午前9時前。
 呼び出された時間より少し早いと確認してから、レイが足を踏み入れたとき、そこはもうすでにカビ臭さに覆われていた。
 あれからまだ三カ月しか経っていないのに。
 寂寥の想いが胸をよぎる。
 この日本の家にどれだけお世話になったか、言葉では言い尽くせなかったほどなのに、少し離れていただけで、すでに昔のことになっていることが哀しかった。
 玄関、居間、寝室、炊事場、大きな家の一部屋一部屋があの時のままで止まっている。ほこりをかぶって、カビ臭くなって、それでもまだそこにあった。半年暮らしたそのままに。
 靴を履いて裏庭に出た。山麓に誓いためか、この家は大きく、庭もそれに比例して150坪以上あるだろうか。立派な日本庭園であったが、木も草も手入れされていないために伸びていた。しかし、それでもそこにある。レイの帰りを待っていたかの様に、青々と新しい芽を伸ばして。
 レイが、身近にあった木々の葉に手を伸ばそうとした瞬間、
「おかえり、綾波レイ君」
 不意に、一番草木の多いあたりから声がした。
 その瞬間身構えるレイ。
 聞いたことのない声だった。
 その声の所有者は、苦もなく生い茂った草木をかき分けその前に立った。中肉中背の男。陰に隠れて顔を直視しても簡単に判断できそうになかった。
「君を心配する人たちはいったいどんな顔をしているかな?」
 その男は楽しげにいった。一見、日本人離れしたその顔は年齢を判定しにくくしていた。40代といわれたらそんな気もするし、70を過ぎていると云われても違和感はないだろう。斜めに当たる朝日が彼の顔を半分照らしてはいるが、それでもよく見えなかった。
「あなた誰?」
 レイが正面にいる人物に発した第一声はそれだった。警戒心もあらわにその男を睨み付ける。
「さて、誰かな。とりあえず君の過去を知る者、と言っておこう」
 レイは表面上冷静さを保っていたが、内心の衝撃は相当なモノだった。それを知ってか知らずか、その男はあざけるような口調を保ったまま言葉を続ける。
「まず、三上老人のことだが、彼は生きている。それは確かだ。君はそれを確かめに来たのだからな、それくらいは教えるというのが礼儀だろう」
「どういうこと?」
「いや、なに。プレゼントだよ」
 レイにはますます解らないことをいう男だ、としか思えなかった。彼女を保護してくれた老人達の姓は『南』であったはず。三上とはいったい誰のことだろうか。
「ああ、そうか、君は知らなかったな。君の前の保護者の本名、三上孝、まあ、そんなことは関係ないか」
「質問に答えて。あなた、誰?」
「言っただろう、君の過去を知る者だ、と。付け加えるなら演出家といったところだな」
「じゃあ、その演出家がここで何をしているの?」
「待っているのさ」
 まだ笑みを絶やさず、怒った様子も見せず、絶対的な余裕を保った口調。その一つ一つが洗練されていて、だからこそレイの怒気を刺激した。しかし、レイは冷静に、クールに、そう自分に言い聞かせた。相手は、あえてそういう態度をとることで挑発しているのかもしれないと思い直す。この男が普通の人間でないことは直感で知れた。
「誰を待ってるの?」
「役者をね。僕が呼んだ、このステージに登る予定の全員が揃うをの待ってるのさ。もちろん、君もその中の1人だがね」
 もう一歩、その男はレイに近寄ったが、それでも20メートル以上離れている。
 レイはつま先に体重をかけ、いつでも走り出せるように体を緊張させて目の前の男を凝視していた。それと、周りの気配にも気を配る。後から襲われたらひとたまりもないからだ。
 その演出家と名乗った男はサングラスをかけたダークグレーのスーツに身を包んでいた。頭の先からつま先まで隙がない。サングラスで顔の表情はわからなかったが、「伊達男」の称号はこの男のためにあるような、そんな雰囲気を自ら発しているような男だった。
「そう緊張しなくてもいい。そうだな、あと10分ほどでみんなやってくるだろう。そうしたらおもしろい茶番劇がみれる」
 クククとその男は耐えきれないというふうに笑いをこぼした。
