今日は寝苦しい…。
 テストも終わって気が晴れたはずなのに。
 開放感よりも重圧感が体に降りかかってくる。
 布団で何度か目の寝返りをうつ。
 汗がじっとりと体中にまとわりついて、もう一度シャワーでも浴びたい気分だった。
 明日早起きするか。
 それに自分じゃ無理だと気がつくと、もう一度シャワーを浴びてこようか、に考えが切り替わる。
 もうすぐ深夜一時。
 自分の向かいの部屋で眠っている少女も、自分と同じように寝付けないでいるのだろうか。
 何かを悩んでいたみたいだけど。
 静かだ。
 でも、そういえば、あの部屋ってエアコンがつけられてたっけ。
 でも、静かだな。音がしないし。
 そして、自分の部屋にエアコンがない理由を思い出す。
 窓をもう少し開けておこう。
 体を起こし、カーテンの裏のひんやりとしたガラスに触れ少し押す。
 目の前で、布が風と共にダンスを踊る。
 彼の視界からも、窓の外がチラッと見えた。
 満天の星空。
 そこに夜空の王がいた。
 無粋な布が彼の視界を遮るまでの一瞬、見とれていたことに気がつく。
 青い満月。

 もう、二月近く経ったのか。
 あの桜、もう散っちゃっただろうなぁ。

 回顧に思いを馳せながら、今度は眠れるという奇妙な確信を抱いて布団に滑り込んだ。























EPISODE:4 She shed tears in chagrin























「ね、夜桜見に行こうよ」
「へ、」
 相も変わらず、間抜けな声が碇家のダイニングに響いた。
「だから、お・は・な・み」
「あ、ああ、桜ね」
 シンジの声はあまり乗り気でない答え方だった。ただ、今何か用事があるのかといわれると「NO」である。現に、つまらなそうにパソコンの画面を眺めていただけなのだから。
「ああ、行ってくるといい」
 前置きもなくゲンドウが現れてそう言った。ズボンの右ポケットからカードを抜き出すとレイに渡した。第3新東京市は新しい街らしく、新技術が浸透しているが、皆が使うカードもその一つである。プリペイドカードに似ているが、一昔はデビッドカードとして呼ばれていたものを進化させたもので、一枚あたりの最高額は違うものの、一定金額まで預金から引き出すように品物を買えた。無くなれば、本物の口座から金額を電子操作で補充する。そうやって、カードの物理的寿命まで使える。現在では現金と同じくらいに流通していた。
「酒以外なら何でも好きなだけ飲み食いしてかまわんからな」
「はい、ありがとうございます」
 遠慮なしにレイも受け取った。
「と、いうわけだ。しっかりエスコートしてこい、シンジ」
 ゲンドウのこういうところが何年一緒にいても、シンジには馴染めなかった。突然いないと思ったら現れて、勝手に物事を決めて、無理やり何かをやらせる。しかし、それは大体シンジのためになっていたことだと最近気が付き始めたので、文句は言わなかった。
「わかった」
「じゃ、行ってきます」
「行ってきます」
 二人の声を聞きながらゲンドウは密かにほくそ笑んだ、のかは判らない。ただ「遅くなるなよ」と一言いって二人を送り出した。シンジの頭から「アスカを誘おう」という発想がでなかったことに安堵しつつ。










「今年最後の桜だね」
 レイが上を見上げながら呟いた。
 家から10分ほど歩いたところにある公園。
 そこに彼らはいた。
 そして、彼ら以外は誰一人としていない。
 時折聞こえるのは切れかけた電灯が点滅を繰り返すときの耳障りな音だけだった。
「このまままっすぐ行けば小学校なんだ」シンジが公園の反対側の、入り口の向こう側の道を指して言う。
「ふーん」
 シンジが懐かしそうに目を細めた。
「もう、夜店もおしまいなんだ…」レイが名残惜しそうに桜の幹を撫でた。
 桜の木々には、もう青い葉がかなりの割合で混じっていた。桃色の花びらは土の上に絨毯となって広がっていた。それと一緒で、つい先日まででていた、かき氷やたこ焼きイカ焼き、トウモロコシにジュースやビールなどの屋台も、片付け中の資材や跡だけが残っていて、営業している店は見えなかった。先週末には、ここで最後の酒宴でもあったのだろう、そうシンジは思った。
「何か飲む?」
