞き流す、といったあたりで変化が見られ、周りの雑音を気にしなくなったが、これは煩わしいからではなく、聞きとがめる必要がなくなったことを意味している。「シンジとつきあっているのか」と聞かれたら、アスカは十中八九「NO」と答えたに違いないが、「シンジのことが好きなのか」と聞かれたら、今の彼女であれば平然と照れもせずに「YES」といったであろう。アスカは、まずなによりも精神的に成長したと言える。
 そして、アスカの起爆剤になったレイである。彼女もまた自分が一目惚れしました、と隠そうともせずに公言していた。ただし、両人とも自分から胸を張って、自慢気に言いふらすようなまねは絶対にしなかった。ただ質問におだやかな表情で答えただけである。
 ささやかではあるが、シンジが期待していたことは改善されることはなかった。それは「アスカの尻に惹かれている状態」というもので、先日それで口げんかばかりをしたばかりだったが、そのあたりは彼女は容赦する気も変えるつもりもちっともないらしい。
 現に毎朝起こされるときは怒鳴られているし、シンジが何かに手間取るとすぐに罵声が飛んでくるし、手加減はない。ビンタの回数は確かに減ったが、ちゃんとここのところ復活していて絶無ではなかった。やっぱり朝の寝起きが悪くてグズッたところに飛んできた。もちろん、跡型くっきり紅葉ができていたのである。
「それでもいいか」
 やっぱり、アスカが優しかったり、突然少女趣味に変化したのだったら気持ち悪かっただろう。殴られるのが好きというちょっと違う世界の住人ではないので、シンジはもちろん殴られたいとは思わない。だが、アスカが今までと急激に変化されても、シンジはとまどい、今まで通りに接することはできなくなるのは想像に難くない。










「6月6日って何の日か知ってるか?」
 シンジが、ケンスケにそう聞かれたのは5月も中盤を過ぎた頃だった。太陽の光を浴びた青葉がより一層空を目指して伸びる時期である。
「え、その日がどうかしたの?」
「いやな、聞いた話なんだけど、その日がXデーだ、って」
「何のXデーなのさ」
 ケンスケは肩をすくめた。
「それがわからないから聞いてるんだろう。で、何か知らないか」
「その日は……あ、僕の誕生日だ。でも関係ないか」
 ぽん、と手をたたきながらシンジは言った。しかし、
「ははぁ、なるほどねぇ…」
 ケンスケが眼鏡を怪しく光らせながらそう呟く。
「だから、なにがどうなってるんだよ」
「ま、気にするな。風の噂で正しい情報かどうか、俺が確認したワケじゃない」
「だからなんだよ」
 シンジの不安そうな顔を、ケンスケは余裕を持って眺めた。口をゆがめて「ククク」と笑う。
「じゃあ、ヒントをやろう。その噂はこの学校男子、おまえ以外ならほとんど知ってる。合い言葉は『毒牙から解放せよ!』だとさ。まあ、お前じゃたぶん真実に触れることはできないよ」
「何なんだよー、気になるなぁ、その言い方。気になって夜眠れなくなっちゃうじゃないか」
「ダメだ。それよりシンジ。お前、身の回りには気をつけろよな」
 意味深な笑いを浮かべながら去りゆくケンスケ、シンジはその背中を見ながら立ちすくんだ。クククと笑っているケンスケが気味悪かったのと、彼の言葉が気になったからである。
 ところで毒牙ってなんだろう?
 この疑問がシンジを一日中思考の海で泳ぐことを強制させた。答えは与えられなかったが。










 シンジはこの日、気がつくと針の山の上で正座させられているような気分のまま過ごす羽目になった。
 鈍い彼でもうすうすは原因に気がついている。が、僕にどうしろって言うんだよ、と、ほかの男子生徒が聞いたら「だったらすぐに立場をかわってみろ」といわれそうなことを考えていた。
 彼が教室を出るまでに感じた刺すように怒りのこもった視線の数は数えきれず、好奇の目はそれに輪をかけて多かった。
 後ろのほうでささやき声が聞こえると、まるでファシズムの国の共産主義者になったみたい。などと、今日社会の授業でなにをやったかもろバレの感想を抱きながら、それが原因とは気がつかずにアスカと帰っていった。レイは何でも寄るところがあると、先に走って帰ってしまった。
「レイがどこに行くか聞いてる?」
 シンジは軽く左右に顔を振る。
「ふーん、相変わらず秘密主義者ね、あの子」
 そういえば、ほとんどレイのこと知らないんだよな、僕。特にあの時話をしたときに聞いたこと以外は何も。
 改めて気がつくシンジ。隣では、歩きながらアスカも同じことを考えているとは露も思わなかった。
