 いったいこの男は何がそんなにおかしいのだろう。
 レイの警戒心だけが時間と共に増大していった。
 ここに来る前からこんな事になるだろうとは思っていた。死者の墓を暴くような事を云って人を呼び出すような人間が、まともな話をするとは思えなかったからである。遺産目当てに何かする気ではないか、とは考えていたが、目の前の男はどうやらそんなことはどうでもいいらしい。それに、わたしの保護者だった人の『南』だったはず。『三上』とはいったい誰の事? 聞いたこともない。冷静になろうとつとめていたが、それでも彼の投げかけた無形の時限爆弾がレイの中で刻一刻と時を刻み続けていた。それに、この男はわたしの過去のことを知っているという。本当とはにわかに信じられないが、本当なら、自分の正体をききたいと思った。しかし、それは自分を支えているモノを粉々にされてしまうような予感があって、自分の立っている大地がやけに不安定な気がしてくる。まるで、玉乗りをしているピエロのように。
「どうやら来たようだ」
 伊達男がやや唐突にそう言った。
 ガタン。ドンドンドン。荒々しい足音が二つ。徐々に裏庭のある方、つまりレイの方へ近づいてきた。
 予感で胸が苦しくなる。
 まさか、という想いが強くなっていく。
 あんなに覚悟を決めてからやってきたのに。
 あんなに迷惑をかけたくないと思っていたのにわたしは期待で胸を震わせている。
「レイ!」
 その声を聞いたとき、安心で座り込んでしまいたくなる衝動を必死で耐えた。
「レイ!」
 もう一度自分を呼ぶ声がした。そっちを向けば、昨日会ったばかりの、昨夜寝る前に顔を合わせたばかりの親しい人の顔があることは判っている。その声で自分の名前を呼ばれただけで、足下が固まっていくのがわかった。
 初めてそこで、レイは不安だったんだ、と気がついた。気を張っても、やっぱり1人は怖かったんだ、と。
「シンちゃん…」
 シンジの視線は、レイの向こうの伊達男に注がれていた。そして、シンジの後に立つゲンドウの顔は居間まで見た中で一番険しいものだった。
「ようこそ、碇シンジ君、ゲンドウ君」
「よばれた憶えはない」
 ゲンドウが、シンジにレイを頼む、と云って先頭に立った。
 レイはまだシンジの顔を見れなかった。どんな顔をすればいいのか判らなかった。シンジは伊達男を直視したままレイに並ぶと、そのまま彼女の肩を抱き寄せた。たったそれだけなのに、歓喜に打ち震えそうな自分がいることに、レイは気づいた。
「いったい何のつもりで南氏が生きている、などといったフザケたことで彼女を呼びだしたのか、その理由を聞かせてもらおうか」
「何、簡単だよ。君にここに来てもらうためだ」
 眉をつり上げるゲンドウに対して、その男の口は歪む。シンジとレイは訳も分からず二人の会話を聞くしかない。
 奇妙な一時の静寂。
 それが偽りの時間でしかないことを証明したのは、さらに別の男の甲高い声だった。
「碇ゲンドウ!」
 その声は、突然屋根の上から降ってきた。シンジは隣でレイの小さな悲鳴を聞いた。
「おじいさん…」
「これで全員が揃ったようだな」
 しかし、伊達男は安心したようにそう言ったのみで、慌てる素振りは一つもない。この男の喜怒哀楽は「喜」と「楽」しかないのではないか、と思われるような完璧な笑み。
 屋根の上から降ってきた男は紛れもなく老人だとわかる小男だった。身をかがめ、手には黒光りする拳銃が握られていた。そして、何よりレイの震えが表すように、彼女の知った人間であった。
「寝たきりじゃなかったの?」
 シンジの問いにレイは答えることができなかった。目の前でその人物が狂信者や麻薬中毒者の目と同じ光をその相貌にたたえて、じっとゲンドウを睨んでいたからだ。レイの知っている、好々爺の顔はそこには面影一つ残っていない。
「貴様には借りがあるっ!」
 しゃがれた声でそう叫ぶ老人。しかし、悪意を浴びても、シンジの父は平然とその場で聞き流していた。シンジやレイの目にはまるで別人のように見える。
「私には貸した憶えがないがな」
