第三新東京市を含め、日本中が常夏になっているとはいえ、四季は確かに戻りつつあった。
 7年前ほどから1・2月と6・7月の平均気温は明らかに差が出始めて年々広がっていったし、数年前からは桜が咲き始めた。北海道や東北では雪も戻りつつあった。今年は運が良ければ第三新東京市でも見られるかもしれないと気象庁は発表している。新世紀生まれの子供達にとって、雪とはまだ物語や異国の世界の話だと思っている人間も多いだろう。だが、それも仕方のないことである。
 6月ともなれば、以前は梅雨があったが、今ではすっかり消え去っており、長雨でカビを心配しなくてもいいかわりに蒸し暑さに参ってしまう日々が続くのだ。もうすぐ夏至が訪れて、夏休みに入った頃がピークで、それを過ぎたらまだマシになってくる。
 その時期は、同時に中学校のテストの時期でもあった。中間と期末、このスパンが見事に猛暑の真っ只中である。
 綾波レイ嬢は机に向かって首にかけたタオルで汗を拭っていた。除湿にしているのだが、窓がないのが致命的で、冷房を入れても確かに涼しくはなるが、ききすぎて寒くなったりするので調節が難しい。室内温度は少し高めに設定して、団扇でぱたぱたと微調整をしながら机の上の問題を解いていた。
 明日は中間テスト最終日。
 シンジはアスカのマンツーマンで特訓させられているらしく、シンジの部屋からは悲鳴ともつかない苦悶の声が上がっていた。例えば、「説けないよ」「解らない」「難しい」「覚えてない」といった、学校の教師がきいたら間違いなく全員が肩を落として嘆いてしまう言葉を連発している。それにもめげず、アスカは罰とムチ、つまりビンタと罵りをシンジに叩きつけながらも根気よく一つ一つ教えていた。ちなみに、アメはない。彼女は授業中にほとんど理解し、一回問題を解いたら「パーペキ」ということらしいので、全然彼女自身は問題に取り組んでいない。人に教えるということで勉強になる、というのもあるだろう。
 レイは自分の部屋の扉を開けて、向かいの部屋をのぞき込んだ。シンジの部屋の扉と窓は熱がこもらないように全開にしてあった。シンジに言わせると「アスカの怒りのエネルギーを夜風で発散させるため」らしいが。それについてシンジが本当にそう言ったかの真偽はともかく、適度な自然風が、エアコンの人工的な風より快適で体にもいいのは確かだった。
「進んでる?」
 レイが尋ねても、アスカは肩をすくめるばかりだ。10分前にも同じ質問をしたが、同じ答えが返ってきた。
「ぜーんぜん。こいつ飲み込みが遅いのよ」
 まるっきり怒っているようにも聞こえないのは何故だろうか。レイには、アスカが楽しんでいるようにも見えた。
「まあ、毎度のことだからね、もう慣れっこよ」
 そういいながらシンジの頭をはたく。シンジはアスカを少し睨んだものの、すぐに問題に取りかかった。中断して怒られる方が怖いらしい。
「わたしの方も一段落したし、そろそろ休憩しない? かれこれ3時間もやってるでしょ」
「まだそんなもの? 私もうちょっと時間経ったと思ったんだけど…」
 アスカは軽く指をかみながら時計を見た。たしかに、時計は9時前を指している。
「まだ、じゃなくて、もう3時間だよ」ぼそっとシンジが呟いた。
「何かいった?」
「いや、別に」
 アスカの顔は見なくても十分に怖かったので、シンジは目を合わせなかった。とにかく、アスカの許可が出るまで止めるわけにはいかない、体がいつの間にか順応している。それがちょっと情けないと思った。
「とにかく、夕御飯も食べずにやってるんだから、休憩しようよ」
「それもそうね」
 その言葉にホッとしたのはシンジである。正直、目がまわる寸前だった。シャーペンをノートの上に放り投げても、頭の中で英単語と数式が渦巻いている。
「なに知恵熱でも出したような顔してるのよ。百年早い!」
 それはアスカが頭が良すぎるだけだよ、そういいたいのは山々だったがなんと言い換えされるかも目に見えているので口には出さなかった。絶対に「あんたがバカなのよ」と言うに決まっている。
 ダイニングではユイがそろそろ一息入れることと見計らっていたらしく、遅めの夕食を用意していた。
 シンジ達が入ってくるのと入れ替わりにゲンドウはリビングの方へ移った。水を差したくないと思ったのだろう。
「かあさん達は先に食べたの?」
「ええ、」
 ユイはパスタを茹でる手を止めずに言った。「どう、順調?」
「うん、まあまあ」
「全然ですよ」
 シンジの正面に座ったアスカがにべもなく言い放った。「いつもと同じでね」
「アスカの成績がいいのはきいたけど、シンちゃんはどうなの?」
 レイはアスカにきいたが、アスカは答えようとしなかったので、自然とシンジが渋々答えた。