EPISODE:3 On Your Mark
























「と、いうわけで、課題は『料理』です」
 ユイから厳かに宣言されたとき、アスカの頬を一筋の汗が流れ落ちた。隣に座っているレイも無表情ではあるが、内心は相当動揺が走っている。
「あ、あの、どうしても『料理』ですか?」
「そう、料理」
 きっぱりとユイが言い切ったのをみてアスカは諦めた。これはやるっきゃないか、と。
 アスカがうなだれるのを、笑いをこらえながら、
「プレゼントは自由よ、もちろんね。でもあの子がつけ上がらないように、高価なものはダメよ」
 と、言った。
 今シンジが風呂に入っているのを見計らって、ユイがアスカとレイに2週間後に起こるであろうシンジの誕生日という名のイベントに向けての課題をもうけたのだ。
 二人とも競争するのはいいが、暴走してしまっては元の木阿弥、だから公平なもので勝負した方がいいから料理にしましょう、とシンジの母は、自分の息子に惚れた少女たちにそう告げたのである。
 実際、アスカは簡単な包丁捌きはできても料理はほとんどしない。というより、唯一苦手なものが家事一般、家庭科の成績はお世辞にもいいとはいえないアスカ。
 一方、レイのほうの実力も、ユイはちゃんとわかっていた。アスカと大差ない、と。数日前にレイに料理を作ってもらったことがあったが、出来上がったものは夕食にも関わらずサンドイッチとハムエッグ。
「作れるものはこのくらいしかないんです」
 そう言って身を縮ませるレイに碇家全員苦笑したものの、文句も言わず黙々と目の前のパンに挟まれた料理を『処理』していった。味が問題だったのではない。作る量を間違えたどころの騒ぎではなく、シンジが目を白黒させたほど量があったことからもわかるように、彼女は一人あたりの食べる量を間違える部門で、抜きん出て相当料理音痴であった。堆く積まれたパンと卵とハムの山に、テーブルがまるまる埋まった。作る最中にシンジはその場にいなかったが、いたら間違いなく彼女を羽交い締めにしてでも、パンを5斤も切り分けるような行動は止めたに違いない。
「この二週間、がんばって腕を鍛えておいてね。楽しみにしているわ」
 無責任なようにも思えるユイの発言ではあるが、もちろん彼女も足りない分は作るつもりでいた。レイが作る量を間違えなければ。
「でも、なんでなんですか?」
 レイが言った。自分のしてしまった数日前の参事を思い出すだけでも赤面ものである。調子に乗って熱中した結果がそうなったのだから、彼女の気持ちも分からないことはない。楽しかったら周りが見えなくなると言うのは誰でも一緒。それなのにまた作れ、というユイの考えがいまいちわからないままだった。
「だって、あなた達がいくら着飾っても、シンジにはあまり意味ないでしょう」
 言った後で深々とため息をつくユイ。
「元々、中学生に色仕掛けなんて御法度だけど、あなた達みたいにかわいい女の子に告白されても浮いた感じがないのはさすがに…」
 まったくだ。と少女たちは思った。
 自分が他人よりはかわいいことは理解している二人。ただし、それが群を抜いているとまでは考えが至っていないし自惚れてもいない。しかし、それでも「好きです」と言われたシンジの顔を想像すると、複雑である。彼の場合、嬉しがるより前に、まず困惑するからだ。その後どうしていいかもわからずにおろおろする、結果が出ない、ますます焦る、と悪い方へと雪だるま式に思考が膨らんでいく。
「はぁ…」
 3人は顔を見合わせてまた吐息した。しかし、その顔に苦笑以外浮かばないのは、シンジの人柄なのか鈍さにイライラしているのか、と判断がつかないことを知っているからだ。
「わかりました」
 アスカが言って、レイも頷く。もともとシンジの誕生日にポイントを稼ぐという考えは、二人とも頭の中にあった。何をするかは決めかねていた、と言うのもある。それを見越したユイの話だったので、嫌がる理由はなかった。というより、むしろ望むところな二人であった。
「じゃあ、二人は今日からライバルね」
 楽しげなユイの声を聞いて、レイの脳裏に一瞬ある考えが浮かんだ。
 普通なら、シンジに女の子を悩ませないために断るなりどちらかと交際するなり早く決断を促すのが大人のやり方じゃないのだろうか、もしかしてこの人はこの状況を楽しんでいるのではないか、と。
 今まで黙りを決め込んでいたゲンドウが、突然口を開いた。
「出来の悪い息子のためというのがもったいない気がする」とは口にはせず、ただ一言「君たちには期待している」と言った。
 少女たちは程良く顔を紅潮させる。
 この日から、二人の女の子の戦いの火蓋が切って落とされた。