 ゲンドウの態度はいつもと大して変わらないはずなのに、銃を突きつけられているのに、この絶対的な余裕綽々さはいったいどこから生まれてくるのか。豪胆と呼ぶにも程があるだろう。
「何だと!?」
 老人の怒りは顕わだった。これ以上挑発すれば、こちらに向いて、即、鉛の銃弾をプレゼントしてくれそうな剣幕であるが、ゲンドウは身じろぎ一つしない。面倒そうに冷ややかな視線を突き刺しているだけである。
「まあまあ、待ちたまえ。君たちがやり合うのは自由だが、それでは子供達をご招待した意味がないだろう」伊達男はそう言って老人の側に立った。流れる手つきで、拳銃の口を地面におろさせる。
「それに碇ゲンドウ君。君も子供達に話すことがあるのではないかね?」
「知らんな。そんな用なら私は帰る。それほど暇を持て余してないんでな」
「せっかちだな。待ちたまえと言っているだろう。とにかく、君だって推理しているんだろう? だったらそれが聞きたいね」
「ふん、聞きたければ聞かせてやる」
 ゲンドウは顔で「面倒だ」と「時間の消費だ」と如実に述べている。
「どうせ其処の小男はレイの財産に目のくらんだ強突張りなのだろう。聞けば、この家には元々一人暮らしだった老人が一人住んでいたそうだ。それがある日、婦人と名乗る女性が現れて、一緒に生活しはじめた。しかし、その老人は極度の人嫌いで顔を他人に見えることも少なかったそうだ。数年に一度、会うかないかというほどにな。そんな老人だ、他人は『寝たきりで人嫌い』と聞けば他人が入れ替わっていても、それを知る人物がいない。その入れ替わった人物がそこの強突張りだろう。確か三上とかいう名だったな」
「ふむふむ、それで?」
 まだニヤニヤと笑うのを止めないその男だったが、隣の老人は激発しそうになる感情の奔流を押さえているようだった。違った。伊達男が、膂力で老人が構え直そうとする銃ごと、一緒に腕を押さえて動けなくしているのだ。
「三上は雇った婦人と名乗る女性と共に、いかにも昔からここにすんでいたと云うことを印象づける。そうすれば、後々遺産を乗っ取ったところで私のものだと主張するときに証人ができるからな。戸籍上は存在しないその婦人の口を封じた後も。そして、レイは身寄りを見つけて引き渡せばすべて始末がつくからな。後に残るのはこの家と、そして南老人が所有していた財産、と言うわけだ」
「いやはや、ご名答。そして、君はそれを見破って、レイ君を発見したときにそのことで彼を脅したのだろう」
 その質問にゲンドウは答えなかった。その通りだからである。そのとき、既にゲンドウは南でなく三上という人物が入れ替わっていると、調べて知っていた。
「で、ここの老人は、レイ君に死体を発見させた、というわけだ」
 レイの震えは止まらなかった。
 今まで優しくしてくれた人たちの思い出を、たった8ヶ月しかない今の記憶の大半を否定されたのである。シンジの手をぎゅっと握って、青ざめたまま老人から視線をはずせないでいる。
「と、とうさん」
 レイの手を握ったまま、シンジは父の背中に話しかけた。
「なんだ」
「じゃあ、発見された二つの死体って、その雇われた人と本物の南さんだったの?」
「おそらくな。本物の南老人はどこかに監禁して直前まで生きていたのだろう。いつ死んだかなどは鑑定で判明するからな。とにかく、ヤツは死体を発見させることができればよかったのだ。顔に自分の顔のマスクでもいったんつけておけば、仮にレイが近づいたとしても簡単にはバレたりしない。普通、人間は何度も死体を見ようとは思わないものだからな、レイが慌てて出ていった後に警察が来る前にそのマスクをひっぺがしてしまえばバレたりはしない、おそらくそんなところだ」
「じゃあ、遺産とか相続できないじゃないか」
「バカめ、6ヶ月も時間があったのだ。その間にいくらでも名義は書き換えられる。3日もあれば公文書偽造くらい全部すんでしまう。私がここに初めて来た後でも時間はたっぷりあった」
「あ、じゃ、じゃあ、どうして殺しちゃったりしたの?」