「中の中くらいだと思う」
「私が特訓してやっとね」
「……そうだよ」
 アスカがいくらすまして偉そうにいっても、この件に関してはシンジは頭が上がらなかった。本当のことだからである。中学に入ってシンジが60点以下を取ったことがないのは、とにかくアスカが徹底的に基礎をたたき込んでいるからである。同じ高校に行けることを不安視しているのは、シンジ以外全員であった。もっとも、そういう事態になればアスカが目の色を変えてシンジを洗脳してでも勉強マシーンに変えてしまうか、アスカ自身が学校のランクを落とすだろう。あるいはその両方かもしれない。
「アスカって勉強しないのにできるんだからすごいよね」
 と、みんなが口をそろえて言うがそれは誤解だと知っているのは、同級生でシンジくらいなものだろう。アスカほど努力する人はいないよ、とシンジは言う。アスカは努力している姿を人に見られるのが嫌いなだけで、やってないわけじゃないんだよ、と。しかし、それをまだ口に出したことはない。心の中で自分に言い聞かせるだけである。アスカが他人からなんと云われようと、擁護されることを望んでいないと知っているからこその、黙秘だった。
 レイ、と呼ばれてアスカの方を向き直る。
「あんたはどうなのよ。割とできる方だと自分で思ってる?」
「さあ、どうだろうね。まあ、秘密にしとく。結果が出てからのお楽しみ」
 こう言う人間は大体成績がとんでもなくいいか悪いかだと、シンジは経験から知っていた。
 トップでぶっちぎりのアスカには解らないだろうけど、こういった話題になると、必ず一人は「あまりできなかった」とか「秘密」とかいう人間がいる。結果を見たら、そういうヤツが90点以上を平気で連発していたりして驚くことが多い。レイの場合、おそらく頭がいい方だろう、と思う。
「シンちゃんだって、やればできるんでしょ?」
「こいつはね、できるけどやらないの。悪くなかったらいい、って頭の中のどこかで思ってるから、いい点を取ろうって努力しないのよ」
「へー」
 実際、ゲンドウもユイも何点取ろうとシンジに注文は付けなかったので、シンジも自分から努力していい点取ろうとはしなかった。それがアスカには歯がゆい。まるで、目の前に人参でもぶら下げないと、走り出さない馬のようである。
「じゃあ、シンちゃんがいい点取るためにがんばれるよう、ご褒美があればいいわけね?」
「ま、まあ、露骨に言えばそうなるわね」アスカはたじろいだ。
 レイはシンジの手前でも堂々とそう言った。そのシンジもイヤそうな顔はしていなかった。たしかに、がんばって何か貰えるなら得にはなっても損にはならない。
「うーん、そうだなぁ…。わたしがあげられるもの……手料理つくるくらいだとは思うけど…」
「…そ、…それは勘弁して」
 一瞬、シンジの脳裏を誕生日での惨劇がよぎった。目元は笑っていたが、口元は引きつっていた。
「あのね、シンちゃん。女の子が男の子のために料理するっていうことは意味が大きいんだよ。判ってるの?」レイはムッとして言った。しかし、心当たりがあるため、強くは言えなかった。
「も、もちろん」
「ならいいけど」
「というよりも」アスカが呆れた目で二人のやりとりを見ていた。「シンジが私をヤキモキさせないような点を取ってくれたら万々歳なのよ」
「そうなんだけど…」
「まあ、そうね、平均80点取ってたら好きなものおごってあげてもいいわよ」
「結局モノでつるんだね」
 シンジが諦めた口調でそう言った。
「わかったよ。でも、どうせ明日で終わるんだし」
 すっかり投げやりになっている口調。
 アスカは「バーカ」と呟いて、手を洗いにテーブルから離れていった。もう、ユイがテーブルの上にスパゲッティーの皿を並べはじめていた。レイには申し訳ないけど今度は安心して食べられる、とシンジは内心思った。
 先にシンジ達は手を洗っていたので、すぐに食べ初めてしまい、ユイにたしなめられてしまった。
「こら、アスカちゃんもいるんだから、ちょっとくらい待ってあげなさい」
「あ、ごめん」
 それ以上はユイも、何も言わずにリビングの方へ出ていった。
「ね、シンちゃん」
「ん、なに?」
「さっきの続きだけどね、がんばったらキスしてあげてもいいよ」
「え、」
 言う方より言われた方が赤面した。
「ぷっ、シンちゃん、すぐ冗談でも信じるんだねぇー」
「え、ええ?」
「ほんとからかいがいがあるよ」
 レイの顔には悪意が一片もない。シンジはやっと騙されたのだと気がつくと傷ついたような顔をした。
「レイこそ、すぐ意地悪したがるんだね」
 ただし、悪意はないね、と口調が語っていた。