 レイが顔の横でカードをちらつかせる。先ほどゲンドウから渡されたカード。
「僕はなんでもいいよ」
「じゃ、ちょっと待っててね」
 公園の入り口にあった自販機を思い出して、レイは走っていった。
 レイが視線で、すぐそこのベンチに座ってて、と云った気がした。シンジは素直に青いプラスチック製のベンチに近づいて上に散っている花びらを払う。見上げれば、真上に大きな桜の木が枝を誇示するように拡げていた。
 葉や散り残っている花びらがシンジの視界を埋める。しかし、そのわずかな隙間から夜空がのぞいていた。そして、大きな丸い月が浮かんでいた。
「おまたせ」
 程なくしてレイが戻ってくる。ぽいっと投げてよこしたのはココア。少し肌寒いような今夜だとちょうどいいかな、と思うシンジ。
「ありがとう」
「いえいえ」
 ポンポンとシンジの隣の花びらを落とすと、ゆっくりと座って上を見上げた。
「あ…、月が見える」
 先ほどのシンジと同じ感想を漏らした。
 シンジはその無垢な横顔を見ながら思う。
 どうして、この子が自分の隣にいるのだろうか、と。
 出逢ってまだ2週間も経っていないのに、こんなに親しそうにしている自分が信じられなかった。今までは、アスカにも「友達作るのが下手」と笑い飛ばされて、シンジ自身が「そうだね」と笑うしかなかった。
 なのに、昔から知ってる友達みたいに仲が良さそうにしている。
「ね、今、『どうして隣にレイがいるんだろう』とか思ったでしょう」
「ぶっ」飲みかけていた液体を思わず吐き出す。咳き込みながらも驚いた視線をレイに向けた。「ゴホッ、よく、ゴッ、わかったね、ケホ」
「勘だけどね。まあ、シンちゃんとアスカの時間を考えればわたしが隣にいると違和感でもあるんだろうなぁー、って思ったから」
 さすがにシンジも、そういったレイの顔をよぎる寂寥を見逃したりはしなかった。
「べつに、違和感があるとかそういうんじゃないよ。ただ、不思議だな、って。友達つくるのが下手な僕とこんなに早く親しくなった人って今までいなかった。だから、ちょっとね」
「ふーむ。なるほど。気を使ってくれてるんだ」
「違うってば。……もしかして、ここに来たことを後悔してたりしない?」
 まさか、とレイは慌てて首を横に振った。
「後悔なんかしてないよ」
「じゃあ、なんでそんなに悲しそうな顔してるんだよ」
 レイは驚いた表情でシンジの方に顔を向けた。シンジの声が、いつもより明瞭に事実をとらえていたからである。
「僕はレイのこと、まだなんにも知らない。アスカも知らない。父さんや母さんは教えてくれないんだ。ねえ、僕にレイのこと教えてよ」
 シンジはそこまで一気に云って、そのセリフが素面で女の子に云うようなセリフじゃないと気がついたのか、顔を赤らめながら慌てふためいて、
「あ、そ、その、別に」
 シンジの声を遮るように、レイが話し始めた。
「いいよ。教えてあげる」
「え、」
「聞きたいんでしょ?」
「…うん。言いたくないことだったら言わなくてもいいよ」
 レイは俯いてまた顔を左右に小さく振る。すぐに夜空を見上げて、遠くのこと思い出すように口を開いた。
「一言でいえば、わたしには記憶がないの」
「ぇ……」
 シンジは声にならない声を上げた。
「ただし、全部じゃないのよ。ただ、記憶の空にものすごく大きな雲がかかってて、その青さが地上からほとんど見えない、そんな感じ。だから、たまに隙間から見える記憶の断片みたいなものが、多分わたしの記憶のすべてなの」
 ふう、とレイは溜息をつく。
「わたしの記憶が繋がっているのは半年前から。気がついたら古い家で寝かされてた。大きな家でね、子供に先立たれちゃったおじいさんおばあさんしかいない家でね、とっても親切にしてくれたわ。ただ、おじいさんは寝たきりで、わたしが起きあがれるようになったのはそれから2日後のことだったけど、それからも本当の孫みたいに優しくしてくれたのよ。記憶が混乱してるわたしに優しくしてくれて、それで捜索願もでてないか警察に問い合わせたりもしてくれたみたい。それで、ずっと家族や身寄りが見つからなかったら一緒に暮らして暮れともいってくれた。寂しかったんでしょうね、孫の顔も見ないうちに息子さんがいなくなっちゃったんだから。身よりもなくて、誰も訪ねてくる人もなくて本当に寂しそうだった」