「私がレイを引き取ると申し出たときに金銭を要求してきたのでな、ちょっと脅しをかけてやったからだ。慌てた三上は遺産を持って高飛びするつもりだったのだろう。しかし、その遺産の相続証明書は私が握っていた」
「な、なんで?」
「何、気がついたときに拝借したまで。その大馬鹿者を警察につきだしたあとに返してしまえば大事にならないと思ったからだ」
「だが、彼は事を焦ってそのことに気がつかずに、ゲンドウ君が代わりにおいていった偽物の株券などを握ったまま本物だと思いこみ、事を荒立ててしまったのさ」
 伊達男が補足した。
「で、そのことに気がついて、怒り狂っているワケだ」
「結局、貴様の目的は何だ」
「簡単だよ。知る権利があるもの、つまり綾波レイ君だが、彼女に真相を知ってもらい、その上でこの老人に鬱憤を晴らしてもらおうかな、と思っただけだ」
「……その大馬鹿者はクスリをやっているだろう」
 ゲンドウがその狂気に燃える瞳を眺めて言った。
「またまたご名答。いや、鋭いね。ちょっとクスリに浸ってもらって、君に対する復讐だけが残るように催眠を強力にかけてある。ちょっとやそっとじゃ解けないよ」
「何でそんなことするんだ!」
 シンジが叫んだ。
「彼女には言ったがね、私は演出家なのだよ。この老人が望んだことの顛末を見届けるための監視人でもあるがね」
 男はゆっくりと手を離した。顔に「楽しければ誰がどうなろうと構わない」と書いてあった。
「真相が暴かれた今、私がこの老人の願望を妨げる理由はなくなった、というわけだ」
 老人の狂気の光はますます強まっていくようだった。ギラギラと鋭い眼光と脂ぎった皺だらけの顔。脂汗を浮かべながら、顔をのぞかせはじめた禁断症状と闘いながら、震える手で銃をまた構えなおした。しかし、ゲンドウはその場から動かない。
 老人の、引き金のかかった指が少しづつ引かれていくのがシンジの目に映った。
 その動作は酷く緩慢に見えたことが余計にシンジの不安を増大させた。
 急速に無彩化する世界の中で、子供達は立ちつくすしかなかった。
 それでも、ゲンドウはその場から動かない。
 それとも動けないでいるのか。

 バンッ! 

「父さん!」
「イヤーッ!」

 乾いた爆音と呼び声と悲鳴が同時に巻き起こった。しかし、ゲンドウはまだそこにいた。倒れもせず、よろめきもせず力強く佇む姿がシンジの目に映った。
「と、とうさん?」
 ゲンドウが冷ややかに見下ろすものを慌ててシンジも見た。そこには、手首から先が吹き飛んだ老人がもがき苦しみながらあがいている姿があった。声にならない悲鳴を上げながらのたうち回っている。
「な、なにが…」
「銃口の先に詰め物がしてあったのだ。だから暴発した」
 まるで最初からそうなっていたことを知っていたかのような言いぐさである。
「え、」
「シンジ、警察を呼べ。車に携帯電話がおいてある」
 ゲンドウの声は大きくも小さくもなかったが、聞くものに拒否させない力があった。
「う、うん」
 安堵でシンジも腰が砕けそうになりながら、それでもレイを抱きかかえるようにしてその場から去っていった。後に残ったのは、微笑を浮かべる伊達男とゲンドウと怪我人。伊達男は懐からナイフを取り出すと、まったく躊躇することなくその老人の頭に突き立てた。
「がっ!」
 今度こそ悲鳴をあげ、数回痙攣した後その老人の時は止まる。
「これで、この事件は幕を閉じました。めでたしめでたし」
 悪びれる様子もなく、やはり面白そうにそう言った。
「満足か」
「ああ、大満足だよ、ゲンドウ。それにしても、よく暴発するとわかったな」
「ふん、お前は手を汚さない趣味だと思っていた。そう簡単に銃は手に入らない。だが、お前達が関わっていれば話は別だ。三上は私を最初は殺そうと思わなかったほどの小心者だろう。ならば、犯行に使われた銃は既に処理し、今構えたものは別のものを提供されたのだと考えるのが妥当だ。そして、それをまた本当にお前達が提供したとすれば、自ずと結果は見えてくる。お前達が私をこんなつまらない事件で殺すはずがないからな」