「でも、わたしはそんな純粋なところ、好きだよ」
 レイも笑みを浮かべてそう言った。
 そこに見計らったようにアスカが戻ってくる。
「何の話?」
「何でもない」
 レイがすまして答えたのを、アスカはけぶかしそうに見ていた。そして、シンジを見る。
 耳まで赤らめて黙り込んでいた。
 ルルルルルル…。
 電話のコール音が鳴ったことにアスカしか気がついていないようであった。レイは平然と、シンジは硬直して黙りを決め込んでいる。
「レイちゃん、電話よ」
 ユイがリビングからレイを呼ぶ。
「あ、はい」
 シンジは相変わらず黙ったまま座って動けなかった。
 またシンジがバカなことでもいったのね、アスカはそう解釈したが、実はその逆だったことは結局わからないままだった。










 レイの、桜を見に行ったあの夜の独白からしばらくが経ったが、シンジの頭ではいまいち整理がついていないままであった。
 あの冗談めかした最後の言葉が気になったり、同じようにからかわれたことが2・3回どころではなかったので、どこまで本当の話かわからなかった。しかし、あの夜のことは嘘をついていたとは思えなかった。嘘であそこまで滲み出るような寂しさを漂わせたりしないだろう、そう思った。
 今から遡ってみれば、新聞のどこかに『老夫婦変死! 同居の少女に疑惑!?』とか書かれた記事が出てこないとも言い切れなかったが、探すのもめんどくさいのと同じくらいに、根ほり葉ほり調べるのも気が引ける。別に現状に不満があるわけではなかったので、別に彼女の過去がどうであろうと関係なかった。
「レイはレイだし、昔のことなんてどうでもいいよ」
 レイにそういってあげれば、どれだけ彼女が喜ぶか、シンジは気がついていなかった。
 シンジが、もしレイの目の前に立って目を見つめながら真剣な顔つきで優しくその言葉をかけたなら、彼女は恥も外見もなく大泣きしてシンジの胸に飛び込んだだろう。
 中学生がそんな大人びたことを考えて実行に移せたら、それはそれで驚くが、怖じ気づいている息子はそんなつもりはちっともない事にゲンドウはイライラせざるを得ない。しかめっ面を更に渋面にしながらユイにこう尋ねたことがあった。
「なんであいつはあそこまで鈍いのか」と。
 ユイは熱いお茶をすすりながらこう答えたそうである。
「あなたに似たんですよ」
 ゲンドウは返答に窮してこの件については口を挟まないことに決めたらしい。
 とにかくシンジである。
 一応の事は聞かせてもらってもまだ謎が多い。
 半年前よりさらに前はどうしていたのか。老夫婦の変死も気になった。レイはその夜、前の学校でできた友達の家に遊びに行っていたそうだから、完璧にアリバイがあって、凶悪犯でも何でもなんでもないことはわかっている。シンジがゲンドウに聞くと、彼は「やっと聞き出したか」と顔では言ったものの、
「あの老婦人が夫の頭を銃で撃ち抜き、すぐに自分の眉間を打ち抜いた」
 と、死んだときの様子を隠さずに話してくれたし、遺産の話も確かに本当だ、とも云っていた。どうしてもと云うんだったら遺書のコピーを見せてやってもいい、とも云った。ただし、と付け加え、「アスカ君やレイとはどこまで進んでいる?」と聞いてきた。真顔で迫ってきたときに、ユイが頭を後から叩いたが。
 とにかく、シンジが気になったのは人にはうまく言えない、何か裏事情がありそうな気がしたからである。直感といってもよかった。彼女の告白を耳にしたときから頭の中で引っかかるものがあったのだ。違和感が、まるで喉に刺さった魚の骨のように残っていた。それは、レイも知らないことで、彼女が悲しむ類の出来事のような気がしたので、その感覚を誰にも話さずに、シンジは胸の奥にしまい込んで誰にも話さないことに決め込んだ。第一、ゲンドウとレイがグルになって嘘を喋っているのかもしれない。それは聞いただけでは判らないのだ。できれば、シンジはそれ以上は関わりたくなかった。確証もないのに、そんなことで気に病んでも仕方のないことだったし、シンジは何事も無事に過ぎてくれればよかったのである。
 彼にとって一番大切なこと、それは、アスカやレイの想いにどうやって応えればいいのかということであった。曖昧なままにしておきたくはなかった。しかし、しておくしか今はできなかった。そんなことは不可能だと様々なメディアから知っていても、彼は自分に好意を寄せてくれる女の子達の心を傷つけたくなかったのである。
「傲慢だな…」
 シンジはそのことを考えるたびに、そう独白して、深々と溜息をつくのだった。




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