 レイはシンジの顔を見た。どういえばいいのか判らない、そう顔に書いてあった。
「こっからはつまらない話よ。普通、おとぎ話とかだったらそのおじいさん達と一緒に暮らせたらめでたしめでたし。で終わるんだけど、その二人は死んじゃってね、自殺。おじいさん、3月くらい前からアルツハイマー病の兆候がでててね、おばあさん、かなり苦しんだみたい。わたしがある朝、扉を開けたらおじいさんの布団の上におばあさんがもたれかかって倒れてました、そこは血の海でした、ってお話なワケ。不思議と涙が出てこなかったわ。体中の力が抜けちゃって、警察に連絡するのが精一杯で、生きてる死んでる見極めるのもむりで、結局倒れている所に近づけなかったもん。…まあ、家族の情が薄くなかったとは思いたいけど、濃くもなかったんだと思うな。それが2月の終わり。で、なんだかんだとあって、現在に至る、と、そういうワケなのね。おもしろくないでしょう?」
「……ごめん」
「いいよ、そんなにトラウマになってるわけじゃないから。おじさん達にも励まされたし、大丈夫よ」
 レイはシンジの肩をポンポンとたたいた。落ち込む人間と励ます人間の立場が逆だった。
「そういえば、どうやって父さんや母さんに会ったの?」
「警察に捜索願がでてないか、って言ったでしょ? おじいさんたちが亡くなる……2週間くらい前に、ゲンドウさんがやってきてね、『君の親の知人だ』って言ったのよ。さすがにわたしも目を丸くしたよ、だってあの顔だもん」
 シンジは苦笑した。確かに同じ立場だったら、胡散臭さがまず目に付く。両のもみあげと顎髭がつながっているのだから。
「で、3時間くらいわたしについて話してくれた。どこで生まれてどうやって育って、君の両親はどうなってこうなって、まぁ、死んでるらしいけど、顔も覚えてないんだから悲しみようもなくてね、で、『君の親には恩があるので、君が構わなければうちで暮らさないか』っていってくれたのね。みょーに心強かったなぁ…、なーんか自分のことを知ってる人間がいてくれた、っていうのが嬉しかったんだろうね。ども、そのときは考えさせてくださいって云ってひとまず帰ってもらったんだけど、あんな事があった後で、赤の他人のわたしがあの老夫婦の家に居座ってたことが警察に不審がられるとまずかったし、わたしも行くところがどこかの施設くらいしかなかったんで、ご厚意に甘えて今現在シンちゃんの隣に座っているわけであります」
 レイは無理して笑っているように見えた。悲しさと虚しさを笑顔の仮面で覆っているような気がした。
 でも、それには触れちゃいけないような、自分が触れたら傷つけちゃうだけなんだ…。
 シンジはそう思った。
 僕は、人を慰められるほど強くも賢くもない。
 しかし、何もできない自分が一番歯がゆくて仕方ない、と思ったとき、
「なーんて、嘘ぴょーん!」
 レイは突然、声のトーンとボリュームを上げて云った。
「え!?」
「信じた?」
「え、嘘なの?」
 レイはシンジの反応におかしくて仕方ないのか、ゲラゲラと腹を抱えて笑った。
 呆気にとられていたが、シンジの方も沸々と怒りがこみあげてくる。
 しかし、それを遮るように、
「本当だよ。本当の話。でも、驚いたでしょ?」
 と、目尻に涙をためながらレイが云った。
「誰だってびっくりするよ」シンジの言葉には刺があった。
「ごめんごめん。とにかく、ゲンドウさんとユイさんとわたし、3人で話をして決まったわけです、はい」
「なんで、警察がまずいと思うの?」
 とりあえず、シンジはペースを乱されたので気にかかったことを聞いてみた。
「ああ、それはね、わたしが『財産目当てにおじいさん達に近寄っていって殺害して財産を奪う』って疑いが出てくるからよ。それに、まったくもって疑われても仕方がないことがおばあさんの遺書に書いてあったし。わかる?」
「『遺産は全部レイに譲ります』って?」
「そう」
「あ、そういえば、半年前に気がついたときに自分の名前は判ったの」
 レイは頷いた。
「名前と、あとむーかしむかし、それこそガキンチョの頃にみたような風景だけが頭の中から引っぱり出せたのよ」
「へえ、じゃあ、その遺産、どうしたの?」
「相続税でなんかほとんど半分ぐらい無くなっちゃったらしいね」
「らしいね、って、どうなったか知らないの?」
