綾波レイの瞳に移っているモノ。
 それは誰にもわかりはしない。
 学校の窓の外を所在なさそうに見ている顔は、ただボーっとしているだけにも見えたし、憂いているようにも見える。
 学校の生徒と応対するときのレイは見事なまでに今までのレイだった。
 しかし、その落差に気がついているのはシンジと、薄々感づいているアスカだけだろう。
 アスカはレイのことには触れようとしなかった。避けていたのではなく、知らなくていいことだったのである。向こうから教えてくれないことを聞き出そうとは考えなかった。レイが自分のことを話したがらないのに気がついたときから、アスカはそうした態度を一貫して取っていたので、こうして学校でレイが考え事をしていても話しかけたりはしなかった。
 レイも、まだアスカにあのことを話した素振りはない。
 だから、シンジもアスカには何も云わなかった。
 少し曇っている空。
 土から生えたように空に伸びる高層建築達。
 画期的なアイデアと税金の無駄遣いという評価に分かれている、太陽光を街に向けている集光ビル。
 灰色の道路。
 灰色の世界。
 それがレイの褐色の瞳に写っていた。
 でも、頭の中でとらえられていない。
 ただ、見えているだけ。
 ただ、そこにあるだけ。
 今終わったばかりのテストの問題用紙には目もくれなかった。
 意識が別の世界へ飛翔しているのは明らかだった。
 意識のステージへ登っていたモノ。
 それは、昨日の晩の一本の電話。
 そんなわけはないのだと否定しきれない。
 確かめたい。
 本当なのかどうか。
 でも何故今になって……。
「レイ…」
 レイが目だけで声のした方を見る。耳から入ってきた音も、目に映った人物も、予想とまったく違わなかった。
 シンジが少し困ったような表情で立っていた。
「どうかしたの?」
 最初、レイは遠くでその声が聞こえたような気がした。
「レイ?」
 ―――あ、ゴメン考え事してた。なに?
「なんだかちょっと変だよ、大丈夫?」
 ―――大丈夫ってなにが? ほら、私はゲンキゲンキ
「うん、ならいんだ。ちょっと気になっただけ。困ったら何でも相談してよ」
 ―――ありがとう、でも、本当に大丈夫。
 だいじょうぶ
 ダイジョウブ
 だいじょうぶ……
 ダイジョウブ……だいじょうぶなんかじゃない。ちっとも。
 シンジが去った後には自分の周りだけ静寂が残ったような錯覚が起こる。
 教室は休憩時間で騒がしいのに。
 どうして、わたしのまわりだけ静かなのだろう。
 心の水面に、波紋がちっともたたないね。
 誰もそれに気がついてない。
 気がついた人をわたし自身が拒否してしまった。
 素直になれなかった。
 好きな人なのに。
 優しくしてくれる人なのに。
 秘密を共有してる唯一の人なのに。
 それなのに、避けてしまった。

 それって、悲しいね。
 それって、バカだよね。
 それって、どうしようもないバカだよね。

 少しだけ、見える世界が滲んだ気がした。


 その夜、綾波レイはいなくなった。














 土曜日の朝だった。シンジが呼んでも返事のないレイの部屋のドアを開けたのは。
 ベッドに居るべきはずの人物は眠っておらず、部屋に今まで誰かいた気配もなかった。
 ただ、あったのは気がつかれるように置いてあった真っ新な便せん。
 それをシンジは手にして紙面に目を落とした。
 大して時間もかからず、その言葉がシンジの体に浸透する頃には震えていた。
 寒かったのでも怖かったのでもなく、純粋に怒りが沸いてきたからである。
「とうさん!」
 シンジが血走った目でリビングに飛び込んできた。怒髪が天をつきそうな勢いである。
「レイがいなくなった!」
 しかし、ゲンドウは眉をひそめたのみで、読んでいた朝刊を畳むとシンジが胸の前につきだした紙に目を落とした。
 そして、また眉をひそめる。