 次の日、二年A組の生徒たちは色めき立った。
「おい、あの惣流が料理のレシピを読んでるぞ!」
 その話は瞬く間に浸透していった。アスカの性格から考えても、家事をするようにはみられていなかったし、現にほとんどしなかった。これは碇がらみだろう、皆がその確信を高めたのは、昼休みにレイが家庭科準備室の中へと消えていったからである。だが、彼女たちにはあまり余裕がなかったので、いちいち周りを気にしている気にもならなかった。料理を実際に作ってみないことには味もへったくれもありはしないのだから時間はいくらあっても足りるとはいえず、アスカはその「違法改造コンピューター」的な記憶力を生かして、シンジの口に合いそうな料理のレシピを片っ端から覚えていき、レイは家庭科の教師に一人あたりのために作る分量の教えを請うために各々行動を起こしていた。
 もちろん、その話を一つも知らないシンジに答えようがない。
 尋ねられて、
「知らないよ」
 と言ったが、聞いた側のトウジもケンスケも明らかに信じていないようだった。










「6日のシンジを拘束してでも、あの二人の手料理を食べることはゆるさん!」
 彼女たちの実力を盲目的に過信しているバカ、憧れているマヌケ、羨ましがっているアホ、と女子が酷評している「惣流組」「綾波組」と呼ばれた男子たちは鼻息も荒く、何とかシンジのおこぼれでも預かりたいという人間と、断固阻止すべしと主張する側に分かれて延々議論していた。あきらめの悪いヤツら、とも言う。
「気になる子はいるけど、好きってほどじゃない」
 手前勝手なシンジの言いぐさに、腹を立てる前に安心してしまったのが彼らである。つまり、
「つきあってるわけじゃないんだから、チャンスはまだある」と言うことらしいが、まあ、無理だろう。
 今まではアスカを巡って、レイが来てからは勢力図が塗り替えられたとはいえ、お互い昨日の敵であるはずなのに、今日は友だった。目の上のたんこぶを切り離してしまわない限り、彼らに春はやってこないからだろう。
「阻止したって家に帰られたらどうしようもないぞ」
「惣流は仕方ないかもしれない。だけど、綾波のほうは家に入れなければいい」
 ちなみに、教師とシンジとアスカをのぞいて、レイがシンジの家の扶養家族であることを知っている人物はいない。しかし、アスカの家がシンジの隣であるということは周知の事実であった。
「無理だって。俺たちが彼女たちをデートに誘ったって乗ってくるわけはないし、一直線に目的に向かって走られるのがオチだよ。それだったら今からでも碇と仲良くして、Xデーに家に誘われた方がまだましだな」
「お前にプライドはないのか!?」
「あったって、どうしようもないさ。振り向かせるチャンスもないんじゃプライドなんかあったって邪魔なだけだ」
 くっ、っと言って「断固派」は唇をかむ。優劣は今の言葉で決まったようだ。
「結論は『お近づきになって、ご馳走を一緒に食べさせてもらおう。その際、自分のお目当ての女の子に近づければ文句なし』っていうことでっ!」
「………えらく露骨な言い方だな……」
「なんだ、何か目的が違っているか?」
「……違ってない…」
「ふっ、ならいいじゃないか」
 胸を張ったその生徒であるが、一つ忘れている。シンジと仲良くなるのは相当骨が折れるということに。彼にベタベタすることはほぼ不可能だし、向こう側が嫌がる。シンジが友人を作るのが下手であるとは周知の事実であったし、クラスメイトでも、シンジと話をすることはあまりないのだ。ケンスケとトウジはある理由から仲良くなることはできたが、それはシンジの男友達ができた、たった一つの例だった。




Next | Back | Index | B.B.S. | Top

御意見・誤字脱字情報・感想をお待ちしております。
Form or masadai@enjoy.ne.jp


“新世紀エヴァンゲリオン”はGAINAX(c)の作品です
作品の一部及び全ては引用・転載・配布等の行為は無断ではできません
作者の許可が必要となりますのでご注意ください