「うん。だって、全部おじさん達にまかせたもん。どこかに寄付してあげてもわたしはかまいませんよ、って云ってあるしね。おじさんは『君が成人するまで預かっておく、資産が減ってたら私達に差額を請求してくれ』っていってたよ」
 そこまで聞いて、シンジは思いを馳せた。じゃあ、隣に座ってる子は小金持ちなのか? 少なくとも、自分の毎月の小遣いを数年ためたくらいは預金があろう。
「相続したのっていくらぐらいなの?」
「さあ、いくらだろう。5か6くらいじゃない?」
「5・6百万円か、すごいじゃない」
「丸が二つ少ないよ」
「……………え……?」
 シンジの目と口が三つとも同じ形になった。つまり、真ん丸に。大きく見開かれた目でレイを見る。
「ご、ごおくろくおくえん?」
「らしいね。資料を見たらそう書いてあったよ」
「す、すすすすぐにどこかへ寄付するかどうにかした方がいいよ、じゃなくて、するべきだ!」
 シンジは力強くレイの肩を握ってそう言った。思いっきり声が裏返っているのにシンジは気がついていない。
「ちょ、どうしたのよ、シンちゃん」
 いきなりの事で、レイも驚く。そして、体温が急に上昇しはじめた。至近にシンジの顔が迫っていたからである。
「ね、そうしよう。今からでもおそくない、そうしよう」
 叫ぶようにシンジは云った。罪を犯した友人に自首するよう説得している姿にも似ていた。どうやら、気が動転しているらしい、とは判ったが、どうしていきなりそういった話になるのかが分からないレイ。シンジにじっと見つめられて、ドギマギしている上に、頬が赤らんでいるのが自分でわかる。
「だ、だから、わたしじゃなくて、おじさん達があずかってるんだから、おじさん達にいってよ、そーゆーことは」
「あ、…そ、そうか。ゴ、ゴメン」
 やっとシンジが両肩から手を離してくれたので、レイはやっと落ち着いた。まだドキドキしているが、それが驚いて、驚いただけでドキドキしているのではないのだ、とわかっていた。
「ハハハ、シンちゃんらしいね。逆玉になろうとか、財産だけいいくるめて奪ってやろうとか全然云わずにいきなり『寄付しろ』なーんていうんだもんね」
 自分を落ち着かせるためにレイは微笑した。
 シンジは赤面しながら、頭をかいた。
「だって、子供がそんなに大金持っててもいいことはないと思ったから。それに、すごいお金だったんでなんだかすっかり血が頭に上っちゃって。ゴメン」
「わたしもそう思ったから、どこかの基金や募金に寄付してくれてもかまいませんよーっていったのよ。それに、別に碇家の財産に組み込まれちゃっても構わないよ。そうすればお世話になるお礼にもなるから」
 超過納税だよそれ、とシンジは思った。
「でも、シンちゃん」
 レイは声のトーンを落としていう。人がいないことを確信してこんなことを話しているのに、今更声を潜める必要もないのだが、雰囲気だろう。
「このこと、秘密だよ。アスカにも」
「うん。僕らの秘密だね」
 そういって、シンジは心の中で続けた。誰にも言えるわけないじゃないか、と。もちろん、それはいろいろな意味を含んでいる。だからこそ、心の中でしまったおこうと思う。
「来年、またここに来れたらいいね。今度は満開の時に」レイが明るく努めてそう言った。
「うん」シンジは短く頷いた。
 レイがまた空を見上げてジュースに口を付けた。
 シンジも、同じように空を見上げる。
 大きな月が、枝と葉と花びらの向こうからシンジ達を見下ろしていた。
 ひゅう、と風が地面に散った花びらを少し舞いあげてどこかへ運んでいく。
 ヒラヒラと、シンジの目の前を花びらが舞っていった。上の枝から、また桜が散っていた。
 突然、レイがパクっと散ってきた花びらをくわえる。そのまま食べてしまった。
「ちょっと甘いよ」
 レイが振り返って照れくさそうに、シンジに笑いかけた。
 その笑いは、はにかんでいるようにも見えた。
 子供っぽいことをしたから照れているんじゃないだろう。
 柄にもない話をしてしまった、でも、ちょっと心が軽くなってよかった。
 そういいたそうな顔だった。
 言葉にならないその思いを、シンジは少し感じ取って、同じように笑い返した。
「お腹壊しちゃダメだよ」




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