『おじいさんが生きていたと連絡がありました。
 本当かどうか確かめてきます。
 必ず帰ってくるので待っていてください』

それだけ書かれていた。
「父さん!」
 こんな事が本当ならば、やっかいごとにレイが自ら飛び込んでいった事を意味している。シンジは冷静でいられるわけがなかった。もう既に、彼女はシンジにとって大切な人の一人だったのである。
「騒ぐな。騒いでも何も解決にはならん」
 父は、子の100分の1も慌てることなく考え込んだ。3秒顎に手を当てていたが、シンジにすればその10倍の長さに感じられたに違いない。しかし、レイを探すにも手がかりがない以上、その手がかりと情報を握っている人物の対応を待つしかなかった。
「シンジ、レイの前居たところの話は聞いていたな?」
「うん」
 もどかしそうにシンジは答える。だからどうしたと、言いたげだった。冷静に考えれば、それがどこの土地であるかは聞いていなかった。
「出かける用意をしろ」
 短く、しかしはっきりとゲンドウはいった。とっさのことで、シンジは反応できない。
「心配だったら早くしろ」
 その言葉が耳に滑り込むと、弾かれるようにシンジは部屋に駆け込んだ。
 ゲンドウが時計を見る。
 今朝の7時半。
 始発に乗っていたとして乗り継ぎ、バスの所要時間からしてもまだあの辺りか…。
「ふむ」
 一言呟く。ユイは夜勤でまだ帰ってきていない。しかし、連絡くらい入れておかねばと、レイの便せんの下に出かけてくるとだけ書き、車のキーを取った。舌打ちを禁じ得なかった。
「まさか、そこまで露骨で軽率な手段に出てくるとはな」
 ゲンドウが誰にいうでもなくそう呟いたとき、目の前に飛び出してくるシンジの姿が見えた。
 そして、もう一度舌打ちする。
「ばかめ」
 シンジが目の前に来たとき、冷たい視線と一緒にその言葉を投げつけた。
「なにが?」
「Tシャツが裏表逆だ」










 レイの顔からはいっさいの表情が消えているように見えた。
 しかし、それを一瞥するだけで人々は過ぎていった。人々が見たのは珍しい彼女の髪の色に興味がそそられただけである。別に「綾波レイ」という個人の人格に大して興味はなかった。
 それがわかっていたので、レイも淡々と足を前に進めるのみである。
 リニアで1時間と少し。春に来た道を今度は逆に来た。いや、戻ってきたのか。
 レイの胸に郷愁が走った。
 僅かな時でも、人はそれを大切だと思えば懐かしむのね、と思った。
 首都の喧噪も耳には入っても意識されない。
 まず、不安があった。
 なぜ、此処に来なければならなかったのか。
 しかも、誰にも頼らず、一人で。
 ゲンドウさんは力になってくれたはずなのに。
 シンジ君だって、と胸の中で誰かが囁いていた。
 確かにそう、優しい彼らのことだから、目の色を変えて力になってくれるに違いなかった。だからこそ、自分はここに一人でいるのだと言い聞かせる。そうしなければ、胸の奥から溢れそうになっている衝動に負けてしまいそうになっていたからである。
 自分の過去は自分で清算しよう、これはわたしの問題なんだ、もう十分にお世話になってる、これ以上誰にも迷惑をかけちゃいけないんだ、という思いを胸にしまい込んで、彼女は視線をまっすぐに向けた。半年前から幾度も乗ったバスが停留所に入ってくるのが見えた。少し駆け足でバスに近づく。
 毅然とした顔に、彼女を見つめる一つの視線が注がれていることに気がつかなかった。
 その視線は、森の中の木のごとく、好奇の視線と合い混じってレイに気取られることはなかった。