 ゲンドウもその伊達男も、口調ががらりと一変する。赤の他人のそれから、旧知の友と久しぶりにあったものと同じに。
「それより、いつから手を血に染めだした?」
「なーに、こんなを殺った事くらいじゃ汚れたうちに入らないさ」
「貴様にとって見ればそうだろう、サウザー。だが、それを人は傲慢と呼ぶのだ」
「久しぶりだな、その呼び名は。そう呼んでくれるのは君だけだよ、ゲンドウ」
 さらりと皮肉を受け流してまた、ククク、と笑みを漏らす。
「とにかく、これですべて片が付いたというわけだな。綾波レイの受け皿として用意されたこの家の役割ももう終わったし」
「それを看破したからその老人を送り込んだろう?」
「その通り。ちょっといたずらしたくなってね。わかっているのに手を出さないんじゃ、こっちとしても面目が無くなるんでね」
 悪童の表情で伊達男は言った。端から見れば悪友同士が久しぶりにあって懐かしんでいるような風景になっていただろう。しかし、会話の内容は遙か遠い世界のものだった。
「まあいいさ。遠くないうちにまた会いに来るよ。今回は、お前ととレイ君に捧げるプレゼントさ」
「後顧の憂いを絶った、か。ふん、老人達の差し金か?」
「どう解釈してもらっても結構。さて、そろそろ私は失礼させてもらう。これの後始末はついでだからしていくよ。ただし、警察の方はお前に任せよう」
「いつもそうだな、お前は。細かい面倒は私に押しつける」
「そして君は冬月先生に押しつける、というわけさ」
 彼が踵を返したとき、ゲンドウがやや唐突に言った。
「子供に会っていかないのか?」
 初めてその男の顔から笑みが消えた。しかし、それも一瞬のことだった。
「まだ、な…。だが、そう遠くもないだろう」
 それ以上は何も言わず、その男は去っていった。その男がいたという証拠を何一つ残さずに。ゲンドウも、黙って虚空を見つめるだけだった。

「父さん、もうすぐ来るって……」
 シンジが庭に現れたとき、いたのはゲンドウ一人だった。
「あれ? あの二人は?」
「帰った。私達も帰るぞ。いろいろと野暮用が増えたので忙しい」
「あ、うん」
 帰ったって、あの大けがで?
 シンジが事のあった場所を見ても血だまりがあるだけで、ほかには布の一片すら残っておらず、暴発した銃のかけらもなかった。跡にあったのは、微かに漂ってくる肉の焼けた匂いと、弾薬の火薬の残り香くらいだった。
「レイは?」
「車で眠ってる。ショックだったんだろうね」
 どちらかというと、安心して気が抜けて気を失ったみたい、僕もショックだったけど、と付け加えた。
「でも見直したよ父さん。すごいよ」
「お世辞はいい。とにかく警察が来る前に帰るぞ。今でさえゴタゴタしているんだ、これ以上休日を潰されてたまるか」
 お世辞じゃないよ、と云いかけてシンジは黙り込んだ。ゲンドウの顔が少し紅潮しているのが見えたからだ。照れているのがわかると、なんだか微笑ましく思えた。
「警察が来たら免停だもんね」
「ああ、帰れなくなる」
 シンジには顔を見せないように、ゲンドウはすたすたと車へ向かって歩いていった。










 余談であるが、碇ゲンドウは何故か免停を食らうことはなかった。
 ハイウェイパトロールの車やスピードガンが300キロ以上で走る車を計測できなかったため、証拠が残らなかったのである。写真もスピードでぼやけて証拠には不十分であった。こうして、彼は悠々と同じ道を通って帰ることができた。もちろん、今度は一般の車と同じ速度で走った。
 シンジは、警察が父を避けて通ったのだと信じて疑わなかったが、それは父親に対する偏見であろう。
 そして、もう一度南老人の殺害について検証が行われ、事件で死亡した老夫婦と思われていた二人はまったく関係がない赤の他人同士であったこと、それまで一緒にいたはずの老人はまったく別人であったことなどが科学的調査と地道な証言収集によって証明された。また、一本の通報から、海に浮かぶ老人の死体が発見され、それこそレイと共に暮らし、南氏の財産を強奪しようと画策し、あげくに殺害した三上孝であると判明した。
 よく調べると、南老人と三上孝は腹違いの兄弟であり、一瞬のことなら判断がつかぬほど似ていたと、彼の家に食料や日用品を届けていた業者の配達員は、取調室の中で写真を見せられてから証言した。
 こうして、当事者達が死亡しているため、裁判になることはなく決して公になることのない事件は幕を下ろした。ちなみに、綾波レイの所有物になっていた財産は、遺書が南資本人の自筆でないことと、弁護士の承認がないために国に没収されることになった。それをレイはやや複雑な表情で了承した。彼女にとって、前にいた土地での最後の絆が金銭であったことが不快ではあったが、それしか残っていなかったのでそれでも寂しさがつきまとっていた。
 引き続き、三上孝の額に突き刺さっていたナイフから他殺だと判断した警察が、犯人を挙げようと捜査を続行させたが、それは別の事件として扱われた。通報者がおそらく犯人であろうと当局では見ていたが、確証もなく、犯人の存在も雲をつかむように、まるで証拠が残されていなかったので、次第に捜査規模は縮小されていった。







Neon Genesis EVANGELION
Please,Never ending dream

EPISODE:4 "She shed tears in chagrin"







 ゲンドウは黙りを決め込んでいるらしく、コーヒーをただ飲んでいるだけにもかかわらず、その存在感と威圧感で周りの人間をたじろがせていた。おかげでウェイトレスたちも、必要以上に近寄っては来なかった。あるいは、意識的にそうしていたのかも知れない。そうであるなら、なかなかの役者であるといえよう。
 休日のため、昼のピークは超したといっても多少店内は混み合っていた。
 シンジ達3人がいるのは高速道路のサービスエリアのレストラン。その隅の一角を陣取って、4人掛けの席にシンジとゲンドウが並んで座り、シンジの向かいにレイが座っていた。じっと膝の上で手を握って、そこに視線を注ぎ続けている。
 シンジは終始厳しい視線をレイに向けていた。表情に、憤怒が遊弋しているのは他人でもわかった。
「僕らに云いたいことはない?」
 アスカが傍らにいたら驚いただろう。その声は低く押し殺してはいたが、先日クラスメイト達に発した怒号と同じ種類の声だった。まるで、死刑囚を前にした執行人の口調さながらであった。
「……………」
 レイは唇をかんで、何も云わなかった。口に出すことをためらっていたのだ。そのワケをほぼ正確に把握しているからこそシンジは怒っているのだ。謝罪の言葉などは二の次だった。
「あのね、レイ。前にレイが関わってた事だから、僕らが口を挟むべきじゃないかもしれない。でもね、イヤなんだよ、僕。そういうの。なんだか信用されてないみたいで」
 今度はがらりとシンジの口調が一変した。悲しみと慈愛が満ちているように、レイの脳裏で響いた。
「…そんなことない」
 レイはそれだけをやっと絞り出した。胸が申し訳なさでいっぱいだった。
「なら、話してよ。どうして相談もせずにここに、第二東京に来たのか」
「……………」
 また、レイの顔が一層曇る。信用していないわけじゃないのだ、と云いたくても、自分がとった行動はそれを裏切っている。それが口を一層重たくさせていた。
 はあ、とシンジは溜息をついた。気まずいのはシンジも同じだった。
「…シンちゃん、優しいんだもん」
「え、」
 それは明らかにシンジの意表をついていたようだった。鳩が豆鉄砲を食らったような顔だ、とゲンドウは隣で思った。
「シンちゃんも、ゲンドウさんも、ユイさんも、アスカも、みんなみんな優しすぎるんだもん。頼っちゃうじゃない、そんなに優しかったら、迷惑かけちゃうじゃない……」

 ポタっ。

 一滴、滴がテーブルの上で弾けた。
 俯き、声を殺し、肩を震わせてレイは泣いていた。両眼から流れてくる涙が顔に二筋の線を形作る。窓から差し込んでくる太陽の光がそれを照らして輝かせていた。
 目元をゴシゴシと手の甲で拭いながら、レイはそれでも震える声で続けた。