 車は高速道路の上を滑るように走っていた。リニアはその速度の特性上、山間を縫うようにして造るわけにはいかず、またトンネルを掘るにも既にこの高速道路を引く際に莫大な金額がかかると判っていたので、結果として遠回りで旧東京の近くを通る、元は新幹線のあったところを基本として建設された。だが、歴史がリニアより古いこの道路はそんなことはお構いなしに、ほぼ直線コースで第二東京と第3新東京を結んでいる。
 スピードは180キロを軽く出していたが、シンジにはそれすら遅く感じられた。
 父と二人でどこかに出かけるという事も珍しいが、こんな事は前代未聞だった。
「どこに行くの?」
 シンジが訪ねると、ゲンドウは一言、
「第二だ」
 とだけ云った。とっさに第二とは何のことかわからなかったが、すぐに思い出す。この日本において、第二とは第二東京市しかない。
「じゃあ、前レイがいた所って長野なの?」
「ああ、そこの旧家に保護されていた」
「保護?」
 ゲンドウは猛スピードで飛ばしている事をまったく気にしていないのか、平然とアクセルを踏みながら息子の答えに短く的確に答えていく。ランドクルーザーのエンジンは悲鳴を上げながらも期待に応えて高回転を保って走った。スピードも、登りでなければGT−Rも顔負けの早さで走っていく。
「レイには半年より前から記憶がない。彼女は突然、その家の側の山中で倒れていたそうだ」
「知ってる」
「そして、警察から私の所へ綾波レイとおぼしき人物が発見されたので確認されたし、と連絡が入った」
「で、会いに行ったの?」
「そうだ。彼女の両親は急逝してしまっていたからな。身よりもない。だから、私が出向いた」
「父さんはレイのこと昔から知ってたの?」
「生まれた頃からな」
 そこまで聞いて、それは知っていることだと気がついたのか、シンジは質問の流れを変えた。今までは、確認でしかなかった。
「レイは今どこにいるの?」
「わからないが、心当たりはある」
「大丈夫だよね?」
 それが一番気になっていたことだった。
 なぜ、死んだはずの人物が生きていたのか。
 それより本当に生きているのだろうか。
「わからん。私も直接その夫婦の死体を見たわけではない。警察からの発表を聞いただけだからな」
 シンジはそこまでいって、ようやく自分の中で感じていた違和感がなんだったのかを悟った。
 レイは、その二人の死体に近づいていないっていった。血の海になっていたとしか云っていなかった。
 彼女は両方が死体になっていることなど確かめてない。他殺という可能性もある。現場でレイが見た状況から推測しても第三者が潜んでいなかったとは言い切れない。
「その通りだ。もし仮に、どちらかが伴侶を殺害し、遺体を偽装して生きていたらレイをねらう動機はある。財産持ってうちに来てしまっているんだからな」
「警察は二人死んでたっていってたんだろう?」
「まだわからんのか。その老夫婦は外界から隔離されていたような世界に住んでいたそうではないか。その老夫婦の顔を知っているのはレイだけだ。死体が入れ替わっていたらそう簡単に警察でも気が付きはしないだろう。レイだって、ショックでそれ以後は彼らの遺体を見ていないのだからな」
「あ、」
「そうだとしても、何故そんなことをしたのかはわからん。だが、その推理が正しければまずいことになる」
 ゲンドウは間をおいた。シンジに考える時間を与えるために。
「遺産相続証明書は私が持っている。レイは持っていない。だが、犯人はそんなことはお構いなしにレイを脅迫するだろう。人一人殺している人間だ、レイが私に渡したと喋った後で口封じなどたやすくやってしまうだろうな。そうなっても、お前を誘拐するか、私を直接脅迫しさえすればいい。レイが私が持っていると喋れば、レイを使ってもいい。そう考えるだろう。だが、誰がもっているかを隠したままだとすると……」
 ゲンドウは目を道から離さなかったが、隣でシンジが息をのむのがわかった。
 シンジには、レイが自分たちに火の粉がかからないようにと思っての行動だと判っていた。迷惑をかけたくないと思って1人で行動を起こした彼女だ、絶対に誰が相続証を持っているなど喋らないに違いない、と思った。
「い、急いで、父さん!」
「だからこうやって飛ばしているだろう。捕まったら一発で免停だ」
 軽口を飛ばしている間にも、第二東京市は迫ってくる。
 そして、後からはサイレンの音が近づいてきていた。
「そこのランドクルーザー、車を路肩に寄せなさい!」
 ちっ、と、今日何度目かの舌打ちをゲンドウは漏らした。
「シンジ、しっかり捕まっていろ」
「え、あいっ!」
 言い終わるよりも早く急加速したのでシンジは思わず舌をかんでしまった。
 しかし、その間にもスピードメーターは200の数字を簡単に突破し、ますます数字は伸びていく。そしてシンジが見たものは、今まで5までしかないと思っていたギアが6に入れ直される瞬間だった。
 レース用の車でもないのに何で6速まであるんだろう。
 シンジの頭を疑問がよぎる間にも、エンジンはいったん溜飲を下げて、また甲高く吠えはじめた。
「これだけは使いたくなかったんだがな」
 ゲンドウがそう呟くのを聞きながら、シンジは窓の外を見るのが怖くて頭を抱えた。ハイウェイパトロールの車がどんどん後に下がっていくのがドップラー効果を除いてもわかった。
「もうすぐつくぞ。あと15分ほどでおそらくレイにも、この茶番劇をしくんだ人間にも会える」
 わからないと思っていた。
 ゲンドウという人間がいったい何をして生きてきて、何をしている人間なのかがますますわからなくなった、とシンジは思った。それを聞くのはまた今度でよかった。今それを聞いても覚えていられる自信がない。余裕もない。
 それよりも今は、無力に腹が立っていた。「ちくしょう」と呟く。それはここにいない少女にも少し向けられていた。困ったら相談してよって云ったじゃないか。そんなに自分は頼りないのか、と。そんなことは会った後ならいくらでも言える。いまは、会うことが最優先なのだ。

 レイ、無事でいてよ。すぐいくから。

 突然何故こんな事になったのか、シンジは考えるまもなく流れの中へと巻き込まれていた。車中で頭を抱え込みながらいろいろなことを考える。ふと、レイの笑顔が浮かんだ。今度は、あの桜の木の下での、桜の花びらを食べたに照れて笑った顔が浮かんだ。
 そして、シンジは自分の大切な人の無事を心の底から祈った。




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