「だから、わたしもみんなが大切だから、迷惑かけたくなかった。大好きな人たちに迷惑をかけたくなかった。だから、だから……」
 その続きからは声にならなかった。嗚咽をもらし、ただ幼児のように泣きじゃくるレイ。必死に泣くまいと、涙を止めようとして唇を噛んだり、目をぎゅっと閉じていた。見ていて、シンジはいたたまれなくなった。自分が優しいとはあまり思えなかったが、それでもレイがいわんとすることはちゃんと彼の胸の奥深いところまで届いていたのである。
「レイ…」
 そう呟いて、シンジはゲンドウの顔を伺った。相変わらず、素知らぬ振りを決め込んでいる。しかし、やっぱり相変わらず周りを威圧し、「何事か」と興味と好奇の視線がレイやシンジに向けられることを拒否し続けていた。ちらりとシンジに視線を飛ばし、すぐに目を閉じる。すべてシンジにまかせているように見えた。何とかして見ろ、と顔が物語っていた。
 シンジは思わずたじろいだ。
 シンジはなんと云えばいいのか判らないわけではなかったが、どう云えばいいのかが判らなかったのである。
「あの…さ、レイ。僕らって家族だろ?」
 躊躇いがちにシンジは云った。精一杯の葛藤の末に出てきた言葉がそれだけだったので、自分の語彙力と表現力に甚だ失望していたが、今はそれどころではないと思い直してレイの手をそっと握った。
「あんまり偉そうに言えたものじゃないけど、家族って、信頼して、困ったときに助けあうものだと思うんだ。だからね、レイも、次からは思い悩まないで、僕にでも父さんにでも、母さんでもいいから相談してよ。力にはなれなくても、多分、レイの負担は軽くしてあげられると思うから」
 そっとレイの顔から白い手が離れた。そこから、青ざめ、涙でぐしゃぐしゃになった顔が見えた。目をさらに堅く閉じ、悔しそうにレイはまだ涙をこぼしていた。
「ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 壊れた音声リピーターのように、レイはそう謝り続けた。
「いいんだ、もう。終わったことなんだ」
 本人は気がついていないのだろう。レイが優しいといったのは、シンジのこういった一面を指して言っているのだという事に。
 一生懸命、レイになんとか泣きやんでもらおうと努力していたが、一層逆効果のことを云った。
「さあ、僕らのうちに帰ろう。僕らは家族なんだから」
 一度レイの目が見開かれて、シンジの顔を凝視した。しかし、また顔が歪んで止まりかけた涙腺がまた止めどなく滴をあふれさせて、レイは声を上げて泣き出した。
 ゲンドウの存在感もここに来て無力になったか、いろいろな視線が彼らに注がれた。
 しかし、それを嘲り笑ったりしたものは誰一人としていない。
 表面上家族を装っていても、「家族ごっこ」のハードルを越えることは簡単ではない。それほど、他人がどこかの家庭で生きていくということは困難なことなのだ。レイだって、それは同じだったのだと、シンジは知った。いくら、彼女が明るい性格であったって、自分みたいに一人内にこもったりする事がほとんどなくたって、やっぱりそうだったんだ、と。
 机の上に突っ伏すようにして泣くレイ。
 その肩と手に自分の手を重ねて、表情の選択に困っているシンジがいた。
 まだ、無表情を決め込んでいたゲンドウだったが、彼の目はこう語っていた。
「よくやった。が、格好をつけすぎだ、シンジ」
 それは紛れもなく子を見守る親の目であった。
 綾波レイという少女は「仮の」という文字を「家族」の上から、後悔の残る行動と、大切に思う人のおかげでぬぐい去ることができた。
 そして、より一層、シンジへの想いが深まったのは云うまでもないだろう。










「惚れ直したろう」
 ゲンドウが帰りの車中でレイに尋ねたとき、彼女は嬉しそうに微笑みながら頷いた。
 迷いのない、まっすぐな瞳で。
「『好き』から『大好き』になりました」




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